祭壇の上に置かれた香炉から、灰色の煙が細くゆらゆらと立ち昇っている。シーダーの強い香りが部屋一杯に広がっていく。黒いローブを身にまとった魔術師は、呪文の言葉をつぶやきながら、右手に持ったワンドで、宙にいくつかのシンボルを描いた。シンボルは一瞬赤く、あるいは青く光って消えていく。香の匂いがさらに強くなり、煙が渦を巻くように見える。その灰色の煙の中から、ぼんやりとした黒い人影が四つ、歩み出てくると、魔法円の周囲を取り囲むように立った。黒いフードに包まれた顔は見えない。だが見えたとしても、人はその顔を見たいとは思わないだろう。魔術師は見ようとはしなかった。見なくても、魔術師には彼らが何者かわかっている。
監視人。
虚空の彼方から呼び出されてきた魔法円の番人だ。監視人は幅広の抜き身の剣を持っている。魔術師がうなずくと、その剣を地面に突き立てた。魔術師は両手を天に掲げて一声高く叫んだ。窓から差し込む月光がひときわ強くなったと思うと、灰色の香の煙の中に大きな石の階段が現われた。魔術師は石の階段を登ると、彼方の暗黒の中に消えて行った。
どれほど時がたったろう。強い香の煙の中、監視人は自身が石になったように身じろぎもせず立ちつくしている。彼らにとっては時など存在しないのかもしれない。南の空に見えていた半月が東の空にまわった頃、魔術師はようやく戻ってきた。石の階段を降りてくると、魔法円の中央に立ち、ワンドで宙にシンボルを描く。石の階段は煙の中に溶けるように消えて行った。ついで、魔術師は祭壇に近づくと、細いナイフを取り上げた。黒いローブの袖を捲り上げると、左の二の腕の内側を、鋭い刃で傷つけた。見る見るうちに赤い血が噴き出してくる。円の周囲を取り囲んだ監視人はこの時、初めて動きを見せた。落ち着かなげに円の周囲を歩きまわり、ハアハアと、あえぐような呼吸の音をたてる。魔術師は血の流れ出る左腕を、祭壇の上に置いてある円形の金属板の上に差し出した。金属板には、渦を巻くような曲線と直線で構成された複雑な模様が彫りこんである。血は金属板の上にポタポタと滴り落ち、監視人の動きはせわしさを増した。金属板がすっかり血で覆われると、魔術師はワンドで金属板の上にシンボルを描き、呪文をつぶやいた。とたんに四つの黒い人影は、灰色の煙の中に吸い込まれるように消えていった。
魔術師はため息をつくと、初めて魔法円の外に出て電灯のスイッチを入れた。人工の明かりがつくと、薄暗かった部屋の中が眩しいほど明るくなる。魔術師は部屋の隅のデスクの引き出しから、赤十字のマークのついた箱を取り出すと蓋を開けた。消毒綿で丁寧に左腕の傷口をぬぐうと、ガーゼで押さえ、包帯を巻いていく。慣れた手つきだ。手当てがすむと、救急箱を元に戻し、魔法円の周囲に立ててあったろうそくをひとつひとつ消していった。いつも思うことだが、と魔術師はろうそくの炎の上に金属のキャップをかぶせて消していきながら思った。電灯の眩しい光の下では、ろうそくの炎はなんと弱々しく、頼りなく見えることか。だが、外見ほどあてにならぬものはない。闇の中、人工の明かりを知らない暗黒の世界で、サラマンダーの力がいかに強いか、知らない魔術師はいない。
ろうそくを消し、香炉に蓋をすると、魔術師は床にチョークで描いた魔法円を丁寧に布で消し取った。黒いローブを脱ぐと、木綿のシャツにブルージーンズに着替え、祭壇の方にちらりと目をやった。これはこのままにしておこう。明日の朝、片付ければいい。今夜は少々遅くなった。窓のブラインドを閉めて月光を閉め出し、明かりを消すと、部屋の中は真っ暗になった。魔術師は廊下に出ると、ドアに鍵をかけた。二度、ノブを回してみて、確実に鍵がかかったことを確かめると―彼は慎重な性格なのだ。魔術師はそうでなくてはならない―廊下を居間の方へ向かった。
居間のドアを開けると、明るい電灯の光が薄暗がりに慣れた魔術師の目を撃った。クリーム色のじゅうたんを敷き詰めた床。片側に暖炉。クリスマスになると火を入れるが、六月の今は灰をすっかり掃き出して、金属製の細かい網目の入ったスクリーンでカバーしてある。マントルピースの上には、お決まりの家族、友人の写真。庭に向いた窓の反対側に、この間買った、ワイドスクリーンのテレビ。その前に、低いコーヒーテーブルと、すわり心地のいい安楽椅子、クッションを一杯にのせたソファ。広くはないが、こじんまりとした気持ちのいい部屋だ。ソファにすわって、母親に絵本を読んでもらっていた娘が顔をあげた。
「ダディ!」
飛び上がってこっちへ走ってくると、目ざとく腕の包帯を見つけて叫んだ。
「ダディ、痛い痛いしたの? マミィ、ダディが痛い痛いしてる!」
魔術師の左腕を見て、妻が気遣わしげに、ちょっと眉をひそめた。魔術師が安心させるように言った。
「大丈夫だよ。もう、ちっとも痛くないんだ。ちゃんとお薬も塗ったからね」
「そう」
娘はやや残念そうに言った。
「ダディ、この次痛い痛いしたら、ありさがバンドエイド貼ってあげるからね」
娘は期待するように言った。
「うん。その時は、ありさにお願いするよ」
魔術師はそう言ったものの、娘が愛用している、白雪姫やシンデレラの絵のついているバンドエイドを思い出して、あまり嬉しくはなかった。あれは御免こうむりたい。だが、娘はそれで満足したらしく、おとなしく魔術師に抱き上げられた。魔術師は安楽椅子に腰を下ろすと、「何を読んでいたんだい?」と娘に聞いた。娘は父親の膝から滑り降りると、母親の手から絵本を受け取って、また父親の膝の上によじ登った。
「これね、今日、ミセス・トンプソンからもらってきたの」
ミセス・トンプソンは、ありさの通っている幼稚園の先生だ。
「世界中が水で一杯になった時、神様が大きなお舟を作って、キリンさんやゾウさんを乗せてあげるお話なの」
娘はページをめくって、父親に舟を見せた。
「お馬さんもライオンも、猫も、みんな舟に乗ってるの。ミセス・トンプソンはね、神様はとっても優しいから、泳げない動物はみんな、お舟に乗せてあげたのですって」
「そう、それは親切な神様だね」
魔術師が言うと、娘はこくりとうなずいた。
「あのね、ダディ。ケイティが今度、お舟に乗るんだって」
「ケイティって誰だい? 幼稚園のお友達かい?」
「うん、ケイティのダディとマミィとお兄ちゃんと一緒に、お舟に乗って海のずっと向こうの島へ行くんだって。そこではみんな、木の小屋に住んでいて、お料理は外でして、夜は袋のなかで寝るんだって」
「キャンプか」
「うん、キャンプ。そう言ってた。ねえ、ダディ、ありさもお舟に乗ってみたい」
魔術師はちょっと考えた。
「そうだな、乗れるかもしれないな」
「本当!」
娘が歓声をあげると同時に、「ランス!」と妻が警告するように口をはさんだ。魔術師は素早く妻に目くばせを送った。
「でもまず、マミィと相談しないとね。ダディもお仕事が忙しいから。さ、もう、おやすみなさいの時間だろう?」
妻が娘と部屋を出て行くと、魔術師はテレビのスイッチを入れた。何回かチャンネルを切り換えて、ニュースをやっている局を探し出すと、安楽椅子に深く身体を沈めた。ブッシュがイラクについてまた何か言っている。選挙が近いのだ。ガソリンの値段はこれから夏に向けて、ますます上がりそうだという。やれやれだ。ハイスクールでまた発砲事件。公立校がここまで荒れてくると、ありさを私立学校へ入れることを考えなきゃならないな。まあ、まだ先の話だ。いや、そうでもない。あの子は今四つだ。二年後には小学校へ入る。後で妻の考えを聞いてみよう。
テレビにきれいな渓流の絵が現われた。切り立った崖の間を流れる細い川を色とりどりのカヌーが下っていく。レポーターが現われて、このシャノン川上流のキャンプ場、キャンプ・ジョーンズの閉鎖が大きな社会問題になっていることを伝えた。カヌーによる川下りの基地として人気のあったキャンプ・ジョーンズは五年前の大規模な山火事の際に、丸焼けになった。その後、再建計画が持ち上がったが、国立公園の管理局は、山火事の危険と、自然保護の両方の観点から、許可しなかった。再建派はあきらめず、今年になって、ついに再建許可を取りつけた。自然保護団体は猛反発し、争いはさらに激しさを増している。レポーターの背後に再び一団のカヌーが現われて、歓声をあげながら川を下っていった。お舟に乗りたい、か。もう少し流れの穏やかなところがあれば。
「一体、どういうつもりなんですか?」
娘を寝かしつけた妻が戻ってきた。ソファにすわると、夫に向かって顔をしかめてみせる。
「ありさはこれから毎日、いつキャンプに行くのかって聞きますよ。できもしないことを四歳の子供に言うなんて」
魔術師はさえぎった。
「できないとは限らないだろう?」
妻は目をむいた。
