すべて人宿あるひは牛馬宿その外も、生類重くなやめば、いまだ死せざる内に捨るよしほぼ聞こえたり。さるひが事ふるまふ者あらば、きびしくとがめらるべし。ひそかにかかる事なすものあらば、うたへ出べし。党与たりともその罪をゆるし、褒賜あるべし。
「生類憐みの令」 貞享四年 正月二十八日
銀之丞は猫が嫌いではないが、特に好きでもない。そう言うと、周りの人間は大概、困ったような顔をする。どうやら銀之丞の職業のせいらしい。だが、と銀之丞は思う。歯科医師が皆、歯が好きとは限るまい。警察官は、まず、絶対に泥棒が好きではないだろう。ならば、猫役人が、猫が好きでなくても良いはずだ。五年前、この役所に配属されて以来、銀之丞は無事に勤めてきた。仕事に不満はない。
さて、二〇××年三月十四日月曜日の朝、銀之丞はいつも通り、午前八時四十五分に役所の自分のデスクに着いた。この朝、銀之丞はすこぶる機嫌が良かった。昨夜、柳沢明子に電話して、ついにデートの約束を取り付けたのである。これでようやく、三ヶ月の長きにわたった彼女いない歴に終止符を打てるかもしれない。
銀之丞は自分をモテナイとは思っていない。水泳で鍛えた身長百八十の筋肉質の体、軽くウェーブのかかった茶褐色の髪が、優れた知性を示す秀でた額にふんわりとかかっている。鼻筋はまっすぐに通り、銀縁眼鏡の奥の大きな瞳は、涼しい、とよく言われる。
しかし、なぜか婚活が成功しない。いつも振られてしまう。いい人なんだけど、スパイスが足りないの。この前の彼女がそう言って去った時、銀之丞は真剣に落ち込み、周囲の銀之丞ファンを心配させた。
だが、今度こそ成功させるぞ、と銀之丞は心に誓った。今年、二十九になる。そろそろ実家の親たちがうるさくなってきたし、気骨の折れる事件を扱った日など、心癒す暖かい家庭が待っていてくれたらなあ、と考えているのに自分でも気が付く。その点、柳沢明子は満点だ。美人で聡明で、人の心を温めるような優しい笑顔を持っている。その上、料理が趣味で本式のフレンチから中華に和食、エスニックまでこなすと聞いている。
最初のデートはどこにしようか。何事も初めが肝心だからな。やはりイタリアンか。いや、ぐっと砕けて居酒屋の方がいいかな。その方が早くうちとけてくれるかな。ちょっとおしゃれな居酒屋があるといいんだが。そのうち親しくなってきたら、彼女の方で言ってくれるかもな。「今度、わたしの手料理をごちそうします」いいね、いいね、そうなったらしめたもんだ……。
「夏目君!」
突然名前を呼ばれて、銀之丞は我に返った。いつの間にか、部長が隣に立っている。
「これは、部長、お早うございます」
銀之丞がいささかばつの悪い思いで立ち上がると、部長はうさんくさそうに、銀之丞を上から下までじろじろと見た。役所内でも評判の堅物の部長と、おしゃれな銀之丞との間には、「公務員らしい、尊敬される」服装について、嘆かわしい見解の相違がある。ごくごく薄いクリーム色にピンクの細い線が入ったシャツが、カジュアル線上のどこに位置するか、判断の基準が、堅物の部長とおしゃれな銀之丞とではトラピスト修道院の尼さんと、パリコレのモデルくらい違うのである。今日の銀之丞は、あっさりした白のシャツに濃紺のスーツである。部長は満足そうにうなずいて、重々しく言った。
「夏目君。部長室まで来てくれ」
部長室に呼ばれるのは、ごく内密の話をする時だけである。銀之丞は緊張した。
「誘拐事件が起きた」
調査部部長室のどっしりとしたデスクを挟んで向かい合うと、部長は沈痛な面持ちで切り出した。
「身代金目的だ。三千万、払わなければ殺すと脅している」
銀之丞は息を呑んだ。
「被害者は?」
「名前はレオナルド。十日前に飼い主から『尋ね猫』の願いが出ていた」
