パサデナの桜祭りは、三月の初め、春とはいえ、まだ時折は、肌寒さを感じるころに開催される。街路樹の桜もまだ三分咲きといったところで、薄紙のようなピンクの花が、冷たい空気に震えている。だが、車両通行止めになった大通りには、たくさんのテントが立ち並び、浮世絵の描かれた半纏や、Tシャツ、鯉を描いたシルクスクリーン、盆栽、陶器の花瓶や茶碗、アニメのキャラクターのぬいぐるみなどを売っている。近くの特設ステージでは、日本の武芸の模範演技がおこなわれ、勇壮な気合が響き、観衆の盛大な拍手が遠くまで聞こえてくる。とうもろこしや、焼き鳥を焼くいい匂いが漂い、大勢の家族連れやカップルは、あっちこっちのテントをのぞいては、風鈴にさわってみたり、盆栽の品定めをしたりして、春の一日を楽しんでいた。
さおりは、ロサンゼルスの日本語情報誌、LAジャーナルの依頼で、桜祭りの取材に来ていた。インタビューの相手が模範演技中、少し会場を歩いてみようと、特設ステージからぶらぶらと外へ出てきたところだった。さおりは二十四歳。アメリカの大学を出た後、フリーのジャーナリストとしてロサンゼルスで働いている。
ふと、さおりの目の前を、黒い揚羽蝶がひらひらと横切っていった。さおりは驚いた。蝶が出るにはまだ早い時期だ。それに、さおりは一度も、ロサンゼルスで揚羽蝶を見たことはない。思わず追いかけると、蝶は、祭りでにぎわっている表通りを避けるように、ビルの間の薄暗い狭い通りに入っていく。
ビルの裏手のピアッツァ―石畳の中庭―は、表通りとうってかわって静かで、人通りもあまりない。アイスクリームの屋台が一台出ていて、何組かの家族連れが群がっている。ピアッツァのところどころに植え込みがあって、百日紅の木が植えてあるが、今はすっかり葉を落として、裸の枝が寒そうだ。植え込みの前には、石のベンチがすえてあった。ベンチの一つに、男の子が一人、すわってアイスクリームを食べている。中学生か、高校生。ヤンキースの野球帽をかぶっている。黒揚羽はひらひらと広場を横切って、男の子のすぐ隣にとまった。ゆっくりと息づくように、半開きの羽を動かしている。男の子はそっと帽子を脱ぐと、パッと蝶の上にかぶせて捕まえようとした。蝶はさっと飛び立って、ひらひらと青空に向かって舞い上がっていった。その拍子に、男の子の持っていたダブルスクープのアイスクリームの頭が、ポロリと地面に落ちた。男の子は、アッと小さな声をあげて、恨めしげに地面に落ちたアイスクリームを見ている。さおりは思わず、くすりと笑った。男の子が顔をあげて、さおりを見る。愛嬌のある丸顔に茶色く染めた坊ちゃん刈り。だが、さおりがひきつけられたのは、その目だった。仔犬のように澄んだ茶色の目。その目が今、非難するようにさおりを見ている。
男の子は手に持っていた紙ナプキンで、落ちたアイスクリームを拾うと、近くのゴミ箱に捨てた。ベンチに戻ると、味気ない顔で、手に残ったコーンをかじっている。
さおりはアイスクリームの屋台へ行くと、チョコレートアイスを二つ買った。一つを男の子に差し出す。
「はい」
男の子は、びっくりしたようにさおりを見たが、「ありがとう」と言って、素直に受けとった。二人は並んですわって、しばらく黙ってアイスクリームを食べた。
「日本人なんですか?」
お馴染みの質問だった。さおりの祖母の一人がロシア系だったせいで、さおりの肌は日本人には珍しいくらい白い。長いストレートの髪も、瞳も薄い茶色をしているせいで、よく聞かれる。さおりはいつもの説明をしておいて、今度はこちらから、これも、よくある質問をした。
「留学生?」
「ううん。お父さんと来てるんだ」
観光客か、と、さおりは思った。
「ロサンゼルスは気に入った?」
「うん。とてもきれいなところだね」
LAがきれい? 昼の間は、紙くずが散乱する路上をホームレスがうろつき、ゴミ箱をあさる。夜ともなれば、同じ通りに、ドラッグの売人や娼婦が出没する。フリーウェイには、無礼で乱暴で、全米最悪と言われる運転マナーのドライバーたちがひしめきあっている。だが、さおりだって、数年前、初めてLAに来た時には、きれいなところだと思ったのだ。青い空と長い海岸線、強い太陽の光、風に揺れる椰子の木を見て感動したのだ。この男の子の澄んだ瞳を見ていると、忘れかけていた抱負や夢を思い出すようだ。さおりはちょっと笑った。
「そうね、きれいなところもあるわ。どこへ行ったの?」
「ディズニーランドとマリーナ・デル・レイとビバリーヒルズ」
さおりと男の子は、しばらくの間、カリブの海賊と、インディ・ジョーンズの話をしていた。男の子はアクション映画のファンらしい。時間があったら、ユニバーサル・スタジオにも行ってみたいと言った。
「いつまでいるの?」と、さおりが聞いた。
その時、「ムーンリバー」のメロディーが鳴った。さおりが携帯のスイッチを押すと、一緒にきたカメラマンの宮川の声が聞こえた。
「どこにいるんだい? もうすぐ柔道の模範演技が終わるよ。インタビューするんだろ?」
「ごめん。今すぐ行くから」
さおりは携帯をしまって立ち上がった。
「さあ、わたし、もう行かないと」
「うん。アイスクリームありがとうございます」
「どういたしまして」坊や、と言いそうになって、さおりはあやうく言葉を飲み込んだ。
「僕は隆史。長尾隆史」
「わたしはさおりよ。じゃあね、隆史君」
ビルの角をまがろうとして、さおりが振り返ってみると、隆史はまだ、ベンチにすわって、アイスクリームをなめていた。
宮川と合流すると、さおりは柔道の師範にインタビューした。それから、空手の道場主の模範演技が終わるのを待つ間、祭りの様子を撮りたいという宮川に付き合って、広い会場をあちらこちら歩いた。
ひときわ大きなテントが、さおりの目をひいた。この大テントの前には、大勢の人々が集まっていたが、日本人がほとんどのようだ。
「あれは?」
さおりが宮川をつつくと、宮川が振り向いた。
「ああ。あれは、『光明の道』教団のテントだよ。最近、日本で急速に大きくなった新興宗教で、こっちにも結構、信者がいるって話だ。教祖は何て言ったっけ、名前は忘れたけど、ヒーリングの力を持っていて、神経痛ぐらいなら、たちまち治しちまうって話だよ。それで、年寄りの間に信者が多いんだけど。去年、LAの沖合の島に、大きな教団施設を建てたって話だ。日本から信者が、ツアーを組んでやってくるんだってさ」
「それであんなに人がいるのね」
「多分ね。たしか今、教祖様がこっちにおいでになってるんじゃないかな。そう聞いたよ」
さおりは興味がわいた。
「インタビューしたいわ」
「無理だね。皆がアタックしてるが、難攻不落さ。ジャーナルでも、吉岡がなんとか、わたりをつけようと、この間からやっきになってるけど、秘密主義でね。まだ成功していない」
さおりはテントのそばに行ってみた。波が岸に打ち寄せるザザーッという音が、テープで流れている。中央に、松林に囲まれた、大きな白壁の三階建ての建物のカラー写真がパネルになって飾られている。その周りに、これは白黒で、瞑想を行っている信者や、教団の集会の様子を写した写真が飾られている。そのうちの一枚はひときわ大きかった。七十歳くらいの老人―といってもまだ充分に精気にあふれた老人の横顔を写している。これが教祖様だろうか。
突然、人の波が大きくどよめいて、テントの奥の方へ動いていく。どうやら、教祖様が現われたらしい。さおりは必死で人波をかきわけて近づこうとしたが、突如現われた数人の教団関係者らしい人々に押し返された。
「順番です。きちんと列にならんでください」
宮川がささやいた。
「時間だよ。そろそろ行かないと、相手を待たせることになる」
さおりはあきらめた。テントを離れるときに振り返ると、背の高いがっしりした老人の姿が見えた。その隣に、紺の野球帽がちらりとのぞいたような気がした。「まさか」と思って見直したが、黒山の人だかりで、もう見えなかった。
