「AはBに先立って起こり、その逆ではない」と言うのは、宇宙的規模においては、単なる慣習の問題に過ぎない。
アインシュタイン
ブラインドの隙間から差し込む強い西日が、壁際に並んだ書棚に明るい光の筋を描いている。西日はよく磨きこまれた木の床も暖め、閲覧室はかすかにワックスの匂いがする。利用者はもう幾人も残っていなかった。大学が夏休みのこの時期、図書館も閉館時間をやや繰り上げて午後七時には閉めることになっている。利用者も承知で、懐中時計でちらりと時刻を確認すると、急いで手控えをまとめて紙ばさみに挟んだり、万年筆のキャップを閉めたりしている。常連の老教授が、四、五冊の分厚い書物を抱えてよちよちとフロアを横切っていくのを見ると、虎彦は友人との話を中断して、貸し出しカウンターから出ていった。
「お手伝いさせて下さい」
「おお、これは済みませんな」
閲覧室の書棚にある本は利用者が自分で取り出して構わないが、書棚に戻すのは図書館員の仕事だ。勝手に戻されて間違えた棚に潜り込んだ本は、大洋に投げ出されたちっぽけなボートのようなものだ。為すすべもなく、誰かに発見される日をひっそりと待たねばならない。虎彦はずしりと重い本を所定のワゴンに載せて、カウンターに戻った。
「大分、慣れたようだな」
キアランが言って微笑した。
「まあな」
虎彦は軽く答えた。保護者めいた微笑は気に入らないが、キアランはいい友人だ。なんといっても、この仕事を紹介してくれたのは彼なのだから。虎彦がロンドンに来て間もない頃、たまたま、劇場への道を尋ねたことから知り合ったのだが、虎彦は今でもあの夜、道に迷った幸運を感謝している。キアランは、アイルランド人のジャーナリストで、年齢は虎彦とあまり違わないだろう。気さくな性格で、大学教授や評論家など、ロンドンのインテリゲンツィアの間で実に顔が広かった。欧州で戦争が始まった時、日本からの送金が不自由になる場合に備えておかなければならないと、仕事を探していた虎彦に、ロンドン大学の図書館員といううってつけの仕事を紹介してくれた。給料はさしたることもないが外国人にとっては得がたいアルバイトだ。手も汚れず、何よりも創作の時間を大きく奪われることがない。
そのためにはるばる欧州までやってきたのだから。
高等学校在学中に最年少の二十一歳で「白樺」の同人となり、「エレクトラ梗概」を創刊号に載せた。当時の筆名は茅野二十一。若き日の自分の得意と気負いがうかがえて、今となっては少々気恥ずかしい。小山内薫、市川左團次の主宰する自由劇場によって、自作の戯曲「道成寺」が帝劇で上演されたのは二十三歳の時だった。若き鬼才ともてはやされ、前途は洋々たるものに思われた。が、一九一三年、帝国大学英文科を突然に中退すると、郡虎彦は神戸からヨーロッパ行きの船に乗ったのである。
あれから三年。
異国で迎える三度目の夏であった。
「もうすぐ閉館だろう? パブで一杯やらないか?」
キアランの誘いを、虎彦は少しばかり残念な思いで聞いた。夏の長い夕べを、パブのテラスで親しい友人と涼みながら過ごすのは悪くない。だが、今日は予定がある。
「遠慮する。ヘスターとカクストン・ホールで待ち合わせてるんだ」
「カクストン? あそこは今、何を演ってたっけ?」
「『エレウシスの秘儀』クロウリーとかいう男の作・演出なんだ」
キアランはヒュッと短く口笛を鳴らした。
「アレイスター・クロウリーか」
「知ってるのか?」
ロンドンの劇場街にせっせと足を運び、劇場人に少しは知り合いもできてきたと思っていたが、クロウリーという名前を聞くのは、実のところ、初めてだった。もっとも、顔の広いキアランならば、知っていても不思議はないかもしれない。
「どんな男なんだ?」
キアランは茶色い目を悪戯小僧のようにくりくりと動かした。
「ロンドン一、悪名の高い男だ。自分こそは黙示録の獣だと自称してる。魔術師と呼ぶ人もいるな」
「魔術師?」
子供のおとぎ話じゃあるまいし。
「冗談だろ?」
「大真面目さ。色々、不思議な力を見せるっていうぜ」
「手品がうまいだけだろう?」
「それが全くのインチキとも言えないところがあるんだ。だから、悪名高いのさ。三流タブロイド紙のお得意さんだ」
「そんな男がなんで芝居をやるのかな」
「クロウリーは詩も書くからな。しまったな、僕も見たかった」
面白そうじゃないか、とキアランはうらやましそうに言った。
「一緒に来ればいいじゃないか。当日券ぐらいあるだろう」
「それがさ、今晩は人と会う約束がある。それに、せっかくのデートにのこのこ三人目が顔出したら、ヘスターにぶん殴られそうだ」
そんなんじゃない、という虎彦の抗議を聞き流して、キアランは片手を上げて、またな、と挨拶すると閲覧室を出ていった。
困ったものだ、と虎彦は思う。虎彦の周りの連中は、皆、ヘスターと虎彦をカップルとして見ている。でもまだ、そんな関係ではない。うまく言えないが、虎彦の中に越えられない何かがあって、そこまで踏み込めないでいる。そっとしておいてほしい、というのが正直な気持ちだった。
溜息をつきながら、虎彦はワゴンを押して閲覧テーブルに残された本を集め始めた。と、閲覧室のスイングドアが開くきしんだような音がして、虎彦は反射的に顔を上げた。もう閉館です、と喉元まで出かかった言葉が中途で消えた。
若い女が一人、ドアの内側にたたずんでいた。ブロンドの髪をきっちりと結い上げ、造花を飾ったつばの大きな麦藁帽子を頭に載せている。首のまわりに明るい花柄のスカーフをふわりと巻き、ほっそりとした身体は白いドレスに包まれている。薄暗い閲覧室の中で、そこだけ、花が咲いたように鮮やかだった。
思わずうっとりと見惚れていた虎彦は、ふいに針の先ほどの違和感を感じた。理由はよくわからないのだが……。
女は青い大きな目で閲覧室を見回していたが、その目が虎彦の目とぶつかると、すいと動いて近づいてきた。
「職員の方でしょうか?」
虎彦は顔が赤くなるのを感じた。つい、ぶしつけにじろじろと眺めてしまった。東洋人は失礼な人種だと思われなかっただろうか。咳払いをすると、精一杯威厳をとりつくろって言った。
「まことに申し上げにくいのですが、間もなく閉館となります。閲覧をご希望でしたら明日、お出で頂いたほうが…」
「閲覧ではなく、貸し出しをお願いしたいのです」
貸し出しには規則がある。ロンドン大学の教職員、元教職員、大学院生、著名な研究者でなければ書物を持ち出すことはできない。それ以外は紹介状が必要である。
虎彦は若い女の顔を改めて眺めた。晴れやかな目、薄く紅潮したなめらかな頬。どう見ても十七、八歳だ。
「失礼ですが、どなたかの紹介状をお持ちでしょうか?」
