ハンドルに手をかけると、チリリン、とベルの鳴る音がして、ガラスのドアが開いた。レジの脇のデスクで伝票の計算をしていた女の子が怪訝そうな顔を上げた。
「五時までクローズです」
さおりは名刺を差し出した。
「LAジャーナルから参りました。水野と申します。マダムにお取次ぎ願えますか」
女の子はきょとんとしたが、名刺を受け取って奥へ引っ込んだ。
上品で、同時に親しみやすさを感じさせる店だった。窓に沿って、白い丸テーブルに、籐の椅子が並んでいる。コーナーに低いコーヒーテーブルと、クッションのたくさん載ったソファ、すわり心地のよさそうな安楽椅子。あちこちに鉢植えのゴムの木。どれもつやつやした緑の葉を光らせている。壁には油絵が何点か掛かっていた。
ロサンゼルスのタウン誌、LAジャーナルの編集長の吉岡は、この喫茶店「マアト」のオーナー、マダムさくらは、パサデナ界隈では知られた文化人だと言った。毎週、「音楽の夕べ」を催して、近隣のアマチュア音楽家に発表の場を提供している。年に一回、大きな絵の展覧会を主宰するし、読書クラブのメンバーでもある。さおりは、吉岡の電話を思い出していた。
「今度、『LA―秋の芸術鑑賞』の特集を組むことになった。特に女性を対象にするんで、インタビュアーにも女性を持ってきたいと、こういうことになってね」
それで、さおりに桜井響子、通称マダムさくらのインタビューの依頼がきたのである。まだ駆け出しのさおりにとっては願ってもないチャンスだ。
「水野はマダムさくらに会ったことがあるかい?」
さおりはちょっと悔しい思いで、「いいえ」と答えた。ロサンゼルスの日系コミュニティは、ハワイと並んでおそらく世界一の大きさだろうが、実際は狭い社会だ。ちょっと名前の知られている人は、皆、どこかで一度くらいは顔を合わせたことがある。だが、二年前にカレッジを出て働き始めたばかりのさおりには、まだまだ未知の世界だった。
「じゃ、いい機会じゃないか。僕は何度か会ったことがある。雰囲気のあるひとだよ。水野じゃ、貫禄負けしちまうかな」
さおりはむっとした。
「大丈夫です」
吉岡は、さおりのカレッジの先輩にあたる。それに二年前まで、ボーイフレンドでもあった。さおりの声がとんがったのにすぐ気づいて、笑い声をあげた。
「冗談だよ。とにかく、知っておいて損のない人だからね。大事にしろよ」
言われなくたってわかってる、とさおりは腹の中で毒づいた。が、表面はごく冷静に言った。
「わかりました」
「うん、じゃ頼むよ。ああ、水野」
「なんでしょうか」
「締め切りは守れよ」
吉岡が電話を切ったのを確認してから、さおりは力を込めて携帯のオフボタンを押した。いつまでたっても、さおりをカレッジ出たてのひよっことしてしか扱わない吉岡に腹を立てていた。それでも、吉岡が好意でこの仕事を回してくれたのはわかっている。本当なら、さおりより実績のある女性ライターはいくらでもいるのだ。負けたくない、と思った。
さっきの女の子がコーヒーを持ってきたが、またすぐに奥へ引っ込んでしまった。じっとしていられずに、さおりは店内を歩き回って、壁の絵を眺めた。入ってすぐ正面の壁に、羽根の冠をつけ、翼を広げたエジプトの女神の絵が掛かっている。壁画によくあるように、女神のくっきりとした横顔は、無表情に宙の一点を見つめている。永遠を見据える神の目だ、とさおりは思った。
絵の右隅にKSのイニシャルがある。きっと、この界隈の画家の作品だろう、と思いながらさおりが次の絵の前に移動しようとした時、後ろでチリリン、とベルが鳴った。振り返ると、若い金髪の男が、小柄な赤毛の女の子を連れて店に入ってきた。
男の方は白人だが、女の子は顔を見ると日本人のようだ。十八ぐらいか、まだ若いその顔は苦痛にゆがんでいる。見ると、男の右腕が女の子の左肘をがっちりと押さえ込んでいた。男はさおりには目もくれず、女の子を引きずって、そのまま店の奥へ進んでいこうとした。
「放してよ」
女の子が立ち止まって男の手を振り払った。アクセントからすると、やはり日本人。男はものも言わず、また腕をとろうとしたが、女の子は強情だった。
「あたし、そっちへはいかない。ここにいる」
手近の椅子にすわると、脚を組んだ。にっと男に向かって笑ってみせる。
「ここで待ってるって、マダムに言ってよ」
男はちらりとさおりの方を見て、ここで騒動を起こすのはまずいと判断したらしい。そのまま奥に入っていった。男が消えるとすぐに、赤毛の女の子は椅子から立ち上がった。跳ねるような足取りでさおりの隣に来ると、エジプトの女神の絵を指さした。
「この絵、気に入った?」
「ええ」
女の子はふふん、と鼻で笑った。
「あたしが描いたのよ」
さおりは女の子の顔を見直した。
リスを思わせる、くりくりとした大きな目をしている。その目が敏捷に動いて、上から下までじろじろとさおりを観察していると思うと、無遠慮に尋ねてきた。
「あんた、日本人?」
さおりはこの手の質問には慣れていた。曾祖母がロシア人で、そのためか、さおりの肌は日本人には珍しいほど白い。まっすぐおろした長い髪も、瞳も、金色に近い薄茶色である。でも、この礼儀知らずに説明してやる義理はない。さおりはいつもどおりの簡単な答えを返した。
「日本人です」
「ふーん。日系人かと思った。マダムの知り合い?」
「わたしは仕事で来たんです。雑誌のインタビューの」
女の子はくくくと笑った。
「日本人にも、ジャーナリストにも見えないよ」
さおりはむっとした。バッグから名刺を取り出すと、女の子に渡した。さっきの若い男が奥から出てきた。
「ジュン、来いよ。マダムが待ってる」
「やなこった」
「ジュン」
女の子は、ついとさおりに身体を寄せた。
「預かって、内緒で」
小声でささやくと、片目をつぶって見せた。
「ジュン、自分で来るかい、それとも……」
ジュンはぷいと身をひるがえして、男の先に立って奥へ入っていった。さおりはあきれて二人を見送っていたが、気を取り直して手近の椅子にすわった。上着のポケットの中で何かがころころする。手を突っ込んでみると、固い石のようなものが指先に触れた。なんだろうと出してみようとした時、後ろで低い音楽的な声がした。
マダムさくらは背の高い、立ち姿のきれいな女性で、明るい茶色の髪を大きなシニョンにまとめている。卵形の顔に長いまつげ、濃茶色の大きな瞳にデリケートな唇の美人だ。深緑のサマーニットのドレスがよく似合っていた。さおりはあわてて立ち上がって挨拶した。マダムは笑って、さおりにすわるように促した。
「すっかりお待たせしてしまって、ごめんなさい」
マダムはテーブルを挟んですわると、ピアニストのように細くしなやかな指を組み合わせた。
「大体のお話は電話でうかがってます。この店のコンサートや展覧会のことを聞きたいということですね」
「はい。あの、録音させていただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ、ご自由に」
テープの準備ができると、マダムは話し始めた。
「最初は、わたくしの友人の娘さんのためだったんです。彼女は大正琴を日系一世のおばあちゃんに習っていましてね。せっかく上達してもなかなか発表の場がないということで……」
