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サンクスギビングデイ


サンクスギビング

目次 

第零章 おばあちゃんの話

第一章 秋の一日

第二章 サンクスギビングデイ

第三章 

第四章 ニュース

第五章 協定

第零章 おばあちゃんの話

ねえ、おばあちゃん。サンクスギビングって、どういう意味?

僕、知ってる。みんなでターキーを食べる日だよ。お母さんがさっき、オーブンに入れてた。今年のターキーは大きいよ。世田谷の伯父さんが持ってきてくれたんだ。おばあちゃん、僕、お腹が空いた。クリームパン食べていい?

お兄ちゃん。それ、あたしのクリームパンよ。

だって、いらないんだろ?

いるもん。

仁史も世津も、少し静かにおし。直史はどうしたね?

台所でお母さんのお手伝いしてる。

直史は良い子だね。お前たちも、良い子で待ってなきゃいけないだろう? お母さんは、一生懸命、お料理してるんだから。

でも、僕、お腹が空いた。

台所から小さなクリームパンを一つ、もらっておいで。今はそれだけだよ。せっかくのごちそうが入らなくなったら、困るだろう?

大丈夫。まだ、いっぱい入る。

それなら、ターキーが焼きあがるまでの間、おばあちゃんが、ピルグリムのお話をしてあげよう。

ピルグリムってなあに?

イギリスからアメリカへ、最初に渡った人たちだよ。この人たちが、一番最初にサンクスギビングのお祝いをしたんだ。さあ、もう黙ってお聞き。一六二〇年九月のある晴れた朝、百二人のピルグリムが、一艘の小船に乗って、大西洋に乗り出した。大西洋って、どこにあるか知ってるかい?

アメリカとヨーロッパの間。

仁史はよく知ってるね。ピルグリムのふるさとはイギリスだった。でも、イギリスでは、彼らのやり方で神様を信じることを禁止されてしまった。それで、ピルグリムは海を渡ることにしたんだよ。船には、男も女も、子供もいた。

子供も。

勇敢な人たちだったんだ。二人とも、よく覚えておくんだよ。心の自由は、なによりも大切なものなんだ。さて、航海は三ヶ月かかった。十二月になって、ようやく、船はアメリカ大陸に着いた。ピルグリムは大地にひざまずいて、神様に感謝の祈りを捧げた。

よかったわねえ。

いいや、よくなかったんだ。季節は、真冬だった。ピルグリムは、今のアメリカ合衆国のマサチューセッツ州のあたりにいた。横浜よりずっと寒いところなんだよ。十分な食物を持っていなかったピルグリムは、飢えと寒さと病気のせいで、バタバタと死んでいった。その冬の間に、半数が死んでしまったという。

可哀そう。神様はどうして助けてくれなかったの?

世津は優しいね。でも、神様にはちゃんと、神様のお考えがあったんだよ。やがて、春が巡ってきた。ピルグリムの苦しみを見かねた近くのインディアン部族が、救いの手を差し伸べた。彼らはピルグリムに、とうもろこしの種を蒔いて、育てることを教えた。ピルグリムは、とうもろこしを知らなかったんだ。イギリスには無かったんだね。どんな作物でも、その土地にあったものでないと、うまく育たないものなんだよ。狩りの仕方や魚の取り方も同じことさ。

でも、インディアンは、白人と仲が悪かったんだろ? 僕、映画で見たよ。

それは、もっとずっと後のお話だ。初めのころは、そうじゃなかったんだよ。さて、インディアンの助けを借りて、ピルグリムはこの土地に畑を開き、村を作った。とうもろこしや大麦、豆やかぼちゃを育て、鹿を狩り、鮭や鱒を捕えた。この年の秋には、ピルグリムは立派に収穫をあげることができたんだ。

良かった。

やがて、サンクスギビング・デイがやってきた。ピルグリムは、インディアン部族をお祭りに招待した。この時のごちそうに、野生のターキーがたくさん出てきた。ターキーにつけて食べるクランベリー・ソースがあるだろう? あれの作り方を教えてくれたのも、インディアンだったそうだよ。だから、今でも、アメリカのサンクスギビングでは、必ず、ターキーが出てくる。ほかにもたくさんのごちそうがあった。鴨肉、鹿肉、魚、貝、果物、かぼちゃ、豆、とうもろこし、パン。

おばあちゃん、僕、お腹が空いたよ。

お祝いは三日間続いて、五十三人のピルグリムと九十人のインディアンはお腹一杯になるまで、食べたそうだ。それでもまだ、たくさんの食べ物が余っていたそうだよ。


第一章 秋の一日
サッカーボール

コーナーキック。青空に高々と上がったボールめがけて、青と黄のシャツがジャンプする。青シャツのヘッドにボールが触れる。青の十四番がボールを確保、左へ走ると見せて右へ。殺気立った黄シャツのディフェンスをするりとかわしてすいとパスを放つ。走り込んできたナオシがシュート。必死でとびつくキーパーの指先をかすめて、ボールは吸い込まれるようにゴールに飛び込んだ。

やった!

大介は、二百人の観衆と共に歓声をあげて跳び上がった。隣で見ていた昴と弘毅と、手を打ち合わせる。

ナオシも、チームメイトに肩や背中を叩かれながら笑っている。

この秋のリーグ戦、泉中の戦績は散々だった。ゲームメイカーの鳥飼正吾を地区予選の始まる三日前に、突然、失ったのだ。残されたチームは、新キャプテンのナオシを中心に懸命に戦ったが、あっけなく敗退した。悔しくないはずはない。

やがてホイッスル。一―〇。親善試合といっても、予選を勝ち抜いて市の代表になった強豪校を相手にして、この勝利は立派だ。

両チームがロッカー室へ消えると、ばらばらと、観客も散り始めた。

十一月に入って、気温は急降下した。グラウンドの周りの桜の木も、せかされたようにすっかり葉を落とした。

「行くぜ」と、弘毅が立ち上がった。「ナオシを呼んでこいよ」

「ナオシはこれから、反省会だろ」と大介。

「なら、終わったら来いって、お前、言ってこいよ」

弘毅には、仲間を仕切りたがる癖がある。仲間は何となく、容認している。どうせ誰かが言い出しっぺになるなら、それが弘毅であっても悪いことはない、という理屈だった。だが、今日の大介は虫の居所が悪かった。

「自分で行けばいいじゃないか」

「俺は忙しい。昴には別の用を頼む。結果、お前が一番ヒマなんだ。文句言わずにさっさと行け」

「イヤだよ」

「僕が行くよ」

昴が口を挟んだ。いつも通り、静かで落ち着いた口調だ。

「駄目。昴ちゃんには、行ってもらうとこがあるの。大介ちゃん、いい子だから、ナオシちゃんを呼んできてあげて。オトモダチでしょ」

「よせよ、気持ち悪い」

「オネガイ、大介ちゃん」

「わかったよ、行くよ。行けばいいんだろ」

「まあ! 素直! カワイイわあ」

かん高い作り声を浴びて、大介は早々にその場を逃げ出した。

部室の前で三十分以上待たされ、やっと出てきたナオシを伴って家庭科室へ行くと、調理台の上に、弘毅が長々と寝そべっていた。昴は本を読んでいる。大介が覗いてみると、「葉隠」だ。この間は、「毛沢東語録」だった。変な奴だ。

「来たな」

弘毅がバネ仕掛けの人形のように、勢いよく起き上がった。

「主役が来たから、始めるか」

「どうやって入ったんだ?」

ナオシが聞く。勝手に入り込んだことを気にしてるのだ。

「お料理クラブの部長から、鍵を借りた。あいつ、昴に気があるから、昴の頼みならきく。大介ちゃんじゃダメだ」

「よせよ」

昴は、本をめくりながら平然としている。昴は優等生だ。試験では必ず上位に入って、廊下に名前が張り出される。ルックスも悪くない。背が高く、ハーフみたいに色が白い。女にはモテた。大介は面白くない。