「そんなお金がどこにあるんですか? この夏は屋根を直すって計画だったじゃありませんか。それに、あなたの車だって、そろそろ買い換えることを考えないと」
「一週間、森の中のログキャビンで、のんびり川を眺めて暮らす。いいと思わないか。ありさも喜ぶだろう」
「そりゃ、わたしだって、少しのんびりしたいですよ。でも…」
「金のなる木を見つけたんだよ」
魔術師は秘密めかして小声でささやいた。妻が疑わしそうに夫の顔を見ると、安心させるようにうなずいてみせた。
「金のなる木というより、金の卵を産むガチョウかな。今かかってる仕事のことさ。かなり大きな仕事になる。キャンプの費用に屋根の修理費ぐらい、どうにでもなる」
正直言って、妻には夫の仕事のことはよくわからなかった。だが、夫がこうなると言って、その通りにならなかったことはないのだ。妻は魔術師の包帯をした左腕を見た。
「あなたが無理しなければ、それはいいのですけれど」
魔術師は笑った。
「寝袋を買っておけよ」
さおりは、LAジャーナルの編集部で、編集長の吉岡の現われるのを待っていた。さおりは二十五歳。大学卒業後、ロサンゼルスでフリーランスのジャーナリストとして働いている。LAジャーナルは、さおりがよく記事を書く日本語情報誌で、編集長の吉岡は、さおりのカレッジの先輩。三年前まで、婚約者でもあった。その後二人は婚約を解消したが、仕事上の関係はいまでも続いている。
「や、待たせて悪かった。会議が長引いたもんだから」
ようやく現われた吉岡は、極彩色のオウムの絵のついたアロハシャツを着ていた。さおりは目をそらした。心の中でひそかにうめき声をあげた。吉岡は悪くないルックスの男だ。二人が婚約していた頃、一緒に歩いていて、さおりは誇らしかった。知性の方も、これは申し分ないというより、抜群だ。だが、ファッションセンスとなると最悪だった。もちろん、二人の婚約時代に、さおりはこの点の改善を試みた。が、失敗した。このシャツを見る限り、さおり以後のガールフレンドたちも、軒並みに枕を並べて討ち死にしているらしい。わたしだけじゃないのだ、とさおりは自分を慰めた。赤と緑の羽毛を逆立てた巨大なオウムを胸に貼り付けた吉岡は、さおりの批判的なまなざしにはお構いなく、どすんと椅子に腰をおろすと、眼鏡を取ってくるくると回した。
「この間のウォーターパークのライフガードのインタビュー、面白かったよ。どんな仕事でも、それでめしを食っていくってのは楽じゃないな。身につまされたよ」
「それはどうも」
「水野は時々思わないか? なんでこんな仕事してるんだろうって」
「好きだからじゃないですか?」
「そこさ。何を好き好んで、こんなヤクザな世界に足を突っ込んだんだろうな。まあいい。次の仕事なんだが、国際結婚特集をやることにした」
「国際結婚、ですか?」
さおりはちょっと顔をしかめた。散々使い古されたテーマではないか。吉岡はにやにやした。
「何を今さらって、思ってるんだろう? コミュニケーションの困難、異文化間の摩擦、煩雑な法手続き。うちでもやったし、他誌でも何回も扱われてる。新味も興味もあったもんじゃないって」
「まあ、はっきり言えば、そうです」
「今回のはちょっと切り口が違うんだ。いろんな職業の人と国際結婚した人を集めてみる。日本から来た寿司シェフと結婚したアメリカ人の女の子とか、ハリウッドで殺陣師をやってる日本人と結婚した、中国人の奥様とかね。もちろん、それほど特殊じゃない職業の人もインタビューする。日本語の先生と結婚したインドネシアの女の子とか、長距離トラックの運転手をやってるアメリカ人と結婚した日本人の女の子とか。どうだい? 少しは興味出てきたろう?」
まあ、それなら…とさおりは思った。
「で、わたしは誰を担当するんですか?」
「水野には特別、面白そうなのをとっといてやった。アメリカ人魔術師と結婚している日本人の奥様さ」
さおりの口がポカンとあいた。吉岡は得意そうに、眼鏡をとってくるくると回した。やがて、さおりは気を取り直した。もちろん、吉岡が言っているのは奇術師のことに違いない。ステージに出て、シルクハットの中からうさぎを出して見せたり、観客のひいたトランプのナンバーをあてたりする……。だが、吉岡は首を振った。
「正真正銘の魔術師だよ。黒いローブを着て、床に円を描いて、悪魔を呼び出したり、魔法の媚薬を作ったりするあれさ」
「そんな人、存在するんですか?」
さおりはもちろん、そんな人が存在することは知っていたが―何人かそんな人を直接知ってさえいたが―日本女性と国際結婚するほど、普通の、正常な、社会的常識を備えた魔術師というものは想像できなかった。さおりの知り合った魔術師は皆、およそ常識とはかけ離れた世界に住む人々だったのだ。だが、魔術師に知り合いのいない吉岡は、さおりの言葉を文字通りに受け取った。
「うん、俺も最初に聞いた時には驚いたよ。まるで、中世の世界から抜け出したような話じゃないか。でも考えてみれば、ヴードーの呪術師は今でも存在するし、日本のイタコの口寄せの例もある。魔術師がいたって不思議じゃないんだな」
「どこでお知り合いになられたんですか?」
「俺も会ったことはないんだ。知り合いに聞いてね。これは面白いと思ったから、電話してみたんだ。向こうは最初はしぶってたけど、何回か電話して、ようやく会ってくれることになったんだ。電話の印象じゃ、おとなしい感じの奥様だよ。水野、いじめるなよ」
「まさか。でも、その、吉岡さんのお知り合いの方っていうのは、どこでその魔術師に会ったんですか?吉岡さんの情報を疑うわけじゃないんですが、でも」
「でも、疑うと言うんだろう?」
吉岡はにやにや笑った。
「ええ」
以前、自身、魔術師の透は、魔術結社のメンバーは、自分が魔術師だということを人には明かさないものだと言った。実際、もし透に会わなかったら、さおりだって、魔術師など、小説か映画の中にしか存在しないと思っていただろう。吉岡の情報が確実なことは、過去の経験が証明していたが、今回のは、何かのまちがいではないかと思った。だが、吉岡はあっさりと言った。
「俺の知り合いっていうのは、その魔術師のクライアントだったんだ」
「クライアント?」
「うん。その女の子は恋をしてね。相手は俺じゃないよ、残念ながら。いろいろやってみたんだが、相手がどうしてもこっちを向いてくれない。思い余った彼女は、友達から聞いた魔術師を訪ねて相談したんだ」
真っ黒なローブを着て、茶色い口ひげを生やした魔術師は、最初は怖し気に見えた。女の子はここへ来たことを早くも後悔したが、魔術師は優しく彼女にお茶を勧めて、話をするように促した。彼女がつっかえつっかえ、平凡な片思いの恋物語を話すと、彼はうなずきながら親身になって聞いてくれた。話が終わる頃には、彼女は魔術師を生涯の親友のように思っていた。話を聞き終わると、魔術師は片思いの相手の名前と住所を聞いた。それから、何か彼のものを持ってきたかと尋ねた。電話で予約した時、魔術師は、何か彼に所属するか、彼に身近な品物を持ってくるようにと言った。一番いいのは、彼の身体の一部―髪の毛とか、爪の切りくず。でなければ、彼が脱いだばかりのシャツ、靴下、あるいは彼がいつも使っているペンとか、マグカップのようなもの。それも無理だったら、彼の写真でもいい。女の子は、髪の毛はおろか、彼のなじんでいる品物さえ、手に入れられなかった。彼女が、友達数人と一緒に(そのうちの一人が彼だった)とったスナップ写真を渡し、彼を指さすと、魔術師は優しく微笑して、これはハンサムな彼氏だと言った。悪いけれど、この写真はお返しできませんよと言って、デスクの引き出しにしまった。そのままデスクの前に座って、何か書いていたが、やがて折りたたんだ紙を、きれいなピンク色のシルクの小袋に入れて渡してくれた。これをいつでも身につけておくように。寝る時も、起きている時も。お風呂に入っている時以外は、と笑って言った。一週間以内に、彼からデートの誘いがあるでしょう。そうしたら、またお会いしましょう、と魔術師は自身たっぷりに言った。
「それで、どうなったんですか?」
さおりが聞いた。興味がわいてきた。吉岡は、してやったりという顔をした。
「家に戻った時には、彼女は半信半疑だった。それでも魔術師に言われた通り、そのピンクの袋を身につけていた。翌日の夜、彼女は彼氏の夢を見た。俺に話した時、真っ赤になったところを見ると、エロティックな夢だったらしい。その翌日、彼氏から電話があって、ディナーに誘われた。それからあとは、とんとん拍子さ。二人は今、熱烈恋愛中だ。彼女は魔術師のもとへ行って、約束のボーナスを払った」
「お金をとるんですか?」
さおりは驚いた。魔術をかけて報酬をもらうというのは、さおりの頭にはなかった。