翌日、さおりはイシスの園で、リアから、意識の遮蔽訓練を受けていた。イシスの園は、LAのずっと東、山沿いの小さな町にあるニューエイジ系のコミューンで、花の香りに包まれた広大な敷地の中に、白樺の林や睡蓮の咲く池、野菜畑や薬草園を抱していた。さおりは去年、ふとしたことから、ある日本人の失踪事件に巻き込まれ、それ以来、ここのメンバーに加わって、たびたび訪れている。
さおりはホールの床にすわって目を閉じた。固い木の床の感触が身体に伝わってくる。ゆっくりと深い呼吸をくり返した。一、二、三で息を吸い、止める。一、二、三と数えてから、息を吐く。息を吐きながらまた、一、二、三と数える。一、二、三と、止める。再び一、二、三で大きく息を吸う。何回かくり返すうちに、身体が柔らかく、リラックスしてくるのがわかる。全身に空気が送りこまれていく。
「さおり、準備ができたら始めて」
リアの声が、遠くから聞こえてきた。さおりはマントラを唱えはじめた。はじめは、大きな声でゆっくりと、単純でリズミカルな単語をくり返す。徐々にスピードを速め、同時に、声も小さくなっていく。やがて、口の中で小さく小さくつぶやくほどになる頃には、さおりの心は、暗い鏡のように澄みきっている。ふっと、鏡の上に影がさす。「このままよ、このまま」さおり自身の心が発したつぶやきだ。さおりはマントラを唱えて、そっと、その余計なつぶやきを心から閉め出す。一時乱れた鏡が、再び暗く澄みわたる。どこか遠くで、何かの雑音がする。何かが鏡にはいってこようとしているが、さおりの鏡は乱れない。あくまでも暗く、静かに澄んでいる。と、一匹の黒い揚羽蝶が、ひらひらと飛び込んできた。蝶の漆黒の羽には、薄い水色の斑点が並んでいる。黒いレースのように繊細な羽を動かして、蝶は飛び回った。突然、金色に光る目をもった山猫がとびこんできた。山猫は首をまわして、さおりを見ると、ニャーと鳴いた。さおりは目を開いた。
目の前に、イシスの園のヨガ教師、リアが立っていた。
「途中まではよかったんだけどね、さおり」
リアは、小柄なチャイニーズで、黒い髪をポニーテールにしている。金色の瞳が山猫のように光って、さおりを見据えた。
「でも、あなたは、イメージが入りこんでくると、それに気をとられて防御を忘れるわ」
さおりは目を閉じた。自分でも、失敗したのがよくわかっていた。
「ごめん」
リアは笑った。
「あやまるようなことじゃないわ。今日はここまでにしましょう」
リアは、イシスの園の園長、ソング博士の古い友人の娘で、もう七年も、ここに寄宿していた。大学院に通うかたわら、ヨガを教え、コミューンの運営を手伝っていた。
リアは、ホールのブラインドを巻き上げた。午後の陽射しが、ホール一杯に流れ込んできた。さおりは去年の夏、ここで、黒い猿の形をした影に襲われたことを思い出していた。あの時、リアは、さおりをかばって、自分が猿に飛びかかっていったのだ。だがもし、透が来てくれなかったら、二人とも殺されていただろう。リアが振り返ってさおりを見た。
「LBRPは続けてる?」
LBRPは、儀式魔術で行われる、最も基本的な徐霊の儀式で、熟練した魔術師の透は、一挙動でやってのける。だが、リアに習って、さおりがやってみようとすると、ことはそう簡単ではない。
「やってるけど……」
さおりが口ごもると、リアが励ますように言った。
「さおり、何事も練習よ。初めからうまくできる人はいないわ」
ドアに遠慮がちのノックの音がして、ソング夫人の声がした。
「さおり、リア。もし終わったのなら、こっちを手伝ってもらえないかしら」
イシスの園の二階には、泊り込みのセミナー参加者や、コミューンのメンバーたちのための宿泊設備がある。ベッドに机、洋服ダンスの簡単な家具を備えた小部屋が、廊下の両側に並んでいる。リアとさおりは、一つ一つの部屋に、清潔なシーツと枕カバーをセットしていった。
「春にもセミナーがあるの?」
さおりが聞くと、リアは、毛布をきちんとたたみながら言った。
「この時期になると、ハーフタームで学校がお休みになるから、結構、希望者がいるの。今回は十人が参加することになってる」
さおりも去年の夏のセミナーに参加した。午前中がガーデニングと講義、続いてディスカッション、午後がヨガと、備え付けの図書室を使った論文演習になっている。朝早いのが、寝坊のさおりにはつらかったが、内容は面白かった。さおりはこの時のセミナーで何人か、新しい友人を作った。
ふいに、毛布をたたんでいたリアが、へなへなとベッドにすわりこんだ。
「どうしたの」
さおりがあわててそばに寄っていった。リアは腹をおさえるようにして、目をつぶってじっとしている。顔色が青い。
「リア」
さおりが呼ぶと、「しっ」と言って、そのままじっとしていろという身振りをした。やがて目を開くと、さおりを見て微笑した。
「ここのとこ、ちょっと調子悪いのよ」
「大丈夫? 水もってきましょうか?」
リアは首を振って、立ち上がった。
「もう平気。騒いじゃだめよ」
リアは金色に光る瞳で、さおりを見て、釘をさすように言った。さおりは黙った。リアはヨガの上級者だ。講師をつとめるくらいの。自分の体のことは、自分でわかっているだろう。だが、リアの青い顔色が、さおりは気になった。
「ついでだから、透の部屋に風を通しておきましょうか」
リアが言った。
ドアを開けると、きれいに掃除はしてあるが、何ヶ月も主のいない部屋らしく、どことなく寒々として見えた。片側にベッドとサイドテーブル、洋服ダンス。家具はそれだけで、じゅうたんの敷いていない木の床に、白いチョークで、魔法円を描いた跡が残っている。リアがブラインドを上げて、窓を開け放した。ひじをついて、窓の外を眺めている。さおりもその側に立つと、イシスの園の庭を眺めた。遠くに白樺の林が見える。ばらとアイリスの植え込みの間を縫って、白い小石に縁取られた小道がうねうねと走っている。一階のサロンのすぐ外にある、藤棚の下にあるテラスから、かちゃかちゃと、陶器の触れ合う音が聞こえる。ソング夫人が、お茶のしたくをしてくれているのだろう。スーッと風がぬけて、レモンの花の香りを運んできた。
「透、いつ帰ってくるのかな」
さおりがつぶやくと、リアが笑った。
「帰りたくなったら、帰ってくるわ。そういう人よ」
「連絡はないの?」
「あるわけないわ。ヨーロッパに行っていた時だって、五年間、全く音沙汰なしだったって聞いてるもの。で、いきなり戻ってきたと思ったら、一週間後には、また消えちゃって、しばらく戻ってこなかった」
さおりはちょっとためらったが、前から聞きたかったことを口にした。
「透は、生活はどうしてるの? ここにいた時だって、働いてはいなかったみたいだし」
「ひとの懐具合は知らない。錬金術でもやってるのかもね」
「錬金術?」
リアはクスクスと笑った。
「長老が、遺産をのこしていったのよ」「長老って、ここの創立者の?」
「そう」
さおりはもちろん、一度も会ったことがないが、長老が五歳の透を連れてきて、ソング夫妻に預けたということは聞いていた。
「長老には、身よりはいなかったみたいだしね。イシスの園の後継者には、ソング博士を据えたけど、自分の魔術の後継者は、透と思っていたらしいの」
「リアは長老に会ったことあるの?」
「わたしがここへ来た時は、もう亡くなってた」
「なんだ、こんなとこにいたのか」
ソング博士夫妻の養子で、ここの副園長をつとめているマーカスが顔を出した。
「お母さんが呼んでる。お茶だよ」
「今行く」
リアが頬杖をはずして立ち上がった。ドアのところで振り返ると言った。
「さおり、透のことは待つだけ無駄よ。世界中、どこをうろついてるか、わかりゃしないんだから」
それから二、三日の間、さおりは忙しかった。桜祭りの取材をまとめて記事にして、ジャーナルに送った。日本の留学情報誌のために、新しく引き受けたコラムを仕上げ、ついで次の仕事―夏のレジャー情報特集のための資料集めにかかったところで、LAジャーナルの編集長、吉岡から電話がかかってきた。
「よ、どうしてる?」