「さっさと始めろよ」

「ちょっと待ってなさい。欠食児童の大介ちゃん」

 弘毅は、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。チーズ、フライドチキン、ポテトチップが魔法のようにカウンターの下から現れる。電子レンジからは、暖められたピザが出てきた。ナオシが相好を崩した。

「腹減ってたんだ」

「じゃ、これも食うか?」

 大介はバックパックからタッパを取り出した。中には、海苔で巻いた寿司がきっちりと並んでいる。

「なんだ、これ?」

 昴が本を置いて寄ってきた。

「カリフォルニア・ロールだよ。アボカドときゅうりとカニカマの寿司。ネットでレシピ見て、作ってみたんだ」

「なんでもいいから食おう。まずは乾杯だ」

 弘毅が言って、ビールで乾杯した後、ナオシは今日の試合結果についてしゃべる。

「やっと、形ができたってことだよな。山岡と高村と俺と、パスがつながり始めたってこと。苦労したよ。ホント。鳥飼のやつ、いきなり抜けるんだから、参ったよ」

鳥飼正吾は、小学生の時からユースの逸材と言われていた。泉中では一年の時からレギュラーに入っていて、八月の大会後、三年が引退して新チームが結成されると、当然のようにキャプテンに選ばれた。その鳥飼が、九月になっていきなり退学した。国際協定実行奉仕委員会が選ぶ特別留学生に選ばれたのだ。特別留学生は毎年、全国の中学校から一名ずつ選ばれて国費留学する。名誉なこととされていた。

「あれには、びっくりしたよな。普通はもっと早く決まるのに」

大介が、チーズかまぼこをかじりながら言った。

「決まってたじゃないか、六月に退学した成績のいいやつ。名前は、えっと…」

ナオシが詰まると、「B組の小幡」と昴が助け舟を出した。

「そう、そいつ。鳥飼は追加で選ばれたんだ」

「なんでだろ? やっぱ、サッカーか?」

大介は首をかしげた。

「そうなんじゃないの」

弘毅が、無責任な調子で答えた。もう一本、缶ビールを開ける。

「あんまり飲み過ぎるなよ。お前をかつぐのは、ごめんだ」と、昴。

「まあ、つれない」

「サッカー留学だとすると、どこへ行ったんだろ。南米か、ヨーロッパ?」

大介はまだこだわっていた。「絵葉書とか、来ないのか?」

「来ない」

ぶすっとナオシが言う。

「それって、変じゃん」

「ちっとも変じゃない」と、ナオシ。「鳥飼は勉強に行ったんだ」

サッカーだろ、と大介。

「うるさい。サッカーの勉強に行ったんだ。やつは、今、懸命に学んでるんだ。言葉の通じない外国で、懸命にボールを蹴ってるんだ。絵葉書なんぞ、書いてる暇は無いんだ。それくらい、大変なんだ。留学ってのは。サッカーってのは。俺たちだって、むちゃくちゃ、大変だった。考えてみろよ。地区予選の三日前に、いきなり、キャプテンで、ゲームメイカーの十番が消えちまったんだぞ。作戦もクソもあるか。お先真っ暗だった。もう、まーっくら…」

「わかったから、黙って飲め」

弘毅が缶ビールを押し付けた。

一時間後、三人でアミダを引いた。昴が負けて、タクシーでナオシを送っていった。

 大介と弘毅は、ぶらぶらと夕暮れの町を駅に向かって歩いた。

弘毅は小学生の時、足を折って入院したことがある。その頃に知り合った友達が、今、少し離れた町にあるリハビリ施設にいる。

 

大島はベッドに半身を起こし、いつもと同じ柔和なまなざしで二人を迎えた。大島は二十五歳。登山中に足を滑らして沢に転落した。かろうじて命はとりとめたが、下半身が麻痺した。直る見込みはない。今はただ、衰えた筋肉の力を取り戻し、車椅子を使って少しでも自分で動けるようにリハビリを続けている。

「いらっしゃい、弘毅君と、えーと、大介君だっけ」

大介はうなずいた。ここへは、弘毅と一緒に時々来る。親にも教師にも遠慮しない弘毅が、大島にだけは一目おいているように見えた。大島と知り合ってみると、大介にも、その理由がわかる気がする。

「また、絵を描いてるんですか」

弘毅が、布団の上のスケッチブックに目を留めた。

「そうだよ」

「見せてもらっていいですか」

大島は返事の代りに、スケッチブックを押しやった。大介も、弘毅の肩越しに覗き込む。

色鉛筆で描かれた伸びやかな線が、縦横に走っている。静物が多い。りんごやオレンジなどの果物、花瓶の花や水挿しだ。ついで、肖像画。制服を着ているところを見ると、看護士やリハビリの療法士だろう。

「目の前にモデルがいないと描けないたちでね。昼休みや、休憩時間にモデルになってもらったんだ」

「言ってくれればモデルになりますよ。今日はまずいけど」と、大介。

「うん。その時は頼もうか」

一輪挿しに挿したバラ。受け皿に乗ったコーヒーカップ。テーブルの上のテディ・ベア。

早いペースでページをめくっていた弘毅の手が、ぴたりと止まった。

次の絵は、静物でも、肖像でもなかった。ヌードだった。

若い女が、長椅子に横たわっている。長めの前髪が顔にかかっているのを右手でかき上げながら、挑戦的な目でこっちを見つめている。

ひょい、と手を伸ばして、大島はスケッチブックを取り返した。

「そいつは想像で描いたんだ。だから、あんまり出来がよくない。それで? 試合はどうだった?」

弘毅はさっきの試合の経過を説明した。

「ナオシも来るはずだったんだけど、あいつ、酔っ払ってつぶれちまったから」

「ほっとしたんだろう。いきなりのキャプテンじゃ、大変だったはずだ」

大島は、窓の外を漠然と見た。

「もうすぐ、サンクスギビング・デイだな」

「うん、何か持ってこようか」

「ありがとう。でも、大丈夫。ここにも、サンクスギビングはちゃんとやってくるんだよ」

「ターキーも?」

「ああ。ちゃんとクランベリーソース付だ」

「俺も好きだよ、ターキー。あれは焼く温度にコツがあるんだ」

大介が言うと、弘毅は笑った。

「変わってるよ、お前。食うより作る方が好きだなんてさ」

それからしばらくして、二人は病室を辞した。

大介は、あのヌードの絵が気になった。大島は、登山や絵の話はしてくれるが、恋人や家族の話は一度もしたことがない。あれが、大島の恋人だった人なのだろうか。大島がけがをして、それで別れることになったのだろうか。そう考えると、胸の中にもやもやしたものが満ちてきて気分が悪いので、考えるのをやめた。

「大島さんって、なおらないのか」

「なおらない」

「ずっと、あのまま?」

「ずっとだ。おい、大島さんにそんなこと、聞くなよ」

「聞かないよ。だから、お前に聞いてるんじゃないか」

「大島さんは、墜落した時の衝撃で、腰椎のところで、中枢神経が切断されたんだ。両脚麻痺はその結果だ。中枢神経っていうのは、脳からの信号を身体に伝える、大本の神経だ。ところが、こいつは再生しない。ギブスをはめとけば、いずれくっつく骨なんかとは違うんだ。切れたら、それきりだ。だから、直らない」

「詳しいね」

「病院にいた時、俺の主治医に聞いたんだ」

弘毅は憂うつそうに言った。



第二章 サンクスギビング

サンクスギビング・デイは、十一月最後の木曜日。

学校も、銀行、諸官庁も、一般企業も、ほとんどが休み。営業しているのは、わずかな個人商店くらいだ。

各家庭では、朝から祝宴の準備を始める。特に、客を迎える当番になった家は大変だ。着飾った客が訪れる前に、部屋を飾りつけ、食卓を整え、人数分の料理をこしらえねばならない。親戚、友人、知人が一同に会すると、三十人近くになることもあるのだ。食器をそろえるだけでも一仕事だった。