マダムさくらの声は低くて絹のようになめらかだった。たまに、小さな鈴を振ったようにきれいな笑い声が挟まる。身体を動かすと、かすかに、甘い花の香りが漂ってきた。チャーミングという言葉がそのまま当てはまる女性で、いつの間にか、さおりは自分の立場を忘れて、マダムの言葉にうっとりと聞きほれていた。
予定の一時間が過ぎる頃、さっきの若い男が奥から出てきた。ちょっと失礼、とさおりに断わると、身体をかがめてマダムの耳に何かささやいた。マダムの顔がこわばって男の方に振り向けられる。突き刺すように鋭い視線だった。男が黙ってうなずく。マダムはさおりの方に向き直ると、強いて笑顔を作った。
「申し訳ないわ。ちょっと火急の用事ができて。まだ何かお聞きになりたいことがおありかしら?」
「いえ、もう」
聞きたかったことは全部聞いた。マダムの話術ときれいな微笑に魅せられて、つい、長居してしまっただけだ。さおりは立ち上がった。
「今日は、どうもありがとうございました」
「こちらこそ。明日の夜、七時から、この近くのカレッジの学生たちの演奏会があるんです。よろしかったら、いらしてください」
「喜んでうかがいます」
帰りかけて、さおりは一つ、聞き忘れていたことを思いついた。
「あの、すみません」
マダムはもう、奥へ入りかけていたが、振り返った。
「マアトという名前なんですが。MAATってどういう意味なんでしょうか」
「マアトというのは、創造と再生を司る、古代エジプトの女神です。自然の法と秩序を体現し、しばしばイシスと同一視されます。ほら、この絵がそうです」
マダムはさっきさおりが見ていた絵を指さした。
「マアトなくして自然の理は行なわれない。エジプトの裁判官たちは、同時にマアトに仕える神官でもあったんですよ」
すると、ここのオーナーのマダムは、エジプトの正義の女神ということになるのだろうか。さおりの心に浮かんだ考えを読んだように、マダムさくらはなよやかに微笑した。
さおりが自宅に戻った時、八月の長い夏の日もさすがに暮れかけていた。西の空にはまだ赤く燃え立つように明るい光が残っているが、大気はすでに夜の気配を宿して爽やかだ。スプリンクラーが水をまく音が、夕立のように、あちこちの家の芝生から聞こえる。車から降りて玄関に向かったさおりは、ふと、誰かに見られているような気がして立ち止まった。振り返ってみる。静かな住宅街にひとの姿はない。犬を散歩させる人も、ジョギングする人も、自転車に乗った子供たちも今日はいない。気のせいか。さおりは家に入った。
上着を脱いだ時、ポケットの異物のことを思い出した。探ってみると、白い石のついたペンダントが出てきた。もちろん、さおりのものではない。あの、ジュンという子が滑り込ませたのだろう。
華奢な銀色の鎖の先に、銀色の輪に嵌め込んだ直径二センチぐらいのドーム型の石がついている。宝石には詳しくないので、ミルクのようにぼうっと曇った白色の石の名前も、高価なものなのかもわからない。石の表面はつるつるしている。首にかけて鏡に映してみた。石はちょうどさおりの胸の谷間、心臓の少し上あたりの位置で止まった。
突然、近所の犬たちが騒ぎ出した。二匹や三匹ではない。数ブロック先の家の犬までが一斉に、物悲しい叫びをあげ始めたのだ。さおりは居間のカーテンを開けて、外を覗いてみた。薄闇の中に、さおりの白い車が浮かんでいる。その隣、夾竹桃の茂みの陰に、何かが動いたような気がして、さおりは目をこらした。犬だろうか、それとも猫? しばらく一心に見つめていたが、何もいない。今日は本当にどうかしている。さおりは、カーテンを閉じた。ペンダントをはずすと、机の引き出しに放り込んだ。
その夜、夢を見た。さおりはどこかの庭園に立っている。花の香りがさわやかな夜の大気を満たしている。大きな白い鳥が、翼を閃かせて闇を横切った。
翌朝、さおりが花壇に水をやろうと外へ出ると、隣の家から、おばあちゃんが出てきた。隣家はメキシコ系アメリカ人の大家族で、いつも五、六人の子供が走り回って遊んでいるのを、ポーチの揺り椅子から、このおばあちゃんが監督している。庭の手入れもこのおばあちゃんの仕事だ。
おばあちゃんは揺り椅子にゆったりと腰を下ろす。総動員された息子、娘、甥姪とわんぱくな孫たちは、おばあちゃんのスペイン語の命令一下、裏庭に野菜畑を作り、アプリコットやピーチの木を剪定し、ぶどう棚につるを誘引して防鳥用のネットをかぶせる。さおりも時々、よく熟れた真っ赤なトマトや、水気たっぷりのプラムのおすそ分けにあずかっているので、隣の大人と子供たちに負けず劣らず、このおばあちゃんを大いに徳としていた。
おばあちゃんはさおりを見ると、昨夜の犬の大騒ぎに気がついたか、と尋ねた。
「あれはね、コヨーテが狩りをしていたんだよ」
さおりは南カリフォルニアに野生のコヨーテがいることは知っていたが、まだ見たことはなかった。
「コヨーテが、こんな住宅地にいるんですか」
「それさ。あたしはここにもう二十年住んでるけど、こんな下の方までコヨーテが降りてきたのは初めてだよ。もっと山の方だったら、珍しくないがね」
「わたし、コヨーテ見たことないんです」
「犬に似てるよ。でももっと痩せて、鼻が尖って、脚が長い感じだね。走ると速いよ。狩りをしているコヨーテは、風のように走る」
「コヨーテって何を食べるんですか」
「何でも。猫、鳥、鼠、りす、うさぎ。小型の犬も時々やられるね」
さおりはショックを受けた。
「犬も」
「ああ、容赦しないよ。コヨーテが犬を狩る時は、集団で追うんだ。一匹がおとりになって先を走る。他のコヨーテはぐるっと大きく迂回して、獲物の後ろに回りこむ。うかうかとおとりについていった犬は挟み撃ちにあって」
おばあちゃんは右手で短い身振りをしてみせた。さおりの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
「コヨーテが人を襲うことはあるんですか」
「小さな子供はね、時たま、襲われることがある。でも、サオリみたいな大人は大丈夫。向こうが避けてくれるよ」
さおりは、昨夜の庭の気配を思い出した。
「そりゃ、コヨーテかもしれないね」と、おばあちゃんは言った。
「そのうち、サオリも見られるかもしれない」
夕方、さおりはまた、マアトに出かけた。今日のマアトは、窓際の丸テーブルにも奥のブースにも客がほぼ一杯に入っていた。ほとんどはカレッジの学生風で、今日の出演バンドの友人達だろう。さおりはカウンターでプログラムをもらい、コーヒーを受け取って、さて、どこにすわろうかと店内を見渡した。窓際に空席が一つあって、日本人らしい若い男の子が一人でいる。さおりは断わって、彼の向かいの空席に腰を下ろした。
すぐにバンドが入ってきて、演奏が始まった。初めのうちは、アップテンポのロックンロール風の曲が中心だったが、やがてスローなバラードに変わっていった。どこか物悲しい、メランコリックな旋律が流れる。さおりはうっとりと聴き入っていた。心地よい音が身体に染みこんでくる。まぶたが段々重くなってきた……。
あちこちから話し声や笑い声が聞こえる。いつの間にか、コンサートは終わっていた。さおりは赤面して起き直った。眠ってしまったらしい。向かいにすわっている男の子に、ちらりと目をやった。特に、笑っている様子はない。きっと、一、二分のことだったのだろう。さっさとマダムさくらに挨拶して帰ろうと、腰を浮かしかけると、男の子が遠慮しいしい声をかけてきた。やはり日本人だった。
「あの、よくここに来るんですか」
「いえ、今日が二度目ですけど」