ええ、と言って女は小さなバッグの中から折り畳んだ便箋を取り出して、虎彦に渡した。広げてみると、神経質な細かい文字で、「ミス・G・フィールディングを紹介いたします。ミス・フィールディングは小生の下でヨーロッパ近代史の研究にいそしんでおられます。便宜をはかって頂ければまことに幸いです」
署名は名前の通った女子大の史学部教授のものだった。
虎彦は女をそこに待たせておいて、奥の事務室にいる上司のギャレット氏に紹介状を持っていった。控えのサインと照合してギャレット氏は貸し出しを許可した。
「急いでもらってくれ。あと五分で閉館だ」
女は無人の閲覧室にぽつんと立って待っていた。途方に暮れた迷子のようで、虎彦は急いで傍に寄った。
「お待たせしました。結構です。カタログはあちらです。ご所望の本が見つかったら検索コードをこのカードに記入して持ってきて下さい。僕が書庫からお持ちしますから」
一息に説明してカードを差し出したが、女は困ったような顔をして、受け取らなかった。
「それが、書名がわからないのです」
「ならば著者名で引けばよろしいでしょう?」
「それも忘れてしまいました」
虎彦が呆れた顔をしたのだろう。女は恥ずかしそうにうつむいた。
でも、と女は顔を上げて訴えるように言った。
「その本の内容は覚えています。タイタニックの沈没を予言した本です」
なんだ、と虎彦は拍子抜けする思いだった。
「モーガン・ロバートソンの本ですか?」
女の顔がパッと輝いた。
「そう、その人でした。よくおわかりになりましたね」
「評判になりましたからね」
今から四年前、一九一二年四月十日、世界最大の豪華客船タイタニックは、鳴り物入りでサザンプトンを出航、ニューヨークに向けて処女航海に出た。そして四日目、北大西洋で氷山に衝突すると、わずか二時間後に沈没した。乗客乗員二千二百名に対して救命ボートの数は二十しかなかった。四時間後、救難信号を傍受した船が到着した時には、千五百人が氷点下の海に沈んでいた。
史上最悪の海難事故のニュースは全世界を駆け巡り、当時日本にいた虎彦の耳にも入った。二十世紀のテクノロジーの粋を集めた船が、氷山という自然現象の前にあっけなく沈んだことに衝撃を受けたのを憶えている。
モーガン・ロバートソンは、虎彦は知らなかったが、アメリカではかなり名の売れた作家であるらしい。彼の小説「タイタンの沈没、または役立たず」に出てくる海難事故は、タイタニックの沈没をそっくりなぞったようによく似ている。小説に描かれた豪華客船タイタン号は、四月のある日、北大西洋で氷山に衝突して沈没する。救命ボートの数が足りず、乗客乗員の半数以上が犠牲になるところまで同じだった。
ところが、「タイタンの沈没」が出版されたのはタイタニックの事故の十四年も前の一八九八年なのだ。当時、ホワイトスター社は、まだタイタニック建造の企画さえ立てていなかった。
「確かに、不思議な暗合です。タイタニックに興味がおありなのですか?」
虎彦が尋ねると、女はええ、とうなずいた。
虎彦はちょっと考えた。彼女が慣れないカタログで検索コードを探し出すのを待っているよりも自分が探した方が早い。それに、ギャレット氏が閲覧室の向こう端に現れた。早く戸締りしたくて様子を見に来たらしい。
「僕が探してきましょう。ここで待ってて下さい」
女の感謝の言葉を聞き流して、虎彦はさっさとカタログでコードを探し、奥の書庫に向かった。ところが、書棚に本は無い。調べてみると、貸し出し中だった。舌打ちして閲覧室に戻ると、女は閲覧テーブルの椅子に腰掛けていて、その傍に立ったギャレット氏が屈みこむような姿勢で何かしきりに話しかけている。
虎彦の姿を見た女が、あ、と声を上げて立ち上がった。ギャレット氏も身体を伸ばして不機嫌な顔でこちらを見た。
「遅かったじゃないか。昼寝でもしてたのかね?」
ギャレット氏は無視して、虎彦は女の方に向いた。
「あいにくでした。他の方に貸し出し中です」
「まあ、すると、しばらく待たなければなりませんの?」
女の声には困惑の響きがあった。
「お急ぎなんですか?」
「ええ」
ギャレット氏は少し離れた所で突っ立ったまま、ちらちらとこちらを見ている。
「じゃあ、こうしましょう。この本を借りている方は週に二、三回はお見えになるんです。差し支えなければ一度返して頂くように頼んでみます」
「ああ、そうしていただければ助かります。本当にご親切に」
女の声は喜びに弾んでいた。虎彦も気分がいい。ギャレット氏がポケットから懐中時計を取り出して眺めているのも気にならない。
「本が戻ったらお知らせしますよ。電話番号を教えてください」
女は黙っている。
裕福そうな身なりからして、家に電話がないとは考えられないので、そう言ったのだが、不用意な発言だっただろうか。
「それとも、電報にしましょうか」
「いえ、また、四、五日うちにわたくしの方からお伺いします」
女は丁寧に礼を言うと、滑るような優雅な足取りで去っていった。スイングドアが閉まると、甘い花のような香りと共に、なんとも言えないやるせなさが虎彦の胸に残った。
「何をぼうっとしてるんだ」
ギャレット氏の言葉で、虎彦は我に返った。
「一晩中ここにいるつもりかね? さっさとカウンターを片付けてくれ」
皮肉は聞かなかったことにして、虎彦はカウンターの上に散乱しているメモや鉛筆、輪ゴムやスタンプをしまい始めた。
「それと、さっきの君の態度だがね、あれは良くないね」
虎彦は手を止めた。非難されるようなことは何もしていないはずだ。だが、ギャレット氏の目は冷たかった。
「ああいう良家の令嬢をお待たせしてはいけない。やむを得ずお待たせする時には、椅子を勧めるものだ」
「令嬢、ですか?」
「もちろん。彼女の靴を見たか?」
「いいえ」
「あれは特別注文の靴だ。あの娘はかなりいい家の出だな」
若いのに、きちんとした発音で丁寧な口をきく女だとは思っていた。
「靴を見ればわかるんだよ。乳母日傘だ」
ま、外国人には中々わからないだろうがね、とギャレット氏は付け加えた。
虎彦の日本の家も相当の暮らしをしているが、特別注文で靴をあつらえたことはない。英国の「いい家」がどんなものなのか、見当もつかなかった。あの若い女が入ってきた時の妙な違和感はそのせいか、と思った。書名も著者名もわからずに本を借りに来るのんきさも、非常識ではなく、育ちの良さゆえか。
「まあ、心配することはない。君が外国人なのは彼女も承知だろうから、失礼は見逃してくれるだろう」
虎彦は今日の日誌に現在の時間を書き入れ、サインをすると、引き出しにしまった。
「終りました」
閉館間際の思いがけない訪問者のせいで、虎彦がカクストン・ホールに着いた時には、約束の時間を十分ほど過ぎていた。へスターはもう、ホールのロビーで待っていた。
「悪かった、出がけに少しゴタゴタして」