今年、大介の家は親戚の中でその当番にあたっていた。

「そのお皿をとってちょうだい」

大介の母が腕まくりして言う。渡してやると、そこの鍋とスプーンとボウルも、と叫ぶ。オーブンでは、巨大なターキーが、こってりとバターを塗られ、低温でじりじりとローストされている。大介はさっきから、デザートのパンプキンパイ用のかぼちゃを、せっせと裏ごししている。そこに、次から次へと、母の指示が飛んでくる。やってらんないな、と大介は胸の中で毒づいた。登和のやつ、と忌々しく思う。妹の登和は、友達から招待を受けて、さっさと出かけてしまっていた。

「それが済んだら、豆のさやをむいてちょうだい」

大介は料理好きだが、命令されるのは嫌いだ。むすっと黙ったまま、袋に入ったさやえんどうとザルを持って、キッチンから居間へ移動した。

父はテレビの前で、のんびりとイモの皮をむいている。

「お前も逃げてきたのか?」

目じりにしわを寄せて笑った。

テレビでは世界各国のサンクスギビング風景を映している。モスクワ―寒そうだ。シドニー―ああ、あっちは今、夏なんだな。北京―さすがだ。並んでる皿の数が違う。ニューヨーク―本家本元。やっぱりターキーがある。でかい。

「サンクスギビングってのは、アメリカで始まったんだろ? どうして、全世界で祝うんだ?」

「祝っちゃいけないか?」

「んなことないけどさ」

「サンクスギビングは、収穫祭だ。秋に、今年の実りを神に感謝する祭りで、農耕が始まって以来、大体、どの文明もこの種の祭りを行なってきた。ヨーロッパから来たピルグリムも、新大陸のイロコワ族も、どちらも秋祭りの習慣を持っていたのは、偶然ではないんだ。日本でも、秋になると村の鎮守で祭りがあり、神輿が出た。サンクスギビングとは呼ばなかったが、意味は同じだ」

高校の教師である父は、よどみなく答えた。

「でもさ。牧畜とか、やってる民族は関係ないじゃん」

「今、食糧生産を、狩猟や牧畜だけに頼る民族はないよ。作物は色々だが、どこの国でも、必ず畑は作ってる。歴史の黎明期ならいざ知らず、人口が増えてくると、人間は農耕を始める。自然が恵んでくれるものだけでは、足りなくなってくるんだ。漁業や林業にしても同じだ。食糧はハントするものではなく、育てるものになる。サンクスギビングとはそういうものだ。晩秋の祭り。大事に育てたものの一部を神に捧げることで、来年の実りと平穏な一年を願う」

講義口調のまま、父の表情は、いつしか厳粛なものに変わっていた。

大介は、居心地が悪くなった。部屋の空気の密度が急に濃くなったように思う。

「でもさ、オーストラリアは今、夏だよ!」

苦しまぎれに、自分でもくだらないと思うツッコミを入れた。

「いいんだよ。真夏にクリスマスを祝う連中だ」

一瞬の沈黙の後、父がジョークを返してきたので、大介はちょっとほっとした。

 

すべての準備がととのった時、日はもう、とっぷりと暮れていた。

カーテンを閉めても、窓ガラスを通して外の冷気が忍び寄ってくる。

それでも、真っ白なテーブルクロスをかけた食卓の周りだけは明るく、暖かく、賑やかだった。ぴしっと糊のきいたナプキンの両側に、この日のために出してきたそろいのフォークとナイフのセットが並んでいる。キャンドルの炎が、磨きこまれたワイングラスに映えて美しい。

テーブルの中央に、今日の主役、こんがりと金色に焼きあがったターキーが、周りをオレンジやプチトマト、レタスの葉で飾られて、でんと居すわっている。入道雲のようにもくもくと盛り上がったマッシュポテト、とろとろのグレービー、鮮やかな赤紫のクランベリー・ソース、インゲン豆のキャセロール、グリーンサラダ、ターキーの内臓と香味野菜を合わせて炊き込んだスタッフィング、チキンウイング、サーモンのホイル焼き、マッシュルームのバター炒め、かぼちゃとえびの天ぷら、春巻き、シューマイ、海苔巻きに、いなり寿司。

折りたたみのテーブルを継ぎ足してようやく載った料理の周りに、着飾った招待客が顔をそろえた。大介の父が、一同を代表して、今年一年の無事を神に感謝する言葉を述べる。

大介はこの部分でいつも、くすぐったい思いをする。誰も神様など信じていないのに、と突っ込みたくなるのだ。だが、大人たちと一緒に真面目な顔をしておく。空気が読めないほど、子供じゃない。それに、ここさえ無事に(笑わずに)乗り越えれば、ごちそうにありつけるのだ。

乾杯が終わって、賑やかに祝宴が始まった。

めったに顔を合わせない親戚や知人が集うのだから、しばらくは互いの近況報告が忙しい。大介は、勉強の進み具合を尋ねてくる質問をたくみにやり過ごすと、あとはひたすら、食べることにのみ口を動かした。

もっとも、今年のスターは、大介の従姉だ。九月に結婚し、現在、ハネムーン・ベビーを妊娠中。なんとなく照れくさそうな夫の隣で、旺盛な食欲を発揮している。年上の女たちは出産と育児について、ありとあらゆる質問を浴びせ、アドバイスを惜しみなく提供した。自らの子育ての思い出が大笑いとともに、あるいはため息とともに語られている。

はじきにされた男たちは、育児にかかる費用と、政府の税政策についてしゃべっている。

「まあ、君は運がいい」

伯父のひとりが、かしこまっている未来の父親に言った。

「俺たちの時より、子育て中の夫婦は、格段に優遇されている」

「そうだな」と、もうひとりの伯父。

「子育てが終わった俺たちは、いわば、用済みのゴミみたいなもんだ」

「ゴミはないよ。まだまだ、その気になればやれるさ。先月、ちょっと面白い話を聞いた。新しいサプルメントなんだが、これが…」

一人の叔父が言いかけたところを、もう一人がひじで突いて、大介の方に目をやった。ワインで赤くなっていたその叔父は、いきなり口を閉じてしまった。

せっかく面白くなりかけていたのに、と大介は残念だった。

「とにかく、」ともう一人の伯父がつくろうように言った。

「最近のような少子化では、どうしようもないからな」

なぜ、と大介は声に出して尋ねた。

「夫婦二人の間に、子供が二人以下の状態がずっと続いてみろ。人口は減少する、そうだろう?」

「まあ、そうなるね」

「人口っていうのは、労働力だからな。国の活力なんだ。それが失われることになる」

「でもさ、労働だったら、ロボットがやればいいじゃん」

「それはまだ、ずっと先の話だ。SFみたいにはいかない」

「そうかな」

「そうさ。全部の労働を引き受けてくれるロボットなんて、大介の生きてる間には、まず、無理だな。仮に、そういう時代が来たとしても、やはり、出生率の低下は問題だ。ロボットじゃ代わりのきかないこともある」

「どんなこと?」

「そりゃ…」

得意げにしゃべっていた伯父は、突然、口をつぐんだ。ワインも飲んでないのに、赤くなった。

「想像力を持つのは、人間だけだからだ。ロボットじゃ代わりにならない」

大介の父が言った。

「大介、パンプキンパイを運ぶの、手伝って」

母の声で、大介はテーブルを立った。

 

登和は帰ってくるなり、大介の部屋に顔を出した。

「ね、ニュース、見た?」

「何のだよ」

大介は不機嫌に答えた。妹のやつは、後片付けがすっかり済むまで帰ってこなかった。見計らっていたに違いない。

「鳥飼って、泉中の生徒じゃなかったっけ。特別留学生に選ばれたって」

「そうだけど」

「じゃ、やっぱりそうだ。お母さん、死んじゃったんだって。マンションの屋上から飛び降りたんだって、今日の午後」

大介はテレビをつけたが、どこもニュースはやっていない。パソコンを立ち上げて、ニュース画面をスクロールする。あった。小さい記事だ。

屋上から飛び降り。鳥飼寿美。三十八歳。

鳥飼の母親に会ったことはない。試合の時に、応援席で顔を合わせたことくらい、あるかもしれないが。ナオシから話を聞いたことはある。練習の時に、よく、果物やドリンクを差し入れてくれた、と。