吉岡は相変わらず、のんびりとした口調だった。
「桜祭りの記事、良かったよ。ところでさ、宮川に聞いたんだけど、『光明の道』教団に知り合いがいるんだって?」
「はあ?」
さおりは一瞬、何のことかわからなかった。
「ほら、日本から来て、去年、LAの沖合いの島に、大きな寺を建てた新興宗教さ。桜祭りに出てたろう?」
「ああ、あれ。別に知り合いなんかいませんよ」
「いないの?」
吉岡はがっかりした声を出した。
「宮川の話じゃ、水野がぐいぐい中に押し込んでいったっていうし、何とかいうコミューンに関係したりしてるから、誰か知ってるやつがいるのかと思った」
「知ってる人なんかいません。ただ、興味があったんで」
「なんだ、水野の押しの強さが出ただけか」
吉岡とさおりは以前、付き合っていたことがある。二人の関係は二年前に終わったが、吉岡は今でも、さおりに対しては、遠慮のない口をきいた。
「あの『光明の道』の、教祖のヒーリングパワーっていうのは本物らしい。アメリカじゃ、FDAがうるさいんで、あんまり派手に宣伝はしていないが、日本じゃ、一ヶ月に一度、講演会を兼ねて、ヒーリングの実演をしてみせるそうだ。俺の知り合いが、こっそりもぐりこんでみたんだが、もし、うまい手品だとしても、タネはわからなかったと言ってたな。その教祖が今、こっちに来てるんだ。なんとか一度、お顔を拝見してやろうとしてるんだが、ガードが固くてね。まだ成功してない。水野、何かつかんだら、教えてくれよ」
それであの騒ぎか。さおりはヒーリングについては何も知らない。調べておこうと、心の中のメモに書きつけると、庭に夕方の水まきに出た。
今年の冬は例年より雨が少なかった。それでも、庭の木々は、夏の黄緑や灰緑色ではなく、鮮やかなエメラルドグリーンをしている。さおりがガーデンホースをひっぱって、水をまいていると、隣家から、おばあちゃんが出てきた。隣の家は、メキシカンの大家族で、下は九ヶ月の赤ちゃんから、上は今年八十になる、このおばあちゃんまで、四世代が一緒に住んでいる。主婦のポーリンは、さおりの仲のいい友達だが、家の頭は、なんといってもこのおばあちゃんで、裏庭の野菜畑の管理から、ブドウの木の剪定まで、孫、甥、姪、娘、息子たちを指揮して見事にやってのける。
「サオリ、ちょっと」
おばあちゃんが手招きするので、さおりは水道の水を止めて、両家の庭をへだてているフェンスのそばへ行った。
「さおりのとこに、オレガノはなかったかね? あったら、少し分けてもらえると、ありがたいんだけど」
さおりはイシスの園の薬草園からハーブの苗をもらってきて、裏庭に自分用の小さなハーブガーデンを作っていた。オレガノはあったはずだ。
「いいわよ。どれくらいいるの?」
「若い枝を五本ぐらいでいいんだよ。今晩のポークチョップに使うだけだから」
「待ってて」
日当たりのいい南の隅に、そこだけ芝生をはがして、小さなハーブガーデンがある。ラベンダーの紫の穂から、いい香りが夕方の空気に漂っていた。さおりは灰緑色のオレガノの、こんもりした草むらを見つけると、できるだけ若い枝を選んで、六、七本切った。つんと刺激のある匂いが、切り口から立ちのぼる。
はい、と、おばあちゃんにオレガノの枝を渡すと、おばあちゃんはフンフンと匂いをかいで、目を細めた。
「これがあるとないとじゃ、風味が全然違うんだ。ありがとうよ」
さおりは、おばあちゃんの祖父が、メキシコで、部族のシャーマンをしていたことを思い出して聞いてみた。
「おばあちゃん、シャーマンは、ヒーリングの力を持っているの?」
「なんだね、いきなり」
おばあちゃんは変な顔をしたが、さおりが、桜祭りと「光明の道」教団の話をすると、うなずいた。
「ああ、ヒーリングは、シャーマンの重要な仕事のひとつだよ」
「じゃ、おばあちゃんのおじいさんもやっていたの?」
「もちろんさ。ヒーリングといってもいろいろでね。なかには、とても簡単なものもある。さおりが育てているようなハーブを、お茶にまぜて飲んだり、よくもんだ葉っぱをこめかみに貼ったりするだけで、頭痛が治ったり、腹痛がおさまったりする場合もある。シャーマンは、どの薬草が何に効くか、どう使うかを知っているからね。シャーマンの間に代々伝わった薬草とその処方は、今の医者だって無視できないものさ。だが、本当に深刻な病いや、悪霊にとりつかれた病人をいやす時には、シャーマンは命をかけることもあるんだ」
「大変な力なのね、ヒーリングって」
「イシスの園では、ヒーリングについてのセミナーはないのかい?」
「さあ。あったとしても、わたしは出たことない。今度、イシスに行った時に聞いてみる」
今度の日曜日、また意識の遮蔽訓練に行った時に、リアに聞いてみようと、さおりは心覚えに書き留めた。
だが、日曜日まで待つこともなく、その翌朝、さおりはイシスの園に向かって車を走らせていた。夜、ソング夫人から電話がかかってきて、手のあいた時に立ち寄ってくれと、頼まれたのだ。ソング夫人は理由は言わなかった。
「それがね、さおり、とても変なことなのよ。なんと言うか……」
夫人はしどろもどろになった。「とりあえず、あすの朝、そっちへ行きます」と、さおりが言うと、ソング夫人は「助かるわ」と、嬉しそうな声を出した。
イシスの園の裏門にある駐車場に車をいれた時、さおりは十台近い車が駐車しているのに気がついた。そういえば、今週は一週間コースのセミナーが行われているはずだ。裏門をくぐると、建物をぐるりと回りこむようにして、石畳の細い小道がついている。右に向かえば、塀に沿って、建物の裏手を回って反対側の玄関口に向かう。だが、さおりは、いつもどおり、左手の庭に向かう小道をとった。薬草園と野菜畑を見下ろすようにして、ぐるっと建物の正面に回ると、そこに台所の入り口がある。ふと、風にのって、甘い香りが漂ってきた。あたりを見回すと、野菜畑のすぐ外に植えてある、桃の木が、濃いピンクの花を満開に咲かせていた。
さおりが勝手口から顔を出すと、ソング夫人はちょうどキッチンにいて、洗い物をしていた。
「おはよう」
「さおり!」
「忙しそうね」
「早速来てくれてありがたいわ。コーヒーは? それともお茶?」
ソング夫人はお湯をわかしはじめた。
「セミナー始まったのね」
「ええ」
ソング夫人は忙しく動いて、ティーポットやカップを出してきた。
「きのうの電話で言っていた、変なことってなに?」
ソング夫人は手をとめて、考え込むようにさおりを見た。
「それがねえ、本当に変なことなのよ」
さおりは苛々した。
「だから、その変なことって」
だが、ソング夫人はさおりをさえぎった。
「ちょっと待ってて。マーカスを呼んでくるから。わたしより、マーカスのほうがうまく説明できるでしょうから」
ソング夫人はあたふたと、キッチンを出て行った。やれやれと、さおりはお茶のしたくを引き継いで続けた。ソング夫人はいい人だが、いつも仕事を中途で放り出して、どこかへ行ってしまう。実際、夫人のあのやり方で、どうやってイシスの園の運営が成り立っているのかと、さおりは時々不思議に思った。まあ、ここに七年も下宿していて、家族同様のリアが、対照的に几帳面な性格で、受講者の世話から、博士の秘書的な仕事まですべて切りまわしているらしいことは察していたが。それにしても、リアはどこにいるのだろう。受講者の世話で、クラスに出ているのだろうか。
やかんがピーと鳴って、お湯がわいたことを知らせたので、さおりは棚からお茶を取ってきた。ずらりとならんだ茶筒には、リアの几帳面な筆跡で、「ミント」、「ローズ」
「カモミール」等と、ハーブの種類を記したラベルが貼ってある。さおりがティーポットにお茶を入れていると、廊下に足音がして、マーカスとソング夫人が入ってきた。
