まるで先生は猫自身みたいだ。先生には、猫の考えがおわかりだ。猫そっくりだ。
―マシュー・マグ「ドリトル先生アフリカ行き」
僕を最初にその店に連れていったのは、明だった。僕はちょっとしたしくじりのせいで、バイトをやめたばかり。そこに明が自分のバイト先を紹介してやろうかと、もちかけてきたんだ。
「仕事は?」
「ウェイター」
「時給は?」
「二千円」
聞き違えたと思った。
「マジで聞いてんだけど」
「マジで答えてる」
僕は明の顔を眺めた。銀縁眼鏡の奥から、大真面目な目がじっと僕を見返してくる。
「時間は?」
「夕方六時から閉店まで。閉店は十時。月曜定休」
「場所は?」
明は大学近くの私鉄沿線の駅名を言った。おしゃれな新興住宅地が近くて、結構にぎやかなところだ。僕のアパートからも乗り換え無しで行ける。こいつはいい話だ、と喜びかけて、まてよ、と思った。話がうま過ぎないか。
「なんか裏があるんじゃないだろうな」
「裏って?」
「海水パンツひとつでサービスしろとかさ、そんな条件がついてるんじゃないの」
「ユニフォームは支給。白の長袖シャツに黒のズポン」
明は笑いもしないでそう言った。まあ、サッカーでまだら焼けしてるこいつの身体を見て喜ぶ客はいないだろう。じゃあ、落とし穴は別の方面か。
「仕事の内容は?」
「だから、ウェイター」
「内容だよ、内容。客が来たら注文とって料理を運んでやる。食い終わったら伝票渡して金受け取って後片付けする。それから?」
「テーブル拭いて、店の床掃いて、プラントに水やって…」
「それだけ? 正直に言えよ」
「それだけだよ。何考えてんだよ」
「時給が高過ぎるからさ。何かあるんじゃないかと」
「何もないよ。気に入らないなら、やめとけよ。他の人探すから」
「待てよ」ホントに裏がないなら、儲けものの話だ。
「お前、どれくらい勤めたの?」
「二年半」
へえ、と僕は思った。結構続いてるじゃないか。
「何でやめるの? そんなにいいバイト」
「親に言われてさ。そろそろ本格的に公務員試験の準備した方がいいだろうって。それで、夜、学校へ行くことにしたんだ」
それなら納得できる。明と僕は中高一貫教育、大学まで一緒だが、こいつは上に○○のつくまじめな男だ。
「本当に普通のウェイターなんだよ。ただ、オーナーがちょっと変わってて、気心の知れないやつは雇いたくないって言うんだ。だから長く勤めてほしいし、やめる時には信用のおける人間を代わりに紹介してくれって言うんだ。仁なら、オーナーの気にいるんじゃないかと思ってさ」
「オーナーって、そんなに気難しいの?」
「慣れれば、いい人だよ」
「何ていう店?」
「猫肉屋」
名前を聞いた時にはゾクッときたけど、行ってみたら、「猫肉屋」は案外にまともな店構えだった。ガラス戸を開けて入ると、こじんまりした店の中はタイル敷で、壁に沿ってブース席が並んでる。キャパは五十名ってとこだろう。道路に面した一面はガラス張りで、外光を一杯に取り込んでいる。明るくて感じのいい店じゃないか、と思ったが、残り三面の壁に大きく引き伸ばした猫のポートレートがずらりと飾ってあるのが気になった。よくあるだろう? ピザ屋で、店の壁にペパロニピザとか海鮮ピザの写真を大きく飾ってあるところ。
ここへ来るまでの間、僕は明をさんざんに問いただした。だって、「猫肉屋」だぞ? 僕は特別に猫好きってわけじゃないけど、猫肉ハンバーガーなんか見たくないよ。
「お前、馬鹿」
明は心底呆れたように言った。「猫の肉なんて出すはずないだろ。常識だよ」
「でもさ、昔、そういう噂が流れたんだって」
「都市伝説だろう? 口裂け女や学校の怪談と同じレベルの」
「どうだかわからないよ。エスニックフードって色んなものあるしさ。コガネムシだってワニだって食っちゃうんだ」
「ワニはあるよ」
「え?」
「メニューにある。正確にはクロコダイルだけど」
冗談だろ? と言いかけて僕は言葉を呑み込んだ。明が冗談を言うはずがない。
「アフリカ料理の店かなんかなの?」
「いいや。いろんなものがあるよ、ファミレスみたいに」
「じゃ、なんで『猫肉屋』なんだ?」
明はちょっと考えて、よく知らない、と言った。「そういう名前の店なんだよ。それじゃ気に入らないなら…」
「んなこと言ってない」
僕はバイトが必要なんだ。猫を食べさせる店でないなら、店名なんかどうでもいい。
夕食時にはまだ時間があるせいか、客は二組しか入ってなかった。白シャツに黒いズボンのウェイターが料理を運んできた。(よかった、海水パンツじゃない。)皿の上に載っているのは、見たところトンカツらしい。お決まりのキャベツの千切りとトマト二切れが添えてある。丸顔のウエイターは料理を置いて、常連客らしいサラリーマンと何か冗談口をたたいている。客もウエイターもごく普通の人に見えて、僕は少し安心した。
明は僕を店の奥に連れていった。揚げ油の匂いがプンと漂う薄暗いキッチンを抜けて、大きな冷蔵庫の裏手に回ると、思いがけなく扉があった。明はノックして、返事を待たずにさっと開けた。
中は四畳半ほどの倉庫のような小部屋で、コンクリートの床にゴタゴタとダンボールが積み上げてある。部屋の奥は一段高くなっていて、二畳分の畳が敷いてあった。そこに二つ折りにした座布団を枕にして、白い綿シャツ一枚の男が寝ている。大男だ。向こう向きになっているので顔は見えない。男の隣に白い太った猫が一匹、これも丸くなって寝ている。ぐう、ぐうと男のものか猫のものかわからないいびきが聞こえた。
明は寝ている男を見下ろして「オーナー!」とどなった。いびきが止まった。くるりと寝返りを打ってこちらを向いた男の肌は褐色で、黒々とした髭を鼻の下に蓄えている。髪も真っ黒だが、こめかみのあたりには白いものが混じっていた。黒い大きな瞳に立派な鷲鼻。唇は厚い。中近東の人間かなと思うが、平べったい頬のあたりはどことなく東洋人くさい。要するに、国籍不明、得体のしれない外国人だ。
男は、むくりと起き上がった。
「君はロシアン・ブルーだね」
身体に似ない、女のように細い優しい声だった。達者な日本語だが、どこのものともしれない奇妙なアクセントがあった。
「君、ロシアン・ブルーだね、と言ったんです」
大男の顔はまっすぐ僕の方を向いている。僕はあわてた。
「はあ?」われながら間の抜けた返事だと思う。びっくりしたんだ。
大男は今度は明の方を向いた。
「行っていいですよ。仕事、始めて下さい」
僕は大男と二人、取り残された。
大男は座布団の上で眠っている太った猫を抱き上げると、膝の上に乗せた。猫は小さな声でニャーと鳴いた。
「これ、何かわかりますか」
「猫」
大男は微笑した。
「これはペルシャ・ホワイト。カッパーアイ。カッパーは銅のことね。雄。三歳。名前はアントン」
猫はまた小さな声でニャーと鳴いた。大男は大きな手で、猫の頭を撫でてやった。僕は黙ってた。「はあ」って言うのも嫌だし、「かわいいですね」なんてお世辞言うのはもっと嫌だ。だいたい、ちっともかわいくなんてなかった。毛並みこそふさふさして立派だったけど、お面ときたらチンクシャもいいとこ、奥目で、でこはせり出てるし、鼻はぺちゃんこだし、まるで金槌で顔の真ん中をぶっ叩いたような御面相なんだ。僕が黙っていると、猫は歯の間から、ちろりとピンクの舌先を出した。何のつもりか知らないが、どう見てもおりこうには見えなかった。
大男は僕の沈黙にはお構いなし。後ろを振り向いて壁にかかった猫の写真を指さした。
「あれ、何かわかります?」
僕は首を振った。「猫」というのが正解じゃないことぐらいはわかる。明のやつ、こんなテストがあるなんて一言も言わなかったじゃないか。
大男は一枚、一枚、端から指さして言った。
「ペルシャ・ブラック、シャム・シールポイント、ペルシャ・ホワイト、ジャパニーズ・タビー」
突然、僕は恐ろしい疑いにとりつかれた。ウエイターになるのに、何で猫の種類の知識がいるんだ? もしかして、やっぱり?