ニュースは鳥飼の母の名前と、年令、飛び下りた場所しか伝えていなかった。中学生の息子がいることも、その息子が留学中であることも、サッカーの練習の時、果物やドリンクを差し入れる、面倒見のいい母親であったことも、何ひとつ伝えていない。

不当じゃないか、と大介は漠然と思った。

なんで死んでしまったんだろう、とも思った。


第三章 
バレンタインチョコ

二月。

三年生が、荒れ狂うインフルエンザと闘いながら、健気に高校受験に挑んでいるさなかに、大介たち二年生への、最初の進路説明会が開かれた。まだ、早いよ、という不満の声に、受験準備は早ければ早いほどよい、と担任の赤城は切り返した。

放課後、溜まり場にしている、学校近くの公園で、弘毅は早速、不平を述べた。

「早い方がいいったって、早くから始めてるやつらは、幼稚園からお受験してるんだ。俺たち、現時点でもう、出遅れてるじゃないか」

「周回遅れってとこだな。ゆっくり行けばいいんだ。ジタバタしたって始まらない」と、大介。

「周回遅れはイヤだぞ。あれは見てて苛々する」と、ナオシ。

「お前はいいんだよ」と、弘毅が言った。「サッカーで、どこかの私立が拾ってくれるよ」

それも不可能じゃないだろうな、と大介は思う。今年に入ってから、ナオシのチームは、快調だ。

「昴もいい。大体、お前みたいなのが、公立中学にいるのがおかしい」

昴は肩をすくめたきり、何も言わない。

「心配なのはお前だ」と、弘毅は大介に向き直った。「出遅れていることを認識しながら、平然と周回遅れを口にする、そういう、ふざけた野郎のことを、赤城は心配してたんだ」

「からむなよ」

「いいや、からむ。お前のためだ。大体、お前、将来、何になるつもりなんだ。その展望も無く、高校を選ぶわけにはいかんだろう」

なりたいものがないわけじゃない。だが、この場で言うつもりはなかった。だから、適当に入れる普通高校に入っておくよ、と言った。

「いいかげんなやつだな」

嘆かわしいと言いたげに、弘毅は頭を振った。

「じゃ、お前は? 将来のことなんか、決めてるのか?」

大介が逆襲すると、弘毅は、もちろんだ、と偉そうに言った。

「俺は医者になる」

あ然とした。弘毅の成績は、常時低空飛行の大介よりも低い。

「だから、俺は、将来、医学部へ進める高校へ行く」

「ムリ。ぜーったいにムリ」と、ナオシ。

「何がムリだ」

「だって、お前、勉強しねえもん。試験の前日に、平気でゲーセン行くひとだ」

「ゲーセンから帰ってから、勉強すればいいんだ」

「するもんか。さっさと寝ちまうくせに」と、大介。

「今まではそうだった。これからは違う」

「だめだこりゃ。完全に、おつむに来ちまった」と大介が言い、なに、と弘毅が気色ばんだところで、昴が口をはさんだ。

「医学部志望は、大島さんのためか?」

かさにかかっていた弘毅が、急に、しゅんと肩を落とした。

「やっぱり、昴は勘がいいな」

「大島さん、どうかしたのか?」と、ナオシ。

「うん。昨日、見舞いに行ってきたんだけど、なんか、元気ないんだ」

「具合が悪くなった?」

「身体の方は、あれ以上、悪くなりようがないんだ。それより、精神的にがっくりきちまったようで…。人間の受精卵を使った医療技術の研究ってあるだろ?」

「ES細胞」と昴。

「それ。中枢神経の再生に使えるんじゃないかって、有望視されてるんだって? 俺、よく知らないけどさ。その研究が、アメリカで禁止された」

「なんで」と大介。

「これから胎児になって、人間として生まれてくる生命を犠牲にすべきじゃないって意見が強くなったんだ」

「受精卵なら、まだ、人間じゃないだろ? 魚みたいなやつだろ」

ナオシが、気味悪そうに言った。

「もっと前の段階。でも、ほっときゃ、普通、人間になるからな。赤ん坊殺しと同じだという考え方にも、一理はある」

弘毅は、目を伏せたまま、ぼそぼそと話した。

「でもさ、禁止したのは、アメリカだけなんだろ? ここは日本だし、ヨーロッパや他の国だって、研究してるんだろ?」と、大介。

「してるけどさ。でも、アメリカで研究できなくなったのは大きいよ。金も施設も持ってるんだから。大島さんも、自分の生きてる間に治療法が見つかるなんて、期待してなかったと思う。それでも、心の奥の方で、もしかしたらって思ってたんだろうな。無理ないだろう? 見てて、つらかったよ」

四人とも、黙ってしまった。

ほんの一瞬。太陽のおもてを雲がよぎった。それとも、たまたま足を載せた石が、その瞬間に動いた。百年も二百年も、ずっとそこにあったような顔をしていたくせに。そんなささいな出来事だったかもしれない。それでも、大島さんの未来は、根底からくつがえった。そうして今、また一つの扉が閉ざされようとしている。

「神様って、いるのかな」

ポツンとナオシがつぶやいた。

シュッと鋭い音をたてて、昴がマッチを摺った。細いシガレットに火をつける。

喫煙は、昴の優等生らしからぬ悪癖で、埃っぽいような甘い香りのする外国産の煙草を愛吸している。薄いペーパーに刻んだ薄茶色の葉を器用に挟み、自分で細くロールした。

「それは好みの問題だ」

目を細めて煙を吐き出しながら、ゆっくりと言う。「君がいてほしいと思えばいる。いない方がいいなら、いない」

「信仰の問題じゃないのか?」と、大介。

「信仰は好みだ」

「ヤバイよ。公共の場所で煙草はよせって、いつも言ってるだろ?」

ナオシが、心配そうにあたりを見回しながら言った。

この児童公園にあるのは幼児向けの滑り台とブランコだけで、めったに人を見ない。まして、寒さで骨がきしむような二月の夕方に、散歩にくる人間がいるはずはなかった。

やがて、弘毅が顔を上げた。

「待ってろ、俺が医者になったら、必ずなんとかしてやる」

そんな日は永久に来ない、と、いつもの大介なら突っ込むところだが、今日は差し控えた。希望はあった方がいい。どれほど頼りないものであろうとも。

「それよりも、俺たちには差し迫った問題がある。来週は何があるか、知ってるか」

「中間テスト」

大介の答えを、弘毅はせせら笑った。

「そんなつまらんものじゃない。男の意地がかかってる。バレンタインデーだ」

「別に意地なんかかけなくたって、結果はわかりきってる。お前と俺は義理チョコの山。ナオシはもう少しいける。で、ダントツで昴が本命を掻き集める」

「お前って、夢ないのな」

「去年の実績から、簡単に推測できるじゃないか」

「チョコレート、好きならやるよ」と、昴が言った。

「イヤミか? そういう問題じゃないだろ」

弘毅の抗議を、昴はあっさりと退けた。

「好みの問題だよ」

 

結果は、大介の予想通り。いや、一つだけ、番狂わせがあった。

大介がもらった山盛りの義理チョコ―どれもこれも、コンビニかスーパーで買ってきたとおぼしい、安っぽいビニール包装―の中に、一つ、目立って違うチョコがあったのだ。他のチョコより大きく、丁寧に赤いリボンが結ばれ、シルクでできた一輪の赤いバラまで添えられているではないか。