マーカスは、ソング博士夫妻の養子でここの副園長をしている。さおりより少し年上で二十代の終わり頃に見える。いかにもまじめそうな焦茶色の目に、これまたおそろしく保守的なカットの茶色の髪。万年カジュアルな南カリフォルニアの暮らしのなかで、彼だけはいつも、きちんと背広ネクタイに身を固めている。さおりは、このマーカスにはやや苦手意識があった。去年の夏、さおりがセミナーを受講した時、いくつかの規則を破った件で、何回かマーカスと衝突した。そのあとの出来事で、多少、さおりの信用は回復したものの、マーカスは今も時折、さおりを警戒するような目でみる。ジャーナリストというと、何でも、あることないこと書き散らすと思っているようだった。
「やあ、さおりさん、お元気でしたか」
マーカスは、いかにも堅苦しく言った。三日前に会ったばかりじゃないかと、さおりは思ったが、一応、あいさつを返した。
「あら、さおり、悪いわね、お客様にお茶入れさせて」
ソング夫人はさおりの手から、ティーポットを取りあげた。
「すわって、すわって。マーカス、あんたは?」
「僕は結構です」
「ソング博士は?」
さおりが聞くと、マーカスが答えた。
「博士は、ホールで講義中です」
「リアも?」
「それがねえ」と、夫人がお茶をいれながら言った。
「リアは寝てるの。きのうの朝から、気分が悪いと言い出して」
さおりは気になった。あの気丈なリアが寝ているというのは、よっぽど悪いのだ。
「医者へは?」
「すすめたんだけど、本人がいやがって行かないのよ。ただの風邪だから、寝てれば治るって。ヨガのクラスの方は、代わりの先生を頼んだからいいんだけど」
だが、リアはこの間の日曜日にも、気分が悪そうだった。あとで部屋に行ってみようと、さおりは思った。
「で、その変なことって、なんですか」
「それがねえ」と、夫人が言って、ちらと、マーカスの方を見た。
「いや、お忙しいところ、わざわざ来てもらうほどのことじゃなかったんですよ。ただの気のせいなんです」
どうやら、マーカスは夫人がさおりに電話したのを迷惑に思っているらしい、と察したが、とにかく、ここまで来た以上、手ぶらで帰るつもりはなかった。
「気のせいって、何がですか?」
「受講者がね、庭で、変なものを見たと言うの」
「変なものって?」
夫人が、あたりを見まわすようにして、声をひそめた。
「こびと」
さおりはポカンとして、夫人の顔をながめた。
「おとぎ話によく出てくるでしょう? 緑のとんがり帽子みたいのをかぶって、太って、あごひげをはやしたこびと」
「まさか」
さおりは笑い出しそうになった。
「夢でも見たんじゃないんですか」
「わたしもそう思ったのよ。はじめはね。でも、きのうの夜は、別の受講者が、池で、人魚を見たと言うの」
「人魚って、あの人魚ですか?」
「ええ。髪の長い、上半身が人間の女で下半身が魚っていう、あの人魚よ。それが、池のふちにちょこんとすわっていたと言うの。見た人がびっくりして声をあげると、人魚はこっちを向いて、それから、するりと池のなかに消えたって言うの」
マーカスが口をはさんだ。
「夜でしょう? 何かを見まちがえたんですよ。アライグマかなんかが、水を飲みに来てたんでしょう」
「絶対に見まちがいじゃないって言ってるのよ」
「じゃあ、嘘をついて、こっちをかつごうとしてるんだ」
「嘘をつくような子じゃないのよ。ここのメンバーの娘さんで、わたしもよく知ってるんですもの。それに…」
夫人は困ったような顔でさおりを見た。
「さわぎになるといけないと思って、わたし、黙ってたんだけど、きのうの朝、わたしも変なものを見たのよ」
「お母さん、なぜ黙ってたんです」
「だから、わたしも気のせいかと思って」
「何を見たんですか」
「白樺の林の中を、ドリアードが歩いていたの」
「ドリアードって、あの髪の長い女のひとの形をした、木の精のことですか?」
「ええ。薄い緑色の着物を身体にまとわりつかせるようにして、林の中を駆けていったの」
マーカスは首を振った。
「馬鹿馬鹿しい。お母さん、光線の加減で何かがそう見えただけですよ」
「お前はそういうけど、わたしは確かに見たんだから」
「博士は何て言ってるんですか」
「なんとも。実害がないなら、放っておけって」
「放っておくわけにはいきませんよ」
マーカスが憤然として言った。
「こんな噂が広まったら、イシスの評判は悪くなるだけです。受講者に、つくり話をでっちあげるのはやめるように言わないと」
「でも、つくり話とは限らないでしょう」
「つくり話にきまってるじゃないですか。ノームにマーメイド。現実には存在しないものばかりですよ」
「で、わたしに何をしろと」
さおりが言うと、夫人はほっとしたように言った。
「ぐるっと庭をまわってみてもらえないかしら。あなたは勘がいいから、何かおかしなことがあったら、気がつくでしょう?」
「ええ、それはかまいませんけど」
「リアは病気だし……。本当に、こんな時、透がいてくれたらねえ」
ソング夫人がぐちっぽく言った。
「連絡ないんですか」
「全然。いかにもあいつらしいよ」
マーカスが時計を見て立ち上がった。
「お母さん、もうすぐ、講義が終わりますよ」
「あら、大変。お昼の準備をしないと」
「手伝いますよ」
さおりも立ち上がった。実際、リアが病気となると、十人の受講者、ソング博士夫妻、マーカス、それにリアと、全部で十四人の食事を毎日三度作るだけでも、夫人ひとりでは、手にあまるはずだった。さおりはちょっと考えて、セミナーの残り四日間のあいだだけ、園に滞在しようかと申し出た。大きな仕事はきのう片付いたし、リアとマーカスのパソコンを使えば、原稿書きはどこにいてもできる。それに、ここの図書室は充実していて、さおりが調べてみようと思っているヒーリングについての資料も豊富にあるはずだった。ソング夫人は、さおりの申し出にとびついた。「助かるわ、さおり」マーカスでさえも、めずらしく、さおりに笑顔を見せて礼を言った。
第四章 気配昼食の後片付けをすませると、さおりはリアの部屋をのぞいた。リアはベッドに寝て、窓から外を眺めていた。
「あら、さおり」
「気分はどう?」
さおりはサイドテーブルの上を見た。オレンジジュースとチキンスープが載ったお盆がおいてあるが、ほとんど手がついていない。
「風邪なら、ちゃんと食べないと、力つかないわよ」
「わかってるけど、食欲なくて」
リアはそれでもベッドに起き上がると、オレンジジュースのコップを取り上げた。
「さおり、いつ来たの?」
「さっき。きのう、ソング夫人から電話もらったの」
「ノームとマーメイドの件?」
リアは考え深そうな目をした。
「マーカスはでたらめか、見まちがいだって言ってた」
「マーカスはそう言うでしょうね」
「リアは信じるの?」
リアはオレンジジュースをもう一口飲んで、コップをお盆に置いた。
「チキンスープも食べなきゃだめ」
さおりが言うと、リアは素直にスプーンを手にとった。
「で、リアは信じるの?」
「ノームの話の時はね、正直、つくり話じゃないかと思ったけど。でも、マーメイドは…。あの子は、嘘つくような子じゃないのよ」
「受講者だけじゃないの。ミーガンも見たんですって」
さおりがドリアードの話をすると、リアの目が金色に光った。
「じゃあ、まちがいないわ。何か入り込んでるのね」
「何かってなに?」
「さあ。わたしにはわからないわ」
「でも、リア。透が一度言ってたけど、イシスの園には結界が張ってあるから、霊は入ってこれないって」
「あれはもう、半年近く前の話でしょう。もう、役に立たないわ」
「リアには、結界を張ることはできないの?」
リアは首を振った。
「わたしはアデプトじゃないの。初歩の初歩を知ってるだけよ。ソング博士は学者だけど、実践面には弱いし、それはマーカスも同じ。こうなると確かに、さおりが一番、頼りになるかもしれないわね」
「よしてよ」
さおりは急に心細くなった。自分の意識をうまくコントロールすることもできないのに、何ができるというのだろう。だが、リアは真顔で言った。
「本気で言ってるのよ。あなたの勘のよさは大したものだわ」
さおりは立ち上がった。
「とにかく、ぐるっと庭をまわって見てくる。そのスープ、全部片付けるのよ」