「あの、こちらではどういった料理を出すのですか?」
遠慮しながら婉曲に訊いてみると、「おいしい料理です」というしょうもない答えが返ってきた。
「あの、そういう意味ではなく、まさか」
やけっぱちだった。「猫の肉を出すのではないですよね?」
「猫の肉?」
大男の大きな目がぎょろりと剥き出された。「君は猫の肉が食べたいのですか?」
「とんでもない。食べたくないです」僕はあわてて言った。
そうですか、と大男は言った。気のせいか、なんとなく残念そうに聞こえた。
「あの、これ」
僕はポケットから履歴書を出して、大男の前の畳に置いた。大男はちらりと見たが、手に取ろうとはしない。日本語が読めないのかもしれない。
「それで、雇っていただけますか」
当然、断られるものと思った。せいぜい、「後ほど連絡します」という返事が戻ってくると思っていた。ところが、大男は言ったんだ。
「もちろん」
僕の方がびっくりした。
「でも、僕は…」
「さっき言いましたよ。君はロシアン・ブルーだって」
「はあ?」
「ロシアン・ブルーはわたしの好きな猫です」
大男は嬉しそうににこにこした。
二週間後、僕は明の後釜に入った。明が言った通り、普通のウェイターの仕事だった。相棒の雅史はベテランで教え上手だったし、シェフの佐藤さんも親切だった。でなきゃ初めのうちは、ちょっと手こずったと思う。猫肉屋のメニューは一風変わってるんだ。
まず、オードブルのところ。「クロコダイルのサラダ」で始まる。「チーターの串焼き」「スワンのスープ」「隼の目の蒸し物」という具合。メインディッシュになると、「象のカツレツ」「ミートローフ・ゴリラ」「グリズリーのパスタ」「ライオン・シチュー」「灰色狼のステーキ」なんてのが並んでる。
メニューを見ながら、僕はよほど変な顔をしていたらしい。どうってことないんだよ、と雅史が慰めるように言った。名前だけのことで、実際にゴリラの肉が出てくるわけじゃないんだ。キッチンに行ってみればわかるけど、普通のポーク、ビーフ、チキンを使ってるんだ。
シェフの佐藤さんも、雅史の言葉を肯定した。
「ものの本によると、ワニの肉は、チキンに似た味がするそうだ。俺は食ったことないがね」佐藤さんは、炭火で焼いたチキンの胸肉をレタスとクルトンと一緒に皿に盛りつけながら言った。
「チキンを使うなら、素直にチキンサラダって呼べばいいのに」
「俺に言ったってしょうがないさ。オーナーのポリシーだからね。できたぞ。さっさと持ってけ」
オーナーのポリシーなるものは、メニューの第一ページ目に麗々しく印刷してある。
中学生が辞書を引き引き、英語から直訳したような日本語で、文字だけはゴージャスな金文字だ。
「わが親愛なるお客様へ」
猫肉屋へようこそ。
初めてのお客様は、わたくしのメニューを見て驚かれたでしょう。クロコダイルのサラダ、ミートローフ・ゴリラ、ライオン・シチュー…。これらは一体、何を意味するのでしょう。
これらは、実はわたくしの深遠なるポリシーの表現以外の何ものでもありません。
昔、すぐれた戦士は、動物の肉体に宿る神秘の力を手に入れるために、その動物の肉を食べました。強くなりたければ強い動物を、スピードを手に入れるためには足の速い動物を、勇気を手に入れたければ勇敢な動物を、美しくなりたければ美しい動物を食べたものです。
わたくしは猫肉屋を開店した時、わたくしの親愛なるお客様に何をさし上げられるか熟考しました。そして、すばらしい考えを思いつきました。お客様に、真心を込めたおいしい料理と共に、この神秘の力をさし上げようと思いついたのです。
お客様はメニューから自由に、どの動物の力を手に入れたいか、お選びいただけます。パワーをお望みの方は象のカツレツを、鋭い目とスピードに憧れる方は隼の目の蒸し物を。そして美しいご婦人方、さらなる美と優雅さを身につけたいとお望みなら、ぜひ、わたくしのスワンのスープをお試し下さい。
残念ながら、種々の事情により、本物の象やゴリラの肉を手に入れることは著しく困難です。が、わが親愛なるお客様は、わたくしの意図を、気持ちを、お汲み取り下さるものと、わたくしは信じております。
どうぞ、お好きな料理を選び、ごゆっくり食事をお楽しみください。
猫肉屋店主 マヒバ・アレクサンダー
この奇妙奇天烈なポリシーに従って、僕はスワンのスープだの、隼の目の蒸し物だのをせっせとテーブルに運ぶことになった。
ちなみに、隼の目の蒸し物ってのは普通の豚挽肉で作ったシューマイのことだ。スーパーやよその店で出しているのより、もう少し丸っこい形をしていて、中央に、これが隼の目玉のつもりなんだろう、特大のグリーンピースが一つ載ってる。白い皿の上にこいつが六個ならんで、じっと天井を睨んでるんだ。僕がこいつを運んでいくと、客の女の子は大抵キャアキャアと騒ぐ。注文した奴―大抵は連れの男だ―が、にやにやしながら目ん玉を抉り出して、ポイと口に放り込むともっと騒ぐ。シューマイひとつでこれだけ楽しめるんだから、オーナーのポリシーは成功してるんだろう。
オーナーのマヒバ・アレクサンダー氏。国籍不詳。長くいる佐藤さんや雅史も知らないと言った。とにかく、十数年前、どこからともなく飄然と現われて猫肉屋を始めた。
容貌魁偉、コミュニケーション困難、奇っ怪なポリシーの持ち主だが、慣れてみると、悪い人じゃない。僕が一生懸命、仕事覚えたからと言って、通常二ヶ月の見習い期間を一ヶ月に短縮して給料上げてくれた。クリスマスイブには、バイトの僕にもボーナスをくれた。あの時はなんていい人なんだろうと思った。
でも、困ることがないわけじゃない。一番困るのはオーナーの猫だ。
オーナーは猫が好きだ。大好きだ。家では数匹の猫を飼っていて、店の壁いっぱいに大きく引き伸ばして飾ってあるのは、その猫たちの写真だ。
最近は僕も、猫の種類がわかるようになってきた。猫には長毛種と短毛種があって、ペルシャは長毛種、シャム猫とか日本の虎猫は短毛種。僕が似てると言われたロシアン・ブルーは尻尾の長い短毛種だそうだ。相棒の雅史は、ヒマラヤンに似てるそうだ。ペルシャみたいな長毛種だけど、ペルシャほどチンクシャじゃないと言っていた。ええと、何を話してたんだっけ? そうだ、オーナーの困った猫のことだ。
オーナーは、とっかえひっかえ、家から猫を連れてくる。オーナーの猫は始終、店の中をうろうろしてるんだ。椅子の上で丸くなって眠ってたり、テーブルの上にひょいと跳び上がって、きちんとセットしてあるナプキンやフォークの間を悠然と散歩してたりするんだ。お客さんがいる時にはひやひやするよ。なかには猫の嫌いな人も、アレルギーの人もいるだろうにってさ。
でも、オーナーは全くお構いなし。
「猫の嫌いな人、わたしの店に来てもらいたくありません」
営業中の札の横に、「猫嫌いお断り」って出しといた方がいいんじゃないかと思う。
もうひとつ、オーナーが来てもらいたくないって客がある。