他の三人の執拗な追及「誰からだ、それ」と、要求「開けてみろよ」と、侮辱「なんかのまちがいとちゃうの?」をはねのけて、大介は大事にチョコを家へ持って帰った。

自室で一人になってから、注意深く包装をはがした。アルミホイルで包まれた、でこぼこの固まりが現れた。こんないびつなハートが、市販品であるはずがない。手作りだ。自然に顔がほころんでくる。記念切手ぐらいの大きさのカードが添えられていた。

「ハッピーバレンタインデー。愛を込めて。一年C組。近藤ゆりか」

近藤って、どんな子だっけ? まったく覚えてない。いつも喧嘩してる二年の女子どもなら、すぐわかるのにな。明日、一―Cの教室を覗いてみよう。

 

ゆりかちゃんは、小粒で新鮮な桃の実のようにかわいい子だった。大介がしどろもどろの礼を言うと、ポッと赤くなった。ふっくらした唇から、白い歯が覗く。大介のことは、本命から三番目に好きなのだと言う。時々、お話してもらっていいですか、と言った。大介は、いいよ、と言った。そう言うしか、ないじゃないか。

「ま、女なんて、そんなものさ」

慰め顔に昴が言う。腹が立ったから、返事しなかった。

不恰好なチョコレートは甘かった。口の中でとろけて、すぐに消えてしまった。

 


第四章 ニュース

大介は、仰天した。十四年間生きてきて、これほど驚いたことはない。目の前にすわっている赤城の顔を、ポカンと眺めていた。まず、聞き違えたと思い、それから、冗談を言われたのだと思った。

そもそも、そんな話をするために、呼ばれたのではないはずだ。三年に進級して初めて行なわれた校内模試で、大介の英語の成績は、かなり悪かった。今までの最低レコードを更新した。当然、何らかの叱責がくると思っていたから、放課後に生徒相談室に呼び出されても、驚かなかった。

―会田君、君、最近、浮わついてないか? まあ、修学旅行なんかもあったことだし、落ち着かないのもわかるけどね。そろそろ本腰で勉強に身を入れないと、志望校合格はおぼつかないよ。

―わかってます。でも、俺…僕、英語って苦手で。

―理由にならない。高校へ行っても、英語とは付き合うことになるんだ。

―すみません。

覚悟を決めて出向いたのだ。それなのに。

赤城はわざとらしく、咳払いした。

「それで、この件については、君のご両親にもご報告しなければならない。校長先生とわたしとで明日、お宅をお訪ねしたいので、ご両親にご都合のよい時間をうかがってくれ。ご両親がそろっている方がいいが、やむを得なければ、どちらかおひとりでもいい」

「明日、ですか」

「そう。今夜中にお話して、時間を決めていただいてくれ。明日であれば、こちらの時間は都合をつけるから」

「随分、急なんですね」

「色々、手続きがあるんだよ」

「ひとつ、聞いていいですか?」

「なんだね?」

「なぜ、僕なんですか」

赤城は口を開いて、何も言わずに閉じた。そのまま、黙っている。怒ったような顔だ。

「僕より、ふさわしい生徒はいると思うんです」

言訳するように大介が言うと、ようやく口を開いた。

「委員会の決定だ。異議は許されない」

「異議ってわけじゃあ…ただ、びっくりしたから…」

「さあ、もう帰って、ご両親に報告してくれ」

話は終わったというように、赤城は机の上の書類をまとめ始めた。大介も、釈然としない思いながら、一礼して立ち上がり、ドアへ向かった。

「ああ、会田」

呼び止められて、振り返った。

「君は、きょうだいがいるか?」

「妹がいます。今、小五」

「そうか」

赤城の表情がなごんだ。

「呼び止めてすまなかった。時間を決めるのを忘れないように。道草食わずに帰れよ」

 

赤城にはああ言われたが、大介が最初にしたことは、友達を探すことだった。こんなビッグニュース、親よりもまず、友人に報告すべきだ。ナオシは部活だが、昴と弘毅は、校内のどこかにいるはずだ。

あちこちをのぞいてまわったあげく、大介は、弘毅がバスケ部の連中と、体育館裏で煙草を吸っているのを見つけた。おい、と声をかけると、飛び上がった。

「いきなり出てくるな、びっくりするじゃないか」

大介だと知ると、弘毅は腹立たしげに言った。

「ビクビクしながら、そんなもん吸うことないだろ? 二十過ぎたら、好きなだけ吸えよ」

「お前、なんにもわかってない。大人になってから、こんなもん吸えるかよ、カッコ悪い。煙草はね、ティーンの特権なの」

あほらしい。

「なんでもいいけど、ちょっと顔貸せ」

腕をつかんで引っ張り出そうとすると、「まあ、乱暴」と文句を言いながらも、弘毅は煙草をもみ消した。

 

「りゅうがく?」

弘毅はあ然とした顔をした。

「お前が? あり得ない。なんかのまちがいだ」

「俺もそう思ったんだ。でも、赤城は、両親に話しとけって。明日、校長とうちに来るって…」

「へえー。で、どこ行くんだ」

「フランス。学校は、これから決めるって」

「おふらんす! 花のパリ!やっぱ、変だよ、それ」

「うん」

「似合わないよ、全然。お前、フランス語しゃべれるの?」

「んなわけないだろ。フランス語も英語も中国語も、全部同じに聞こえるよ」

「それでなんでお前なんだ?」

「わからない。言葉のことは心配するなって。向こうでまず、語学学校に入るし、日本を発つ前に、留学生はみんな、センターみたいなとこに入るんだって。そこで勉強してから、あっちに行くんだって」

「どれくらい?」

「短くて三年。でも、ほとんどは、向こうで大学を卒業してくるんだってさ」

話しながら、大介は心細さがつのってきた。自分の生活が、根本から変わろうとしている。あと数年は、このままの生活が続くと思っていた。両親と妹と、四人の平凡な暮らし。多少の波風はたっても、結局は未成年の学生という身分に守られた、責任の無い、のんきな毎日だった。それが、いきなり、たったひとりで、異国へ放り出されようとしている。

「昴、どこにいるか知らないか?」

こんな時、頼りになるのは、物知りの優等生だ。フランス語のあいさつぐらい、知ってるかもしれない。

「帰ったよ。バイオリンのお稽古」

昴はバイオリンを弾く。この春、大介たち三人は、演奏会に招待され、その折に貿易会社の社長だという鋭い目をした父親と、昴によく似た美人の母親にも紹介された。見かけより気さくな人たちで、クラシックコンサートなど初めての中学生三人が居心地よく音楽を楽しめるように、さりげなく気をつかってくれた。

「また、秋にコンサートがあるんだってさ。そん時は呼んでくれるって。結構、面白かったよな」

「俺、秋にはもう、ここにいないよ」

大介は憂うつそうに言った。

「おふらんす。なんだよ、気が進まないのか?」

「お前なら、行きたいか?」

「うーん。おふらんすってのは、俺の趣味じゃない。オーストラリアなら、行ってもいい」

弘毅は、バン、と大介の背中をどやしつけた。

「景気の悪いつらすんなよ。大丈夫さ。毎年やってんだから。俺、これから大島さんのとこへ行く。画用紙を届けるんだ。一緒に来るか?」

大介は、行く、と言った。このまま家に帰りたくなかった。家に帰って、母に話をしてしまえば、留学の話は決定的になる。それがいやだった。赤城の話し振りでは、辞退する余地はなさそうだが、それなら、少しでも、その決定的な瞬間を遅らせたかった。

 

大介が大島を訪ねるのは去年のサンクスギビング以来だ。弘毅の話では、ES細胞の研究禁止のニュースを聞いた時には、かなり落胆していたそうだが、乗り越えたらしい。二人を迎えた柔和な表情に、陰りはなかった。画用紙を受け取って、いつも通り、丁寧に礼を言った。

「すごいニュースがあるんだよ」

弘毅はさっそく、大得意で披露した。

「こいつ、今度、おふらんすに留学するんだよ」

大島の表情が凍りついた……ように、大介には見えた。

笑みを仮面のように張り付かせたまま、一切の感情と思考が身体から抜け落ちたようだった。呼吸の有無さえ疑われる。ただ、その瞳が、仮面に開いた二つの穴のように、じっと大介に向けられている。