さおりはサロンを抜けて庭へ出た。藤棚の下のテラスには、さっきまで昼休みの受講者たちがかたまっておしゃべりしていたが、もう誰もいなかった。ホールで、午後のヨガのクラスが始まったのだろう。
さおりは、イシスの園の庭を見まわした。ばらとアイリスの植え込みの間を縫って、白い小石に縁取られた小道が、うねうねと、蛇のようにうねりながら下ってゆく。午後の陽射しを浴びて、白い小石が光るようだった。スーッと風が吹きぬけると、レモンの花の香りが漂ってくる。ばらは根元まで切り詰められて、裸の枝をむき出しだが、あちこちに黄水仙が島のように植え込まれ、黄色い杯を風に揺らしている。その根元に、雪のように白いアリッサムが、こんもりと花を咲かせている。また風が吹きすぎて、頭上の藤棚から下げられた、白い薄い貝殻をつなげて作った風鈴がチリチリと、可憐な音をたてた。ハミングバードがついと目の前を横切って、黄水仙の群れの方に飛んで行った。どこかで、ぽーぽーと鳩の鳴く声が聞こえる。なにもかも平和で静かだった。ここに、何か変なものが入り込んでるなんて、信じられない気がする。
さおりはとりあえず、小道を下って池の方に向かった。イシスの園の敷地は、北に向かって傾斜していて、一番底に当たる部分に、大きな池があった。夏から秋にかけては、睡蓮の花が、色とりどりのティーカップを浮かべたように咲いていて見事なのだが、今は花もなく、水際の葦の茂みも茶色く枯れていて、淋しい風情だった。
さおりは水際に立って、静かな池の面を眺めた。深いエメラルドグリーンの池の面に、さおり自身の姿が映っている。池の中をのぞきこんでみたが、陽の光りが反射して何も見えない。しばらくそこに立っていたが、なにも変わったことはなかった。魚一匹、蛙一匹現われなかった。さおりはばかばかしくなった。大体、マーメイドなんかいるはずがないのだ。アライグマを見まちがえたのだという、マーカスの意見に賛成したくなった。
だが、それでもとにかく、夫人がドリアードを見たという、白樺の林の方に向かった。池のところで道は二つに分かれている。左手に行くと、野菜畑に薬草園、右手に行くと、道は白樺の林に入る。さおりは右手の道をとった。
夏になると、林の中は、緑のベールにすっぽりおおわれたように、昼でも薄暗くなる。だが、今は、白樺の木はすっかり葉をおとして、細い枝を、寒そうに、青い空に向かってのばしていた。さおりは、明るい陽のさしこむ小道を通って、難なく林を抜けると、石畳のテラスについた。中央に、細いくちばしを持った石の水鳥の像を飾った噴水がある。水は今は止めてあった。反対側に、白いペンキを塗った、木製のあずまや。透がいつも、本を枕代わりに積み上げては、昼寝をしていたところだ。さおりはなかをのぞいてみた。もちろん、誰もいない。ここまで来る間も、さおりは油断なくあたりに気を配ってきたが、明るい林の中は、ドリアードはおろか、りすの子一匹いなかった。いなくて当たり前なのだ。さおりはあずまやにはいると、ベンチにこしかけた。それから、いつも透がやっていたように、ころんと横になると、あすまやの屋根と壁の隙間から見える、青い空を眺めた。静かだった。こうしていると眠くなるようだ。たしかに、昼寝にはいい場所だと、さおりはぼんやりと思った。
ふいに、誰かに見られているように感じて、さおりはとびおきた。素早くあたりに気を配ったが、しんとして、空気は動かない。だが、動かないその空気のなかに、何かがいるという感じが強くした。何かが近くにいる。こっちをじっと見つめている。
さおりはあずまやを出ると、石の噴水の側に立って、ぐるりを見まわした。「誰かいるの?」と、声をかけたが、林のなかはしんとしている。すっかり葉の落ちた白樺の林は見通しがよくきく。誰もいないのは、一目でわかる。白樺の幹は細い。人ひとりその後ろに隠れることはできない。第一、誰かいたのなら、地面に厚く積もった去年の枯葉が、教えてくれるはずだ。枯葉は、こそりとも音をたてなかった。
だが、誰かいるのだ。さおりの勘がそう教えている。そして、さおりの勘は狂ったことがない。もし、ひとでないとしたら、一体なにがいるというのだろう。さおりは目を閉じた。もし、何かの霊がいるとしたら、肉体の目を閉じた方が感知しやすい。さおりは目を閉じたまま、周囲の気配を感じ取ろうとした。何かがいるのが、はっきりとわかった。林の中だ。見ようとしたが、影のようにとらえどころのないそれは、すっと気配を消して、正体を現さない。ふいに、さおりは怖くなった。凶暴なものではない気がしたが、得体のしれない影が、じっとこちらをうかがっているのは、気味が悪い。さおりは、覚えたばかりのLBRPをやってみようと決心した。リアは言った。
「これはね、魔術師が行う、一番基本的な除霊の儀式なの。自分と自分のごく身近な周辺、普通は魔法円だけど、その周辺から、悪い影響を及ぼす一切の霊を遠ざける効果があるのよ」
LBRPには普通、短刀を使う。だが、短刀がなければ、右手の人差し指でもいいと、リアは言っていた。さおりは深呼吸をした。心を鎮めて、何も考えないようにする。心を真っ白にする。十字を切ると、人差し指で大きく五角形の星型を宙に描いた。神の名を念じながら、両手をまっすぐに星型の中央にさし伸ばす。青い星型が一瞬、光って見えた。さおりは続いて、三つの星型を同じように描き、守護の大天使を呼び出した。目を開けてぐるりを見まわすと、さっきの妙な気配は消えていた。さおりはほっとしたが、同時に漠然とした不満も感じた。さおりはひとつ、ひとつ、ていねいに星型を描き、天使を呼び出す。そしてそれはちゃんと効果をあらわすのだが、目を開けると、目を閉じていた時には見えていた、青い星型は消えているのだ。透の時は、こうではなかった。目を閉じなくても、さおりの目には、青い星が、炎をあげて空中に燃え上がるのが見えたのだ。あれは本当に美しかった。
さおりはため息をついた。「練習よ、さおり、練習」という、リアの声が聞こえるような気がする。「練習ね」さおりは声に出してつぶやくと、透がやったように、天を仰いで、さっと両手を上にあげた。とたんに、青い星が四つ、さおりの周囲に燃え上がった。さおりは驚きのあまり、キャッと声をあげてとびあがった。爆笑が響いた。青い星がすっと消えると、代わりに、さおりの目に、白樺の木にもたれて、腹を抱えて笑いころげている透の姿が映った。さおりは憤然として言った。
「今の、あなたね、透」
「うん、僕だ」
透は必死に笑いを抑えようとして、身体をほとんど二つに折っていた。目に涙をうかべている。さおりは腹をたてた。顔が赤くなるのがわかった。透に会うのは半年ぶりだ。去年の夏、さおりが巻き込まれた事件で、さおりを助けて、無事にイシスの園に送り届けてくれたのは透だ。それ以来、さおりはイシスの園のメンバーになって、ちょくちょくここを訪れながら、透の帰りを待っていたのだ。いいや、待ち焦がれていたのだ。だが、大事な事を忘れていた。透のこの性格、バナナの皮を見つけると、何が何でも人の足元に置かないと気のすまないこの性格を、さおりはすっかり忘れていたのだ。なんだって、こんなのに会いたいと思ったりしたのだろうと、さおりは自分に腹をたてていた。透はようやく笑いやむと、赤くなったさおりの顔を見て、「怒った?」と、心配そうに聞いた。さおりがぷいと横を向くと、まじめな顔であやまった。
「ごめんよ、さおり。LBRPは君のやり方でいいんだ。君はちゃんとできてるよ。僕の真似をしちゃだめだ。魔術師はね、ひとの真似をしてはいけないんだ。たとえ、君がどんなにその誰かを尊敬していてもだ」
さおりは馬鹿馬鹿しくなった。腹を立ててもしょうがない、これが透だ。
「いつ帰ってきたの?」
「ついさっき」
「みんなにはもう、会ったの?」
「まだだよ。ちょいと疲れたから、一眠りしようかなと思って、ここへ来たんだ。そしたら、誰かが、僕のあずまやで寝てるじゃないか。でも、君なら、ゆるしてやるよ、さおり。いい場所だろう? 今度、一緒に寝ようよ」