息せき切って言い訳する虎彦をヘスターは軽くさえぎって、わたしも今来たばかりよ、と言った。
「お食事、まだなんでしょう? 何か軽いものでもつまむ?」
ロビーの隅の小さな売店で、虎彦はサンドイッチとコーヒーを買った。ヘスターは何もいらないと言う。壁際に並んだ丸テーブルの一つを選んですわった。サンドイッチは乾いてぱさついていたが、コーヒーは十分に熱く、おいしかった。虎彦はようやく人心地がついたような気がした。
テーブルの向かい側で、ヘスターはゆっくりと煙草を吸っている。夢見るような表情が灰緑色の瞳に浮かんでいた。こういう時、虎彦はヘスターを遠く感じる。何を考えている?と聞きたいのに、気後れしてしまう。自分が異邦人のせいだろうか? ちらとそんな考えが頭の隅をよぎるが、口に出せばヘスターが怒り出すのはわかっている。
ヘスター・セインズベリーとは去年の冬、友人の家で知り合った。
「日本の劇作家でいらっしゃるんですって?」
ヘスターは好奇心をあらわにして話しかけてきた。
「どんな劇をお書きになるの?」
他の友人達などそっちのけで、すっかり話し込んでしまった。ヘスター自身も詩を書き、木版画の制作にも興味を持っていた。女にしては背が高く、虎彦と並ぶと彼女の方が二インチは高い。手足も長く、痩せているせいで、どことなく蜘蛛を思わせる。世間一般でいう美人ではないだろうが、聡明で公平な心をもっている。英国人にありがちな外国人への偏見も持たなかった。何よりも、虎彦にとって、心許せる友人で、新しい演劇を作ろうという夢の同志だった。二人の間にそれ以上の気持ちが芽生えるかどうか、それはまだ虎彦にもわからない。そういう関係に踏み込むのが恐ろしくもあった。ヘスターを大切に思えばこそ、軽はずみな行動で失いたくなかった。
「図書館で何があったの?」
ヘスターの言葉で、虎彦は物思いから引き戻された。
「え、何だって?」
「さっき、言ったでしょう? ゴタゴタしたって」
虎彦はひやりとしたが、努めて軽く、大したことじゃないよ、と言った。
「キアランが立ち寄ったんで、ちょっと話してただけだ」
ヘスターに、あの奇妙な若い女のことは話したくなかった。ギャレット氏との不愉快な会話はもっと話したくない。
ヘスターは探るように虎彦の顔を見ていたが、それならいいけど、とつぶやいた。
ヘスターのこういう鋭さには時々驚かされる。「女の勘ってやつだよ。あなどっちゃいけない」と日本の「白樺」の友人たちなら言っただろう。気のおけない年長の友人達は年若の虎彦のラヴ・アフェアをよくからかった。先輩面で説教したり、訳知りらしくアドバイスする連中に、虎彦も遠慮の無い口調でやり返したものだ。突然、望郷の思いが爆発するようにこみ上げてきて、虎彦は喉につまった固まりをコーヒーを流し込んでやり過ごした。幸い、開演を知らせるベルが鳴り、虎彦とヘスターは立ち上がって客席に急いだ。すぐにライトが落ち、会場は闇に呑み込まれる。
咳払いの音。客席のあちこちでプログラムががさがさと鳴る。
虎彦はこの瞬間が好きだった。この暗闇は日常から非日常へ抜けるトンネルだ。一瞬前までビジネスを、婦人参政権運動を、西部戦線の戦況を、戦時特別増税を、子供の教育を、ツェッペリンの空襲を、医者の予約を、新しい帽子の流行を、夜食の献立を話題にしていた人々が一斉に口をつぐむ。現実は一瞬にして消え失せ、人々は夢の世界へ導かれる。いや、夢ではない。そこにあるのは、もう一つの現実だ。日常の雑多なガラクタにまぎれてふだん我々の目にとまらない、真実という名の捉えにくい現実を、虚構だからこそ、舞台は描くことができるのだ。それこそが、虎彦を魅了してやまないもの。故郷を捨ててヨーロッパへ船出させたものだ。
暗闇に炎が一つ、現れた。また一つ。間を置いてまた一つ。全部で七つの炎が現われると、舞台は薄ぼんやりと明るくなった。さっきの炎は舞台上のあちこちに置かれた蜀台の上で燃えているろうそくの炎だった。どうやら、これ以上、舞台を明るくする気はないらしい。電気による照明は最低限に抑えられている。薄明かりの世界は、ろうそくの炎が揺れるたびに、微かに明暗を変えた。虎彦の心臓は期待に高鳴った。
それは奇妙な、しかし美しい舞台だった。
舞台中央の高い壇上に、銀色の仮面をつけ、白い長い裾を引いた女が女王のように座している。その脇に控えた黒い僧衣の大男が、朗々と響く声で厳かに詩を朗誦した。虎彦はその詩を知っていた。スウィンバーンの「アタランテー」の最初の一節、春の森を走り抜ける猟犬を詠った部分だ。なるほど、と思う。壇上の銀の仮面の女王は、月の女神で狩猟を好んだアルテミスなのだろう。大男の朗誦が終わると、緑の木の葉模様の衣装を着けた若い男が現われた。彼は森の妖精パーンであるらしい。パーンはアルテミスを崇める歌を歌い、踊った。伴奏はドラムの音のみ。初めの子守唄のように優しい旋律、ゆるやかな動きは、やがて、かん高い叫びと痙攣するような激しい動きに変わった。とどろくようなドラムの音に合わせて、最後の大跳躍を果たすと、疲れきったパーンは地に倒れ、そのまま動かなくなった。舞台上に死んだような沈黙が降りた。客席からも咳ひとつ、きぬずれの音ひとつ聞こえない。一分、二分。壇上の女王が立ち上がった。ヴァイオリンを手にしている。澄んだ、清らかな音色が劇場内に満ちた時、すすり泣きの声が客席のあちこちから洩れた。
「驚いたね。感動したよ」
幕が下りてロビーに出ると、虎彦はヘスターに言った。
「ロンドンもミュージカルコメディばかりじゃないんだな」
ヘスターも、目の縁を少し赤くしていた。
二人とも興奮していて、このまま帰る気にはなれなかったので、パブにでも寄っていこうかと相談していると、虎彦の肩を後ろから誰かが叩いた。振り返ると、図書館でよく見かけるラテン文学者のノートン教授が微笑んでいた。
「奇遇だね。君は、そうか、劇作をやるんだったね」
虎彦がヘスターを詩人として紹介し、教授は暖かい笑みを浮かべて、若い人が詩作に興味を持ってくれるのは心強い、と言った。
「ところで郡君、この舞台、どう思ったね?」
「素晴らしいですね」
「ふむ。わしはこれから作家兼演出家の家でのレセプションに招かれてるんだが、どうかね、一緒に?」
ちらりとヘスターを見ると、ヘスターもうなずいて、ぜひ、と言った。
アレイスター・クロウリーは、強烈な印象を虎彦に与えた。
虎彦はすぐに、舞台上の黒衣の僧が彼であったことに気がついた。
背は高い。剃りあげた大きな頭の両側に、先端が獣のようにとがった耳が突き出している。太い円柱のような首がそれを支え、がっしりした広い肩に続いている。高い鷲鼻といい、赤く肉感的な唇といい、容易に忘れることのできない容貌だった。中でも印象的なのはその目だ。ほとんど瞬くことがない。突き刺すように凝視しながら、何も見ていないようでもある。モノマニヤの目だ、虎彦は思った。