男の子はがっかりしたような顔をした。ハントのつもりならお門違いだと思ったが、この子は明らかにさおりより年下だ。話の接ぎ穂を失って、もじもじしている様子が気の毒で、さおりはこっちから聞いてやることにした。
「前にお会いしたことがありましたか?」
男の子はいいえ、と言って、ちょっとためらったが、やがて、意外なことを言い出した。
「実は、人を探してるんです」
ポケットから写真を取り出した。
「工藤じゅん。僕の友達なんですが、一週間前から連絡が取れなくなりました。ここにはよく来ていたらしいので、誰か知っている人はいないかと思って」
差し出されたスナップ写真には、りすに似た目をした、赤毛のショートカットの女の子が笑っていた。昨日、ここで見た子じゃないか。そうだ、確かにジュンと呼ばれていた。さおりがそう言うと、男の子は勢い込んで言った。
「今、どこにいるか知りませんか」
さおりは困った。見かけたというだけで、ろくに話もしていない。
「ここのマダムに訊いてみたら? この子、マダムに用があって来たみたいだった」
さおりはマダムを目で探したが、ついさっきまでそこで客と話していたはずのマダムの姿がない。結局、立ち上がって男の子と一緒に店の中を探すことになった。
店の奥に進んでいくと、キッチンに突き当たった。メキシコ人のコックが忙しそうに働いている。
「あの、マダムはどこですか」
一番近くのコックに尋ねると、トマトを切る手を止めて、通路の反対側の表示のないドアを指さした。さおりは遠慮がちにノックしてみた。返事はない。ためしにノブを回してみると、すっと開いた。コンクリートの階段が地下に続いている。下の方は暗くてよく見えなかった。明かりのスイッチがないかと左右の壁を探ってみたが、見つからない。
「どうしますか?」
男の子はあやふやに訊いてくる。
「そうね」
ロックされてないのだから、入っても構わないだろう。地下室というのが、なんとなく気味悪いのだが、きっと倉庫か、ワインセラー、そう、ワインセラーにきまってる。
手探りで二十段ほどまっすぐ下りると、コンクリートの床に着いた。上のドアを開け放してきたので、壁に沿ってビールやワインの箱が積み上げてあるのがぼんやりと見える。だが、先の方は真っ暗だった。結構広い地下室らしい。
「ここ、なんですか?」
男の子がささやき声で訊いてきた。
「倉庫みたいね」
さおりは二、三歩前に進んで、闇に目をこらした。何も見えない。マダムのいる様子もない。
「戻りましょう」
階段に向かおうとして、さおりは立ち止まった。空気の動きを感じたのだ。すーっと冷たい風がさおりの頬を撫で、長い髪を散らした。ぎょっとして振り返ると、魚の腐ったような、なまぐさい臭気が前方の闇の中から漂ってきた。バタンと乱暴にドアを閉める音が響き、ハイヒールの靴音が近づいてきた。
暗闇の中から現れたマダムは、二人を見て驚いたように言った。
「ここで何をしているの?」
さおりはあわてて弁解しようとしたが、マダムはさえぎった。
「とにかく、上に行きましょう」
元の通路に戻ると、マダムはドアをロックしてから二人に向き直った。
「ここは、わたくしの私室です。何をしていらしたの?」
落ち着いた口調だったが、きつい目は内心の怒りを表していた。さおりは頬が赤くなるのを感じた。
「すみません。マダムを探していたんです。この人が、工藤ジュンさんのことで、マダムにお訊きしたいことがあるというので」
「ジュン?」
さおりの後ろにいた男の子がついと一歩前に出た。
「ジュンは一週間前から自宅に戻ってきません。連絡もとれません。みんな心配して探してるんです。あの、こちらの人が昨日、ここでジュンに会ったと教えてくれたので、何か御存知じゃないかと」
マダムのけわしかった表情が和らいで、いつもの魅力的な微笑が浮かんだ。
「あなた、ここへいらしたのは、初めてですね?」
「はい。ジュンがどこにいるか、知りませんか」
「残念だけど、お力にはなれないわ。確かに、昨日、ジュンはここへ来ましたけど、すぐに帰ってしまったの。家に戻っていないなんて、初めて聞きました」
「そうですか」
男の子は肩を落とした。
「失礼ですけど、お名前を教えていただけないかしら」
「ああ、すみません。亮馬です。関口亮馬。あの、ジュンはここへ何しに…」
「ジュンさんは音楽がお好きで、よく音楽の夕べに来ていただいてたんです。昨日は日をまちがえたって、おっしゃってました」
違う、とさおりは思った。ジュンはマダムに呼ばれて来たのだ。ジュンのあの金髪の男に対する態度は反抗的だったが、お互いによく知ってる間柄という印象だった。マダムはなぜ嘘をつくのだろう。それに、あのペンダント。
「あの…」
言いかけて思い出した。ジュンは「内緒で」と言ったのだ。
「何か?」
マダムはさおりに目を向けた。
「いえ、何でもありません」
マダムに見つめられて、さおりはきまり悪くなって目をそらした。それでも、マダムはさおりの顔から目をそらそうとしない。ふいに、さおりは冷たい手を額に押しあてられたように感じてぞっとした。手を上げて触ってみると、湿っている。気がつかないうちに汗をかいていた。
「さおりさんはジュンとお知り合いだったのかしら?」
「いいえ。昨日が初めてでした」
「そう。実はね、お友達の前で言い難いんですけれど、ジュンはわたくしのところから、ある物を取っていったんです」
「盗んだっていうことですか」
亮馬がショックを受けた声を出した。
「はっきり言えばそうね。高価な物ではありません。でも、わたくしにとっては思い出のある品物で、ぜひとも取り戻したいの。銀の鎖のついた、白い石のペンダント」
さおりはぎくりとしたが、強いて気を落ち着けた。幸い、マダムの注意は亮馬の方に向いていた。
「あなた、ご覧になったことありません?」
亮馬はいいえ、と答えた。
「そう。とにかく、ジュンを見つけたら、わたくしにも知らせていただきたいんです。わたくし、この件を警察に届けようとは思っていません。品物が戻れば、なかったことにするつもりです。わたくしも、ジュンのことが気になりますし。ぜひとも、もう一度お会いしたいと思っていますから」
マアトを出るなり、さおりは深呼吸して、肺一杯に新鮮な空気を吸い込んだ。
「大丈夫ですか」
亮馬が心配そうな顔で覗き込んできた。
「顔色が悪いですよ」
「なんでもない。ちょっと頭が痛くなっただけ。あそこ、空気が悪かったから」
さおりは亮馬と並んで、駐車場に向かって歩き出した。亮馬は、カレッジの二年生で、工学を専攻している、と言った。
「ジュンも?」
「いえ、ジュンは音楽専攻でした」
亮馬はぼそぼそと説明した。
「ジュンのところは、うちとは遠い親戚にあたってて、親同士、仲がいいんです。それで、僕が留学するって言ったら、ジュンも一緒に来ることになったんです。初めのうちはちゃんと授業に出てたのに、そのうち、学校に来なくなった。どうしたんだって訊いても、秘密だとか言って教えてくれない。そんなんじゃ、単位危ないぞって脅しても知らん顔してるんです」
さおりは気の毒になった。ただの友達じゃないのか。親戚にあたるんじゃ、僕には関係ないよというわけにはいかないだろう。
「あの店は、ジュンのルームメイトが教えてくれたんです。ここ半年ぐらい、通ってるみたいだったって言うんで」
別れ際に、さおりは亮馬の携帯の番号を渡された。もし、ジュンに会ったら、すぐ連絡をくれと、亮馬は真剣な顔で言った。