「そりゃそうさ。それが彼のビジネスだもの。それでね、話を戻すと、彼女が言うには、後で彼氏に聞いたら、彼女が彼の夢を見たその同じ夜に、彼氏の方も、彼女の夢を見たんだと。それ以来、彼女のことが頭から離れなくて、それで彼女に電話したそうだ。彼女は、魔術師のかけたラブチャームが効いたんだと信じてるよ。どうする? この仕事、受けるかい?」
さおりは手帳を取り出して、吉岡の読み上げる住所と電話番号、魔術師の名前をメモした。
「インタビューをする前に、相手のことをできる限り調べておけ」
さおりは今まで、大学の恩師に言われたこの言葉を肝に銘じて、仕事をしてきた。そのおかげで、多少の出来、不出来はあるものの、それほどひどい、例えて言えば、提灯持ちのような記事を書いたことはないと自負している。
だが、今回のフレイター・ルクス・ムンディ氏とその夫人の取材に関しては、まさにお手上げといった状態だった。さおりとしては、できればそのムンディ氏が、どこの生まれで、今何歳で、どこで魔術を習ったのか、日本人だというその夫人とはどこで知り合ったのか、夫人もやはり魔術をやるのか、ぐらいは前もって知っておきたかった。ところが、情報がまるでないのだ。オカルト結社はもちろん、そのメンバーについては一切、口をつぐんで教えてくれない。インターネット、この広大な電子情報の海に網をいれてみたが、何も引っかかってこない。ウイッカの方から探ってみようかと、ウイッチクラフトをやっている友人に聞いてみたが、聞いたことがないと言われた。つてをたどって、オカルト関係の香料やろうそく、書物を扱っている店のオーナーと話してみたが、やはり知らないと言う。困ったさおりは吉岡に電話した。その、クライアントだったという女の子に会ってみたいと思ったのだが、これは断られた。
「それはだめだ。彼女は俺に内緒で話してくれたんだから。それに彼女、魔術をかけたってこと、彼氏に言ってないんだよ。ばれたら困るって言うんだ。まあ、気持ちはわかるな。マインドコントロールされたって知ったら、俺だって気持ちよくないさ」
「彼女はどうやって、この魔術師のことを知ったんですか?」
「口コミだって言ってる。彼女の友達の一人が、魔術師の奥さんの方の知り合いだそうだ」
それではしょうがない。本人にインタビューする前に、その直接の知り合いに、あれこれ聞いてまわるわけにはいかない。ムンディ氏とは、影のように捉えがたい相手だった。
夕方、さおりはむっつりとした顔で、庭に水を撒いていた。まだインタビューの日時を設定していないことを知ると、吉岡はこう言ったのだ。
「そりゃ、良心的に仕事をするのは大事だけどさ。水野、締め切りは守れよ」
隣の家から、おばあちゃんが出てきた。隣の家はメキシカンの大家族で、大勢の娘、息子、姪、甥、孫、そのいとこ達、はとこ達が四六時中、出たり入ったりしているのだが、その中心にいて、万事を取り仕切っているのが、この今年八十一になるおばあちゃんだ。御威光は、隣家で一人暮らしをしている若いさおりにも及んでいて、さおりは過去、このおばあちゃんには随分世話になっていた。
「サオリ、今度の土曜日なんだけどね、うちで、クララのとこの二番目の息子のハイスクール卒業パーティをやるんだよ。夜、ちょっとうるさいかもしれないんで、先にあやまっておくよ」
「ちょっとうるさい」というのは、午後からずっと、何十人という人間が出たり入ったりして、バックヤードにもうもうとバーベキューの煙がたなびき、歓声をあげて子供が走り回り、プールに飛び込むティーン達の大騒ぎに、マリアッチバンドのズンチャカズンチャカが加わって、それが夜中まで続くということだ。
「もちろん、サオリも来てもらっていいんだよ。若い男がいっぱい来るよ。サオリの気に入るのがいるかもしれない」
おばあちゃんは付け加えたが、さおりは謎のムンディ氏のことで頭がいっぱいで、とうてい、ボーイハントの気分ではなかった。
「浮かない顔してるね、サオリ。心配事でもあるのかい?」
おばあちゃんにはかなわない。何でもお見通しなのだ。ふと、さおりはおばあちゃんに相談してみようかと思った。おばあちゃんの曽祖父は、部族のシャーマンだったという。おばあちゃん自身、時折、身体を抜け出して、アストラル界を浮遊していることをさおりは知っていた。だが、さおりはすぐに失望した。おばあちゃんは首をかしげて、聞いたことないね、と言ったのだ。
「がっかりするんじゃないよ、サオリ」
おばあちゃんは慰め顔で言った。
「あたしは魔術には詳しくないんだ。なんでイシスの園に行って、透に聞かないんだね? 儀式魔術なら、あの子の領分だろう?」
「透、まだ帰ってきてないの」
さおりはますます落ち込んだ気分になって言った。
「まだ?」
おばあちゃんはちょっと顔をしかめた。さおりは、おばあちゃんには、透の失踪について、それほど詳しく話していなかった。おばあちゃんが、透をあまり好いていないことを知っていたので、話しにくかったのだ。
「あれはいつだっけ? イースターの前だっけね」
さおりはうなずいた。
「もう三ヶ月になる」
さおりは不意に涙が出そうになってあわてた。デモンを身体に呼び入れた透が、もうここにはいられない、と叫んで飛び出していった時のことを思い出したのだ。
「元気をお出し、サオリ」
おばあちゃんはさおりの背中をさすって言った。
「こういう事はね、長くかかる時もあるんだよ。あんたが心配しても何にもならない。人生にはね、じっとがまんして、時が来るのを待たなきゃならない時もあるのさ」
だが、翌日、さおりはイシスの園に向かった。透がいなくても、ソング博士か、あるいはリアが何か知っているかもしれないと思ったのだ。イシスの園は、山沿いにあるニューエイジ系のコミューンで、代表のソング博士はニューエイジのグループや宗教団体の人脈にくわしい。ヨガ教師のリアは、LAにいるヨガや、ヒーリングの教師たちをよく知っている。そのへんから、何かつかめるかもしれない。
六月のイシスの園は、満開のスタージャスミンの香りでむせ返るようだった。五月にはテラスを覆って見事だった藤の花はもう終わってしまったが、その代わりにアイリスとばら、ブーゲンビリアがいっぱいに咲いていた。さおりはいつものように、裏手の駐車場に車をとめると、建物の脇をまわって、台所口から顔を出した。
そこで、いきなり、気難しい顔をしてコーヒーを飲んでいるマーカスと目が合った。
「おや、さおりさん、何か御用ですか?」
これは幸先よくないぞ、とさおりは覚悟した。イシスの園の住人のうち、さおりは、このマーカスだけには、苦手意識があった。いい人なのはわかっている。だが、そのきっちりした背広、ネクタイ姿同様、心の方もきっちりしていて、規則にはことさらにやかましい。さおりは、去年初めてセミナーに参加した時、一度、夜間外出禁止の規則を破った。マーカスは今でもそのことを執念深く覚えているらしく、さおりを見ると、何となくうさんくさそうな顔をする。
「あの、リアはいますか?」
さおりが遠慮しながら聞くと、「リア?」とマーカスは顔をしかめた。
「リアに御用ですか?」
「ええ、ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
マーカスはますます疑わしそうな顔になった。この調子じゃ、いつリアを呼んでもらえることかと、さおりが心配になった時、当のリアがひょっこりキッチンに顔を出した。
「あら、さおり。そんなとこに突っ立ってないで、座りなさいよ」
リアは小柄なチャイニーズで、長い髪をポニーテールにしている。
「さおり、お茶でいいわね。仕事の方はどうなの? 忙しい?」
話しながらテキパキとやかんを火にかけ、ティーポットやカップをテーブルの上に並べていく。
「ちょっとね。仕事上で困ったことがあって、それで相談に来たの」
「困ったこと?」
リアは手を止めてさおりを見た。
「二人で話した方がいい?」
「そういうわけじゃないの」
さおりはあわてて言った。
「秘密でも何でもないの。博士にも、ミーガンにも聞いてもらいたいの。マーカスにも」
さおりはかろうじて付け加えた。
「そう?」
リアはマーカスに向き直った。
「マーカス、博士とミーガンを呼んできて。お茶にしましょうって」
「博士は仕事してるんだろう?」
マーカスはぶすっと言った。
「してないわ。論文が行き詰ったって、テラスをうろうろしてる。ミーガンはサロンよ。さおり、冷蔵庫から牛乳出して」
リアのいれたハーブティーを飲みながら、さおりは謎めいた魔術師の話をした。リアは首をかしげた。
「フレイター・ルクス・ムンディなんて聞いたことないなあ」
博士は考え込んでいたが、これも首を振った。
「残念だがね、さおりさん。わたしも聞いたことないね」
「そうですか」
さおりはがっかりした。
「それ、本物の魔術師なの?」
ソング夫人が口をはさんだ。
「さおりがそんなに一生懸命調べても何もつかめないなんて。本当にそんな人、いるの?」