大介は、怖くなった。

「今日、先生に言われたんだ。突然なんでびっくりした。今月末には、研修センターってとこに入らなくちゃいけないんだ」

恐怖を振り払うように早口で説明すると、大島は、大きく息を吐き出した。

「そうか。今年は、大介君が選ばれたのか」

低くかすれた声だった。

「変だろ? こいつが留学生なんて」と弘毅。

「ちっとも変じゃないよ。特別留学生はいろんな基準で選ばれる。学業やスポーツが優秀な者もいれば、そうじゃない者もいる。そういう者はまた、別の基準で選ばれるんだろう」

「どんな?」と大介。

「さあ。僕もよくは知らない」

「去年、うちの学校からは、二人、選ばれたんだ」と弘毅。

「ふたり?」

「うん。初めのやつは、名前は忘れたけど、成績のいいやつだった。で、二人目が鳥飼。ナオシがえらい苦労させられたやつ」

「留学生って、辞退できないのかな」と大介。

「できないな」

大島は気の毒そうに言った。

「奉仕委員会の決定は絶対だ」

「でも、なんか、人権無視って気がする」

「たしかに」

部屋に沈黙が降りた。

弘毅はあてがはずれたようだった。面白おかしい話題として、大介の留学のニュースを持ち出したのに、大島は少しも楽しそうではない。大介をからかったり、励ましたりする―常の大島だったら、そうする―かわりに、故意に大介から目をそらし、窓の外を見つめている。

大介も黙っていた。国費で留学する特別留学生に選ばれたのだから、祝福してくれるかと思っていた。大介自身は、望んだわけでもなし、第一、実感もわかないが、一般的には、名誉なこととされているはずだ。だが、大島の態度は、全く逆だった。

「ご両親は、なんと言った?」

大島は、窓からこちらへ顔を向けて尋ねた。

「まだ、言ってません。さっき、言われたばかりだから」

「そうか」

大島はしばらくうつむいて、考え込む風だったが、やがて顔を上げると、言葉を選ぶように、ためらいがちにゆっくりと話し始めた。

「君が不安なのはわかるよ。君の立場に立てば、誰だって不安だろう。それでね、今、思いついたんだが、経験者の話を聞いてみたらどうだろう。去年、君の学校から出た二人の留学生、もちろん、ふたりとも今、日本にはいないだろうが、その自宅を訪ねて、ご両親に話を聞いてみたら…。これから何が起こるのか知っていたら、君も、少しは安心できるんじゃないか」

「それがいいや。大介、そうしろよ」

弘毅が即座に賛成したが、大介の気持ちは晴れなかった。

「俺、知らない人と話すのは苦手だ」

「お嬢ちゃんは箱入り娘だな。俺が付き合ってやるよ」

ふと、大介は思い出した。でも、鳥飼のお母さんは自殺してるんじゃなかったか。去年のサンクスギビング・デイに、飛び下りて。

大介がその事を言い出す前に、弘毅は知り合いにメールして、さっさと二人の留学生の住所を、去年の住所録から調べさせた。

別れ際に、大島は言った。

「幸運を祈る」

 

「大島さん、変なこと言ったな」

電車の中で、大介は言った。

「幸運って、なんだよ。試験でも受けるみたいじゃないか」

最初に訪れた小幡家は無人のようだった。和風二階建ての家は、雨戸をすべて閉じ、表札もはずされていた。黄色くなったダイレクトメールの束が、郵便受けからはみ出している。引越ししたのかもしれなかった。

二人は、二、三回、ベルを鳴らしてからあきらめた。

「それじゃ、鳥飼の家に行ってみよう」

大介は気が進まなかったが、弘毅に引きずられた。

鳥飼家は、高層マンションの三階で、表札こそかかっていたが、ベルを鳴らしても応答は無かった。二人は、しばらく待ってから、表に出た。

「大島さんはこの事を言ったんだよ」と弘毅。

「電話ぐらいかけてから来るんだった。無駄足になった」

大介は、マンションを振り返ってみた。百世帯ぐらい、入っていそうだ。屋上には、巨大なアンテナが空を睨んでいる。もしかして、と大介は思った。鳥飼の母親は、ここの屋上から飛び降りたのだろうか。

三階にある鳥飼家のベランダは他の家のベランダと同じく、巨大な箱型のビルの中に行儀よくちんまりと納まっていた。

あれ、と大介は思った。窓にかかったカーテンが揺れたように見えた。大介は目をこらした。一心に見つめたが、厚手のグリーンのカーテンは、二度と動かなかった。


第五章 協定
メデューサ

大介は憂うつだった。憂うつには理由があった。昨日、両親に留学の件を話したのだ。その前に、携帯で、ナオシと昴に話した。

ナオシは、弘毅からのメールですでに知っていた。手紙をくれよ、と言い、夏休みには遊びに行っていいか、と聞いた。少し、うらやましそうな響きさえあった。考えてみれば、フランスのサッカーは、ヨーロッパでも強豪のうちに数えられる。

昴は、全く驚いたよ、と落ち着き払った声で言った後、おめでとうと祝福を述べ、国民の税金を使って、ミシュランの三ツ星めぐりとは、いいご身分だな、とからかった。

二人と話しているうちに、大介の不安は徐々に薄らいでいった。

外国といっても、飛行機で数時間だ。駐在の日本人もいっぱいいるだろうし、パリジェンヌっていうくらいだから、かわいい女の子もいっぱいいるだろう。慣れれば楽しいかもしれない。それに、なんといっても、フランスは皇帝エスコフィエの国だ。こいつは、案外、もうけものかもしれないぞ。

大介はすっかり元気になり、キッチンで夕食の仕度をしている母のところへ行って、俺、留学するよ、と軽い調子で切り出した。母は冗談だと思ったらしい。「おやまあ、それは大変ね」と言ったきり、トントンと菜っ葉を切り続けた。

「ホントの話なんだよ。赤城が言ったんだ。俺が、今年の特別留学生に選ばれたって。明日、校長と赤城が話しに来るよ。時間を決めてくれって」

いつの間にか、包丁の音が止まっている。

「お母さん?」

覗き込んだ顔は、仮面のように表情がなかった。うつろな目が宙を見ている。白いまな板の上に、赤い滴が滴っている。みるみるうちに広がっていく。

「お母さん!」

大介は恐慌をきたした。母の左手の人差し指から、どくどくと血が溢れてくる。大急ぎでありあわせのタオルをあてがい、強く押さえた。輪ゴムで人差し指の根元を縛り、止血しようとする。

母は何も言わず、人形のようにされるままになっている。

顔色は白く血の気がない。紫色になった唇から、ひゅうひゅうと息が洩れる。両手はひやりとするほど冷たく、悪寒でもするように絶えず細かく震えている。

大介は、母が何かの発作をおこしたのだと思った。大声を出して、二階にいる登和を呼んだ。ただならない声に、登和が駆け下りてくる。一目見て、茫然と立ち竦んだ。

「救急車!」

大介は叫んだ。

「早く電話しろ!」

登和が電話に向かって駆け出した時、母が声を出した。

「登和!」

悲鳴のような声だった。登和が立ち止まる。

「いいの。電話しないで。大丈夫だから」

母の目から、涙が溢れていた。ぽろぽろと頬を伝って流れ落ちる。血だらけの手で大介の肩を掴む。指が食い込んで痛いほどだった。おえつの声が洩れる。

「お母さん」

登和も泣き出した。

大介は馬鹿のように、その場に突っ立っていた。自分の気がおかしくなったのか。一体、何が起こったというのだろう。俺はただ、赤城の伝言を伝えただけじゃないか。

思いついて、大介は父の携帯を呼び出した。肩に食い込んだ母の指は、一本ずつ、力を込めなければはずせなかった。

父が出ると、大介は状況を手短に話して、急いで帰宅してくれるように頼んだ。父は裏返った声で、何度も聞き返した。それで、赤城先生は留学生だと言ったんだな? 特別留学生だと。まちがいないな?