その晩、さおりがパソコンに向かっていると、携帯に電話が入った。
「どう、調子は? うまくいってる?」
吉岡だった。おせっかいなと思ったが、好意は好意だ。
「順調です。そちらは?」
「会議が長引いてさ。今、休憩中」
吉岡の声の背景に、ざわざわと波のように話し声が入ってくる。吉岡はいつも通り、そっくり返るような格好でオフィスの椅子にすわっているのだろう。メガネをはずして、親指と人差し指でつまんで、くるくると回しているに違いない。さおりが、それだけはやめてくれと泣いて頼んだ、あの赤いハイビスカスのアロハシャツをまた着ているのかもしれない。三年近い付き合いの間、さおりは吉岡のファッションセンスの改革を試みたが、大した成果を見ないうちに、二人の関係は終わった。
「どうだった、マアトのマダムは?」
のんびりとした声で吉岡が尋ねる。
「きれいな人ですね。吉岡さんはどこでマダムにお会いになったんですか」
「マアトでだよ。あそこで音楽の夕べってのをやってるだろう。何回か招待されて行ったことがあるんだ」
「わたしも今日、行ってきました」
「ふーん。良かった?」
「ええ」
よく眠れたことは黙っていた。
「今度、一緒に行ってみようか」
「え?」
さおりの仰天した声に、吉岡が笑い出した。
「冗談だよ。そんな暇ないよな、お互いに。じゃあ、仕事がんばって。締め切り守ってくれよ」
プツンと電話が切れた。さおりはしばらくぼっとしていたが、気を取り直してパソコンの前に戻った。だが、いったんかき乱された心は容易に静まらない。吉岡の笑い声が耳に残っている。あの頃は二人でよく笑った。隣の家の猫がまた太ったといっては笑い、二人で住んでいたボロアパートの壁に穴があいたといっては笑った。さおりは目を閉じた。思い出したくなかった。今日はもう、終わりにしよう。
パソコンのスイッチを切ると、さおりは机の引き出しから、ジュンから預かったペンダントを取り出した。手のひらに載せると、細い銀の鎖が、小さな蛇のようにとぐろを巻いた。白い石をぎゅっと握ってみると、ほんのり暖かいような気がする。首にかけて鏡に映してみた。どうということもない、普通のペンダントだ。マダムは随分、執着していたみたいだが。
遠くで犬の吠える声がする。さおりは窓の外を覗いた。誰もいない静かな通りを、オレンジいろの街灯が照らしている。向かいの家はもう寝たのか、真っ暗だ。さおりはカーテンを閉めようとして、はっとした。ドライブウェイの脇の、夾竹桃の茂みの陰に、何かが動いた。重なり合った葉の下は暗い。さおりは息をつめて闇を見つめた。今度は確信があった。何かがいる。コヨーテだろうか? さおりは懐中電灯を取ると、表に出ていった。
玄関ポーチの明かりはここまでは届かない。さおりは夾竹桃の茂みの前にしゃがんで、懐中電灯の光を向けた。何も見えなかった。あちこちに光をあててみたが、湿った土の匂いが押し寄せてくるだけだ。さおりはがっかりして立ち上がった。その時、低い唸り声が聞こえた。はっとして振り返った。唸り声はさおりの背後から聞こえたのだ。
玄関の脇に、こんもりと茂った極楽鳥花が植わっている。その大きな団扇のような葉がゆっくりと左右に揺れている。風もないのに。
さおりの背に冷たい汗が流れた。退路をふさがれた。家の中に逃げ込むには、どうしてもその茂みの横を通らなければならない。また、唸り声。今度は勝ち誇ったように聞こえる。
どうする。
隣のおばあちゃんは、コヨーテは大人を襲うことはないと言った。だが、さおりは今、それほど確信が持てなかった。こもったような低音の唸り声には、激しい怒りと敵意がはっきり感じられる。きっかけさえあれば、飛びかかってくるだろう。さおりは石になったように動けなかった。むっとするような獣臭い匂いが鼻をつく。がさがさと葉が揺れ、さおりは夢中で懐中電灯の光をそちらに向けた。
オレンジ色にぎらつく二つの目が見えた。ひっと叫んで、胸元を押さえた。その拍子に懐中電灯を取り落とした。あわてて拾い上げて、再び茂みに向けた。
光の輪の中には、枯れた極楽鳥花がゆらゆらと揺れているだけだった。
家の前の道路を音をたてて車が通り過ぎていった。日常が戻ってきた。何かの危険があったにせよ、もう、過ぎ去ったのだとわかる。さおりはほっと息をついた。
隣のおばあちゃんが出てきて、フェンス越しにサオリ、と声をかけてきた。レモンを山盛りにした籐のバスケットを持ち上げてみせる。
「今日収穫したんだ。うちじゃ食べきれないから」
さおりは礼を言うのもそこそこに報告した。
「今、コヨーテがいたんですよ」
「コヨーテ? 見たのかい?」
「よくは見えなかった。その茂みの陰に隠れてたんです。わたしに向かって唸ったんです。ちょっと怖かった」
おばあちゃんは変な顔をした。
「コヨーテが狩りをする時は、走って獲物を追うもんだよ。茂みの陰に隠れて待ち伏せるなんて、聞いたことがないね。それは、猫か、何か他の動物だね」
さおりはがっかりした。せっかくコヨーテを見たと思ったのに。オレンジ色の目だけだが…。
「まあ、神様の道化師には、そのうちお目にかかれるさ」
「神様の道化師?」
「ネイティブアメリカンの神話ではそう言うね。神様の仕事にちょっかいを出して、世の中をひっくり返そうとする悪戯者だって」
「おばあちゃん、よく知ってるんですね」
「あたしのひいおじいさんは、部族のシャーマンだったからね。子供の頃に聞いたんだよ。もう、ずっと昔の話さ。それ、なんだい?」
おばあちゃんは、さおりの首を指さした。
「これ?」
さおりは白い石にさわった。
「わたしのじゃないんです。ひとから預かったんです」
「ちょっと見せておくれ」
さおりは首からペンダントをはずして、おばあちゃんに渡した。おばあちゃんは懐中電灯の明かりで、ペンダントをじっくりと眺めた。石の周囲を人差し指でなぞってから、さっきさおりがしたように、ぎゅっと石を握りしめた。
「そうやってると、石が暖かくなるような気がしませんか? 気のせいかもしれませんけど」
「気のせいかもしれないけどね」
おばあちゃんはペンダントをさおりに返した。
「これはアムレットだね」
「アムレット…ってなんですか」
「モノを寄せ付けないようにするものだよ」
「モノ?」
「いろんなモノ。病気とか事故とか悪い霊とか」
さおりは気味が悪くなった。
「これ、持ってると悪いことが起きるのかしら」
「そんなことはないさ。そういうモノから身を守るためのものだから」
つまり、お守りということか。
「捨てちゃおうかと思った」
「とんでもない。こういうものは粗末に扱っちゃいけない。ちゃんと持ち主に返しておやり」
おばあちゃんは帰りかけたが、振り返って言った。
「石の縁のところに何か彫ってあるよ。後で見てごらん」
おばあちゃんがくれたレモンには、枝つきのものがたくさん混じっていた。緑の葉の陰に、白い蝋のような光沢のある、小さな花が群がり咲いて、爽やかな香りを放っている。突然、さおりは昨夜の夢を思い出した。
翌朝、さおりがニュースを見ながらシリアルを食べていると、携帯に電話が入った。
「おはよう」
若い女の声。さおりには聞き覚えがなかった。
「どちら様で…」
「わかんない? おととい会ったばっかりじゃない」
さおりは飛び上がった。
「ジュン!」
「ビンゴ! ね、預けたもの、どうした?」
「白い石のペンダント?」
「そう。あれ、どうした?」