「さあ。いるっていうんですけど」
さおりはあやふやに言った。正直、さおりも、オカルティズムの関係者にこれだけ聞いてもわからないとなると、何かの間違いではないかと思いだしたのだ。
「フレイター・ルクス・ムンディなんて、随分変わった名前ね。どこの国の人なの、その人」
ソング夫人が聞いた。
「アメリカ人だそうです」
さおりが言うと、博士が口をはさんだ。
「それは本名じゃないよ。魔術師が魔術結社に入門した時に選んだ魔術名だ。フレイターというのはラテン語でブラザーの意味だ。ルクス・ムンディもラテン語で、英語で言うと、ライト・オブ・ザ・ワールド、世界の光という意味になる」
「随分気取った名前ね」
リアが言うと、そうでもないさ、と博士は真面目に言った。
「魔術名は、その魔術師の自戒の言葉やモットーをラテン語やギリシア語、ヘブライ語で表現したものが多い。だから大概、大げさだし、なかには随分長いものもある。ちょっと待っててごらん」
博士は部屋を出て行ったが、すぐに一冊の本を持って戻ってきた。パラパラとページをめくって目的のページを探し出した。
「ほら、あった。ゴールデン・ドーン系統の魔術師の魔術名だ。Anima Pura Sit --
Let the soul be pure -- 魂よ純粋たれ。Sacramentum Regis -- The Sacrament of a King –
王の秘蹟。Lehi Aour -- Let there be light -- 光あれ。だが、いかにも長いだろう? だから彼らは、普通、お互い同士をイニシャルで呼び合っていたんだ。A・P・Sとか、S・Rとか。それに、男性の場合はフレイター、女性の場合はシスターの意味のソナーがつく。ある女性魔術師は、ソナーA・M・Oっていう具合だ。もともと儀式魔術は、イニシャルをよく使うんだ。ゴールデン・ドーンだってフルにそう呼ばれるよりGDとイニシャルで呼ばれる方が多い。これは彼らが儀式の時、ノタリコンをよく使うのと関係してるかもしれないな。ノタリコンというのは、ヘブライ語の聖句の頭文字を取って短くしたものだ。たとえば、AGLA―これは、Ah-tah Gee-boor Lih-oh-lam Ah-doh-nye 。Thou are great forever my Lord の意味になる」
さおりの心は博士のいつ果てるとも知れない講義を聴くうちに、ぼんやりとどこかへさまよっていった。透。透は儀式魔術なんて、「面倒くさいだけさ」と言ったのだ。透。今どこにいるのだろう。
「ちょっと待てよ」
不意にマーカスの声が、博士の講義をさえぎった。
「僕は、フレイターLMというのに会ったことがある」
さおりははっと我に返った。
「どこでですか?」
「UCLAだ。二年ぐらい前かな。死海文書とエッセネ派の関係についての講演会を聞きに行ったんだ。その後のレセプションで、誰かに紹介されたんだ。確か、名刺を交換したはずだ」
マーカスは部屋を出て行った。さおりは息をつめて、マーカスが戻ってくるのを待っていた。もし、その人が本当にルクス・ムンディなら、マーカスへの偏見を改めなきゃならない、とさおりは思った。
マーカスは分厚いアルバムのようなファイルを持って戻ってきた。中には、アルファベット順に、きっちりと名刺が並んでいる。今度ばかりは、さおりはマーカスの四角四面な几帳面さに感謝した。マーカスはページを繰っていって、Fのところで目当ての名刺を見つけた。魔術師フレイター・L・Mとあって、その脇に小さく括弧書きで、ルクス・ムンディとある。まちがいない。
「だから皆、首をかしげたのね」
リアが言った。
「フレイターLMと言えば、わかったのかもしれないわ」
「自分でもフレイターLMと言っていたな。儀式魔術を研究していますって、そう言った。それで覚えていたんだ。透と同じかって」
透の名前を口にした時、マーカスの表情がちょっと暗くなった。
「どんな人でした?」
さおりが聞いた。
「普通の人だよ。目立たないタイプだ。透と違って」
リアがクスクス笑った。
「透は派手ですもんね」
「何歳ぐらいの人でした?」
「そうだなあ。口ひげを生やして、態度が落ち着いているから、老けて見えたけど、三十にはなってなさそうだった。服装も、言葉遣いもきちんとしていた。透とは正反対のタイプだな。良識を備えた、信頼できる良き市民って感じだった。ちゃんとした一人前の社会人だ」
「ということは、僕はそうじゃないって言いたいんだな」
透がここにいたら、そう言ってすねるだろうと思うと、さおりはおかしかった。リアも同じ思いだったらしい。さおりに目くばせしてクスリと笑った。マーカスは、自分と幾分似た性格らしいフレイターLMに強い印象を受けたらしい。ほめちぎった。
「こういう魔術師もいるんだって感心した。魔術師だからって、全部が全部、無責任な風来坊じゃないんだ」
透がいたら、この辺でけんかが始まるところだ。透がいたら……。博士がさおりを見て聞いた。
「さおりさん、透からはまだ何も連絡ありませんか?」
さおりは首を振った。
「呼んではみるんですけど、でも、返答がないんです。わたしの力が足りないせいかもしれませんけど」
リアが言った。
「そうじゃないわ。わたしも呼んでるんだけど、応答が無いもの。返事をしたくないのか、それとも、返事をしたくてもできない状態なのか、どっちかよ」
食堂に沈黙が降りた。
土曜日の午後、さおりはフレイターLMの家を訪ねた。LAカウンティを南に下って、オレンジカウンティに入る。大通りからはずれた落ち着いた住宅街の一角に、フレイターLMの家はあった。こじんまりとした二階建てで、小さな前庭の芝生は鮮やかな緑だ。玄関に続く小道の両脇に、濃いピンクのペチュニアの花が植えてある。軒下にはハンギング・バスケットが下がっていて、ピンクと紫のフクシアの花が、シャンデリアのように垂れ下がって咲いている。南カリフォルニアでは、普通にどこでも見かける小住宅で、親しみやすく、気のおけない感じがする。黒衣の魔術師のイメージにはそぐわなかった。
さおりはきれいに芝刈りされた前庭を眺めた。この芝生、フレイターLMが芝刈りしたんだろうか。芝刈機を押している魔術師というのも、何か変な気がする。さおりは内心、首をかしげながら、玄関のブザーを押した。
ドアを開けたのは、ふっくらした顔立ちの日本女性だった。さおりより少し年上だろうか。癖の無い、真黒な髪を肩で切りそろえている。軽く日焼けした卵型の顔に、茶褐色のアーモンドの形をした一重まぶたの目。その目が、やや緊張しながらも、親しそうに笑っている。彼女の腰に、幼稚園ぐらいの年頃の女の子が、怯えたようにまつわりついて、そのくせ、興味津々といった顔で訪問客を眺めている。
「LAジャーナルから参りました。水野さおりです」
「お待ちしてました。どうぞ、お入りください」
そのまま居間に通された。クリーム色のじゅうたんを敷き詰めた明るい居間だった。暖炉にマントルピース。大きなテレビセット。すわり心地のいいソファ。やはり、普通のアメリカ人の家の居間だ。
フレイターLMの夫人は、すぐにコーヒーとお茶菓子を運んできて、低いテーブルの上に並べた。さおりは、お構いなくと言ったが、構わないでおかれるはずはなかった。小さな女の子は、母親の後ろにくっついて、キッチンと居間を行ったり来たりしていたが、段々慣れてきたのだろう、安楽椅子に座って、まじまじとさおりを眺めた。
「こんにちは」
さおりが言うと、さっと母親の後ろに隠れた。
「ありさ、ご挨拶は?」
促されて、ようやく、蚊の鳴くような声で、こんにちは、と言った。
「ありさちゃんって言うの。可愛いお名前ね。ありさちゃん、いくつ?」
「四つ」
「そう。学校に行っているの?」
女の子はうなずいた。
「学校、面白い?」
女の子はまたうなずいた。母親が引き取って説明した。
「近くのバプティスト教会の付属幼稚園に行ってるんです。日本の幼稚園も考えたんですけれど、近い方がいいだろうと」
そうですね、とさおりは相槌を打ったものの、独身のさおりには、子供の教育問題はよくわからなかった。
「あのう、」と、フレイターLMの夫人が申し訳なさそうに言い出した。
「先ほど、ランスから電話がありまして、仕事が長引いてるので、三十分ほど遅れると…。お時間、大丈夫でしょうか」
「構いません。お気になさらないで下さい」
さおりが言うと、夫人はほっとしたような笑顔を見せた。なるほど、吉岡が言った通り、おとなしい感じの奥様だ。さおりの調べたところでは、ランス・マシューズは、フレイターLMの本名だ。夫人は夫を本名の方で呼んでいるらしい。もっとも、フレイターLMとも呼べないだろうが。
「こちらこそ、せっかくの土曜日にお邪魔して。奥様、お忙しいでしょうに」