僕が入ってすぐの頃、若い女の子が彼氏と一緒に来たんだ。彼がクロコダイルのサラダ、女の子はスワンのスープをオードブルに注文した。メインディッシュは、彼の方が象のカツレツ、女の子はグリズリーのパスタだった。ところが、オードブルが終わって、彼の方にはカツレツが出てるのに、女の子のパスタが出てこないんだ。僕、心配になってキッチンへ行った。佐藤さんはちゃんとパスタを用意して待ってた。でも、オーナーが、まだ出すなって言うんだ。「あの人、まだスープ終わってません」って言うんだよ。客の方は変な顔してこっちを見てる。しょうがないから、僕、女の子に言ったよ。そのスープが終わったら、すぐ、パスタを出しますからって。そしたら、女の子が言った。
「あら、あたし、もうスープはいいの。下げてちょうだい」
「おいしくなかったんですか」
「おいしかったわよ。でも、あたし今、ダイエット中なの。だから、少しでいいのよ」
女の子の言葉を伝えると、オーナーの顔は真っ赤になった。太い眉毛が山なりに盛り上がって中央に寄った。
「あの人がスープ終わるまで、パスタは出さなくていいです」
女の子は当然、大騒ぎした。馬鹿にしている、あたしが何をどれだけ食べようと食べまいとあたしの勝手だ、金は払ってるんだって。オーナーは平然として僕に言った。
「あの人に言って下さい。お金はいらない。さっさと出て行って、二度と来ないでくれって。ああいう人は、ウエルカムではありません」
もうひとつ、注意書きがいるな。「料理を残す人、お断り」って。
こんな変な店には客なんか来ない、そう思うだろ? それが結構、繁盛してるんだ。夕方のピークタイムには満席になって、僕と雅史の二人じゃ手に余るくらい。やってくるお客さんは場所柄、会社帰りのカップルが多いんだけど、近くにある大きな私立大学の学生がサークルやゼミのコンパに利用したり、テニスや趣味仲間の奥様がまとまって来たりする。もちろん、猫好き、動物好き、オゾン大好きのアウトドア派は、わざわざ遠くから、この店めざしてやってくる。常連になると週に三、四回は顔を見るから、名前なんかすぐ覚えちまう。
市役所勤務の生田さんは、猫グッズの収集家。いつも猫柄のネクタイをしめ、猫の顔のついたナイフとフォーク持参でやってくる。吉岡さやかちゃんは猫マガジンの編集長。打ち合わせはいつもここ。遠山君はグリーンピースの会員で、環境保護グループを自分で組織している。ツシマヤマネコについて僕に教えてくれたのは、彼。武市さんはシャム猫のブリーダー。いつもは上品な奥様なんだけど、無制限に子猫を産ませて知らん顔のバックヤードブリーダーを罵った時の口調はすごかった。月に二、三回やってくる大河内さんという中年のおじさんは、何とここの市会議員さんだそうだ。無所属で出て、環境問題と動物愛護をぶちまくって初当選を果たした。今も市議会で宅地開発派を相手取って、孤軍奮戦しているというタフなおじさんで、ここへ現われた時は、みんなの尊敬を一身に集めている。
こうやって数えてみると、さすが、あの変なオーナーの店だけあって、来る客も変わってるよ。何? 肝心の味はどうなんだって? これがさ、いけるんだ。佐藤さんは世に隠れた名コックだ。「象のカツレツ」なんか、外側パリッ、内側ジューシーの最高のヒレカツなんだ。「灰色狼のステーキ」もうまい。上等のリブアイを特製のシーズニングで味付けして、炭火でさっと焼いてあるんだ。付け合せはプリプリしたマッシュルームのソテーと、ふんわりいためた卵、いい香りのするグリーンピース。つばがわいてきた? 僕もさ。
僕がここでバイト始めてから、友達が何人か来てくれて(もち、猫が嫌いじゃなく、食べ物を残さない連中)食べていったけど、みんな、うまいって感心してた。それから、妹の奈緒のやつが、ひとりで、塾の帰りに立ち寄った。
奈緒は窓際のテーブルにおさまって、物珍しげに店内を見回していた。僕がキッチンから出ていくと、ひらひらと手を振った。
「なんだ、お前。何しにきた」
「ご挨拶ね。お客様よ」
「じゃあ、さっさと注文決めろよ」
「でも、よくわからないんだもの。ホント、変わってるね、ここのメニュー」
「早くしろよ。忙しいんだから」
「でも、そんなに混んでないよ」
水曜日の夜九時。一息ついたところで、客は少なかった。
「お前、腹空いてるか?」
「そんなでもない。塾でおにぎり食べてきたから」
「じゃ、クロコダイルのサラダにしとけ」
「クロコダイル…」
「チキン・シーザー・サラダだ。好きだろ?」
僕はさっさとオーダーを通しにキッチンへ行った。佐藤さんに、妹だから一切れ多くチキン入れてやって、と頼んで店へ戻ると、奈緒は雅史をつかまえてメニューを指さしながら何か訊ねている。僕は急いでそばへ行った。
「すみません。妹なんです」
「うん。聞いた。かわいい妹さんじゃないか」
雅史は笑って言った。これは本当のことだ。身びいきと言われてもしょうがないけど、奈緒は外国人みたいに目鼻立ちがはっきりした、きれいな卵形の顔をしている。ちょっとした美人なのだ。
奈緒はまだメニューを見ている。
「初めてのお客さんはびっくりするでしょうね」
「すぐ慣れちまうよ。隼の目玉を喜んで食べてる。オーナーの営業戦略の勝利だね。ここのオーナー、なかなか頭いいんだ。そうは見えないけど」
「おや、仁君。彼女ですか」
いきなり奇妙なアクセントで名前を呼ばれて、僕は跳び上がった。いつの間にか、猫のように、オーナーが後ろに忍び寄っていたのだ。シャム猫のシェーラザードを抱いている。オーナーの後ろにはさやかちゃんが、黙ったまま僕と奈緒を見比べていた。僕はあわてた。
「違いますよ、オーナー。妹です」
奈緒がさっと立って、オーナーにお辞儀した。
「西島奈緒です。兄がいつも、お世話になってます」
オーナーはしげしげと奈緒の顔を眺めた。
「君はコラットだね」
「は?」奈緒はきょとんとした。
その時、雅史がキッチンから奈緒の注文を運んできた。オーナーは相好をくずした。
「クロコダイルのサラダ。クロコダイルはエジプト神話でも、知恵と力の象徴です。そのクロコダイルを、新鮮なレタスと一緒に特製ドレッシングで和えました。わたくしの自慢です。ごゆっくりどうぞ。吉岡さん、バスケットを取ってきますから、ちょっと待ってて下さい」
オーナーは、猫をさやかちゃんに渡すと、奥へ入っていった。
奈緒は慎重にサラダを覗き込むと、フォークを取って、レタスの上に長々と横たわっている肉片をつついた。一切れ、口に放り込んでかみしめた。
「おいしい」
「だろう? クロコダイルは、チキンそっくりの味がするんだ」
奈緒は目を白黒させた。さやかちゃんが笑い出した。
「意地悪しちゃだめよ。それ、本当にチキンなのよ。わたしも好きよ」
僕はさやかちゃんに向き直った。
「今日はお食事は?」
「済ませた。猫を借りに寄っただけなの」
さやかちゃんは、チキンをぱくついている奈緒に目を遣って声をひそめた。「うちの天井裏でゴトゴト音がするのよ。もしかしたら、ねずみが入ったのかもしれないと思って」
「吉岡さんのとこにも、猫、いるじゃないですか」
「金之助はだめ。雄だし、全然役に立たないの」
「雄はねずみ獲らないんですか」
「普通、雌のほうがうまいの。なかでも、シェーラは最高のハンターだって聞いてるから」さやかちゃんは、ほっそりした猫の顎の下をくすぐった。シェーラザードはごろごろと満足そうに喉を鳴らしている。
オーナーがバスケットを持ってくると、さやかちゃんは猫を中に詰めて帰っていった。オーナーは、ほぼ空っぽになった奈緒の皿を見て満足そうだった。仁君、アイスクリームをサービスしてあげていいよ、と言うとキッチンへ戻っていった。