「ここにあるけど」
「それ、今日、受け取りに行く。ダウンタウンのエコーって知ってる?」
「カラオケ喫茶の?」
「そこに三時に持ってきて。じゃあね」
さおりはあわてた。一方的に言いまくられて、切られてはたまらない。
「ちょっと待って」
「あたし、急いでるの」
「亮馬君って知ってるでしょ」
「知ってる」
「昨日、マアトで会ったのよ。あなたのこと、心配してた。連絡してくれって」
「そっちで連絡して。関係ないことに首突っ込むなって。マダムは怖い人なんだから」
「マダムはあなたがペンダントを盗んだって言ってるわよ」
電話は沈黙している。
「もしもし? あれ、マダムのものなの?」
「違う。あたしのよ。彼からもらったの。絶対にマダムに渡しちゃだめよ。今日の三時。エコーにアムレット持ってきて。時間厳守よ」
電話は切れた。なんなの、この子。さおりはしばらく考えてから、亮馬の携帯の番号を押した。
仕事へ行こうとさおりが外へ出ると、向かいの家の前庭に、顔見知りの近所の人が七、八人集まっていた。彼らの表情に強い警戒と緊張が表れているのを見て、さおりは道路を渡って寄っていった。
「何かあったんですか?」
隣のおばあちゃんの孫のジェレミーが振り向いた。
「猫だよ」
猫? さおりが首をのばして覗き込もうとすると、ジェレミーの父親のカルロスが、前に立ちふさがった。
「サオリは見ないほうがいい」
が、一瞬、さおりは見てしまった。芝生の上に、血に汚れた毛のかたまりがころがっていた。脚が四つ、ついている。
さおりは昨夜のことを思い出した。
「コヨーテがやったの?」
カルロスは首を振った。
「コヨーテは獲物をきれいに食べる。何も残らない。それに、首を引きちぎって、車の屋根に載せておいたりしない」
ポリスカーが家の前に止まった。警察官が二人、こちらへやってくる。
カルロスは真剣な顔で言った。
「サオリ。当分の間、暗くなったら外へ出るんじゃない」
その日の午後、仕事の都合をつけて、さおりはダウンタウンのエコーへ行った。ジュンの自分勝手なやり方には腹が立つが、行きがかりだ。それに、ジュンから連絡があったと言ってやった時、亮馬は実に嬉しそうな声を出したのだ。
だが、約束の三時を二十分過ぎても、ジュンは現れなかった。さおりはため息をついて、ぬるくなったアイスティーを掻き混ぜた。
「ジュン、どうしたんだろう」
向かい側にすわった亮馬が不安そうに言った。
「遅れるなら、連絡ぐらいしてくれればいいのに」
「ジュンはそんなこと、気にしませんよ」
小柄なインドネシア人の女の子が辛辣な口調で言った。ジュンのルームメイトのイベットだと、亮馬は紹介した。
「約束をすっぽかすのも、珍しくありません」
「来ないと思う?」
「さあ」
イベットは時計を見た。
「もうちょっと待ってみましょうよ。渋滞にひっかかってるのかもしれないし」
しょんぼりしている亮馬が哀れで、さおりは言ってやった。ジュンが預けていったアムレットを亮馬に見せてやる。
「昨日マダムさくらが言ってたペンダントですか?」
「ペンダントっていうより、魔除けのお守りみたいなものらしいんだけど」
イベットは慎重な手つきでアムレットを受け取った。
「初めて見ます。ジュンのものじゃないわ」
「彼にもらったって言ってた」
さおりの言葉に亮馬がびっくりしたような声を出した。
「彼?」
イベットが困ったような顔で亮馬の方を見た。
「最近、できたみたいなの。亮馬には言いにくかったんだけど」
「なんでだよ。関係ないじゃないか」
亮馬は怒ったように言ったが、その固い表情を見れば、ショックだったのは明らかだ。散々振り回されたあげくに、とさおりはますます同情した。
「ジュンはその彼のところにいるんじゃないの? 訊いてみたの?」
「あたし、会ったことないんです。名前も知りません」
さおりがマアトで見た、金髪の若い男かもしれない。だが、イベットは首を振った。
「わかりません。イシスの園で会った、すっごくゴージャスな子っていうだけで、それ以上何も言いませんでした」
「イシスの園って?」
「よく知りません。ジュンはいつもそうなんです。ちょっとだけヒントを与えて、こっちがもっと知ろうとすると、秘密よって言って教えない。だから、あたしももう、うっちゃっておきました。こうなってみると、訊いておけばよかったって思いますけど」
こまっちゃくれた小娘だ。さおりはくるくるとよく動くジュンの目を思い出した。
イベットは銀の鎖を持って、窓から差し込む日の光にあてるようにして白い石を見ている。
「これ、わたしが預かりましょうか。ジュンが戻ってきたら返しますから」
さおりが、いいえ、わたしが預かったものだから、と言うと、少しばかり名残惜しそうに返してよこした。
それから一時間待ったが、ジュンは現れなかった。亮馬は困りきった顔をした。
「昨日、ジュンのママから電話があったんだ。ジュンに電話してもずっと留守番電話になってるから、何かあったのかって。学校のプロジェクトで忙しいんだってごまかしたけど、冷や冷やしたよ」
「とにかく、ジュンの彼を見つけることね」
「探してみます」
亮馬は気の進まない顔で言った。
「わたしも探してみる。『イシスの園』なんて公園みたいな名前だけど」
亮馬とイベットと別れてから、さおりは携帯で吉岡の番号を押した。聞き慣れた声が答えると、マアトのマダムをよく知っている人を知らないか、と尋ねた。
椅子がぎいと鳴る音が聞こえた。吉岡がオフィスの椅子にもたれかかったのだろう。
「今、ちょっと思い出せないけど、何かあるの?」
「ちょっと調べたいことがあって」
さおりが言葉を濁すと、吉岡はあっさりといいよ、と言った。
「思い出したら連絡するよ」
吉岡が電話を切りそうになったので、さおりはあわてた。
「待って」
「何?」
「もう一つ。『イシスの園』って聞いたことありませんか」
「知らないなあ。それも一緒に調べておくよ。じゃあ」
その晩、さおりはまた夢を見た。さおりは夜の庭園に立っている。冴え冴えとした空気には、レモンの花の香りが満ちている。どこからか聞こえる水音に導かれるように歩いていくと、石畳の中庭に出た。噴水があって、白い鳥の長いくちばしから、夜空に向かって水を噴き上げている。空には銀色の円盤状の月が浮かんでいる。さおりが噴水に目を戻した時、誰かがその傍に立っているのに気がついた。白い長いローブを着たその人影は、月に向かって高く両手をかかげた。その右手に握られたナイフの刃が、月光を受けてきらりと光った。
さおりは亮馬の車で、埃っぽい舗装道路を山に向かって登っていた。赤茶けた山の鋭い稜線が夏の青い空をくっきりと横に切っている。今日も暑くなりそうだ。両側には手入れの行き届いた芝生と、レンガ敷きのU字型のドライブウェイを持った大きな家が並んでいる。フェラーリを見つけて、亮馬が口笛を吹いた。
「すごく高そうですね、この辺の家」
「ミリオンダラーハウスでしょうよ、みんな」
「本当にこんなとこに、コミューンがあるんですか」
イシスの園を教えてくれたのは、隣家の主婦のポーリンだった。青銅製の風変わりな燭台をさおりが褒めると、イシスの園で買ってきた、と言ったのだ。
「コミューンって、いろんな人が集まって一緒に暮らして、お祈りしたり、瞑想したりするところよ。おばあちゃんの知り合いが以前そこにいたことがあって、何度か行ったことがあるの。バザーに行くと、手作りのバスケットとか、キルトとか、ろうそくとか色々、きれいなものがたくさん売ってるのよ。行ってみたい?」