さおりが言うと、夫人は笑って手を振った。
「真弓で結構です」
子供がこまっしゃくれた口調で注釈をいれた。
「マミィは真弓って言うんだよ。あなた日本人なの?」
「ありさ!」
母親が厳しい声で叱りつけたが、さおりはいいんです、と言った。さおりの薄茶色の瞳と髪はよくこの質問を起こさせる。大人でさえそうなのだから、好奇心の強い、物怖じしない子供が不思議に思うのも無理はない。
「日本人なのよ。でもね、わたしのおばあちゃんのお母さんがロシア人で、茶色の髪をしていたの。その人に似ているから、髪の毛が黒くないのよ」
「ふうん」
女の子は一応、その説明で満足したようだった。真弓はすみませんと言って、娘に、あっちへ行って遊んでいなさいと言った。女の子は素直に部屋の隅で、人形で遊び始めた。さおりは話を戻した。
「あの、ご主人はよく、土曜日にお仕事をなさるんですか?」
「ええ、土曜日は午前中、出勤なんです」
出勤? 何か話が変だ。さおりの不思議そうな顔を見て、真弓はあっと言った。
「いやだ、あの人、言わなかったのかしら。魔術師はランスのサイドビジネスなんです。普段は、シティのシニアセンターでカウンセラーをしています。お年寄りやそのご家族が相談に見えるのは、土曜日が多いものですから」
さおりは内心、舌打ちする思いだった。どうして気づかなかったのだろう。マーカスの会った良識ある社会人は、魔術師フレイターLMというより、むしろ律儀な公務員ランス・マシューズの方がぴったりくるではないか。だが、イシスの園を訪れた後、駆け回ってようやく集めたフレイターLMの情報にも、そこのところはきれいに抜け落ちていたのだ。
「あの、それではお役に立ちませんか?」
真弓が心配そうに聞いた。
「いいえ、そんなことありません」
さおりは気を取り直した。真弓に断ってテープをセットしながら言った。
「サイドビジネスの魔術師。とても……興味があります。お二人は最初どこでお会いになられたんですか?」
「大学でです。わたしも、ランスも心理学が専攻でしたから。たまたまプロジェクトでチームを組むことになって、その時からですね」
「ご主人が魔術師だということは、御存知でしたか?」
「いいえ、全然。お会いになればわかりますけど、およそ、そういう感じの人ではありませんから。ただ、変なことを知っている人だなとは思ってました。ラテン語とか、コプト語とか。エジプトの神々について、やけに詳しかったり…。でも、心理学は、特にユング心理学は、イメージとか神話を重要視するんです。だから、それほど奇異には思いませんでした」
「すると、魔術については、いつお知りになられたんですか?」
「結婚する少し前ですね。オカルティズムを研究してるって言ったんです。最初は冗談だと思いました。本気だってわかってからは、怖くなりました。効果があるってわかってからは余計に…。もう別れようかと思いました」
真弓はおかしそうに笑った。
「いえ、本当に。ただ、もう三年近く付き合っていて、ランスの人柄はわかってましたから。辛うじて踏みとどまったっていうところですね」
「真弓さんは、魔術はおやりにならないのですか?」
「やりません」
「全く?」
「ええ。わたしにはそんな力はありませんし、興味もありません。一度、ランスが儀式を見せてくれましたけど、わたしには何が何やら、チンプンカンプンで」
真弓は笑った。
「わけのわからない言葉ばかりで。あとでランスはヘブライ語だって教えてくれましたけど。日本人のわたしには、無縁の世界っていう気がしました」
「でも、日本人で儀式魔術をやる人はいますよ」
さおりは漠然と、透のことを思い出しながら言った。
真弓は驚いたようだった。
「いるんですか?」
「ええ」
「そう。そういう伝統に興味のある人には面白いのでしょうけど、わたしには向かない気がしました」
「ご主人は、真弓さんに魔術を教えようとはなさらなかった?」
「しません。むしろ、遠ざけておきたいみたいです。それもわかるんです。だって…」
その時、玄関のドアが開く音がした。
「ダディ!」
小さな女の子が歓声をあげて飛び出していった。フレイターLMが帰ってきたのだ。
フレイターLMは、まさにマーカスの描写通りだった。短い茶色の口ひげ、中肉中背。だが、この年頃のアメリカ人の定番で、そろそろ腹が出っ張り始めている。背広ネクタイにきっちり身を固め、表のドアから入ってきたフレイターLMは、ブリーフケースを床に置いて、娘を抱き上げた。
「ランス、こちらがさおりさんよ。LAジャーナルの」
さおりが挨拶すると、フレイターLMは、娘を片腕に抱いたまま握手した。
「お待たせして申し訳ないが、ちょっと失礼して着替えてきますよ。外は暑くて」
やがて、さっぱりしたポロシャツにジーンズ姿のフレイターLMは、低いテーブルをはさんでさおりと向かい合った。ありさはお父さん子らしい。さっそく父親の膝に這い上がって座り込んだが、大人の会話を邪魔することなく、おとなしく、もらったビスケットを食べていた。
「今、途中まで、さおりさんにお話していたの。あなたがわたしに魔術を教えようとはしないって」
真弓がフレイターLMに説明した。
「ああ。魔術も音楽やスポーツと同じでね、人によって向き、不向きはありますよ。好きでないものを強制することはない」
「もし、儀式の時に助手が必要だったら?」
「めったにそんなことはありませんね。たいていの魔術は一人で行えます。わたしが真弓に期待しているのは、精神的なサポートで、それに関してはもう、充分にヘルプしてくれてますよ」
フレイターLMは妻の方を向いて微笑んだ。
「それに、そちらの方がむしろ普通でしょう? 弁護士でも医者でも、妻なり夫なりが相手の仕事の細かい内容に立ち入る方が、むしろ珍しい」
「それはそうですけど」
さおりはつぶやいた。でも、わたしは透のやる魔術には、何でも興味があったと思いながら。フレイターLMが、透とは全く違ったタイプの魔術師であると同様に、その妻の真弓も、自分とは全く違ったタイプの女性であるらしい。
「フレイターLMは、どこで魔術を学ばれたんですか?」
ややあって、さおりは質問を今度は魔術師の方に向けた。
「わたしは十代の初め頃から、オカルティズムに興味がありましてね、色々本を読んだりしていました。十代の後半からは、いくつか、魔術結社に入門して訓練を受けました。ただ、それについてはお話できないんです。口外してはならないという規則がありましてね」
さおりはうなずいた。魔術結社の秘密主義はよく知っている。
「いつから、魔術師をお仕事にされるようになったんですか?」
「大学を出てからですから、もう五年になりますね」
すると、今二十七歳か。透と同い年。透もこの六月一日で二十七になったはずだから。
「お仕事にするようになったきっかけは?」
「学生時代から、時折、友達や知り合いから、ちょっとした術をかけるのを頼まれることがあったんですよ。その延長ですね」
「どんな術をかけるんですか?」
「一番多いのは、ラブチャームです。恋のおまじない。他は……いい仕事が見つかるようにとか、ビジネスの成功を願う術。学生だったら、試験に合格するように願う術。女性だったら、早く赤ちゃんがほしいなんていうのもありますね。人間の望みなんて、大昔から変わりませんよ」
「愛する人を振り向かせる術があるなら、嫌いな人間を害する術もあるんじゃないですか?」
さおりは冗談めかして言ってみた。
「呪いですか?」
フレイターLMも、冗談のように笑った。
「もちろん、ありますよ。ラブチャームと並んで、最も古い魔術だ。だがそれをやると、黒魔術になる。わたしはやりません。そういう依頼はお断りすることにしています」
まあ、実際はどうあれ、そう言うしかあるまいと、さおりは考えた。
「魔術というのは、実際には、どのようにするのですか?」
「魔法の杖を振って、呪文を唱えるのですよ」
からかっているのだろうか。さおりが黙っていると、フレイターLMは微笑した。
「まあ、それだけでもないのですがね。良かったら、仕事部屋をお見せしましょうか」
「ぜひお願いします」
フレイターLMは膝のうえから娘を下ろすと、マミィと遊んでいなさいと言って、さおりの先に立って、廊下を奥へ進んだ。一番奥の部屋まで来ると、ポケットから鍵を取り出した。
「いつも鍵をかけておかれるのですか?」
「ありさが歩くようになってからはね。子供には危険なものもありますから」
ドアが開くと、プンと、香の匂いが鼻をついた。薄暗い部屋の中の空気は、ひんやりと冷たい。フレイターLMは、窓のブラインドを開けた。じゅうたんの敷いていない、むき出しの木の床。そこにチョークで魔法円を描いた跡がある。片側にはデスク。分厚い書物が何冊か載っている。その横の、黒い布におおわれた球体は、おそらく水晶球だろう。反対側にソファと低いテーブル。四方の壁には、占星術で使う、黄道十二宮のシンボルがぐるりと描いてある。片側の壁際に背の高い祭壇があった。黒い布が掛けられているのみで、今は何も載っていない。数本のろうそくが立ててある、背の高いスタンド。等身大の鏡。