「随分変わったお店ね」
奈緒は感心したように言った。
「まあね」
「さっきの女の人、誰?」
「常連のお客さんだよ」
僕はできるだけさり気なく言った。
「よく知ってるの?」
「よくってほどでもないよ。いつも来るからさ」
「ふーん」
「何だよ」
「なんて名前なの?」
僕は苛々した。
「何だっていいじゃないか。うるさいとアイスクリームやらないぞ」
奈緒はそれはずるい、と言った。オーナーはアイスクリームくれるって言ったよ。
「ずるくなんかないさ。余計なことに首突っ込むなよ」
「だって、心配だもの。前みたいなことになったら」
前のバイトでの失敗を持ち出されて、僕はちょいとへこんだ。店によく来るOLと仲良くなった。僕よりちょい年上の、色っぽい子だった。そのうち飽きがきて、別れ話を持ち出したら、彼女は拒否した。おまけに彼女が実はその筋のおにいさんの愛人やってるってことがわかって、僕は震え上がった。なんとか彼女をなだめて円満に別れて、店をやめるまで冷や汗ものだった。
「仁はいつも女で失敗する」
「生意気言うな。さやかちゃんはそんなんじゃない」
「さやかって言うんだ」
僕は舌を噛み切りたかった。
「ママに頼まれたのか?」
「わたし、スパイじゃないもん」
「何も言うなよ」
「言わない」
あっさりと言ったので、僕は拍子抜けした。
「でも、仁も気をつけてよ」
本気で心配しているらしい。妹の分際で、と思ったけど、好意には違いない。
「わかったよ。アイスクリーム、ストロベリーとチョコレートとヴァニラ、どれがいい?」
「チョコレート」
僕は皿を片付けて、心配性の妹のチョコレートアイスクリームを取りに行った。
猫肉屋が一番忙しいのは金曜の夜で、僕も雅史も手一杯になる。だから初めのうち、僕はその客を大して気にとめなかった。
背の低い小太りの、まだ若い男で、きちんと背広ネクタイに身を固めている。会社帰りのサラリーマンに見えた。黒いブリーフケースを隣の椅子に置いて、落ち着かなげに店の中を見回している。初めて見る顔だった。僕が水とメニューを運んでいくと、メニューを開いて、ちょっと考えさせてくれと言ったので、僕はテーブルを離れた。実際、すごく忙しかったんだ。一番大きなテーブルを占領して、議員の大河内さんが夕食会やってたし、その隣のテーブルじゃ、さやかちゃんがパスタを掻き込みながら打ち合わせ中。ツシマヤマネコ愛好家の遠山君は、お客さん数人を引き連れてきて、ヤマネコの保護について熱弁をふるっている。他のテーブルも家族連れやグループで埋まってた。若い男は熱心にメニューを覗き込んでるから、しばらく一人にしておいて、僕はキッチンとフロアの間を忙しく動いていた。
騒ぎがおきた時、僕はキッチンにいた。ワッという喚声でフロアへ飛んでいった。
小太りの若い男は椅子の上に棒立ちになっていた。胸の前にブリーフケースをしっかりと抱え、額に汗をかきながら、すぐそばの床にいる猫を恐怖の目で見ている。、猫の方は毛を逆立て、尾をピンとおっ立てて、しきりに男を威嚇している。しまった、と僕は思った。
虎猫のティガーは、オーナーの連れてくる猫の中で一番たちが悪い。店の中に入ってきちゃあ、お客さんに食い物をねだったり、膝の上に這い上がって愛撫を要求したりする。かと思うと、店の外で犬に喧嘩をふっかけたり、ゴミ箱の中身の研究に励んだりしている。トラブルメーカーだ。この忙しい金曜日に、よりによってティガーを連れてくるなんて、と僕は正直、オーナーが恨めしかった。アントンにすればいいじゃないか。やつならおとなしく、そこらで一日中寝ている。
ただ、今日は珍しく、ティガーはおとなしかった。さっきまで、さやかちゃんの隣の椅子にうずくまって、背を撫でてもらってはごろごろと喉を鳴らしていたんだ。だが今は…。
ティガーは一歩、怯えきった男に近づいた。目はぎらぎらと悪意を込めて光り、背中は山のように高く弓なりにそっている。周囲の客は話を止めて魅せられたように、椅子の上の男と、男を威嚇している猫を見ている。と、ティガーは身体を丸めて、突然跳躍した。一っ跳びで男の前のテーブルに跳び上がり、牙をむき出してシャーッという威嚇音を出した。周囲の観客はオオッとどよめいた。
もうたくさんだ。僕は大またに近づいて、ティガーをひっ掴もうとした。ティガーのやつはくるりと振り向いて、今度は僕に向かって牙をむいてみせた。が、僕がはたきつけると、ぱっとテーブルから跳び下りて、キッチンの方へ逃げていった。
「大丈夫ですか」
僕は椅子の上で震えている気の毒な男に訊いた。「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
僕の猫じゃないけど、一応あやまった。男は一言も口をきかない。青い顔をして黙ってる。
「あの、もう降りてきても大丈夫ですよ」
いつまでも椅子の上に突っ立ってられても困るので、僕はそう言って、手をかそうとした。男は操り人形のようにぎくしゃくした身振りで降りてくると、椅子の上にへたりこんだ。
「怪我したんですか」
僕が見た限りでは、ティガーは男を威嚇していただけのようだったけど、念のために訊いてみた。男は黙って首を振った。うつろな目で、テーブルをじっと見つめている。
「あの…」
困った。こういう時、どうすればいいんだろう。雅史かオーナーが来てくれないかな、とキッチンの方に目をやったが、二人とも出てこない。まわりの客は、一大スペクタクルはもう終わりと見て、自分たちの食事と会話の方に戻っている。この男一人が、びっしょりと汗をかいて、魂が抜けたようにすわり込んでるだけだ。
「冷たいおしぼり持ってきます」
僕は奥へ引き上げた。
オーナーはキッチンでカツレツを揚げていた。僕が入っていくと、雅史が振りむいた。
「お客さん、どうした?」
「ショック受けてるよ。当たり前じゃないか」
僕はオーナーのそばへ寄っていった。
「オーナー。オーナーから何か言った方がいいと思います。かなり怖かったみたいで、僕、いろいろ言ったんだけど、一言も口きいてくれないんです」
オーナーは知らん顔でカツレツを揚げている。僕は腹が立ってきた。ことの起こりは、オーナーのろくでなしの猫じゃないか。
「オーナー。聞いてるんですか」
「聞いてますよ」
オーナーは突然、菜ばしをおいてこっちを見た。「雅史君。レジを見ていてください」
雅史は出ていった。
「仁君。あなた、ティガーを叩きましたか?」
「はあ?」
僕はあっけにとられた。
「さっき、ティガーのこと、叩きましたか?」
「ええ。お客さんに跳びかかりそうだったから、やめさせようと…」
「わたしの猫です。叩かないでください」
「でも、あの場合…」
「叩く必要ありません」
オーナーの目はおっかなかった。さっきのティガーみたいに、ぎらぎら光ってこっちをねめつける。僕は、あやまることにした。
「すみません」
「猫はちゃんと、自分の仕事してます。あなたが手を出さなくていいです」
仕事? 何の仕事だ? お客を怯えさせただけじゃないか。
「わかったら、あなたも仕事に戻って下さい」
わかるはずないじゃないか。なんで僕が怒られるんだ?