そして、パサデナからさして遠くない、山沿いの町を教えてくれたのだ。
さおりはメモを確認した。
「二マイルぐらいで右に入る道があるはずよ」
車が細い脇道に入ると、突然、両側の高級住宅が消えた。代わりに、白い平たい石を積み上げて作った石垣がずっと続いている。石垣の向こうは果樹園らしい。濃い緑の葉の陰に、オレンジ色の実がちらほらと見える。
間もなく、道は行き止まりになった。正面に大きな石の門柱が立っていて、その向こうにスペイン風の赤い瓦屋根の建物が見えた。亮馬が車を石垣に寄せて停める。門柱に嵌め込んである金色のプレートには、回転する車輪のシンボルがついている。その下に、イシスの園、と黒い文字で彫ってあった。二人は無言で建物を見上げた。
「どうしますか?」
亮馬が訊いた。
「行ってみましょうよ」
門には黒い鉄の扉がついていたが、押してみると難なく開いた。建物に向かって人ひとりが通れる程度の狭い小道が続いている。道の両側は、花でいっぱいの花壇になっていた。アイリス。ばら、ゆり、デイリリー。すいかずらの強い匂いがする。ハミングバードがついと道を横切っていった。
しばらく行くと、小道は二手に分かれた。スタージャスミンのからんだアーチをくぐって右手に曲がっていく方は、庭園に続くのだろう。そちらからは、水の流れる音がする。左手の道は建物に向かっている。さおりはそちらをとった。ほどなく、黒い石を敷いたポーチのついた玄関に出た。木製のダブルドアに回転する車輪のシンボルがついていて、そこにイシスの園、とあった。その下に小さな木の札が下がっていて、ようこそ、とこれは手書きの文字である。ドアの右手のブザーを、さおりは力を込めて押した。
扉を開けてくれたのは、さおりと同じ位の年恰好の女の子だった。中国系だろうか。日焼けした褐色の肌に黒い髪をポニーテールにしている。落ち着いた目で、さおりと亮馬を等分に見比べている。さおりはバッグから名刺を出して渡した。
「水野さおりといいます。ミセス・マリア・ゴンザレスの紹介で参りました。代表のソング博士にお会いしたいのですが」
「ソング博士は外遊中です。代理の者が留守を預かっています。お会いになりますか」
女の子ははきはきした口調で言った。さおりがお願いしますと言うと、名刺を持って奥へ戻っていった。
「ミセス・ゴンザレスって誰です?」
亮馬がささやき声で訊いてきた。
「うちの隣のメキシコ人のおばあちゃんよ」
さおりもささやき声で答える。なんとなく大声をはばかる雰囲気が、この玄関ホールにはあった。
正面に二階に続く大きな階段がある。その右手に長い廊下があって、建物の奥へ続いている。廊下の右側にはいくつか閉まったドアが並び、、左手の壁は明るいステンドグラスが嵌め込みになっていた。デザインは車輪のシンボル。床はカーペットではなく、モザイク模様のフローリングになっている。陶器の青い甕が置いてあり、紫とピンクのアイリスが一杯に生けてあった。ひんやりとした空気の中には、かすかに香の匂いがする。
「さおりさん、あれ」
亮馬が右手の壁にかかった額を指さした。黒と白の勾玉が絡み合って円を形づくっている。中国の陰陽のシンボル。六十年代頃、西海岸のヒッピーの間で随分もてはやされたはずだ。
「あれ、僕、サーフショップで見たことありますよ」
亮馬にとっては、単なるサーフボードのデザインに過ぎないのか。さおりは不思議な気がした。亮馬は感じないのだろうか。この建物全体の雰囲気。空気が違う。温度も違う。LA郊外の高級住宅地の真ん中にありながら、ここだけが、東洋であるような気がする。時を遡って、一九七十年代に戻ったような、そんな不思議な空間に迷い込んだような気がする。
さっきの女の子が戻ってきて、二人を案内して廊下の一番手前のドアを開けた。
わっと花の香りが押し寄せてきた。庭に向かって大きなフランス窓が開け放されて、レースのカーテンが風に翻っている。明るい広々とした部屋で、中央にコーヒーテーブルとソファ。壁際に暖炉、反対側には古風なグランドピアノがある。その隣に大きなガラスの花瓶。ここにも、アイリスが生けてある。
テーブルの上に薄いパンフレットが置かれていた。ここの機関紙らしい。さおりが中をめくってみると、八月のカレンダー、代表の挨拶に続いて、ボランティア活動の報告、バザーの成果、招待講師の講義、ヨガ教室の案内、グループセラピーの案内、交換留学生の報告、セミナー参加メンバーの日記などが載っている。さおりは六月のセミナー参加者の日記にざっと目を通してみた。サンフランシスコから来た大学生で、一週間、ここに泊り込んでガーデニング、メディテーション、グループディスカッション、ハイキングなどをやっている。南カリフォルニアの暑さをこぼしながらも、充実した毎日だったこと、良い友人ができて楽しかったと報告している。
しばらくして女の子が戻ってきた。代表代理はまだしばらく手があかない、お待ちになる間、庭でもご覧になりますかと言って二人をフランス窓の外のテラスへ導いた。
テラスには白い木製の丸テーブルと椅子が出ている。頭上には陽射しをさえぎるように藤棚が作ってあった。さおりは、藤棚を見上げた。
「花の時は見事でしょうね」
「ええ、十五インチぐらいの房にびっしりと咲きますから。今度、五月にいらして見てください」
女の子は誇らしげに答えてから、テラスから降りていく小道を指さした。
「この道をずっと降りて行くと小川に出ます。その先に池があって、今、睡蓮がきれいですよ。池を右手に行くと白樺の林、左手に行くと野菜畑と薬草園に出ます。みんな、ここのメンバーが手入れしてるんです。ごゆっくりどうぞ。代表の手があいたら、呼びに行きますから」
さおりと亮馬はうねうねと丘を下っていく小道をたどっていった。両側は、アイリスとバラの花が盛りで、むせ返るような花の香りが溢れている。まもなく、小さなせせらぎにぶつかった。底の小石が透けて見えるほど澄んだ小川で、日の光を受けてきらきらと光る水の中に、敏捷に動く魚の影が見えた。
「要するに、クラブの合宿所みたいな所ですか、ここ」
それまで黙りこくっていた亮馬が口を開いた。
「それは…」
ちょっと違う、とさおりは思った。さおりの知っているどんな合宿所も、こんなに金と時間と手間をかけて手入れされてはいない。それでいて、高級ゴルフクラブのクラブハウスのように、贅沢でお高くとまった感じもしない。イシスの園の持つ空気は全く別のものだった。簡素で厳粛でいながら明るく開放的でのびのびとしている。そして、この花の香り。鮮やかな色彩と光。さおりは青い空を見上げた。豊饒という言葉が浮かんだ。ここにあるのは、多彩な生命力の豊かさだ。
間もなく池にぶつかった。岸の縁には葦がいっぱい生えている。池の表面をおおった丸い緑の葉の間から、赤やピンクの睡蓮が色鮮やかなティーカップを浮かべたように顔を覗かせている。ここで、道が二手に分かれた。
亮馬の意見を容れて(かぼちゃや、なすを見てもしょうがない)さおりは右手の道をとった。