クロウリーは大勢の客に囲まれて談笑していたが、教授が虎彦を紹介するなり、おお、と声をあげてがっちりと虎彦の手を握った。虎彦が思わず小さく悲鳴をあげたほど、力強い握手だった。
「日本の劇作家の方に見て頂けたとは光栄の至りです」
クロウリーは言って、マントルピースの方を指さした。そこには黒檀と象牙でできた巨大な十字架の下に、仏像と古代エジプトの神像が仲良く並んでいる。ジンクレティズムというにはあまりにも奇妙な光景だ。
「ご覧の通り、我輩は東洋の叡智から大いなる啓示を受けておる。近いうちにぜひ、日本へも行ってみたいと思っておるのです。ああ、ラドクリフ君」
クロウリーはそばを通りかかった男を呼び止めた。
「この青年はわざわざ日本から、我輩の『エレウシスの秘儀』を見にきてくれたのだよ、こちらの美しいご婦人と共に」
クロウリーは軽くヘスターに会釈した。
いや、そういうわけでは、と虎彦が言葉を挟む間を与えず、クロウリーは男を「スケッチ」誌の記者だと紹介した。ロンドンでも名の通った週刊誌である。
ご感想は? と記者は尋ねた。美しい舞台でした、と虎彦は正直に答えた。クロウリーは満足気である。
「しかし、あれは『エレウシスの秘儀』とは呼べないんじゃないか」
ノートン教授が口を挟んだ。
「専門とは違うが、わしも古代史は少しはかじっとる。古代の『エレウシスの秘儀』は農耕神のデーメーテールとその娘のペルセフォネーを讃えたものじゃなかったか」
「もちろん、今夜の『エレウシスの秘儀』は全く新しい、我輩のオリジナルであります」
クロウリーはしゃあしゃあとして答えた。
「新しい時代には新しい儀式を。今夜の儀式は、古い、力衰えた神を追放し、新時代に君臨する新しき神を呼び覚ます。笑いながら征服する幼児、若きホルスを」
クロウリーの目は電光を発するようだった。両手を大きく広げ、天を仰いだ。
「すべての男女は星である。新しい時代が始まる。古い神に代わって、人間の意志の力がこの世界を統べる時代がやってくる」
部屋の中のすべての人間が、魅せられたようにクロウリーに注目していた。電気をはらんだような沈黙を落ち着いた声が破った。ヘスターの声だった。
「その、古い神というのはどの神なのですか?」
「あれです!」
クロウリーはさっと身をひるがえして、マントルピースの上の十字架を指さした。
「殺される神、冥界に君臨する青白きオシリス! 母の時代、イシスの時代はすでに過ぎた。父の時代、オシリスの時代も今や過ぎようとしている。新時代こそ、子の時代、ホルスの時代とならん!」
虎彦は居心地が悪くなって目を伏せた。劇作家としての、演出家としてのクロウリーは尊敬するが、このクロウリーはいただけない。神がかりは苦手だ。そっと周囲の様子をうかがうと、陶酔の表情を浮かべてクロウリーの演説に聞き入っている人もいるが、うつむいて自分のつま先を熱心に眺めている者も少なくない。無理もない、と思う。異邦人の自分より、クロウリーはもっと「違って」いる。彼は異端者なのだ。
「汝の欲するところを為せ、が法の全てでなければならぬ」
クロウリーが演説を締めくくると、ヘスターは落ち着いて尋ねた。
「あなたは、キリストを否定なさるのですか?」
「否定はしない。ただ、彼の時代はもう終わろうとしている」
「そして、あなたこそが新時代を開くと?」
問いには微かに皮肉が感じられた。
「さよう」
一言で答えたクロウリーに、若い男が寄り添った。パーンを演じた青年だ。
「我が師はすべてを見通す力をお持ちです」
「星の運行、大地の息吹。真の熟達者には世界の行く末を知るなどたやすい。まして人の運命においておや」
「信じられないわ」
ヘスターはあっさりと言った。
「宇宙は因果律が支配している。原因があって、結果がある。ならば未来は誰の手にも届かないはずでしょう? その時が来るまでは」
「因果律を絶対のものと思うのはまちがいですぞ、お嬢さん」
意外にも、ノートン教授の声だった。
ヘスターが怪訝な顔を向けると、教授は重々しくうなずいてみせた。
「因果律が否定されておるケースも多々、あるのです。未来予知といわれるものですな」
「モーガン・ロバートソンの本だ」
虎彦は思わず声をあげた。舞台に強い印象を受けたせいで、図書館の一件をすっかり忘れていたが、今夜、教授にホールで会えたのは幸運だった。ロバートソンの本を借り出しているのはノートン教授なのだ。
「ほう、郡君はあの本をご存知か。そう、最近ではあのケースが有名ですな」
ノートン教授はヘスターに向き直った。
「モーガン・ロバートソンはアメリカの作家でな、十四年前、タイタン号という豪華客船の沈没を描いた小説を書いた。それがタイタニックの沈没にそっくりでな。評判になった」
「それは偶然でしょう?」
「偶然にしてはできすぎだ」
いつの間にかクロウリーとその取り巻きはいなくなっていた。自分の儀式と関係のない話題には興味がないらしい。
「まず、船だ。一方はタイタン、もう一方はタイタニック。どちらも大西洋を横断する豪華客船で『アンシンカブル』沈むことなど有り得ないと言われた。タイタンは全長八百フィート、タイタニックは八百八十二フィート九インチ。最高速度はタイタンが二十五ノット。タイタニックは二十二・五ノット。よく似ておるだろう?」
読んだばかりと見えて、教授はすらすらと数字を並べた。
「タイタンは四月のある夜、ニューファンドランド島の沖合いで氷山にぶつかり、船首右舷を損傷して沈没する。タイタニックは一九一二年四月十四日午後十一時四十分、同じくニューファンドランド島沖合いで氷山に遭遇、避けようとして避けきれず船首右舷の喫水線下を損傷、六つの防水ブロックに浸水して沈没している」
「それは…」
教授は手をあげてヘスターをさえぎった。
「まだある。救命ボートの数はタイタンが二十四、タイタニックが十六プラス折り畳み式ボートが四、どちらも乗客乗員の半数を載せるにも満たない数だった。結果としてタイタンでは二千五百名の半数以上が死亡、タイタニックでは二千二百二十四名の乗客乗員のうち、千五百二名が死亡している。どうだね? 妙な気がしてきただろう?」
ヘスターは黙っていた。
「しかし、郡君。君も『タイタン』を読んだのかね?」
「ええ、大分以前に。ただ、さっき思い出したのは、今日、図書館にその本を借りに来た人がいたからなんです」
虎彦が今日の出来事を話すと、教授はあっさりと返却を承知した。
「明日、図書館に届けておく。もし君がいなかったら、ギャレット氏に預けておこう」
銀の盆にカクテルグラスを載せた若い女が回ってきた。喉が渇いていた虎彦は一つ取って口にした。冷たくて甘く、おいしい。フルーツジュースにリキュールを混ぜてある。なんだか頭の芯がぼうっとしてくるようだ。