フロアに戻ると、さっきの男の席は空っぽだった。仁君が奥へ入ってすぐ、出て行っちゃったのよ、とさやかちゃんが教えてくれた。
閉店後、後片付けをしている時、雅史がそばに寄ってきた。今日のことはもう、気にするなと言う。慰めてくれてるつもりなら、お門違いだ。僕はまた腹が立ってきた。
「気にするなったって、気になるよ。ティガーはちゃんと予防注射してるのか。あのお客、保健所に駆け込むかもしれないぞ」
「仁。ティガーは猫だ。狂犬病の心配はないよ」
「それにしたって、お客に猫をけしかけたなんて噂が広まったら、店のためによくないよ。オーナーは何考えてるんだ」
「仁が心配しなくてもいいんだよ。前にもあったことなんだから」
前にもあった?
「何回かあるんだよ。どういうわけか、猫がお客さんを嫌って追い出すんだ。お客は腹を立てるけど、出て行くしかないんだ。僕らも何もできないよ」
オーナーは、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。もちろん、オーナーは猫の肩を持つのだ。
「オーナーは平気だよ。猫が嫌いな人、来てもらいたくありませんって言うんだ。猫嫌いっていうんじゃなくて、人間の方が、お猫様に気に入っていただかなくちゃならないんだよ、ここでは」
「オーナーは頭がおかしいんだ」
「そうさ。今頃気づいたか」
雅史はにやにやした。僕は馬鹿馬鹿しくなった。
「オーナーは何だって、そこまで猫をひいきにするんだ?」
「オーナーが言うには、猫達はこの店を守ってるんだと」
「何から?」
「さあ。悪いやつからだろ」
「猫には、食い逃げするやつがわかるっていうのか?」
自分で言って、僕は噴き出した。猫の第六感。スーパーキャット、虎猫ティガー! 僕らは二人でゲラゲラと笑い、そのまま忘れてしまった。
後になって、でも、僕は妙なことを思い出した。
一ヶ月ほど前、閉店後、ゴミを出しに行った時のことだ。ゴミ出し場は裏口からちょっと離れた、隣の店の裏壁と高いブロック塀に挟まれた細い路地の先にあった。路地の入口にある街灯のあかりは、中ほどまでくるともう届かない。長い、暗いトンネルのような路地を、僕はゴロゴロとバケツを引きずり、時折、でこぼこにつまづいたりしながら歩いていた。
さっき、第六感の話をしたけど、そういう感覚って、暗い所で特によく働く。そういう気がしないか? バケツを引きずっているうちに、僕、何となく誰かに見られているような感じがしたんだ。立ち止まって振り返ったけど、誰もいない。時刻はもう十時を過ぎてる。時々、表通りの方から車の通り過ぎる音や人の話し声が、くぐもったようにぼんやりと聞こえてくる。夜の冷たい空気が襟首から忍び込んできて、僕は肩をすくめて、また歩き出した。
と、まただ。誰か見ている。うなじの辺りにちりちりするような変な触感がまとわりつく。僕は立ち止まった。振り返った。路地の入口は街灯に照らされて、トンネルの入口のように明るい。誰もいないのは一目でわかる。行く手は、ゴミ出し場の鉄扉で行き止まり。そこまでは、暗い狭い一本道。隠れる所なんてない。第一、誰が隠れてるっていうんだ?気のせいにきまってる。僕はまた歩き出した。ともすれば立ち止まって周りを見回したくなるのをこらえて、僕はひたすらに歩き続けた。ゴミ出し場に着いた時はほっとした。いつの間にか額に吹き出た汗を手の甲でぬぐってから、鉄扉の上部についてるスライド式の錠に手を伸ばした。
ぞっとした。ガラス玉のように光る目が、トタン屋根の上から、じっとこっちを見下ろしていた。僕は硬直した。声も出なかった。一瞬の後、そいつは塀の向こうに消えた。
なあんだ、野良猫じゃないか。
空のバケツを引きずって、路地の入口近くまで戻ってきた時、青白い蛍光灯のあかりの下にほっそりしたシャム猫が走り出てきた。やあ、シェーラ、と僕は声をかけた。優雅なシャム猫は柔らかい声でニャーと返事する、いつもなら。
この時は違った。
カッと口を開いてシャーッと威嚇音を発するなり、シェーラは僕めがけて弾丸のように飛んできた。僕はわっと叫んで、バケツを放すと両腕で顔をかばった。シェーラは僕の脇を駆け抜けて路地に駆け込むと、高いブロック塀を一気に駆け上がって、反対側に消えた。ギャッという悲鳴が聞こえた。物凄い猫のうなり声と重たい身体がぶつかり合う格闘の音が聞こえ、すぐ静かになった。
「おい、シェーラ。大丈夫か」
僕は塀に駆け寄って声をかけたが、塀の向こうはしんとしている。繰り返し呼んでいると、オーナーが出てきた。
「どうしました」
「シェーラが野良猫と喧嘩したんだと思います。けがしてなきゃいいけど」
オーナーは何も言わずに、懐中電灯の明かりをブロック塀の上や路地のあちこちに向けた。丸い光の輪の中に、ほっそりした猫の姿が浮かびあがった。青い目が輝いてこちらを見ている。口のまわりと、胸の前が濡れたように黒くなっている。シェーラは落ち着き払った態度で塀の上にすわり、顔を洗っていた。
「仁君。バスケットを持ってきて下さい」
バスケットを見ると、シェーラは塀から跳び下りて、とことこと寄ってきた。オーナーは、かわいくてたまらないというようにシェーラの頭を撫でてから、バスケットに入れた。
「手当てしなくていいんですか」
「何の手当てですか」
「シェーラ。けがしてるんじゃないんですか」
「あれは、シェーラの血ではありません」
オーナーは満足そうに言うと、バスケットを持って店の中へ戻っていった。
猫肉屋の開店記念パーティは、毎年、春分の日に開かれる。この日は店を閉じて、パーティ券を買った常連客だけしか入れない。
今までのパーティの写真だと言って、雅史は店の奥からアルバムを持ち出してきた。三十人から四十人くらいのお客さんと、オーナー、キッチンスタッフやウェイターまで並んで、にっこり笑った写真がいくつも並んでいる。人間が並んだその前には、猫がたむろして写っている。オーナーの猫達も、この日は全員、家から連れて来られてパーティに参加するのだそうだ。
「料理はバイキング形式で勝手に取ってもらう。こっちは飲み物を運んでやればいい。あとは猫のやつが、テーブルから食い物を失敬しないように見張ってるだけだ。楽な仕事さ」
「なあに? 何の写真?」
僕がアルバムをめくっていると、さやかちゃんと生田さんが寄ってきた。水曜日の夜で、客はほんの数組しか残ってなかった。
「僕は一回目のパーティからずっと参加してるんだよ。もう、僕だけだろうなあ」
生田さんは懐かしそうに言って、写真に見入った。
「ほら、ここ。これが一周年記念のパーティだよ」
確かに今より大分若い生田さんが、猫の顔の形をした腕時計を掲げて見せている。
「まだ持ってるよ、この時計。この時のビンゴゲームの景品だったんだ」
もしかして、生田さんの猫グッズ収集はそれから始まったのか?