さおりは、これは無視した。母屋に向かって、ゆっくりと林を通り抜け、小道を登っていった。
「どこへ行っていたの?」
「あっちこっち」
典型的な透の答えだ。ちっとも変っていない。さおりは横目で透を見た。すらりとした細身で姿がいい。男には惜しいような、白い、きめの細かい肌、ウエーブのかかった長めの黒い髪、長いまつげが影を落とす、潤んだような黒い瞳、完璧な形の鼻、赤い感じやすそうな唇、対照的に強情そうなあごの線。どこへ行っていたにせよ、透は変っていなかった。よく知っているさおりでさえ、時に、はっと息をのむほど魅力的だ。だが、そのゴージャスな外見と同じく、内面の方も変っていないことを、さっき見せつけられたのだから、用心しなければと、さおりは心に鍵をかけた。
透の方も、ちらちらとさおりを見ていたらしい。「元気そうだね、さおり」と、おそまきながら、世間並みのあいさつを口にした。
「仕事はうまくいってる?」
「おかげさまで、順調よ」
「ふーん。今日は休みなの?」
「休みってわけじゃないんだけど」
さおりは口ごもった。ここに来たわけを思い出した。
「透、さっき、林の中にいたのは、あなただけよね?」
「僕だけだよ」
「あなたの他には、誰もいなかったのよね、つまり、その……」
さおりは言葉を捜した。
「何か、その、変なものの気配はなかった?」
透はそれこそ、変な顔をした。
「変なものってなに?」
さおりは、きのう、ソング夫人から電話をもらって、ここに来たわけを話した。
「ミーガンは確かに見たって言うし。わたしは半信半疑だったんだけど、リアは、何かが入り込んでるって言うのよ。でも、リアは病気だし」
「リアが病気?」
透はそっちの方が気になるようだった。
「どこが悪いの?」
「リアはただの風邪だって言うの。でも、この間の日曜日にも、立ちくらみをおこしたのよ。リアが誰にも言うなって言うから、黙ってたけど」
さおりは、つい口をすべらせたことに気がついて、付け加えた。透は心配そうに眉を寄せたが、あとでリアと話してみるよと、言った。
「それで、さっきのその、変なものだけど、それが最初に現われたのはいつ?」
「月曜日の夕方ですって。受講者のひとりが、庭を散歩してたら、目の前を、とんがり帽子のこびとがひょこひょこと横切っていったんですって」
「で、火曜日の午後にはドリアード、夜にはマーメイドか。面白いじゃないか」
「面白いどころじゃないわ。マーカスは、イシスの評判が悪くなるって、それは心配してるの。で、ミーガンが電話してきたのよ。わたし、庭でも、池でも何も感じなかった。さっき、あずまやにいたときだけ、何かいるって感じたのよ」
「うん、たいしたもんだよ、さおり。僕は姿を見せないようにしてたのに、君の勘はごまかせなかった」
「姿を見せないって。透明になる術があるの?」
「そんなものはないよ。魔術師が姿を見せたくない時は、ちょっとした儀式をやるんだ。これをやると、魔術師のまわりに、薄いエネルギーのシールドが張りめぐらされる。これには目くらましの効果があって、君は僕を見てるのに、それを僕として認識してないんだよ。そこにあって当然のもの、さっきだったら、白樺の木だと思ってるのさ。これは、結構、便利な術だよ。今度、教えてあげるよ」
ソング夫人は、透を見ると、目に涙を浮かべて抱きついた。それから、おなかはすいてないか、何か飲むか、身体の調子はいいのか、何かほしいものはないのかと、矢継ぎ早に質問を発し、透が、一眠りしたいと言うと、部屋の空気を入れ替えなくちゃ、と、叫んで、飛び出していった。博士は、ちょうど受講者への講義がすんで、食堂で一服していたところだったらしいが、疾風のように飛び出していった夫人をあきれたように見送っていた。それから、透の方に目を戻すと、上から下まで、確かめるように見て、うなずいた。
「おかえり、透」
透はめずらしく殊勝な顔をして、ちょっと頭を下げた。それだけで、あいさつはすんだらしい。博士は、机の上の本をとりあげると、食堂を出ていこうとした。その時、マーカスが入ってきて、あやうく、博士とはちあわせしそうになった。
「博士、お母さんはどうかしたんですか。何か、大騒ぎして走りまわってますけど」
そこでマーカスは透に気がついた。ぽかんと口をあけて、まじまじと透を見つめた。
「透が戻ってきたのさ。けんかするなよ」
博士はそう言って部屋を出ていった。
「ただいま、マーカス。元気そうだね」
透が言うと、マーカスの頬が赤くなった。
「帰るなら帰るって、何で電話一本寄こさないんだ」
透はにやりとした。
「思いつかなかった」
「どこ行ってたんだよ。大体、何も言わないで、あんなふうに飛び出していって、連絡ひとつよこさない。こっちがどれほど心配したと思ってるんだ」
「心配なんかしてくれなくていいよ」
「お前……」
まさに博士が予言したとおりに、けんかが始まりそうになったところに、うまい具合に夫人が飛び込んできた。
「透、お部屋の準備ができたわ。疲れてるんでしょう、ほら」
夫人が透の腕をひっぱり、透がこれ幸いとばかりに逃げ出そうとした。マーカスは不満顔で、夫人に文句を言った。
「お母さん、お母さんがそうやって甘やかすから、こいつがつけあがって、勝手ばかりするんですよ」
だが、今の夫人は聞く耳もたなかった。
「マーカス、透は帰ってきたばかりなのよ。お説教なら、あとにしなさい。ね、透、あなた少しやせたんじゃないの? ちゃんとご飯食べていたの?」
だが、透は敷居ぎわで、ひょいと振り返ってマーカスを見た。
「あとでな、マーカス」
マーカスは答えなかった。透をじろりとにらんだだけだったが、夫人が透を連れて出て行くと、ふいに、にやっと笑って、口笛を吹き始めた。が、さおりと目が会うと、ぴたりと止めて、せきばらいをした。
「ああ、さおりさん。なにか変ったことはありましたか?」
第五章 一角獣
夕食後、ソング博士夫妻とマーカス、透、さおり、それに、リアは、サロンを受講者たちに譲って、食堂で、リアがいれたハーブティーを飲んでいた。リアは無理に起きてきたのだ。顔色が悪いから寝てろ、と言われたのだが、きかなかった。テーブルの中央に、緑と紫のブドウを山のように積み上げたガラスのボールが置いてある。透は時折、ブドウを一粒づつ、ちぎっては口に放り込んでいる。電話一本寄こせば、ちゃんと好きなものを用意しておいたのに、と、ソング夫人がぶつぶつ文句を言い、夕食をキャンセルして眠っていた透は、これで充分ですと言って、さっきからせっせとブドウを腹に詰め込んでいた。
「結界はさっき見てきましたよ」
透はブドウをまたひとつ、口に放り込んで言った。
「もうこれ以上、変な霊は入ってこれないでしょう。でも、同時に今、入り込んでいる霊も、外へは出られません」
夫人は眉をひそめた。
「透、じゃあ、本当に、何かいると思うの?」
透は首をかしげた。
「白樺の林にはね、神に誓って、霊も天使も悪魔もいませんでした。他はわかりません。僕はまだ、全部見てまわったわけじゃないから」
「だが、そんなことってありうるのかい?」
マーカスが言った。
「ノームにドリアードにマーメイド。おとぎ話か、神話にしか出てこないものじゃないか。現実には存在しないものだろう?」
「存在するよ」
ソング博士が穏やかに口をはさんだ。
「人間の想像力が作り出したものならば、何でも存在しうる。特にそれが、長い間、大勢の人間に信じられていれば、その存在はより強い力をもつ。早い話、一番強い力を持っている空想の産物って、何だかわかるかね?」
マーカスは首を振った。
「神だよ」
透が言った。
「神が存在するなら、マーメイドも存在する。同じ理屈さ。呼び出し方さえ知っていれば、この世界に呼び出せるよ」
「すると」とリアが話を戻した。
「誰かがマーメイドを呼び出して、ここへ送り込んだとして、誰がそんなことするのかしら? 第一、何のために?」