どこからともなく、ヴァイオリンが聞こえてきた。さっきの若い女が弾いている。そうか、彼女がアルテミスを演じていたんだな。僕は月の女神から飲み物を頂いたんだ。マントルピースの傍に立ったクロウリーが、虎彦に向かってグラスを掲げて、片目をつぶってみせた。それを最後に、虎彦の記憶は途切れた。
**********
テームズがインクを流したように黒くよどんで見える堤に、一人の男が立っていた。対岸には遊覧船の船着場があるが、この時間には無人で白いボートが一双、横腹を見せて静かに揺れているだけだ。男はもう一本、煙草に火をつけると、マッチを足元に投げ捨てた。草むらの中のこおろぎが一瞬、鳴りをひそめたが、すぐにうるさく演奏を再開した。男は苛立たしげに顔をしかめたが、そのまま煙草を吸い続けた。その煙草も短くなった頃、待ちかねた足音が背後から近づいて立ち止った。男は振り返ると、「久しぶりだな」と、皮肉を込めた挨拶を送った。流暢な英語だが、子音の発音にわずかにクセがある。新来者は相手の皮肉をどこ吹く風と受け流した。
「そうでもないさ。二ヶ月前に会ってる」
「二週間に一度は連絡するように言ってあるはずだ」
「そっちの都合ばかり言ってもきけないな。こっちだって忙しい」
「人数は集まったのか」
「七人」
「信用できる連中か?」
「気に入らないなら、無理にとは言わない」
沈黙。相手は説明を待っている。新来者は渋々答えた。
「全員、筋金入りのフェニアンだ」
「リーダーは?」
「医者に化ける」
「よかろう」
「海軍省の方はどうなってる?」
「再徴収はほぼ決定的だ」
「時期は?」
「八月の末あたりになるだろう。準備を急いでおけ」
「了解」
「エレウシスの秘儀」を見た翌日、虎彦はひどい頭痛に襲われて図書館を休んだ。そのせいで、不機嫌な顔のギャレット氏から「タイタン」を受け取ったのは、二日後であった。ノートン教授と顔を合わせたのはさらにその一週間後。礼を言って「タイタン」を返すと、教授は、もういいのかい? と驚いた顔をした。
「この本じゃないんだそうです」
「この本じゃない?」
「ええ」
虎彦が図書館に現われた若い女に「タイタン」を差し出すと、女は、あら、でもこれは違います、と言ったのだ。
「これは小説でしょう? わたくしが探しているのは、モーガン・ロバートソンが書いた、タイタニックの沈没を予言した本です」
虎彦は狐につままれたような気がした。
「しかし……一般にはこの本が…この小説がタイタニック沈没の予言だと言われてるんですが」
女はいいえ、と言った。
「ちゃんとした予言の本があるはずなんです。タイタニックだけじゃなく、他の予言も書いてあります。王様の馬に殺された女の人とか、吹雪の中をさまよう男の人とか…」
知らないなあ、と虎彦が言うと、女は傷ついたような顔をして、本当にあるんです、と強調した。小さな子供が、嘘じゃないもん、と抗弁する時のような口調だった。
「その本を読んだことがあるのですか?」
「ありません」
「じゃあ、なぜ内容を知ってるんです?」
「人に聞いたんです。ただ、本のタイトルは憶えてなくて……ごめんなさい」
謝ることはありませんよ、と言って、虎彦は少し考えた。若い女はすがるような顔をしてこっちを見ている。手にしたバッグを、関節が白くなるほど固く握りしめている。
「探してみましょう」
われながら物好きだな、と思いながら虎彦は言った。
「探してくださるの? 本当に?」
「この図書館にはありませんが、誰か知っているかもしれない。モーガン・ロバートソンの本に間違いないんですね」
「はい」
「見つかったら、連絡しますよ。どこへお知らせすればよいですか?」
「サヴォイホテル」
見つかったのか? と教授は聞いた。いいえ、と虎彦は答えた。
「他の大学の図書館や地方の図書館にも問い合わせたんですが、誰もそんな本は知らないんです。大英博物館にも聞きあわせましたが、やはりありませんでした」
「出版社はどうだ?」
「ロバートソンの本を出している英国の出版社には聞いてみました。エージェントもそんな本は知らないという返事です。アメリカの出版社まではちょっと…僕の手には負えないので」
「ふむ。そっちはわしが調べてみよう」
教授が? と目を丸くした虎彦に、ノートン教授は照れたような顔をした。
「わしも未来予知には興味があるからな。その……フィールディング嬢か…彼女が言った通りだとするとすごい事だぞ。王様の馬に殺された女の人というのは、エミリー・デイヴィソンのことじゃないのか?」
一九一三年のダービーで、レース中のジョージ五世所有の馬の前に飛び出した女が、蹴り倒されて死亡したという事件があったのだ、と教授は虎彦に教えた。
「婦人参政権運動の闘士でな、王様の馬に『女性に投票権を』と書いた旗をつけようとしたのだと言われている。それに、吹雪の中をさまよう男たちというのは、スコットの南極探検隊のことじゃないか?」
話しながら、教授の興奮は高まっていくようだった。
「郡君。もしかしたら、我々は今、未来予知の証拠を手にしかかっているのかもしれんぞ。彼女はその本がいつ出版されたのか言ったかね?」
「いいえ。何せ、タイトルもわからないのですから」
そうか、と言って教授は考え込んだが、すぐに顔を上げた。
「なんだ、簡単なことじゃないか。著者に聞けば一番確実だ。ロバートソンにすぐ、電報を打とう」
無駄ですよ、と虎彦は無表情に言った。
「モーガン・ロバートソンは昨年の春、ニュージャージーのホテルで心臓発作で死亡しているんです」
その日の閉館後、虎彦はヘスターとレスタースクエア近くのパブで落ち合った。ヘスターの向かい側に、芯の強そうな感じのする女性が煙草を吸っていた。ヘスターが、ミス・エディス・クレイグだと紹介した。
エディス・クレイグは英国の演劇界では有名人である。名女優エレン・テリーの娘で、若い頃は母と同じく舞台に立った。最近はむしろプロデューサーとして活躍していて、「パイオニア・プレイヤーズ」という劇団を率いている。
「あなたの『道成寺』読ませて頂きました。詩的でとても美しい戯曲です。あれは、日本の能のスタイルなのですか?」
虎彦はクレイグの賛辞に喜ぶよりは緊張した。クレイグは素人ではない。実際に舞台を作っているプロだ。うっかりした返事はできない。
「日本ではよく知られた伝説ですから、能にも歌舞伎にも同じ主題の曲があります。ただ、僕の『道成寺』は原曲のテーマやおどろおどろしい雰囲気をそのまま生かしながら、台詞や装置をもっとモダンにしました。そのために、能や歌舞伎に特有の約束事は無視しています。その意味ではむしろ西洋演劇に近いでしょう」
クレイグはうなずいた。