蛇のうねるように曲がりながら、小道は木立に向かって走る。茶色のとかげが、ちろりと前方を横切っていった。白樺の林に入ると、空気が急に冷たくなった。陽射しがさえぎられて、林全体が薄い緑のベールにすっぽりと覆われているように薄暗い。かさかさという音にはっとする。灰色の尾をもったりすが、木の幹を駆け上がっていくのが見えた。やがて前方に、木のない空間が開け、そこで道が終わっていた。石を敷いた丸い広場で、中央に石造りの噴水があり、長い細いくちばしを持った水鳥の像が立っている。本当はそのくちばしから水を噴出すのだろうが、今は水は涸れていた。噴水の横手に、白く塗られた木造のあずまやがあった。
「亮馬君、一休みしようか」
さおりはあずまやの入口に向かい、そこで立ち止まった。
誰かが、中のベンチに寝そべっている。仰向けの顔の上に開いた本を載せて、身動きもしない。眠っているらしい、とさおりが引返そうとした時、相手は顔から本をどけて、二人の方を見た。
まだ若い。二十歳くらい、亮馬と同じ年頃だろう。ウエーブのかかった長めの黒い髪に、肌理の細かい白い肌をしている。長いまつげの下に、潤んだような黒目勝ちの瞳。まっすぐな高い鼻。赤い感じやすそうな唇。女かと思ったが、きっぱりとした、意志の強そうな顎は男のものだ。でも、こんなきれいな男の子を見たのは初めてだ、とさおりは思った。
男の瞳は初め、ぼんやりと霞がかかったようにさおりに向けられていたが、急に焦点を合わせると、さおりの姿を上から下まで観察した。次いでその目が亮馬に向けられ、同じように観察すると、口元が微かに緩んだ。
「何かご用ですか」
男がさおりの方に視線を戻して言った。澄んだ、きれいな声だった。さおりはわれにもなくどぎまぎした。
「おやすみのところ、お邪魔してすみません、あの」
そこまで言って、さおりは気がついた。日本語で話していた。男が日本語で話しかけてきたからだ。それも、アクセントのない、自然な日本語で。日本人には見えないけれど、とさおりは思った。男の彫りの深い顔立ちと色の白さはアジア系のものではない。
「セミナーにいらした方ですか」
やはり日本語。さおりは名刺を出した。
「水野さおりといいます。こちらは友人の亮馬君」
男はようやく起き上がって、名刺を受け取った。ちらりと見て、本の間に挟んだ。古風に革で装丁された、かなりな時代物だ。
「それで?」
「実は、人を探しています。工藤ジュン。十八歳の日本人」
「十九です」
わきから亮馬が訂正した。
「留学生なんですが、しばらく前から自宅に戻ってこなくなりました。ここへ来たことがあるようなんですが、ご存知ありませんか」
さおりは相手の顔を注意深く見ながら言った。ジュンの名前を言った時に、男の目に何かが閃いたように思ったのだ。
「ジュンなら知ってます」
若い男はあっさりと言った。亮馬が飛び上がった。
「ここにいるんですか」
「今はいない」
「どこにいるのか知りませんか」
男は黙ったまま首を振った。亮馬はがっかりした様子で俯いた。
「君はジュンのボーイフレンド?」
「親戚です」
亮馬がポツンと言う。下を向いたまま、自分の靴の先を眺めている。
「ジュンはここへは何をしに…」
さおりが訊いた。
「最初はセミナーを受講しに来たんだと思いますよ。二ヶ月くらい前だった。それから時々、ボランティアとして庭仕事を手伝いに来てくれた。二週間ぐらい前に来たのが最後で、それからは知らない。君、ジュンから何か預かってない?」
「これのことですか」
唐突に訊かれて、さおりがバッグから白い石のアムレットを出すと、男はごく自然に右手を出して受け取った。手品師がコインを隠すような手つきで、石を握りしめた。さおりは息を呑んだ。このまま、男の手の中から消えてしまうのではないかと不安になったのだ。その気持ちを読んだように、男はいたずらっぽい目つきでさおりを見て、手を開けた。アムレットはその手のひらにちゃんと載っていた。さおりはあっと声をたてた。さおりの見ている前で石が変化した。ミルクのようにぼうっと曇った白い石が、熟したオレンジの色に変わった。男の方は驚いた様子もなく、ひょいとそのままアムレットを自分の首にかけた。
さおりが抗議しようとすると、男は鋭く光る目でさおりを眺めて、口調だけは穏やかに言った。
「見ただろう? これは僕のものなんだよ」
「でも、それはジュンがさおりさんに預けたんだよ」
亮馬が憤然として言った。
「そもそも、君はこれがなんだか知ってるの?」
男のからかうような口調に、さおりはむっとした。
「アムレットでしょ」
「へえ、知ってるんだ」
男の声には、素直に感心した響きがあった。馬鹿にしないでよ、とさおりは思う。実はおばあちゃんの話を聞くまでは、ただのアクセサリーとしか思っていなかったのだが。
「知ってるなら、わかるだろう? アムレットはその持ち主の波長にしか反応しない。特に、長い間使われて、持ち主と一体化している強力なアムレットはね」
確かに、さおりもおばあちゃんも今さっき彼がやったように、石を握りしめてみたのだ。ほんのり暖かく感じられたが、こんな風に色が変わることはなかった。
「君のペンダントだって言うなら、なんでジュンが持ってたんだよ」
亮馬が言った。
「ジュンが最後にここに来た時に、僕から盗んでいったんだ」
男の声は平静だった。
「でも、ジュンはもらったって言ってました。彼からもらったって」
「僕はあげてないよ」
「じゃ、あなたがジュンの…」
さおりの言葉で亮馬が初めて気づいたらしく、まじまじと男を眺めた。
「二、三回デートしただけだよ」
三人はしばらく黙っていた。男は面白そうにさおりと亮馬を眺めている。人のものを、断わりもなく取り上げたくせに、とさおりは思った。だが、彼の行為があまりにも自然だったので、どうすることもできなかったのだ。やがて、亮馬が気を取り直したように言った。
「マアトのマダムだって、そのペンダントは自分のものだって言ってるんだ」
男の目が鋭くなった。からかうような色が消えて、探るように亮馬を見つめた。
「君、マアトに行ったの?」
「ジュンを探しに行ったんだ。そこで、さおりさんと会った」
男の目が、さおりの方を向いた。
「わたしは取材で行ったんです。その時、居合わせたジュンが、知らない間にわたしのポケットに滑り込ませていったんです」
さおりは弁解するように言った。
「ジュンはマダムに渡すつもりだったんだな。でも、最後の瞬間に気が変わった。マアトのマダムはもうずっと前から、このアムレットを狙ってたんだ。だけど、これは僕のもの。その証拠に、こうしてちゃんと僕の元に戻ってきただろう?」
さおりが見ると、石はいつの間にか元の乳白色に戻っていた。
「その石って、貴重な宝石か何かなんですか」
「いいや。僕以外には、用のないものだよ」
「じゃあ、なぜマダムは」
さおりが言いかけた時、後ろから「水野さん」と呼ばれた。振り返ると、さっきの女の子が、石畳を横切ってこちらへやって来るところだった。
「お待たせしました。代表の手が空きましたから、どうぞ」
女の子はそう言ってから、男の胸元を見て驚いた声をたてた。
「透。アムレット戻ってきたの?」
若い男はにやっと笑ってさおりを見た。言ったとおりだろう、という声が聞こえるような気がした。
「うん。さおりさんが届けてくれたよ」
女の子は目を丸くして、さおりを見た。
「わたしは別に…」
さおりは言いかけたが、なんと言っていいのかわからずに口をつぐんだ。
「早く行った方がいいよ」
透と呼ばれた若い男は言った。
「マーカスは待たされるの嫌いだ」
さおりと亮馬はポニーテールの女の子に従って、あずまやを後にした。林の入口でさおりが振り返ると、透の姿はもう見えなかった。