さおりが周囲を見回している間、フレイターLMはデスクの椅子に座って、面白そうにさおりの反応を見ていた。
「あまり殺風景なので、がっかりされましたか? 天井から吊り下がったクロコダイルの剥製もなし、ガラス瓶に入ったイモリの目玉も、頭蓋骨でできたペン立てもなし、悪魔レオナルドの大きな画像もなし。実際、クライアントがあんまり期待はずれといった顔をするので、時々はそういうものを少し飾っといたほうがいいのかなと思うこともあるのですよ。実際にに必要だからというわけでなく、営業戦略として」
フレイターLMは両脚をぐんと前に伸ばし、両手を胸の前で組み合わせると、柔和な目でさおりを見た。
「おかけになったら、いかがですか」
さおりがソファに座ると、フレイターLMは話を続けた。
「現代の儀式魔術師が使う武器は、魔術師自身の意志の力のみです。ワンドも、魔法円も、呪文も、実はこの意志の力を呼び覚ますのを助ける小道具に過ぎません。なかなか、役に立つ小道具なので、わたしは重宝してますがね。だが、絶対に必要というわけではない。魔術師の仕事に必要不可欠なものは、この宇宙に満ちているエネルギーと、それをコントロールする意志力、そのための知識です。この三つを駆使して、魔術師は仕事を行う。だが、長い間の人類の夢と伝説、それにハリウッド映画にはかなわない。ほとんどの人にとって魔術とはいまだに、空を飛ぶ魔女の箒と、怪しげな媚薬を意味するのです」
フレイターLMはちょっと悲しげに微笑んだ。
「わたしのことを誰からお聞きになられましたか?」
「え?」
さおりは不意をつかれた。つい、フレイターLMの静かな声に、聞き入っていたのだ。
「あなたのクライアントだったという人からですが」
「誰でしょう?」
「わたしも名前は知りません」
「別にいいのですがね。ただ、わたしは特に広告を出して、クライアントを集めているわけではないので、少し興味があっただけです」
「なぜ、サイドビジネスにしておられるのですか」
「なぜと言いますと?」
「なぜ、本業になさらないのかなと、思ったんです。余計なお世話かもしれませんけど。そのクライアントは、あなたのラブチャームがいかに強力か話してくれました。それくらい強い力をお持ちなのに、なぜ…」
「儀式魔術というものは、身体を酷使します。毎日、毎日、何人ものクライアントを引き受けていたら、わたしの身体がもちませんよ。さっき、さおりさんは呪いの話をなさった。婉曲に、人を害するとおっしゃったが、本当は、人を呪い殺すと、そう、おっしゃりたかったのでしょう?」
「ええ」
「さっきも申し上げた通り、可能です。でも、それには莫大なエネルギーがいる。そのエネルギーを喚起するために、どれほどの時間と体力を消耗するか考えたら、ビジネスとしては成り立ちません。と、わたしはそう思いますね」
フレイターLMは、殺人の是非についてのモラルの問題には言及しなかった。さおりはフレイターLMの柔和な目を見つめた。良識ある社会人。良き父、良き夫。
「では、もし、ビジネスとして採算がとれるなら、お引き受けになりますか?」
「引き受けないでしょうね」
「なぜ?」
「カルマの問題があるのですよ。魔術師の間では、自分のやったことは、いずれ自分に戻ってくると言います。日本人のあなたにはよくおわかりでしょう? もし、わたしがクライアントの依頼で、ある人を呪い殺したとする。人の生命を奪うというのは、カルマにかなり大きなマイナスの負荷をかけます。そのクライアントのカルマは悲惨なことになりますが、それを援助したわたしのカルマもかなりのダメージを受けます。この損失を取り戻すのはおおごとだ。いや、やはり割りに合いませんね」
さおりは何となく釈然としなかった。だが、今はモラルの問題を議論している時ではない。さおりはもう少し実際的な問題を尋ねることにした。
「ラブ・チャームというのはどういう風になさるんですか?」
「色々な方法がありますがね。一番簡単なのは、クライアントのお望みの相手の心に、ある種のバイブレーションを送るんです。それ以上は、職業上の秘密としておいて下さい」
フレイターLMは微笑んだ。
「かける術によって、値段は違うのですか?」
「違います。難しい、手間のかかる術をかける場合は、当然、報酬も高くなります。ラブ・チャームの場合ですと、最初にお支払い頂く相談料が二十ドル。チャームが効いた時に支払って頂くボーナスが二百ドルです。相談料を低く抑えているのは、最初、ここに相談に見えられる方は、大概、半信半疑ですからね。ダメで元々―これは真弓の受け売りですがーその値段にしてあるのです。で、術が効いた後で、相当の報酬を支払っていただきます」
「後払いのボーナスを支払わなかった人はいないんですか?」
「いません」
フレイターLMはきっぱりと言った。
「契約書か何か書くんですか? それとも、クライアントは皆、そんなに正直な人ばかりなんですか?」
「契約書はありませんよ。みんな、口約束です。それにクライアントが皆、正直な人ばかりとも思いません。なかには、ずるい人間も、ケチな人もいるでしょう。ただ、クライアントは、わたしの魔術が効を奏したのを目の前で見ているわけです。約束を破ったらどうなるか、それを考えるでしょう」
柔和だったフレイターLMの目が、鋭くきらりと光った。さおりの背筋を、冷たい戦慄が走った。一見、平凡で穏やかな公務員に見えるかもしれない。だが、フレイターLMは、まぎれもなく魔術師だと思った。
事前調査に日時を費やしたせいで、今度の原稿は締め切りまであと二日しかない。月曜日には吉岡に届けなくてはならない。さおりはインタビューから戻ると、即座にパソコンに向かって原稿を書き始めた。フレイターLMとその妻の印象は、さおりの考えていたものとは大分違っていたが、それはそれで面白かった。だが、帰りの車の中でインタビューのテープを聞いていて、さおりは一ヶ所、失敗したと思った。妻の真弓にインタビューしている時、真弓はフレイターLMが、真弓をむしろ、魔術から遠ざけておきたいようだ、と言ったのだ。ところが、その理由を聞こうとした時、フレイターLMが戻ってきて話は中断された。その後、フレイターLMは、魔術の向き、不向きの話にすり替えて、さおりも二度と、その点を追及しようとはしなかったのだ。真弓は何を言おうとしたのだろう。気になったが、もう手遅れだ。それより、原稿を仕上げるのが先だ。意地でも、締め切りをのばしてくれと、吉岡に泣きつきたくはなかった。
明け方近くなって、ようやく、第一稿が仕上がった。さおりは服のままベッドにころがり込むと、目を閉じた。そのまま、すっと眠りに引き込まれていった。
魔術師のインタビューに行ったせいかもしれない。さおりは透の夢を見た。透が眠っている。珍しくもないじゃないか、と夢の中でさおりは思った。透はいつも、暇さえあれば眠っているじゃないか。でも、この透は随分痩せている。普段から白い頬が青白く見えて、頬骨がやけに高い。「透」とさおりは呼んだが、透は身動きもしないで眠り続けている。誰かが部屋に入ってきたような気配がしたと思うと、場面はいきなり真っ暗になった。
次にさおりが見たのは、イシスの園のあずまやだった。透が本を一つ一つ、枕の高さになるように慎重に按配して、それに頭を載せると、寝転がった。
「人が話をしようとしてるのに、寝そべるなんて」
さおりは透につけつけと文句を言った。透はにやっと笑ったが、何も言わない。
「大体、ひとの家で寝そべるなんて、行儀が悪すぎるわ」
透が、「ひとの家じゃないよ」と言い返してきた。
「ひとの船だって同じことよ」
さおりがやり返した。今、透とさおりは、ヨットの船室にいるのだ。さおりは、寝っ転がっている透をにらんだ。透は天井を向いて目をつぶっている。
「透、ちゃんとこっちを向いて」
さおりがきつく言うと、透は目を開けてこっちを見た。
「人の行方を捜す魔術はあるよ。でも、そんな手間暇かけるより、電話をかけた方が早い」
さおりは、がばと、飛び起きた。
「人の行方を捜す魔術はあるよ」
そうだ、確かに一度、透はそう言った。あれはアポロニアの船上でだった。どうやって、さおりがロングビーチにいることを突き止めたのか、さおりが透に詰問した時だ。そうだ、それに、初めて透に会った時にも、透はリーベンブロック博士を使って、行方不明だったジュンのアストラル体を呼び出したではないか。人の行方を捜す魔術はあるのだ。もちろん、さおりにはそんな術は使えない。だが、フレイターLMだったら?