「わたしもそう思いました。ミスター・イエーツからあなたが上演された能の話を聞いたことがあります。能の台詞はとても詩的ですし、舞台も簡素で美しい。観客の想像力に強く訴えかける力を持っている。素晴らしいと思います。ですが、あのスタイルで上演しても一般の英国人の観客はついてこれないでしょう。残念なことです」
虎彦がアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イエーツとアメリカの詩人でジャーナリストでもあるエズラ・パウンドの前で能を演じたのは去年の六月だ。日本を離れて三年、ようやく叩き続けた固い扉が開かれつつあるようだった。
「『パイオニア・プレイヤーズ』は新しい戯曲を求めています。二十世紀にふさわしい新しい価値観を広め、新しい社会を展望するような戯曲を、です。どうでしょう、『道成寺』のように、能の詩的な台詞と夢のような雰囲気を保った、モダンな舞台劇をわたしたちのために書いて頂けませんか?」
虎彦は陶然となった。
クレイグが帰った後、虎彦とヘスターは新しい戯曲の成功を祈って、エールで乾杯した。
「どんな戯曲を書くつもり?」
「まだわからないな。いくつか腹案はあるが」
「彼女があなたの『道成寺』を気に入ったのは、女の自由奔放な情念が中心にあるからだと思う。フェミニストとして有名な人なのよ」
「それじゃ、婦人参政権にも賛成なんだろうな」
「もちろん。わたしの同志よ」
虎彦は、もう一人の婦人参政権論者のことを思い出した。
「二、三年前に、ダービーで事故があったんだって?」
「エミリー・デイヴィソンのこと?」
「そんな名前だった。王様の馬の前に飛び出したって」
「馬鹿なことをしたと言う人もいるけど、わたしはそうは思わない。自らの信ずるところに向かって、命懸けで戦ったのよ。戦うのは男の専売特許じゃない」
どうやら、二十世紀が新しい時代の幕開けだという、クロウリーの意見はそれほど的外れでもないらしい、と虎彦は思った。この女たちを見てみろ。男に頼らず、自分の足で大地にしっかり立とうとしている。男にとっては手強い時代になりそうだ。
「でも、どうしたの? いきなりデイヴィソンの話なんて持ち出して」
虎彦が予言書の話をすると、ヘスターはあまりいい顔をしなかった。
「何かの勘違いじゃないのかしら。予言なんてわたしには信じられない。それに、あなたは今、そんなことに関わってる時間はないんじゃないの?」
「僕にできることはもう何もないよ。後はノートン教授次第さ」
虎彦はややむっとして答えた。ヘスターには感謝してるし、彼女が正しいこともわかっているが、あまり指図されると反発したくなってくる。
「とにかく、教授が何か言ってきたら、わたしにも知らせて」
ダメだ、とも言いかねて、虎彦は承知した。
教授の声は興奮しきっていた。図書館の電話なので、後でギャレット氏に文句を言われるだろう。それを思うと憂鬱だったが、話を聞くうちに虎彦にも教授の熱がじわじわと伝わってきて、受話器を握る手が汗ばんできた。
「郡君。ロバートソンは予言書を書いていたよ。彼のアメリカのエージェントが覚えていた。タイトルは『カサンドラの予言』。ただ、この本は出版されていない。ロバートソンは原稿をトランクに入れて持ち歩いていたが、そのトランクが盗まれるかどうかして紛失したんだ。原稿紛失の後、ロバートソンはそのうちの一つのエピソードをを材料にして『タイタン』を書いたんだ。郡君、わしはそのフィールディング嬢に会わなきゃならん。もしかしたら、ロバートソンの原稿は誰かの手に渡って秘密に出版されたのかもしれん。彼女は原稿を持ってる人間を知ってるのかもしれんぞ。原稿が見つかれば、未来予知の証拠になる。いいか、ロバートソンがトランクを紛失したのは一八九七年のことなんだ。一八九七年だぞ! その時点で原稿にはタイタニックの沈没も、王様の馬も、南極探検隊もみんな書いてあったんだ。ぜひとも、わしはそのフィールディング嬢に会わなきゃならん!」
教授の声は、おしまいには叫ぶようだった。虎彦は受話器を少し耳から離した。
案の定、ギャレット氏は図書館の回線を私用のために延々と独占すると言って虎彦を非難した。かまうものか、と虎彦は思った。興奮のあまり向こう見ずな気持ちになっていた。ギャレット氏が閲覧室を出ていくやいなや、虎彦はサヴォイホテルへ電話をかけた。
翌日の午後、虎彦は教授とヘスターと共にサヴォイにいた。ティーラウンジは磨き上げられた宝石のようだ。テーブルには真っ白なクロスがかかり、花が飾られている。銀のティーポットと砂糖壷は午後の日を反射してきらきらと光っている。贅沢なドレスの貴婦人と仕立ての良いスーツに身を包んだ紳士がウエハースのように薄く華奢なティーカップを手に、低い声で話しながらお茶を飲んでいる。十分に間隔を取って置かれたテーブルの間を音も無くウエイターが行き来している。英国一流のホテルは、大英帝国が長い時間をかけて蓄積してきた富と力をさりげなく、しかし存分に誇示していた。
虎彦は落ち着かなかった。何も引け目に感じることはない。自分は日本人で、日本は英国に負けない長い歴史と文化を誇る国だ。頭ではそう思っていても、気圧されるようなこの感覚はどうしようもない。明治維新以来の欧化主義、欧米崇拝のつけがこんな所で露呈するのだとしたら、虎彦は明治の政治家連中に文句を言いたい。だが、ギリシア・ローマから連綿と続く西洋ヨーロッパ文化への畏怖と尊敬から発した居心地の悪さだとすると、甘受しなければならないだろう。ここは彼らの国で、自分は異邦人なのだ。
少し離れたテーブルで、場違いに大きな笑い声が響いた。ここで平気でいられる外国人は、アメリカの金鉱成金ぐらいだろう。格式に対抗できるのは、札束だけだ。
ヘスターは静かに煙草を吸っている。高名な医者の娘である彼女は、英国の階級から言えば中流の上というところか。真珠色のかっちりしたドレスはまわりの貴婦人のようにパリ仕立てではないだろうが、しっくりと場に溶け込んでいる。向かいにすわった教授は自分の発見に熱中していて、周りの様子など気にもせず、夢中でしゃべりたてている。これもまた、英国でたまに見かけるエキセントリックな学究として、違和感がないのだ。
「御説はよくわかりますけど、でも、教授」と、ヘスターは教授が一息ついた隙を狙いすましたように口を挟んだ。
「未来予知がもし、あるとすれば、わたしたちの未来はあらかじめ決められていることになりませんか? 自由意志はどうなります? わたしたちがどう生きようと結果がもう決まっているならば、選択に迷うこと自体が馬鹿馬鹿しい。いいえ、生きること自体が茶番に過ぎない。そうなりませんか?」
教授はにやりと笑った。
「昔から言い古されてきた議論ですな。宿命か自由意志か」