父は黙り込んだ。長い重い沈黙が続いた。街のかすかなざわめきだけが、受話器を通して届く。大介は、父が携帯を放り出して、どこかへ行ってしまったのかと思った。

「もしもし? お父さん?」

「ああ」

くぐもったような声が答えた。

「大丈夫?」

「ああ。すぐ帰る。お母さんを頼む」

幸い、出血は間もなく止まった。帰ってきた父が、手当てをした。インスタントの食事が済むと、大介と登和は早々に寝床に追いやられた。

その晩、父と母は、遅くまでずっと話し合っているようだった。キッチンの明かりはいつまでも消えず、時折、母の泣く声が聞こえた。その声を聞きながら、大介は眠りにおちた。

朝、父がこわばった顔で、先生方に午後三時においでいただきたい、と伝えるように、と言った。「仕事じゃないの?」と聞くと、お母さんの具合が悪いから休む、という返事だった。父の目も、赤く血走っていた。

なぜ、こんな騒ぎになったのかわからない。登和には、お兄ちゃん、何したのよ、となじられた。知るもんか、と捨て台詞を吐いて、飛び出してきた。憂うつだった。

 

梅雨入り直前の、べたついた空気の日だった。会社員も学生も、傘を小脇に携えて、黙々と急ぎ足に歩いていく。

突然、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、一見、会社員風の男が立っていた。中肉中背。どこといって特徴の無い、平凡な顔立ちには見覚えがない。大介が突っ立っていると、男はもう一度、「会田大介君ですね」と、念を押すように言った。

「そうですけど」

「わたしは、こういう者です」

男は、背広の内ポケットから名刺を取り出して、大介に渡した。

「クラモトエンジニアリング株式会社。営業部。顧客サービス課長。鳥飼啓市」

おきまりのアドレスと電話番号。メールアドレス。

だが、大介は、中央に刷り込まれた名前しか見ていなかった。鳥飼。

「鳥飼正吾の父です。昨日の夕方、拙宅をお訪ねいただきましたね?」

「どうして知って……」

大介は三階の揺れたカーテンを思い出した。やはり、見まちがいではなかった。

「一緒にいたのは誰です?」

「友達です」

「学校の?」

「はい」

「信用できますか?」

何を言ってるんだ、と大介は男の顔を眺めた。男は、真剣な顔をしている。

「失礼しました。事情があるのです。ちょっとお時間を頂きたい。説明します」

「でも、俺、学校が…」

「正吾のことをお話ししたいのです。去年、特別留学生に選ばれた、うちの正吾に何が起こったか。君はそれを聞きにいらしたのでしょう?」

大介は降参した。一時間くらい遅刻したって、どうということはない。このもやもやが解決できるなら、安いものだ。それに、一時間目は英語だ。

 

鳥飼は、学校とは反対の方向、私鉄の駅に向かって歩いていく。大介は、その後についていった。何人か、顔見知りの生徒とすれ違って、変な顔をされた。駅前の表通りに出たところでは、バスから降りてきたナオシと出くわした。

「どこ行くんだよ。遅刻するぞ」

呆れ顔のナオシに、大介は、ちょっと野暮用とだけ、答えた。

「赤城には、腹痛で遅れるって言っといてくれ」

鳥飼はずんずんと駅の階段を登っていく。大介はあわてて後を追った。

「どこまで行くんですか」

「話のできるところまで」

通勤ラッシュ時の、満員の上り電車の中では、それ以上の会話は不可能だった。

最寄のターミナル駅で降りると、鳥飼は、駅に続いて迷路のように広がる地下街へ入っていった。両側のほとんどの店はまだ、閉まっている。だが、ビジネス街への近道になっている地下通路は、OLやサラリーマンがひっきりなしに行き来している。背広姿の鳥飼は、すんなりとその中に溶け込んだ。見失わないように小走りに走っている時、大介のポケットで携帯が鳴った。弘毅だった。

「なんだ、お前か」

「なんだじゃないよ。何やってんだよ。ナオシが、駅でお前に会ったって言ったら、赤城のやつ、真青になったぞ」

「腹痛だって言っとけって言ったのにな」

「お前、今、どこにいるの?」

「横浜の東口の…」

いきなり、携帯がひったくられた。抗議する間もなく、鳥飼は大介の携帯を、そばにあった噴水へ投げ込んだ。

あ然とした。

「連絡されては困る」

「何すんだよ!」

鳥飼はさっさと背を向けて歩き出した。

「こっち向けよ、畜生! 何のつもりだよ!」

大介はわめき散らした。昨日から溜め込んだもやもやが全部、怒りの奔流となって体中を駆け巡った。足を踏み鳴らし、こぶしを握ってわめいた。

「俺、もう行かねえからな。何様だと思ってんだ、クソ野郎! どいつもこいつも、馬鹿にしやがって! なんだよ! 俺が何したってんだよ!」

不覚にも、涙が出てきた。

通り過ぎるサラリーマンやOLが、面白そうに眺めていく。ますます腹が立った。悔しくて、情けなかった。

鳥飼はゆっくりと戻ってくると、大介の腕を取った。「行こう」と言った。静かな声だった。

「いやだ」

「君の命がかかってる」

「馬鹿いうな」

「馬鹿かどうか、自分で判断しろ」

鳥飼の声が低くなった。

「君はここまでついてきた。自分でも、何か変だと思っているんだろう? その通りだ。特別留学生に関する事項は、極秘になっている。わたしは禁を犯して、昨年、うちの息子に何が起きたか、事実を話そうと言ってるんだ」

大介はこぶしで涙をぬぐった。

「じゃあ、さっさと話せ」

「歩きながらだ」

鳥飼と大介は、肩を並べて歩き始めた。周りの通勤者は、もう、二人に関心を持たない。目的に向かって急ぎ足で通り過ぎていく。鳥飼は低い声で話し始めた。

「サンクスギビング協定という言葉を聞いたことがあるか?」

「ない」

「今から五十年ほど前に、国連加盟国の政府と、あるグループの間に結ばれた協定だ。国連事務総長が、仲介役を勤めた」

「そのグループって…」

「順に説明していく。君は、食物連鎖を学校で習ったか?」

「土中の枯葉をミミズが食べて、そのミミズをモグラが食べて、そのモグラを猫が食べて、その猫をコヨーテが食べて、コヨーテがフンをするとそれが肥料になり、そこから木が育ち、葉が出て、その葉が枯れて土の上に落ち、それをまたミミズが食べてっていう、あれだろ?」

「そうだ。人間は有史以来ずっと、この食物連鎖の頂点にいると考えられてきた。我々はモノを食べるが、我々が食べられることはない。死亡して、バクテリアによる分解を受けるまでは、という意味だが。つまり、人間に天敵はいない、と思われていた」

大介は、思いがけない方向に進んでいく話に戸惑っていた。同時に、激しく興味をそそられた。

「いないんだろ?」

「いたんだ。そのグループ……我々には、その正体はわからない。ある者は、人間のより進化した者だと言うし、別の学者は、他世界からの移住者だという。古代文明社会の生き残りだという説もある。とにかく、彼らは、自分たちは人間ではない、と主張している。ホモ・サピエンスとは違った種族だというんだ。そうして、このグループ、この種族こそが、地球の食物連鎖のトップに立っているんだ。彼らは人間を食べる」

「嘘だ」

「彼らはずっと、密かに人間を狩って食料として生きてきた。世界中で、毎年、たくさんの子供が、遊びに出たまま帰ってこなかった。家出したまま、消息の知れない若者がたくさん出た。そのいくらかは、単に事故にあっただけだったろう。川にはまったか、崖から足をすべらせて落ちたか。人にだまされ、奴隷に売られた者もいたろう。今までの暮らしに見切りをつけ、よその土地で新しい名前で生活し、死んでいった者もいたかもしれない。だが、失われた子供たち、若者たちの大部分は、実は、彼らの獲物になったのだ。狩られて、食われたのだ」