生田さんの隣では、福々しい顔をした白髪のお婆さんが笑っている。
「これは小林さん。猫の大好きなお婆さんで、ここへ来ると顔が合ったんだ。雅史君は覚えているだろう?」
「ええ」
「いつ頃から来なくなったのかなあ」
生田さんはページを繰った。第六周年記念パーティには、福々しいお婆さんはいなかった。
「なんでも、結婚してる娘さんと同居することにしたって聞いてますよ」
雅史が言った。
「誰から聞いたの?」
「オーナーがそう言ってました」
「そうか。引っ越すなら教えてくれればよかったのにな」
「吉岡さんはいつから参加してるんですか」
僕はページをめくってさやかちゃんの写真を探した。
「わたしはねえ……」
さやかちゃんは第七周年記念パーティの写真に並んでいる顔を、指でたどっていく。「ほら、あった」
確かにさやかちゃんだ。今よりもっと髪が短くて幼い感じがする。
「この時が最初だと思う。二〇××年。へえ、もう五年になるのか」
「あ、酒井君がいる。ほら」
生田さんが大学生くらいの男の子を指さした。
「ほんとだ。この時、来てたんだ」
さやかちゃんが嬉しそうに言った。
「知ってるんですか」
「ここで前にウェイターをやってた子よ。この頃はお客さんで来てたの。ひょうきんで面白い子だった。急にやめちゃったのよね」
「学校をやめて、実家へ戻ったんですよ。お父さんの具合が悪くなったんだって、オーナーが言ってました」
雅史が言うと、「そう、それじゃしょうがないわね」と、さやかちゃんは言った。やけに残念そうに聞こえた。僕はページをめくった。
次のページ。大きな瞳が印象的なすごくかわいい女の子の写真。
「これ、誰ですか?」
「志保ちゃんだよ。この頃、週末のたびに来てたんだ。それから、急に来なくなった。何か聞いてる?」
生田さんの問いに、雅史は首を振った。
「たまにいるのよね。突然、来なくなっちゃう人。ほら、彼もそう」
さやかちゃんは色の白い丸顔の青年を指さした。「名前は忘れちゃったけど、何年か、ずっと来てたのよ」
「お客さんは気まぐれですから」
雅史が言った。「飽きて、よそへ鞍替えしたんでしょう」
「あたしは鞍替えしてないわよ」
「吉岡さんは、いいお客さんですよ」
僕がお愛想を言うと、さやかちゃんはにっと笑った。
「今度のパーティ、何周年になるんだい?」
生田さんが聞いた。
「十二周年記念。うんと盛大にやるって、オーナーが言ってますから、楽しみにしていて下さい」
パーティの準備は順調に進んでいった。ワインとビールをいつもより多めに注文し、パーティ用の貸し皿を契約する。グラスとシルバーの数を点検する。ごちゃごちゃの倉庫の中から、パーティ用の飾りの入った箱を探し出す。BGMに使うCDを選ぶ。変なCDがたくさんあるんだ。猫声コーラスとか、猫のセレナーデとか。忙しいけど、楽しかった。
キッチンの佐藤さんとオーナーはもちろん、大車輪で働いている。僕もイモの皮むきくらいなら手伝ったけど、ピリピリしているシェフのそばにいるのは剣呑だから、できるだけ早く逃げ出そうと機会をうかがってた。うまい具合にオーナーが、ビンゴゲームの賞品を家に置いてきたから、誰か取りに行ってくれと言ったので、さっそく立候補した。
オーナーは店から車で四十分くらいのとこにある一戸建ての二階家に住んでいる。前に雅史と行ったことがあるから、道は知っていた。一人暮らしなのにこんな大きな家と思うけど、猫がいるから、マンションじゃ都合が悪いのかもしれない。
たまたま店に来ていたさやかちゃんが一緒についてきた。ラッキー。
「すみません。お忙しいところ…」
「別に忙しくないわよ。今年の一等賞は何なの?」
「さあ。去年は何だったんですか」
「猫の顔のついたオルゴール時計だった。あれはかわいかった。欲しかったのに残念」
「今年はあたるかもしれませんよ」
「どうだか。あたし、あんまりくじ運良くないんだ。福引とかでも、ティッシュもらって、はい、残念でした、だもんね。一度くらい、パアッと、世界一周旅行ご招待! なんていうのあたらないかなあ」
「どこへ行きたいんですか」
「ヒマラヤ。ユキヒョウの生息地なの。ユキヒョウって、真っ白な毛皮に、黒い斑点が一面にとんでるの。すごくきれいな猫なのよ」
どうして猫肉屋の客というのは、猫の話しかしないのだろう。
「彼氏と行くんですか」
「彼氏?」
「ああいう招待旅行って、たいてい、ペアでご招待でしょ」
「そっか。そうねえ。金之助と一緒に行こうかな」
「猫は無理でしょう。金之助だって、行きたくないと思いますよ。飛行機に酔うかもしれない」
「じゃ、仁君と行こうか?」
「え?」
さやかちゃんはにまーっと笑った。猫のように白い小さい歯がのぞいた。
「気が進まない?」
んなわけないでしょう。
「ユキヒョウだろうが、ベンガルタイガーだろうが、喜んで見に行きます」
「オーケー。もしあたしが、世界一周旅行にあたったら、一緒にヒマラヤへ行こう」
「指切りしましょうか?」
「いいけど、あたし、くじ運悪いのよ」
「大丈夫。僕が当てます」
ビンゴゲームの賞品は、まとめて居間のテーブルの上に置いてあった。大小七、八個の箱がごちゃごちゃ並べてある周りを、猫がうろうろ歩き回っては、匂いを嗅いでいる。ひとつの箱はラッピングが破れて、引き裂かれた紙があたりに散らばっていた。
「あーあ。ひでえな」
僕は爪をたてられたボール箱の中を覗いた。猫用のソーセージだった。
「オーナーが悪いのよ。こんなとこにごちそう放り出しておくんですもの」
さやかちゃんはオーナーと同じ。猫には甘い。のたのた近づいてきたアントンの背中を撫でてやった。
「猫、見張っててもらえますか。新しいラッピングペーパーを探してきます」
オーナーは二階の一部屋を書斎にしている。多分、そこにあるだろうと見当をつけて、僕は二階へ上がった。南に向いた一室にどっしりとしたデスクがすえてある。その上にパソコン。ガラス戸のついた本棚には、本がぎっしり詰まっている。どうせ猫の本だ。デスクの脇に、猫の絵のついたラッピングペーパーのロールが立てかけてあった。それを掴んで部屋を出ようとして、ふと、壁にかかっている額が目に入った。