その時、バタバタと廊下を走る音がして、受講者の女の子が一人、食堂に入ってきた。二十歳くらいの金髪の女の子で、さおりはどことなく、見覚えがあるような気がした。前にバザーか何かで顔をあわせたことがあったのかもしれない。女の子は、息せききって飛び込んできたものの、さおり達がテーブルにすわっているのを見ると、困ったように、すみませんと言った。「いいんだよ、アンジェラ」と、博士が安心させるように言った。
「どうしたんだい」
「あの…」
アンジェラは口ごもった。おびえたようにあたりを見まわして、小さな声で言った。
「駐車場に、ユニコーンがいました」
リアは、アンジェラを椅子にすわらせて、お茶をいれてやった。一口お茶を飲むと、少し落ち着いたようだった。アンジェラの話は簡単だった。今夜は冷えるので、車に置いてきたセーターを取りに行った。トランクからセーターをひっぱり出してはおった。その時は、誓って、あたりには誰もいなかった。もっとも、駐車場のライトはぼんやりしたものだから、もし誰かが、車の陰にかくれていたら、わからなかったかもしれない、と、アンジェラは言った。とにかく、トランクのふたを閉めた時、アンジェラはなんとなく、変な気配を後ろに感じた。何かがいるという感じが強くして、ぞっとした。おそるおそる振り返ってみると、そこに、ユニコーンが立っていた。
「ポニーぐらいの大きさで、白くて、頭に青い角が一本、生えてました。絵本で見たとおりのユニコーンでした」
ユニコーンは何もしなかった。ただ、その大きな瞳で、アンジェラを見つめているだけだ。白い尻尾をさっさっと左右に振っていたのをアンジェラは覚えている。アンジェラの方は、驚きのあまり、声も出なかった。ただ、呆然とユニコーンを見つめていた。ユニコーンはしばらくアンジェラを見ていたが、ふいに、きびすを返して、アンジェラから離れていった。ひづめがコンクリートにあたる、カツカツという音を、アンジェラは聞いた。ユニコーンは、しずしずと、イシスの園の庭のほうに入っていき、姿が見えなくなった。その時になってようやく、アンジェラは身動きができるようになって、まっすぐ、ここへ来たのだという。
「怖くはなかった?」
リアが尋ねると、アンジェラは首を振った。
「恐ろしい、という気持ちは全然ありませんでした。危害を加えられるとか、そういう感じは全然しませんでした。ただ、今は……。わたし、頭がどうかしちゃったんじゃないかと思うと、怖くて……」
「大丈夫だよ、アンジェラ。君はなんともない。少し、話をしようか」
博士が言って、アンジェラを連れて、食堂を出ていった。
「今度はユニコーンか。次はなんだ?」
透が面白そうに言った。
「笑い事じゃすまないんだぞ、透。あの子はおびえてたよ」
マーカスが言って、透をにらんだ。さおりが聞いた。
「あの子、前に見たことあるように思うけど」
「アンジェラはここの古いメンバーの娘さんよ。小学生の頃から、ちょくちょくここに来てるの。まじめないい子よ。きのう、マーメイドを見たのも、あの子なの」
リアが答えた。
「アンジェラは、今は驚いているけれど、博士がじっくり話をすれば、落ち着くと思うのよ。でも、こんなことが続いて他の受講者におこったら、騒ぎになりかねないわ。いつかみたいに、警察でも呼ばれたら、厄介だわ」
夫人が困りきった声で言った。
「警察が来たことがあるんですか?」
さおりが驚いて尋ねると、夫人がうなずいた。
「何年も前のことだけどね」
「何があったの?」
夫人はちらりと透の方を見て、何も言わなかった。かわって、マーカスが答えた。
「真っ昼間、イシスの園の屋根の上に、悪魔がすわってたんだ。真っ黒なこうもりの翼が背中に生えていて、額に角のある、人が想像するとおりの悪魔がさ。まずいことに、そいつをたまたま通りかかった車の中から見たやつがいて、友人知人に携帯で知らせた。大勢の人が集まってきて、大騒ぎになった。そのうち、誰かが警察に通報したらしくて、ポリスカーまですっとんできた。なんとかいいわけして、お帰りねがったけど、新聞だねになるんじゃないかと、ひやひやしたよ」
リアが吹き出しそうな顔をした。
「何ていいわけしたの?」
「ハロウィーンの劇の練習だって言ったんだ。真夏の話だよ。冷や汗かいたよ」
「でも、本当は?」
さおりが笑いをこらえて言った。マーカスが声を張り上げた。
「誰かが、悪魔を呼び出したはいいけれど、逃がしちまったんだ」
透が憤然として言った。
「僕はちょっとコントロールを失っただけだ。もう、あんなへまはしない」
「あたりまえだ。そうそう、あんな騒ぎをおこされてたまるか」
ソング夫人が笑い出した。
「そう言えば、前にも、ユニコーンがいたことあったわ。ねえ、透」
透はそっぽを向いた。リアが面白そうに言った。
「透がやったの?」
「朝、いつまでも降りてこないから、起こしに行ったのよ。ところが、ドアを開けたら透はいなくて、ユニコーンがベッドにすわって、こっちを見てるじゃないの。アンジェラが言ってたとおり、ポニーぐらいの大きさの白い馬で、角は、こっちのは金色だったわ」
「で、どうしたんですか?」
「あなたなら、どうする? もちろん、仰天して悲鳴をあげたわよ。ユニコーンはベッドから飛び降りると、窓を破って外へ飛び出していったわ」
「その後が大変だったんだ」
マーカスが続けた。
「僕と博士とで、お母さんをベッドに入れて、鎮静剤を飲ませた。ユニコーンのやつは、白樺の林を駆け回ってるところを、長老が見つけて片づけた。透のやつは、ベッドの下に隠れていた。僕が引きずり出して、長老に引き渡したんだ」
「で、どうなったの?」
さおりが聞くと、透がむっとした顔で言った。
「ひっぱたかれて、穴倉に放りこまれたよ」
「穴倉…」
「自業自得だよ」
マーカスが言った。ふいに、笑っていたソング夫人が真顔になった。
「透。まさか、これ、みんなあなたのジョークじゃないでしょうね?」
マーカスとリアも、笑うのをやめて、顔を見合わせた。さおりもまさかと思ったが、たしかに、透のやりそうなジョークではあるのだ。部屋の中が、しん、とした。透はとびあがった。
「僕は何もしてないよ」
ソング夫人が、まだ、疑わしそうに言った。
「本当に?」
「やってない。僕じゃないよ。僕は今日、帰ってきたばかりだよ。誓うよ」
リアが言った。
「じゃあ、誰が」
「知るもんか」
ソング博士が入ってきた。
「アンジェラは落ち着いたよ。気がおかしくなって幻覚を見たわけじゃないってことを納得した。だが、こんなことが何度もおこるようでは困るな。透、なんとかできないかね?」
透は疑われたことで、まだ、すねたような顔をしていたが、博士にたてつく気はないらしかった。
「マーカス、今回のセミナーの受講者名簿を見せてくれないか」
マーカスは黙って立ち上がると、食堂を出ていった。
「受講者の一人だって思うの?」
さおりが尋ねた。
「可能性はあるだろう?」
マーカスは、薄いファイルを手にして戻ってきた。
「申込書のファイルだ。今回の受講者は十人。うち二人は、以前のセミナーに参加したことがある」
透はぱらぱらとページをめくっていたが、やがてパタンと閉じた。
「借りとくよ。あとは明日だ。僕は眠くなった」
リアが時計を見た。
「そろそろ、消灯時間ね。サロンに行って、そう言ってくるわ」
マーカスが立ち上がった。
「僕が行く。君ももう寝ろよ。顔色悪いぞ」
さおりが後片付けを引き受けて、博士夫妻も寝室に引き取った。
透は、さおりがテーブルを片付けているのを見ていた。
「さおりは今、ここに滞在してるの?」
「このセミナーの間だけね」
ふーん、と言って、透はにっと笑った。
「何よ」
「何でもない」
「そこで、ぼっとしてるなら、手伝ってよ」
さおりがつんけんして言うと、透は意外なほど素直に、皿洗いを手伝った。
「ありがとう」
さおりが手をふきながら言うと、「どういたしまして」と言って部屋を出ていこうとした。
「ちょっと待って」
さおりは思い出して、ポケットに手をつっこんだ。
「何? ごほうびくれるの?」
「違うわよ。これ」