代表はまだ若い男だった。真面目そうな茶色の目をして、背広ネクタイにきっちりと身を固めている。
「マーカス・ワッツといいます。ソング博士がヨーロッパへ視察旅行に出ている間、わたしがここを預かっています。何か、お尋ねになりたいことがあるというお話でしたが」
さおりがここへ来た目的を話すと、マーカスは額にしわを寄せた。
「工藤ジュンさんは、たしかに度々ここへいらしてました。ここは一般に公開している宗教施設ですから、我々の活動に興味のある方なら、どなたでも歓迎しています。たしか、工藤さんは最初、一般向けのセミナーにいらしたんだと思います。それから後は、自由に色々なクラスに参加されていました。最後にお見かけしたのは、一ヶ月ほど前だったように思いますが」
「二週間前です。バザーの時に手伝いに来てくれました」
ちょうどそこへコーヒーを運んできた、ポニーテールの女の子が言った。
「そうだったかな」
マーカスが言うと、女の子はきっぱりと言った。
「ええ。受付をしてくれました。覚えていらっしゃるでしょう?」
「ああ、そうだった。他の人と混同していたようだ。そう、二週間前です」
マーカスはそう言ったが、彼が女の子の口出しを喜んでいないのは明らかだった。単に自分の思い違いを指摘されたのが面白くないのか、それとも他に何か理由があるのか。
「その時、ジュンに変わった様子はありませんでしたか」
さおりが訊いたが、マーカスは首を振った。
「いつもと変わりなかったと思いますよ」
「ジュンがここで特に親しくしていた友達はいませんか」
「工藤さんは愛嬌のある方で、誰とでも仲良くしていましたよ」
マーカスの答えは、どこまでも如才がなかった。
「さっき、あずまやで透という人に会いました」
亮馬が思い切った口調で切り込んだ。マーカスの表情がわずかに固くなった。
「その人のペンダントをジュンが持っていたんです。ジュンはもらったと言ってたらしいんですが、それは盗んだものだと……」
亮馬の声がだんだん小さくなって、最後の方は聞こえなくなった。マーカスは露骨に顔をしかめた。
「メンバー同士の私的な交際や、そこから起こるトラブルには干渉しないことにしています。ここでは、自分の行動には自分で責任を取るのが規則ですので」
亮馬は黙った。さおりは焦りを感じた。このまま、手ぶらで帰るわけにはいかない。
「お役に立てなくて、申し訳ない」
マーカスが会話をしめくくるように言って、さおりは心を決めた。テーブルの上のパンフレットを取り上げた。
「さっき、これを見せて頂いてたんです。明日から始まるセミナーに参加したいんですけど、まだ、間に合いますか」
亮馬が茫然とこっちを見ているのがわかった。マーカスはすぐには返事をしなかった。わざとのように表情を消した顔で、テーブルの上からさおりの名刺を取り上げて眺めた。
「セミナーは一週間、ここに滞在していただくことになります。お仕事の方は大丈夫なんですか」
「フリーランスですから、時間の自由はききます。ちょうど、一つ仕事が終わったばかりですし。マアトのマダムのインタビューの」
マアトの一言で、マーカスの全身が緊張したのがわかった。問い詰めるような視線をはね返すように、さおりは無言で見返した。ふっとマーカスが目をそらした。両手を組み合わせ、天井を見上げるようにして、さおりの顔を見ないで言った。
「もちろん、我々のセミナーに興味を持って参加したいと言って頂けるのは大変嬉しいのですが、あいにく、夏のセミナーは人気がありましてね、もう、参加枠いっぱいでして、まことに残念ですが」
「昨日一人、女性メンバーがキャンセルしてきました。部屋はあります」
さおりは声の主を目で探した。ポニーテールの女の子が、まだお盆を手にしたまま、ドアの脇に立っていた。マーカスも驚いたように視線を天井から戻して、彼女に向けた。
「昨日遅く、キャンセルの電話がありました。今朝、ご報告しました」
女の子はきっぱりとした口調で言った。
「そうだった。忘れていたよ」
マーカスの口調は穏やかだったが、目には冷たい光があった。さおりの方に向き直ると、事務的に言った。
「お聞きの通り、一つだけ空きがありますから、よろしかったら参加してください。申し込み手続きと受講料はこちらのリアに聞いてください。では、わたしはこれで」
マーカスはさっさと部屋を出て行った。
ポニーテールの女の子は、コーヒーカップを片付け始めた。さおりと亮馬が手伝った。
女の子は二人を見て微笑んだ。
「どうもありがとう。リアと言います。よろしく。今、申込書を持ってきます」
「これから、どうするんですか」
帰りの車の中で、亮馬が訊いた。
「セミナーに参加する」
「違うんです。ジュンのことです。これから、どうするんですか」
さおりはうんざりした。亮馬は勝手にさおりをジュン捜索隊の隊長に任命していたらしい。だが、それはさおりのせいでもあった。年下の頼りない男の子という第一印象のまま、亮馬の鼻面をつかんでひっぱり回してきたのだ。今さら突き放しもできない。
「あなたはイベットと頻繁に連絡を取って、ジュンがいつ戻ってきてもすぐわかるようにしておいて。わたしの携帯の番号は知ってるわね?」
「はい」
「何かあったら連絡をちょうだい。わたしはイシスの園にいるから。もしかしたら、ジュンが現れるかもしれないでしょう?」
亮馬がはっとしてさおりの顔を見た。
留守中の郵便と庭の水撒きは、隣のポーリンに頼んだ。
おばあちゃんは、さおりがイシスの園のセミナーに参加すると言うと、難しい顔をした。
「本当のところは、何しに行くんだね?」
さおりは困惑した。このおばあちゃんには生半可な嘘は通用しない。どういうわけか、さおりが追い詰められて、つまらない嘘をつくと、おばあちゃんにはわかってしまうのだ。二年前、吉岡との間がうまくいかなくなって、さおりがある馬鹿なことをしでかした、その時もおばあちゃんにはわかってしまったのだ。
おばあちゃんは探るようにさおりの顔を見ていたが、大きくほっと息をついた。
「サオリ。あたしはおせっかいはしたくない。あんたは大人だからね。でも、覚えておくんだよ。この世界には、近づかない方がいい人間、避けた方がいい場所がある。それは、臆病とかそういうことじゃなく、ひとが、平穏に暮らしていくための知恵なんだ」
さおりが気をつける、というとおばあちゃんはうなずいた。
「あのアムレットはどうしたね?」
さおりはどきりとした。
「持ち主に返したの」
さおりが言うと、おばあちゃんは、そりゃ良かったと言った。
「預けていった子に返したんだね」
「いいえ」
さおりは妙なうしろめたさを感じた。イシスの園を訪れた後の不思議な高揚感、幸福感。それは、あの光溢れるコミューンの魅力だが、それだけではないことに、さおりは気がついていた。
「イシスの園にいる、透っていう人に渡したの。彼があの石を握ったとたんに、石の色がオレンジに変わったのよ。亮馬はトリックだって言ったけど、わたしにはそうは思えなかった」
おばあちゃんは言葉に出しては何も言わなかったが、下を向いてカーペットの模様を一心に鑑賞しているさおりには、そういうわけかい、という声が聞こえるような気がした。さおりがようやく顔を上げると、おばあちゃんは口元に微笑をちらつかせて、さおりを見ていた。それから、微笑を消すと、今度は驚くほど真剣な表情を浮かべて言った。
「気をつけるんだよ」