大介は笑いたくなった。

「そんな馬鹿な話、国連が信じるはずないよ。なんの証拠もないじゃないか」

「証拠はない。彼ら自身の証言だけだ」

「だったら…」

「少し、黙って聞かないか。いちいち腰を折られては、話が進まない」

不服だったが、大介は黙った。馬鹿話だ、でも、ここまで来たら、聞いてやろうじゃないか。

「当初、このグループは、一種の宗教団体だと思われていた。彼ら自身が、そのように偽装していた。並外れたヒーリング―癒しの力―を駆使する宗教グループとして、まず、アメリカでその姿を公けにした。あの国は、昔からフェイス・ヒーラーが好きだ。クリスチャン・サイエンスの伝統もある。受け入れられやすかったのだろう。まず、マスメディアが飛びつき、奇跡の力としてもてはやした。すぐに、インチキではないかと噂がたち、科学者が介入することになった。彼らにとっては、思う壺だったはずだ。マスメディアは、著名な医師や生理学者、物理学者を動員し、グループの化けの皮をはがそうとした。ところが、できないのだ。

ここに、ひとりの末期ガンの患者がいる。余命三ヶ月と診断されている。グループは、祈りの力で、この患者を癒してみせる、と言った。グループのメンバーは彼の病室を訪れ、彼と共に祈りを捧げる。大丈夫、治りますよ、と言って帰っていく。そして、その言葉の通り、三日後、彼のガンはきれいに消えている。完全な健康体に戻っている。魔法のようだった。だが、魔法などあり得ない。ならば、なんだ。

同じ頃、ある有力な上院議員の娘が、スキーの事故で頚椎を損傷し、首から下が完全に麻痺した。上院議員は、最後の希望として、このグループのヒーリング・パワーに頼った。彼らの答えは同じだ。三日後に彼女は直るでしょう、と言った。その言葉通り、三日後、彼女は突然、ベッドから立ち上がって、走って見せた。この上院議員が、その後、彼らの強力な後ろ盾になったことは当然だろう。

こうやって、彼らは徐々に、アメリカ政府のなかにシンパを増やしていった。そして、自分たちの代理人として、ニューヨークの有名な法律事務所を雇った。国連事務総長にコンタクトしてきたのは、この法律事務所の弁護士だ。

弁護士は、国連の各国代表の前で、話をする許可を得た。ことここに至って、初めて彼らは偽装を捨てた。自分たちは宗教グループではなく、人類とは全く別の生物なのだ、と。彼らのヒーリング・パワーは、したがって、人類の科学や宗教とは何の関係もなく、彼ら固有の能力である。

さすがに、信じる者は多くなかった。すると、彼らは最大級の離れ技を見せた。当時、ヨーロッパのある国の元首の息子は、数年前の交通事故の際に右腕を切断していた」

「まさか…」

大介は思わず、口をはさんだ。

「そのまさかだ。グループの代表は、議場に、この青年を呼ぶように言った。そうして、各国代表の見守る前で、この青年の右腕が―失われたはずの右腕が、再生した。青年は半袖のシャツを着ていた。切り株のように丸くなっていたひじから先が、ゆっくり、ゆっくり伸び始めた。朝顔のつるが伸びるさまを、倍速で撮影したようだったと、その場にいたある国の政府代表が書き残している。青年が茫然と見下ろすうちに、腕は伸び、手首ができ、手ができ、五本の指がそこから生えた。まさに、奇跡だった」

「何かのトリックじゃ…」

「あり得なかった。腕の再生は、全員の見ている前で、なんの遮蔽もなく、明るい光の下で行なわれた。厳重な医学チェックでも、それは、彼の腕だった。生まれてから、一度も切断されたことなどないように見えた。いや、そんなチェックなどそもそも、必要なかった。その青年は、再生したばかりの右手を使って、その場にいた各国政府代表全員と、握手を交わしたそうだ」

「すり替えとか…その青年には、双子の兄弟がいたとか…」

鳥飼は首を振った。

「各国代表は、ついに神が降臨した、と思ったそうだ。だが、グループの者たちは、自分たちは神ではない、ただ、別種の生物に過ぎない、と言った。神ではないから、生きるために食べる必要がある。彼らの食料のほとんどは、人間と同じだ。穀物、野菜、魚、乳製品、果物を食う。一点だけが違っていた。彼らは、人間の肉を常食としていた」

鳥飼は言葉を切って、あたりの様子をうかがった。

地下街を歩く通勤者の数はかなり減っている。かわって、ワゴンに商品をのせた業者が、車輪の音を響かせながら通り過ぎていく。こちらに注意を向けるものはない。鳥飼は話を続けた。

「彼らはこう言った。今まで、必要な肉はそのつど、狩りをして手に入れてきた。しかし、人間社会が発展するにつれ、この方法は不経済かつ不都合になってきた。かっては、一家族あたりの子供の数が多く、ひとりぐらい行方不明になっても、さしたる騒ぎにはならなかった。子供の数の減った今は、ひとりでもいなくなると大騒ぎになり、警察が出動して探し回る。社会組織や法も整備されてきた。それに合わせて、我々としても、ハントの形跡を慎重に隠さねばならなくなった。これではお互い、時間と労力の無駄ではあるまいか。

だから、こうしよう。人間は、年に一回、一定数の子供を、我々に食料として提供する。その代償として、我々はそれと同じ数の人間に我々の癒しの力を提供しよう。一対一の取引だ。ひとりの命に対して、ひとりの癒し。公正な取引だと思うが、いかがだろう」

大介は、魅せられたように耳を傾けていた。

「全世界で、どんな騒ぎがおこったか、君には想像もできないだろう。

大多数の人間は、反対した。一人の人間が、たとえ死から救われる、病気の苦痛から解放されるとしても、そのために無垢の一人の命を犠牲にしていいものか。仏教国は苦と涅槃の思想を説き、キリスト教国は、一匹の羊のために多数をおいても荒野へ出て行く羊飼いの話をバイブルからひいた。イスラム国は、人間の生死を決するものは、アラーのみと主張した。すると、彼らは次の手を打ってきた」

「何をしたの」

「数を限ったんだ。こう言った。自分たちとしても、病いに苦しむ人間をできるだけ多く癒してやりたいと思う。だが、癒しには負担がかかる。無制限とはいかない。だから、早く協定を締結してくれた国家から順番に癒しを行なおう。締結が遅くなった国には気の毒だが……わかるだろう?」

鳥飼の顔は、絶望にゆがんだ。

「人々は考え始めた。全ての人間の命は平等だ、だが、果たして本当にそうか? 社会的に有用な人材というのはいるじゃないか? その人間が救われることで、さらに大勢の人間が救われるなら? 多少の犠牲は許されるのではないか? 彼らが人間を食べるというなら、その代償を受ける方がよくはないか? ただでやることはない。ぐずぐずしていたら、チャンスを逸するぞ。バスに乗り遅れるな……。ああ、彼らは一流の心理学者だったよ。各国は、先を争って協定を結んだ。それが、サンクスギビング協定だ。協定にもとづいて、各国は国内法を整備した。この国では、十四歳から十五歳の子供が選ばれる。彼らはその名簿を、国際協定実行奉仕委員会に渡す。委員会は、選ばれた子供に、特別留学生として外国へ行くのだ、と信じ込ませて、各地の留学生研修センターに集め、時機が来たら、彼らに引き渡す。現在のところ、選ばれる子供の比率は、五百人に一人、といったところだ。一中学校あたり一・五人に相当する。泉中学では、去年は、うちの正吾が選ばれた。今年は…」

「俺なんだね」

答えた声は震え、しわがれて、とうてい自分の声とは思えなかった。




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