さおりはポケットから、白いムーンストーンに、銀の鎖のついたアムレットをひっぱり出した。透の目が丸くなった。透が大事にして、肌身はなさず身につけていた魔よけのアムレット。ここの長老が作って、透に与えたものだという。それを、透は、去年の夏、命びろいしたかわりに、失っていた。
「去年、海岸で拾ったのよ。あなたに渡そうと思ってたんだけど、忘れちゃって。だから、戻ってくるまで待ってたのよ」
透はアムレットを受け取ると、石の縁に彫りこんである文字とシンボルを丹念に見た。それから片手で石を軽く握った。手を開くと、石の色は乳白色から、鮮やかなオレンジ色に変った。透は満足そうに、鎖を首にかけると、石をシャツの下に押し込んだ。
「もう、戻ってこないと思っていたよ。ありがとう」
透はさおりの頬に軽くキスした。
「どういたしまして」
さおりは言ったものの、なんとなく、物足りなかった。透の顔に微笑がひろがった。
「お礼が足りない?」
さおりは赤くなった。
「そんなことないわ。見つかってよかったわよ」
さおりは透に背を向けて、カウンターの上をふきんでふきはじめた。透はくすくすと笑った。
「こっち向けよ、さおり」
さおりがしぶしぶ向き直ると、透はさおりの目をのぞきこんだ。
「やっぱり君は特別だよ、さおり。他の人には、見つけられなかったよ」
「偶然でしょう?」
「まだわからないの? 偶然なんて、世の中にはないんだ」
透はさおりの身体を引き寄せると、今度は唇にキスした。さおりは頭の中が真っ白になったような気がした。自分の心臓の鼓動が耳に響く。気が遠くなって、あわてて透にしがみついた。マーカスが、入り口から頭をのぞかせた。
「おい、透。おっと失礼」
透はさおりから身体を離すと、「おやすみ」と言ってファイルを取り上げた。ドアのところで、ふと、思いついたように振り返った。
「さおり、君、朝早く起きられる?」
返事を待たずに、透はファイルを持って出て行った。
第六章 火竜
さおりは誰かに名前を呼ばれたように思って目がさめた。イシスの園のさおりの部屋は、まだ薄暗いが、窓からぼんやりとさしこむ明りで、机と洋服ダンスがはっきり見分けられる。そろそろ陽が昇ろうとしているのだろう。枕元の時計を見た。五時少し前。さおりははっとした。きのう、透が、「朝早く起きられるかい」と、謎をかけたのを思い出したのだ。起き上がって窓から下をのぞくと、テラスの前の小道に透が立っていて、降りて来いという身振りをした。さおりはうなずくと、大急ぎでジーンズとセーターに着替えた。スニーカーをはいて、そっと階段をおりた。建物の中はまだ、しんとして寝静まっている。
さおりが庭へ出ると、透はテラスの庭椅子にすわって待っていた。
「上等だ、さおり。今回は窓ガラスを破らなくても目がさめたね」
「この前だって、ガラスが破れる前に目がさめたわ。ドアをノックするとか、もう少しまっとうな手段が使えないの?」
「この方が早い。こっち来て」
透はさおりの手をひっぱって、玄関口のほうに向かった。正門から庭にはいる小道に、スタージャスミンのからんだ見事なアーチがある。スタージャスミンは常緑で、冬でも緑の葉を厚く茂らせていた。透とさおりはその陰に身をひそめた。
「もうすぐ陽が昇るだろう。そうしたら受講者が、ガーデニングに出てくる。容疑者は、多分、一番最初に出てくるよ」
「それで、こんなに朝早く起きたの? ねぼすけのあなたが」
「疑われてちゃ、かなわないからさ」
さおりはフフフと笑った。
「なんだよ」
「前科があると、つらいってとこね」
「怒るぞ、さおり」
「誰だか、見当はついているの?」
「大体はね」
「誰?」
「多分、一番若いやつだよ」
「どうして?」
「ユニコーンだよ。マーメイドやノームと違って、ユニコーンには伝説の上で、はっきりした特徴があるんだ。わかるかい?」
さおりは首を振った。
「ユニコーンはイノセントの象徴なんだ。無垢なるものさ。けがれた者は、ユニコーンに触れることはおろか、近づくこともできない。だから、ユニコーンの世話ができるのは、少年と処女だけに限られているんだ」
透はちらりとさおりを見た。
「君も失格さ、さおり」
さおりは赤くなった。
「でも、あなたはユニコーンを呼び出したことがあるんでしょう?」
「僕は八歳だった」
金色の光りがさっと庭にさしこんできた。日の出だ。庭に渦巻いていた白いもやが、みるみるうちに晴れ上がって、黒と灰色だった世界が、色彩を取り戻す。小鳥のさえずりがあちこちで聞こえはじめる。さおりは、東の空に、見事なオレンジ色の太陽をみとめた。
透は、太陽に向かって両手をさし上げると、口の中でなにかつぶやいた。
「君もラーに挨拶しろよ」
「ラーって?」
「エジプトの太陽神」
「何て言えばいいの?」
「ラーよ、我らが生命のみなもとよ、夜の庭より、そなたにあいさつを送る。昇る朝日の力を受けて光り輝くラーよ、天を渡るそなたの船に、栄光あれ」
さおりは透に言われたとおり、両手をさしあげると、朝日に挨拶した。そういえば、さおりのおじいさんは、朝起きると、まず、朝日を拝んだものだった。小さかったさおりも、一緒になって手を合わせた。
「見ろよ、誰か出てきた」
サロンのフランス窓を開けて、青い野球帽をかぶった男の子が出てきた。男の子は、まず昇る太陽に向かって、両手を合わせた。それから、小道を池の方に向かって下っていった。透とさおりは、足音をしのばせて、後からついていった。池のふちまでくると、男の子は、ポケットから、小さなガラス瓶を取り出した。ガラス瓶のふたをあけると、中から白いもやのようなものが現われた。男の子がもやに向かって何か言うと、白いもやは徐々にかたまって、なにかの形になっていく。もやが完全に消えた時、そこには、薄い透明な羽根を二枚、背中に生やした、小さなフェアリーがいた。さおりが絵本で見たとおりのフェアリー。冠をかぶって、ふんわりとしたスカートをはいている。フェアリーは、池の周辺を飛び回り、男の子はそれを嬉しそうに見ていた。
透がくすっと押し殺した笑い声をたてた。右手の人差し指をひょいと立てると、指先に、ぽっと小さな炎がともった。透がなにか口のなかでつぶやくと、炎の中に小さなドラゴンの形をした生き物が現われた。サラマンダーは、炎のなかから飛び出すと、空中を、赤い線を引いて走り、フェアリーに襲いかかった。「あっ」と、男の子が叫んだ。フェアリーはあわてて逃げようとしたが、サラマンダーは素早く追いついた。フェアリーの姿が炎に包まれたと見ると、白い蒸気になって消えてしまった。男の子は泣き出しそうな顔になった。
「透。なにもここまでしなくたって」
さおりが振り返って透を見た。サラマンダーは透の指先にもどると、そこで消えた。透はゆっくりと男の子に近づいた。
「お遊びはおしまいだよ、坊や」
男の子は振り返って、怯えたように透を見た。あっとさおりは思い出した。どこかで見たと思ったが、桜祭りで会ったのだ。さおりは透を追い抜いて、男の子に近づいた。
「隆史君、隆史君よね、覚えてる?」
「さおりさん」
隆史も、びっくりしたような声を出した。透がさおりを見た。
「知り合い?」
「桜祭りの時に会ったのよ」
「あの時は、どうもありがとうございました」
さおりは一瞬、なんでお礼を言われるのかわからなかった。隆史が言った。
「アイスクリーム」
「ああ、あれ。あんなこといいのよ」
さおりは笑った。けげんそうな顔をして見ている透に説明した。
「隆史君がアイスクリームを地面に落としたから、新しく買ってあげたのよ」
透がにやにやした。
「妬けるね。僕はさおりに、アイスクリームおごってもらったことなんかないよ」
「透」
さおりが言うと、うつむいていた隆史が顔をあげて、まじまじと透を見た。
「透? 東野透?」
透の目が光った。
「そうだ。お前は?」
隆史は、にっこりした。
「よろしく、ムーンチャイルド。僕は長尾隆史。サンチャイルド」
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