「予期せぬ出来事があるからこそ、人生は楽しい。違いますか?」
「予期せぬ出来事があるからこそ、人生は不安に満ちている、とも言える」
教授とヘスターは無言のまま睨みあった。先に口を開いたのは教授の方だった。
「未来予知については、二つの考え方ができる。一つは、未来は一つしかなく、予知者はそのただ一つの未来を垣間見るというもの。もう一つは、あり得る未来は無数にあり、予知者はそのうちの一つをたまたま見たというものだ。予知者の見た未来は、起こるかも知れず、起こらないかもしれない。わしは後者の考えをとっている。自由意志―選択の余地を残すからな」
「もし、わたしたちの意志によって一つの未来が起こり、別の未来は否定されるとすれば、それは単に因果律の法則に従っているだけということになりませんか? それでは未来予知にならないでしょう?」
「時間については、まだわからないことが多いのだよ。だからこそ、人は昔からこの問題に魅せられてきたんだ。どうかね、郡君」
いきなり意見を聞かれて、虎彦は少しあわてた。
「僕はそんな哲学的なことは考えませんでした。僕が不思議に思ったのは、ロバートソンはアメリカ人なのに、なぜ、英国の出来事ばかり予言したのだろうということです。タイタニックでは、アメリカ人も亡くなってますけど、エミリー・デイヴィソンの事故は、アメリカ人にはそれほど関係ないでしょう?」
そうなんだ、と教授は言った。
「わしも気になって昨日からあれこれ聞きまわった。結論から言うと、あの予言をしたのは、ロバートソン本人じゃないんだ」
「どういうことです?」
「ロバートソンは単なる記録者だった。予言のもとになったヴィジョンを見たのは、別の人間だった」
ヘスターと虎彦は黙って、教授の言葉の続きを待った。
「『タイタン』は長らく絶版だったが、タイタニック沈没のあと再版されて評判になった。それで、ロバートソンのことを思い出した男がいてね。わしの昔の同僚なんだが、その男が言うには、二十年ほど前の夏、ロバートソンは英国に滞在していたんだ。どこか田舎の屋敷に客になっていて、そこで聞いた話をもとに「タイタン」を書いたと言っていたそうだ。どこの屋敷かは、その男も覚えていなかったが。ロバートソンは彼にその話をした人間を『カサンドラ』と呼んでいたそうだ」
「カサンドラ……ホメロスに出てきますね」
虎彦の言葉を、ヘスターが補足した。
「トロイのプリアモス王の娘。アポロから予言の力を授かり、トロイの滅亡を予言した」
「すると予知者は、イギリス人の多分、女ということになりますか」
虎彦が言うと、イギリス人とは限らないだろう、と教授は言った。優れた千里眼の能力者は昔からアイルランドの方に多い。
「その屋敷の滞在客か、メイドの中にアイルランド出身者がいれば、まず、当たってみたいところだ。フィールディング嬢がその手がかりを与えてくれるんじゃないか、と期待しとるんだが……遅いな」
教授の言葉で、虎彦は懐中時計を見た。約束の時間を三十分過ぎている。
「たしかに、ここと言ったんだな」
「まちがいありません」
虎彦たちはそれからさらに一時間待ったが、若い女は現われなかった。フロントに尋ねてみると、ミス・G・フィールディングは今朝のうちにチェックアウトしていた。記帳されている住所は明らかにでたらめだった。そこに書かれているブルームズベリーの住所は、ロンドン大学付属図書館の住所に他ならなかった。
教授はあきらめなかった。ミス・フィールディングが最初に持参した紹介状を書いた女子大の教授に会ってみる、と言った。ヘスターも同じ方角へ行く用があるので、教授が停めたタクシーに便乗した。
虎彦は一人になって、少しほっとした。昨日から熱に浮かされたように走り続けてきて、ここにきてようやく自分を取り戻したような気がした。教授の熱に当てられて、何をそんなに夢中になったものやら、我ながらおかしかった。
ロンドンの町は散策にいい。虎彦は石畳にカツン、カツンと軽い足音を響かせながら、背の高い、石造りの二階家が並ぶ通りをゆっくりと歩いた。車道を通り過ぎる自動車の間を縫ってベルボーイの制服を着た少年が言伝てを持って走っていく。ミルク缶を満載した荷馬車がのんびりと通る。ベルを鳴らしながら新聞を売る少年。乳母車を押しながら散歩する黒いお仕着せの乳母たち。色鮮やかな日傘で西日をよけて歩くご婦人。タクシーを呼び止めるシルクハットの紳士。短い上着の下にエプロンをつけて、配達にまわっている御用聞き。色々な人生が息づいているのがロンドンという町だ。この人々の未来がすべて定まっているなどということがあるのだろうか。予期せぬ出来事があるからこそ、人は明日に希望を持つ。教授よりはヘスターの方に加担したくなってきた。
そしてまさにその予期せぬ出来事が、いきなり虎彦の前に立ちふさがった。
「美しい夕暮れですな、ミスター・郡!」
巨大な身体が虎彦の行く手をふさいでいた。
「我輩をお忘れかな?」
簡単には忘れられない容貌である。今日はシルクハットで坊主頭が隠れているが、モノマニヤの目は虎彦をひたと見据えていた。
「ミスター・クロウリー。失礼しました、考え事をしていたもので」
「そのようですな。サヴォイでは皆さん、深刻な話をなさっておられるようで遠慮しましたが、その後、何度か声をかけたのですよ。どうです、再会を祝って我輩のフラットで一杯やりませんか」
虎彦は怖気をふるった。あの甘いリキュールのような飲み物で、あっけなくノックダウンされた翌朝の偏頭痛を思い出したのだ。
「薬物が混ざってたんだと思う。アヘンじゃないかと思うけど」
正体のない虎彦の身体をタクシーで下宿まで送り届けてくれたヘスターは言った。
いや、僕は家へ帰るところで、と言う虎彦の肩を、クロウリーの大きな手がぐいと押さえた。
「それではご自宅までお送りかたがた、あの時中断された議論の続きをやりますかな」
「議論?」
「新時代の人類と、その可能性」
さあさあ、と有無を言わさずクロウリーの肉厚の手のひらが、虎彦の背を押した。
クロウリーは雄弁だった。人類はいまだ進化の途上にある、ほとんどの人間は自らの能力を知らず、その可能性を意識さえしないまま生涯を終える、その可能性の扉を開く鍵となるものこそ、意志の力なのだ、と言う。
「すべての男女は星である」
クロウリーは力を込めて言った。
クロウリーの議論が正しいかどうかはわからないが、この男は一種奇妙な力、動物的な生気とでもいうべきものを発散している。虎彦はキアランがクロウリーを「魔術師」と呼んだことを思い出した。
「すると、魔術も、その人類の可能性の一部というわけですか?」
モノマニヤの目に火がともった。
「いかにも」
「中世に戻ったような気もしますが」