もちろん、猫の写真だ。店にあるのと同じような、オーナーの飼猫の写真。ただ、ここには人間の写真もあった。猫の写真の隣に、人間の顔写真が並べて飾ってあるんだ。太った白いペルシャ猫―アントンの隣に、丸顔の若い男の子の写真が飾ってある。黒いどっしりしたペルシャ猫―サンムラマットの隣に、白髪のふっくらした上品なお婆さんの写真。シールポイントのシャム猫―シェーラザードの隣に、ショートカットで印象的な目の、かわいい女の子。あれ? と僕は思った。この女の子、見たことある。どこで見たんだろう。ティガーの写真もあった。隣にはスポーツマンって感じの若い大学生ぐらいの男の子。
写真はみんな、猫と人間が一対になっていた。左側に猫。右側に人間。こうやって並べて見ると、面白いことに気がつく。猫と人間ってよく似てるんだ。よく言うだろう? 人間はその飼っているペットに顔つきが似てくるって。そんな感じなんだよ。アントンと、このボーッとした顔の男の子、ティガーと大学生のスポーツマン。オーナーはそんな効果を狙って、猫と人間の写真を組にして飾ったのかな。
オーナーの写真もあった。クリーム色のペルシャ猫と対になってる。でも、これはあまり似てないな、と僕は思った。オーナーはペルシャって感じじゃない。これはあまりうまくない。
一番端に、見慣れない赤褐色の猫の写真があった。それと対になる額には、何も入ってなかった。きっとまだ、よく似た人間を探し出してないんだろう。
僕はラッピングペーパーを持って階下へ降りた。居間では、さやかちゃんが、赤褐色の短毛種の猫と遊んでいた。僕はすぐに階上の写真を思い出した。
「これ、なんて猫なんですか」
「アビシニアン。きれいな猫でしょう?」
「初めて見るな」
「オーナーが最近買ったのよ。もうすぐ一歳になるの。ね、ラムセス」
さやかちゃんは猫の顎の下をくすぐった。
「名前まで知ってるんですか」
「今度のパーティは、ラムセスの歓迎会も兼ねるんだって、オーナーが話してたもの。わたし、ラムセスにケーキを焼いてやることになってるの。あ、これ、みんなには黙っててよ。びっくりさせるつもりなんだから。猫の形をしたケーキなの。チョコレートとモカクリームで飾りつけをしようと思ってるんだ」
猫のケーキか。あんまり食欲そそらないな。僕は賞品の箱をかき集めた。破れたラッピングは店に戻ってからやり直そう。もっと引き裂いてやろうという顔をしてティガーがうろついてるここより、やりやすいはずだ。今日、店にはサンムラマットが来てる。年長のペルシャで、オーナーの猫達の中では一番分別がある。
「仁君も、ケーキ楽しみにしててね。あたし、腕によりをかけて作るんだから。こう見えても、お菓子作りは得意なのよ」
でも、僕はさやかちゃんの焼いたケーキを食べられなかったんだ。
猫肉屋の開店十二周年記念パーティで、アビシニアンをかたどったモカ・アンド・チョコレートケーキは喝采を博した。
「仁君はどうして来なかったの?」
吉岡さやかは不満そうだった。
「どうしてだか、わかりません」
「連絡ないの?」
オーナーは肩をすくめた。
「あたしの猫ケーキ、食べてもらおうと思ってたのにな」
「この猫に食べさせてやって下さい」
オーナーは明るい赤褐色のアビシニアンを抱き上げた。さやかはスプーンでモカクリームをすくいとると、猫に差し出した。ピンク色の小さな舌が出て、ぴちゃぴちゃとクリームをなめた。
「いい子ね、ラムセス」
さやかは猫の頭を撫でてやった。ラムセスは、満足そうに喉をごろごろ鳴らした。
目が覚めてすぐ、昼間だって気がついた。部屋の中が明るい。ガラス戸から日の光が射し込んできて、暖かい。僕は思いきり伸びをした。寝過ごしちゃったみたいだな。起き上がって、ぶるっと身体を震わせた。慎重にベッドから抜け出して二、三歩歩いたところで立ち止まった。
何か変だ。
僕は目を大きく見開いて、あたりを観察した。耳を澄ませて、周囲の音を聞き取ろうとした。
どうも変だ。ここは僕のアパートじゃない。匂いが違う。足裏に触れる、カーペットの感触が違う。全然知らない部屋だ。僕は後じさりした。尻尾が自然と腹の下にたくし込まれる。身体を丸め、耳を伏せ、目を見開いてじっとしていた。
怖い。
知らない匂い、知らない空気がひしひしと僕の方に押し寄せてくる。部屋全体が、僕に敵意を抱いてるみたいだ。怖い。怖くてたまらない。僕はもうがまんができなくなった。
後ろ足を上げて、シャーッとスプレーする。なじみ深い匂いがあたりに広がって、僕は少し安心する。もう一回。シャーッ。いい気分だ。僕は部屋の中を歩き回って、要所要所にスプレーした。特に重要と感じられるポイントでは、気張って大きい方をした。世界中が僕の匂いでいっぱいになった。これでよし。僕はご機嫌で、カーペットをぎこぎこ引っ掻いた。
と、僕の耳がぴんと立った。何かの気配がする。誰か来る。誰かが、僕の方に近づいてくる。隠れなきゃ。どこへ? 僕は必死であたりを見回した。
ここだ! ベッドの中に跳びこんで頭をブランケットの下に突っ込んだ。
気配が近づいてくる。足音とも言えないような軽いタッチがカーペットにあたる。匂いもする。甘く、優しい匂いだ。こんな匂いの持ち主なら、見てみたい。僕はブランケットから頭を出しかけて、思いとどまった。罠だったらどうする? 相手の声を聞くまで待とう。
声はすぐに聞こえた。かん高い、金属的な声が非難と軽蔑を込めて、僕の名前を呼んだ。
―ラムセス! あんた、何したの?
僕はますます深くブランケットの中に潜り込んだ。今出ていかない方がいい。誰だか知らないが、随分怒ってるみたいだ。
―出てきなさいよ。聞こえてるんでしょう?
僕は毛布の隙間から外を覗いた。声の主はベッドのすぐそばに立って、こっちを見ている。魅力的なシャム猫の雌だ。耳と足の先はきれいな茶褐色で、すらりとしたブルーグレイの身体にアクセントをつけている。大きな瞳は吸い込まれそうな青だ。ぞくぞくするような美形だけど、残念ながら、今はご機嫌ななめだ。鼻に皴を寄せ、いかにも不愉快だというように、ひっきりなしに舌を出して唇をなめている。
―見損なったわ。あんた、無分別な上に臆病者なのね。
臆病者と言われて、黙って引っ込んでるわけにはいかない。僕はブランケットから頭を出した。シャム猫の顔がすぐ目の前にあった。ひげとひげが触れ合いそうなほど、すぐそばに。シェーラザードだ、もちろん。オーナーのシャム猫。僕はベッドから這い出した。前足をぐんと伸ばして、伸びをした。尻尾を立てて軽く左右に振って、挨拶した。
―のんびり挨拶なんかしないでちょうだい。
シェーラはぷりぷりと言った。
―見てごらんなさいよ、あんたのしでかしたこと。
―僕が何したって?