さおりは枕元の時計を見た。もう、お昼に近い。さおりはベッドから抜け出すと、フレイターLMの番号をプッシュした。
「はい、マシューズです」
真弓の声だった。
「真弓さん、水野さおりです、LAジャーナルの。昨日はどうもありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。何もお構いしませんで」
「あの、ご主人はいらっしゃいますか?」
「いますよ。ちょっとお待ち下さい」
少し間があいた。さおりは苛々と部屋の中を歩きまわった。
「もしもし」
フレイターLMの落ち着いた声が聞こえた。
「フレイターLM,水野さおりです」
「ああ、さおりさん。どうかしましたか」
「聞き忘れたことがあるんです。人の行方を捜す魔術はありますか」
電話口の向こうに沈黙が降りた。さおりは息を詰めて返事を待った。やがて、フレイターLMが穏やかに言った。
「ありますよ。これはインタビューの続きですか」
「いいえ。わたし個人の質問です」
フム、とフレイターLMが言った。
「そうなると、お会いしてお話をうかがった方がいいですね」
「ぜひお願いします」
「お急ぎですか」
さおりの頭の中を、痩せて蒼白な透の顔がよぎった。
「できれば今日中に」
フレイターLMが考え込む気配がうかがえた。
「今晩九時でどうですか」
「九時ですね。うかがいます」
「ああ、さおりさん。捜してもらいたい人に身近な何かを持って来て下さい。髪の毛とか、タバコの吸殻がベストなんですが、それが無ければ、洋服。但し、洗濯してしまったものはダメです。その人が愛用していた万年筆とか、マグカップ。それも無ければ写真。その人のヴァイブレーションが知りたいんです」
「わかりました」
さおりは電話を切った。自分の大胆さに少々驚いていた。自分一人で、魔術と関わりを持とうとしている。これは、全く初めての体験だった。今までは、透がいつも側にいてくれた。無意識のうちに、透の助けをあてにしていた。だが、今度は透はいない。透の方が、わたしの助けを必要としているのだ。助けられるかどうか、自信はまるでないが……。昏々と眠っている透の顔が頭に浮かんで、さおりは弱気になった自分を叱った。あの夢は、透が送ってよこしたSOSだ。証拠など無い。さおりの勘だけだ。だが、さおりの勘は、狂ったことがない。
「必ず捜し出すから、待っていてね、透」
さおりはつぶやいた。
日曜の夜の住宅街は静かで、人影もない。車から降りると、遠くのフリーウェイを走る車の音が、潮騒のように聞こえてくる。昨日の午後、ここへ来た時には聞こえなかったのに。花の香りに満ちた夜の空気を、さおりは胸一杯に吸い込んだ。よく晴れた空に星が光っている。南の空に、半分に割れた明るい月が見えた。
ブザーを押す前に、ドアが開いた。フレイターLMは、暗い廊下に立って、さおりを中へ招じ入れた。今日は黒い儀式用のローブを身につけて、まるで別人のように見える。家の中は真っ暗でしんとしている。
「真弓はありさを寝かしつけに二階へ行っています。こちらへどうぞ」
奥の仕事部屋に入ると、フレイターLMは、明かりをつけた。さおりにソファに座るように促すと、自分はデスクの椅子に腰掛けて、両手を胸の前で組み合わせた。茶色の目でしばらくさおりの顔を探るように眺めた。さおりの方も黙って見返した。やがて、フレイターLMはふっと緊張をゆるめると、親しそうな笑顔を浮かべた。
「さおりさん、今日の電話はいささか、意外でした。実は、昨日のインタビューの時には、あるいは、魔術をやってみせてくれと、そう言われるのかなと思っていたのですがね」
「インタビューが魔術についてでしたら、もちろん、そうお願いしたと思います。でも今回の記事は、魔術師とその奥様というのがテーマですから」
「ははあ。そうすると、がっかりされたんじゃないですか。真弓は魔術とは何の関係もない」
「ええ。あなたは真弓さんに、魔術とは関わってほしくないと思っているとうかがいました」
「その方がいいのです。好きでないものを強制することはない」
フレイターLMはちょっと考え込むように、さおりを見た。
「だが、さおりさんは魔術がお入用なんですね」
「はい」
「人を捜すなら、なぜ警察に頼まないのですか」
今度はさおりが苦笑する番だった。
「警察に頼んでも、何も出て来はしません。捜索願のリストに載って、コンピューターにインプットされる。それで終わりです」
さおりは強い目でフレイターLMを見た。
「魔術の方が、ずっと確実です」
フレイターLMは微笑した。
「驚きましたね。こんなに強い信頼を寄せてもらえるとは思わなかった。わたしの昨日の講義は、そんなに説得力がありましたか?」
フレイターLMはすっと微笑を消すと、真面目な調子に戻って言った。
「人の行方を捜す魔術はあります。色々なやり方があるが、わたしがこれから行おうと思っているのは、クレイボヤンス、あるいはスクライングと呼ばれる術です。ある人間に特有のヴァイブレーションの痕跡を宇宙の中から見つけ出してたどって行き、その人間に行き着く。それからその人間の周囲の状況を水晶球の中に映し出していくというもので、これは、かなりの技術とエネルギーを要します。当然、報酬額も高くなります」
「言って下さい」
「相談料が百ドル。捜す相手を見つけた時には、千ドルのボーナスを頂戴します」
それくらいは覚悟していた。さおりはバッグを開けた。
「チェックでよろしいですか?」
さおりが百ドルの小切手を渡すと、フレイターLMは、机の引き出しに無造作にしまった。その同じ引き出しから、ペンとノートを取り出すと、ペンを構えてさおりの顔を見た。
「捜してほしい人の名前をうかがいましょう」
「東野透」
フレイターLMの目が大きく見開かれた。
「ムーンチャイルド?」
今度はさおりが驚いた。
「御存知なんですか?」
「会ったことはありませんが、名前は知っています。この世界では有名だ。マダム・サクラがムーンチャイルドの創出に成功した。これが二十歳を過ぎて、まだ生き延びている。透はかなり強力な魔術師なのでしょう?」
「ええ」
フレイターLMは椅子から立ち上がると、難しい顔をして部屋の中をあちこち歩きまわった。さおりはフレイターLMの姿を目で追いながら、次第に暗い気持ちになってきた。
「できませんか?」
フレイターLMは立ち止まって、さおりの顔を鋭く見た。
「できない、とは言っていません。ただ、相手が東野透となると……。透は自分の意思で行方をくらましたのでしょう?」
「はい」
「そうなると、自分の周囲に結界を張っているかもしれない。これをやられると、ヴァイブレーションをたどることができなくなる。もし、透が見つけられたくないと、予防手段を取っていたら、わたしの力では…」
フレイターLMはぐっと口を引き結んだ。さおりはますます暗い気持ちになった。透。ようやく見つけられると思ったのに。
「東野透はさおりさんの恋人ですか?」
不意を突かれてさおりは赤くなった。
「いいえ。あの」
言葉を探した。
「友達です」
あきらめたように言ってうつむいた。沈黙が降りた。さおりは、フレイターLMがしげしげと自分を見ているのを感じた。
「さおりさん」
さおりは顔をあげた。フレイターLMの柔和な目がさおりを見ていた。
「成功するかどうかは、正直言ってわかりません。でも、やってみましょう」
フレイターLMは、さおりの前の低いテーブルに水晶球を置いた。手まりぐらいの大きさのガラス玉に、さおりの顔が映った。ろうそくを二本、その両脇に立て、さおりにノートパッドとボールペンを五、六本渡した。
「あなたは記録係ですよ。水晶球にヴィジョンが現われたら教えますから、わたしが言う通りに書き取ってください。透の身近な品物を持ってきましたか?」
さおりはバッグから、白いシルクのハンカチに包まれたタロットカードを出した。
「これは、透がわたしにくれたカードです。以前は透が自分で使っていたって、そう言っていました。わたし、二、三回使いましたけれど、わたしのヴァイブレーションより、カードに残ってる透の力のほうがずっと強いと思います。透は一度、このカードを媒体に使って、わたしにヴィジョンを送ってよこしたことがあります」
フレイターLMは、カードを受け取ると、シルクのハンカチを開いた。カードを手に取ろうとして、ふっと手を引っ込めた。さおりにはフレイターLMが何を感じたかわかっていた。さおり自身も感じたことがある。電気のような鋭い刺激がピリッと指先に伝わってくるのだ。フレイターLMはカードをハンカチに包んだまま、水晶球の隣に置いた。立ち上がると、部屋の隅のスタンドのろうそくに火をいれた。電灯を消すと、部屋の中には闇が満ちて、その中でろうそくの炎が幻想のようにゆらめいた。テーブルの上のろうそくにも火をいれると、フレイターLMはさおりの隣に座って目を閉じた。しばらく黙って瞑想していたが、やがて目を開くと、「始めますよ」と、さおりに言った。