「なに、魔術の源泉は究極、意志の力にあるのです。まあ、見ておられるがよい」
クロウリーは足を速めて、前を行く一人の男のすぐ後につくと、その男の歩き方をそっくり真似始めた。男は右肩をやや上げて、首をうつむけ気味に、両手をぶらぶらと前後に振りながら歩いていく。その後ろから巨大な影のように、クロウリーの巨体がそっくり同じ歩調、同じ身振りでついていく。いきなり、クロウリーは石につまずいたように大げさにつんのめって転んだ。一瞬の後、前を行く男は、クロウリーとそっくり同じようにたたらを踏むと、つんのめって転んだ。クロウリーは素早く起き上がると、虎彦の方を振り返ってにやりと笑ってみせた。男の方は、両手と膝を地面についたまま、しばらく起き上がれなかった。やっと立ち上がると、自分を躓かせた石ころを探すように振り返った。何もない。男はすりむいた手のひらをズボンの腿にこすりつけると、再び歩き始めた。時折、不思議そうに首をひねっては後ろを振り返った。
「一体どうして…」と、虎彦が言いかけると、クロウリーはなんでもないというように手を振った。
「魔術ですよ」
クロウリーの雄弁は留まるところを知らず、虎彦がタクシーを拾うと一緒に乗り込んで、そのまま下宿までついてきた。半分迷惑しながらも、虎彦が拒否しなかったのは、やはりこの奇妙な男に興味を惹かれていたからだろう。それとも、クロウリーの「魔術」にひっかかったのかもしれない。
虎彦の下宿の大家は退役軍人の未亡人で、成長した子供たちがオーストラリアへ移住した後、二階を独立したフラットに改造して貸していた。贅沢ではないが、清潔で明るい部屋だった。
虎彦が表の扉を開けると、大家のクーパー夫人が顔を出した。
「ミスター・郡、お客さんですよ」
「客?」
「図書館へ電話したら、もう帰ったと言うし、すぐお戻りかと思って二階で待ってもらってますよ。表に立たしとくわけにもいきませんからね」
ヘスター? と思ってとりあえずクーパー夫人に礼を言った。狭い階段を登って自室のドアを開けると、ソファにすわっていた若い女が立ち上がった。ミス・フィールディングだった。
あっけにとられて、虎彦は言葉が出なかった。女の方も黙ったまま会釈をした。そこに、クロウリーがひょいと首を伸ばして虎彦の後ろから部屋を覗き込んだ。
「これはこれは」と言うなり、クロウリーは突然、爆笑した。虎彦はぎょっとして、笑っている大男を振り返った。クロウリーは真っ赤な顔をして目に涙さえ浮かべて笑っている。
「これはこれは……全く意外だった。ミスター・郡、君は油断のならない男だ」
ようやく笑いを納めると、涙をぬぐいながら言った。呆然としている虎彦の背中を大きな手でどやしつけると、邪魔者は退散しよう、と階段を下りていった。その時になって、虎彦はクロウリーが何か誤解したらしいのに気がついたが、もう手遅れだ。クーパー夫人に挨拶する大声に続いて、表のドアが閉まる音が家中に響き渡った。
「ご迷惑だったでしょうか?」
ミス・フィールディングはもじもじしながら、小さな声で言った。
虎彦は帽子を脱いで部屋の隅の机の上に放り投げると、若い女に向き直った。
「ここで何をしてるんですか? なぜ、ティーラウンジに来なかったのです?」
抑えたつもりだったが、憤慨の響きは隠せなかった。ミス・フィールディングはうつむいて、すみません、と言った。
「二時間待ちましたよ」
「申し訳ありません。ただ……お一人ではなかったので」
「あれは、ロバートソンの本の調査に協力してくれている、僕の友人たちです」
正確には協力者はノートン教授だけだが、この際細かいことはいい。
「ここをどうして知ったのですか?」
「図書館の司書の方にお聞きしました」
「ミスター・ギャレットに?」
「はい。いけなかったでしょうか?」
いけないと言うより、困るのだ。虎彦は内心、頭を抱える思いだった。さっきのクロウリーでさえ、誤解した。あのギャレット氏が何を考えたか知れたものではない。明日、図書館で顔を合わせたら、どんな意地の悪い言葉が飛んでくるかと思うと、胃が痛くなった。
「ご迷惑でしたら、謝ります。申し訳ありません」
ミス・フィールディングはか細い声で言って、深々と頭を下げた。そう下手に出られると、虎彦も強く出られない。小さなバッグを握り締めてたたずんでいるほっそりした姿を見ると、自分が悪漢で、弱いものをかさにかかって苛めているような気がしてきた。虎彦は覚悟を決めた。なるようになれだ。虎彦はどすんと音をたてて安楽椅子にすわると、わざと乱暴に両脚を投げ出した。
「どうぞ、おかけになってください」
若い女はそっと、ソファの端に腰をおろした。
「お茶はお済みですか? 僕はもう済ませましたが」
これくらいの皮肉は許されるだろう。楽しいとは言いがたいティータイムだった。居心地が悪い上に、目の玉が飛び出るような値段のせいで、頭も懐も痛い。
「わたくしは結構です」
若い女はうつむいたまま答えた。長いまつげが影を落として、悲しそうに見えた。虎彦の胸がズキンと痛んだ。済んだことをうじうじと、男らしくないぞ、と自分を叱りつけたくなり、そんな自分の心の動きに狼狽した。
「ロバートソンの本ですが…」
気を静めて切り出すと、女がはっと顔を上げた。
「ございましたか?」
「幻の本でした」
虎彦は教授の話を伝えた。女は黙って聞いていたが、虎彦が話し終わると、ほっとため息をついた。
「そうですか。それではいたしかたありません。お手数をおかけいたしました。ありがとう」
女が立ち上がろうとするので、虎彦はあわてて、待ってください、と止めた。
「あなたは本の内容をご存知でいらした。出版されてない本の内容を、です。誰かに聞いた、とおっしゃられた。それは誰です? その人はロバートソンの原稿を読んだのですか?」
女は黙っている。
「なぜ、あなたはその本を探していたのですか?」
女はまだ黙っている。
「サヴォイであなたが記帳した住所はでたらめでした。なぜ、隠すのです?」
女の沈黙に虎彦は我慢できなくなった。
「いいですか。僕はあなたを助けたいと思った。なぜだかは僕にもわかりません。図書館に本が無いのだから、あとは僕の知ったことじゃない。でも、僕は放っておけなかった。お節介だと自分でも思いましたよ。でも、助けたいと思った。そりゃ、僕には何もできないかもしれない。でも…」
「ご親切には、本当に感謝しております。それなのに嘘をついて……申し訳ありませんでした」
女の目がまっすぐに虎彦を見つめた。青い、青い瞳だった。冬の海のように冷たく、底知れない深さを宿した目。
「いや、僕は謝ってもらいたいわけじゃ…」
「わたくしはあの本の内容を、誰かに聞いて知っていたのではありません。わたくしが話したのです」
「え?」
虎彦は混乱した。
「わたくしが、カサンドラです」