―ここはあんた一人のテリトリーじゃないのよ。ティガーが帰ってきたら大騒ぎして、そこらじゅうにスプレーして回るわよ。アレクサンダーはかんかんになるでしょうよ。
―そんなに怒らなくたっていいじゃないか。かわいい顔が台無しだよ。
―ラムセス、あんたはね…
―僕はラムセスじゃない。仁だ。
言ったとたん、頭の中で何かが音をたてて弾けた。
そうだ。僕は仁だ。僕の名前は西島仁。二十一歳。僕は…。
僕は僕の両手を眺めた。赤褐色の短い毛に覆われている。握りこぶしに力を込めた。鋭くとがった爪がにゅっと指の先から飛び出した。これは僕の手じゃない。僕の手はどこへいっちゃったんだ? 自分の身体を見下ろした。すんなりした細い身体。やはり赤褐色の短い毛にすっぽりと覆われている。後ろを見ようと首を捻じ曲げた。長くて細い、棒のようなものが見えた。褐色の毛に覆われたしなやかな棒が、僕の背中の上で揺れている。しっぽ。尻尾がある。
その瞬間、僕は悲鳴をあげた。僕の声とは似ても似つかない声が喉から洩れた。猫だ。これは猫の身体だ。猫の声だ。でも僕は猫じゃない。僕は仁だ。僕は…どうなってしまったんだ?
僕は生まれて初めて、パニックを経験した。そこらを闇雲に走り回った。走りながら、手と足を全部使って走っていることに気がついた。
そんな馬鹿な…そんな馬鹿な…。僕は夢を見ているんだ。すぐに目が覚める。すぐだ。ベッドに戻ればいい。悪い夢だ。ベッドに戻って目を覚ませば、ちゃんと僕のアパートに戻っているんだ。僕はベッドに跳び込んだ。ブランケットを掻き集めた。眠ればいい。眠って目を覚ますんだ。
―ラムセス。
何も聞こえない。猫の声なんか聞こえない。
―ラムセス。……仁。
聞こえない。猫の言葉なんかわかるはずがない。僕は人間なんだから。
ベッドの外にいる猫の気配は間もなく消えた。そうだ、消えちまえ。こんな悪い夢は消えた方がいい。僕は震えながら、必死で念じていた。だが、猫の気配はすぐに戻ってきた。今度は一匹ではなかった。三匹だ。
―この匂い! ラムセスがやったの?
いかにも感心しないという声。年配の雌猫の声だ。
―ラムセスじゃないの。仁よ。
シェーラの声が答えた。
―でも、さっきまではラムセスだったよ。昼寝に行く前はさ。
のんびりした雄猫の声がする。アントンだ。
―でも今は仁なのよ。話してみてよ、サンムラマット。わかるから。
大きな雌猫が近づいてくる気配がする。
―ラムセス。出て来なさい。話があるんだから。
僕は無視した。悪い夢なんだ。
―ラムセス!
無視。
―立てこもるつもりだわ。
サンムラマットがため息をついて言った。
―早く何とかしないと。
―何とかって、僕らにはどうすることもできないよ。
―とにかく、ティガーが戻ってくる前に…
―もうすぐ帰ってくるよ。夕飯だもの。僕も腹減った。
―あんた、それしか頭にないの?
―なにが頭にないって?
突然、元気のいい雄猫の声が飛び込んできた。同時に生々しいスプレーの匂い。僕の匂いじゃない。
―ティガー! 止めなさい!
サンムラマットの悲鳴のような声がした。
―何でさ。ラムセスが良くて、何で俺がしちゃいけない?
スプレーの匂いはどんどん強くなる。
―ラムセスはショック受けてんだよ。今、みんなでどうするか相談してたんだ。
―アントン。お前、ほんとにタマついてんのか? 新入りにでかいツラされて、よく平気だな。
―出てって、ティガー。あんたがいると、ややこしくなるばかりよ。
シェーラの金切り声が聞こえた。ティガーはてんで平気だった。
―なんでこいつ、隠れてんの?
―急に人間に戻っちまったんだよ。
相変わらず、のほほんとした口調でアントンが答えた。
―へえ。そいつは面白いや。
次の瞬間、いくつかのことが同時に起きた。シェーラとサンムラマットが悲鳴をあげ、さすがのアントンがびっくりしたように息を呑み、そして僕の上に何か重たいものが飛び下りてきた。僕はギャッと叫んでベッドから飛び出した。とたんに、何かに体当たりされてひっくり返った。起き上がろうとしたところに、パンチが飛んできた。顔を引っ掻かれて、僕は悲鳴をあげた。むやみに両手を振り回したが、相手の身体はもうそこになかった。次の攻撃は横から来た。身体をひねってかわそうとしたが、遅かった。毛がむしり取られ、肩に激痛が走った。何とか身体を起こそうとして、また、転ばされた。顔の傷から血が流れて目に入ってくる。僕は鳴きながら、懸命に身を守ろうとしてもがいた。ギャアギャアという興奮した猫の鳴き声、空気を切り裂くようなシャーッという威嚇音であたりは騒然としている。その中に血の臭いがする。僕の血だ。目が眩んだ。殺される、と思った。
「やめなさい!」
いきなり人間の声がして、尻尾がぐいと引っ張られた。僕は鳴きわめいたが、人間はがっちりと尻尾を掴んだまま放さない。同時に敵も、僕から離れた。
「ティガー!」
ティガーはオーナーに向かって牙をむき出し、シャーッと威嚇音をたてたが、それ以上反抗しようとはせず、さっさと部屋を出ていった。
「何事ですか、これは」
ニャーニャーと答える三種類の猫の声がした。
―ラムセスがスプレーして…
―ラムセスじゃない、仁よ。仁がやったの。
―昼前まではラムセスだったよ。
―でも今は仁なのよ。人間なの。で、ティガーが怒って…
僕は尻尾を掴まれたまま、フーッ、フーッと抗議の声をあげていた。オーナーは尻尾を放すと、ぼくの首根っこを掴んで押さえつけた。
「だいぶ、手ひどくやられましたね」
―ティガーはひどいわ。こんな子猫に。
―もう子猫じゃないよ。
―でも、喧嘩の仕方も知らないのよ!
―静かにしてちょうだい、あなた達。アレクサンダー、ラムセスの怪我は?
「かなり引っ掻かれましたけど、獣医に行かなくてもいいでしょう。なおります」
オーナーは僕の傷を消毒して、薬を塗った。痛かった。手に噛みついてやろうとしたが、オーナーはびくともしない。万力のような力で僕の首根っこを押さえつけていた。薬を塗り終わると、朝顔の花みたいな格好の大きな円形の首輪を持ち出してきた。動物が傷をなめないようにするために、首のまわりにつけるガードだ。僕は後じさりした。喧嘩に負けて、尻尾引っ張られて、べとべと薬塗られて、この上、あんな不恰好なラッパを付けられてたまるもんか。屈辱で死んでしまう。
「嫌ですか?」
オーナーは後じさりしている僕に向かって訊いた。僕は嫌だと言った。ニャーという声が出た。
「傷をなめないって、約束しますか」
ニャー。
「それなら、いいでしょう」
オーナーは僕をベッドに入れた。それから、ベッドごと僕を持ち上げて、二階へ連れていった。ヒヤッとした空気の部屋に入ると、片隅にベッドを置いた。僕は首を伸ばして、外を眺めた。オーナーの書斎だった。この部屋は猫の匂いがあんまりしない。
「なおるまで、ここにいなさい」
オーナーはそう言って、優しく僕の頭を撫でた。僕は大きな手に顔をこすりつけた。
「スプレーしたら、怒りますよ」
オーナーはドアを静かに閉めて、出て行った。