フレイターLMは、儀式用のナイフを持って立ち上がると、さっと両手を天にさし上げた。青い星が四つ、さおりとフレイターLMを取り囲んで燃え上がった。フレイターLMは水晶球の前に座って目を閉じた。静かに、大きな呼吸を繰り返す。まるで眠ってしまったかのように、フレイターLMは静かに呼吸していた。さおりも目を閉じると、気持ちをリラックスさせようとした。心を平らに保つ。自分の呼吸だけに意識を集中する。吸って、吐いて、吸って、吐いて……。やがて、さおりは自分の周囲の空気が変わってきたことに気づいて目を開いた。青い星の内側、さおりとフレイターLMのまわりに、巨大なエネルギーが渦を巻いていた。白い光が、時計回りに回転し続ける。
フレイターLMは目を開くと、両手を水晶球の上にかざすようにした。水晶球の内部が徐々に暗くなっていき、やがて黒々とした闇が広がった。星一つない闇夜。吸い込まれたら、二度と戻れないブラックホール。フレイターLMはシルクのハンカチを開くと、一番上のカードを手に取った。一瞬、びくっと身体を震わせたが、カードを左手に載せ、右手の指先で表面をなでるような仕草を繰り返した。やがてカードを置くと、両腕をまっすぐ伸ばして、指先を水晶球の中心に向けた。フレイターLMの指先から、白い電光のような光が出て、水晶球の暗黒のなかに吸い込まれていく。光は途切れることなく次々と、水晶球の中に吸い込まれていくが、中心部は暗黒のままだ。さおりはちらりとフレイターLMの顔を見た。フレイターLMの目はまっすぐに水晶球の中心部を見つめたまま、瞬きもしない。額に汗の粒が浮かんでいた。
ようやく、水晶球の中心にポツンと、豆粒のような光が現われた。豆粒は次第に大きくなり、今は野球のボールぐらいの大きさの白い光になっている。フレイターLMは目を閉じると、低い声で呪文を唱え始めた。ボール状の白い光はしばらく明るくなったり、また暗くなったりしていたが、突然、鋭い閃光を発するとぐいと大きくなった。見る見るうちに光度を増して、水晶球の内部が白い光で満たされた。その光の中に、さおりは、眠っている透の顔を見た。
「透!」
さおりが思わず叫ぶと、フレイターLMがさおりの方を見た。
「見えるんですか?」
声にやや驚きの響きがあった。さおりは、透の顔から目を離さずにうなずいた。透。夢の中で見た通り、ひどく痩せている。昏々と眠っているようだ。
「それは助かる。説明する手間が省けます。彼が、東野透ですね?」
さおりはうなずいた。
「フム。少し周りの様子を見てみましょうか」
カメラがアップからロングショットに変わるように、透の姿が小さくなって、まわりの様子が見えてきた。透はベッドで眠っている。ブルーの掛け布団。グレーのカーペット。白い壁。壁に何かある。油絵だ。モネの睡蓮の複製画。サイドテーブルに空のグラスが置いてある。洋服ダンス。白いブラインドの降りた窓。家具はそれだけのようだ。病院の部屋ではない。どこかの家の客用寝室という感じがする。
「この部屋に見覚えは?」
さおりは首を振った。
「ありません」
フレイターLMが水晶球をなでるようにすると、画面が切り替わるように別のヴィジョンが見えてきた。
「この部屋の外です」
同じグレーのカーペットを敷き詰めた狭い廊下。部屋がいくつもあるようだが、どれもドアが閉まっている。階下へ降りる階段がある。
「降りてみましょうか」
階段を降りると、正面に玄関のドアが見えた。家の奥に通じる廊下は、やはりグレーのカーペットが敷き詰めてある。奥の方に、キッチンや居間があるのだろう。そちらには、だれか人のいる気配がする。
「家の奥を見るのはやめますよ。覗き見されているのに誰かが気がつくかもしれない。家の外を見てみましょうか」
ヴィジョンが切り替わって二階建てのかなり大きな家に変わった。スペイン風の赤い瓦屋根と白い壁。玄関前のポーチは青いタイル。ドライブウェイに白い乗用車がとまっている。
「この家に見覚えは?」
「ありません」
「外見をよく覚えておいて下さいよ」
言われなくとも、さおりの頭にこの見知らぬ家は焼きついていた。狭い緑の芝生に、大きな楓の木がある前庭。U字型のドライブウェイ。玄関脇に白いカラーの大株が植わっている。
「さて、番地はわからないかな」
フレイターLMは、玄関ポーチの壁に注意を向けた。そこに黒々と数字が描いてある。一二七。
「メモして下さい」
さおりはノートパッドに家の特徴を細かく記述し、一二七と書いた。だが、どこの通り? どこの町? どこの州? アメリカ国内ではあるようだが。
「次は通りの名前ですね」
フレイターLMは両手を水晶球の上にかざした。だが、ヴィジョンは現われてこない。それどころか、水晶球の内部は影がさした様に、みるみる暗くなっていく。フレイターLMは、目を閉じると、再び呪文を唱え始めた。一心に呪文を唱え続ける。さおりは祈るような思いで、暗い水晶球を見つめ続けた。ようやく水晶球の内部が明るくなってきた。
「見えます」
さおりが喜びの声をあげた。フレイターLMは、目を開けると、ふーっとため息をついた。
さおりはさっきの家を少し離れたところから見ていた。通りの反対側にいるような感じだ。
「最寄の交差点まで行ってみましょう」
ヴィジョンが住宅街の中を動き、やがてやや広い通りに出た。そこに、道路標識が立っている。今まで歩いてきた通りが、へリングストリート。このやや広い通りがグランドアベニュー。さおりはうなった。LA中にいくつ、グランドアベニューがあることやら。これがLAだと仮定してだが。
「あせっちゃいけませんよ」
フレイターLMは両手で水晶球をなでる仕草を繰り返した。海のヴィジョンが現われた。砂浜の続く長い海岸線。
「マリブ」
さおりがつぶやいた。フレイターLMはちらとさおりを見た。
「どうしてわかりますか」
「なんとなく。勘です」
フレイターLMがまた手で水晶球をなでると、まっすぐな広い舗装道路が、海岸に沿って走っているのが見えた。
「あなたが正しいようだ。あれはパシフィック・コースト・ハイウェイ。海岸はマリブの海岸ですね」
フレイターLMは立ち上がると電灯をつけた。二人の周りで燃えていた四つの青い星は消え、さおりが見ると、水晶球は元の透明なガラス玉に戻っていた。
「ちょっとお待ち下さい」
フレイターLMは部屋を出て行った。さおりはノートにとったメモを見つめた。へリングストリート。一二七。この家に透がいるのだ。明日、さっそく行ってみよう。
フレイターLMは一枚の紙を持って戻ってきた。コンピューターでプリントアウトした、マリブの海岸周辺の地図だった。フレイターLMは、地図の一角に、赤で丸をつけた。
「ここです」
「どうもありがとうございました」
さおりは丁寧に地図をたたんで、バッグにしまった。フレイターLMは、タロットカードをハンカチで包むと、さおりに返した。
「このカードですがね。もし、あなたがお使いになりたいなら、透に言って、クレンジングの儀式をしてもらいなさい。このままだと彼のヴァイブレーションが強すぎて、あなたのヴァイブレーションには反応しないでしょう。まあ、今回はそれが役に立ちましたが」
「ひとつ、うかがってもいいですか?」
「何なりと」
「途中で水晶球が暗くなってしまった。あれはどうしてですか?」
「結界が張ってあったのですよ、あの家の周辺に。結界というのは、エネルギーのバリアですが、網のようなものでね。こう考えてください。あなたが魚だとする。網で囲まれた生簀に入りたいと思う。すると、網の目をくぐらなきゃならない。これは大変だ。だが、いったん入ってしまえば、その中を自由に泳げる。さて、また外へ出たいと思う。また網の目をくぐらなきゃならない。網の目が細かければ細かいほど、くぐりぬけるのは大変なんです。あの家の結界は、かなり細かい網目でしたよ」
「透が張ったんでしょうか」
「いや、そういう感じはしなかった。透のヴァイブレーションとは違う。だが、相当強力な魔術師の仕事ですよ。これは警告です。透に会いに行った時は、お気をつけなさい」
さおりはうなずいた。フレイターLMはろうそくを吹き消し、水晶球を片付けながら聞いた。
「さおりさんは、どこで水晶球の見方を習ったんですか? 透からですか?」
「習ったというわけじゃありません。以前、透とアストラル・トラベルをした時に…」
「アストラル・トラベル?」
フレイターLMは微笑した。
「透は随分あなたのことを高く買っているようだ。でも、今日見ていてわかりましたよ。非常に勘がいい。訓練を続けることをお勧めします。透に会ったら、よろしくお伝え下さい。お会いできる日を楽しみにしています、と」
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