部長はテーブルの上の薄いファイルを銀之丞の方に押しやった。
「この件は君に任せる。今、君が担当している件は他の者に引き継がせるから、君はこの件に専念してくれ。応援が必要なら手配する」
銀之丞はファイルを取り上げて尋ねた。
「犬は?」
「もう、被害者宅に向かっている。世田谷区の山吹町だ」
今日の日本の動物愛護政策に最も大きな影響を与えた人物として、徳川幕府第五代将軍、徳川綱吉公(一六五四―一七〇九)の名を忘れることはできない。芸術、学問にすぐれた教養人であった綱吉公の理想は、当時の支配階級であった武家から、百姓、町人の末に至るまで鳥獣をいとおしむ、恵みあふれる社会の建設であった。
貞享四年(一六八七)綱吉公は最初の「生類憐みの令」を発して、生きとし生けるものすべてへの哀憐を命じた。動物の虐待、殺害は厳しく禁じられ、違反者は禁固、追放、遠島、死刑をもって罰せられた。当時の記録によれば、ツバメを吹き矢で射たために死刑になった武士の親子、子犬が井戸に落ちて溺死した責任を問われ、遠島になった江戸城の台所役人、頬にとまった蚊を平手で叩き潰したことをとがめられ、謹慎処分となった旗本など、今から見れば明らかに行き過ぎと思われる事例もある。
しかしながら、人間以外の動物にも命があり、その生命は尊重されねばならないという理想をはっきりとうたい、強制力を持つ法をもって強力に推し進めたのは、史上、日本の徳川綱吉公が最初である。
なかでも大切にされたのは猫で、これは綱吉公が寅年の生まれであったからと言われている。綱吉公は中野に広大なヒノキ造りの野良猫収容所を建設し、食事は猫一匹につき、一日に白米三合、味噌五十匁、干鰯一合という結構なもの、さらに三日に一度、おやつとしてマタタビの支給があったという。
綱吉公の死後、娘鶴姫の婿、紀州の徳川綱教公が跡を継いで、第六代将軍となった。新将軍は、綱吉公の政策を忠実に受け継ぎ、法を整備し、猫の福祉厚生に心を砕いた。以後、代々の将軍家もこの愛猫精神を受け継ぎ、祖法として大切にしたので、日本全国津々浦々まで、猫を大切にする思想が行き渡った。
やがて、慶応四年(明治元年)(一八六八)徳川幕府は崩壊し、日本は明治維新を迎える。「生類憐みの令」もいったんは廃止された。が、新政府は明治十五年(一八八二)新たに「動物愛護ニ関スルノ法」を施行した。当時の日本政府は、欧米との間に幕府が締結した不平等条約の改正を最大の外交目標に掲げており、日本が欧米先進国に負けない文化国家であることを示す必要があったのである。
「動物愛護ニ関スルノ法」は、内容的には「生類憐みの令」と大差なく、ほとんどその引き写しといってよい。実は、アメリカ、ヨーロッパ諸国の考える、キリスト教を下敷きにした動物愛護精神と、日本の仏教、儒教をもとにした「生類憐みの令」では、微妙な色合いの差があったのであるが、当時の日本人はそんな細かいことは気にしなかった。先祖代々、生類を、それも猫をことさらに大事にして暮らしてきたのである。いまさら、おかみに動物を愛護せよなどと言われる必要はなかった。こうして、綱吉公の精神は、明治の世にも生き残ったのである。
「生類憐みの令」が最大の危機を迎えたのは、昭和二十年(一九四五)の太平洋戦争終結の時であったろう。勝利者として進駐してきたアメリカ、イギリスの将軍たちは困惑した。動物愛護は大いに結構なことである。バイブルでも、動物を慈しめと命じている。
だが、なぜ、猫なのか。
占領国アメリカ、イギリスの優秀な人類学者、歴史学者、心理学者はこぞってこの、(彼らにとって)不可解な慣習の研究に取り組んだ。その結果、この奇妙な猫崇拝が、はるか昔、十七世紀の封建制国家の、一君主の生まれ年に基づいていることを知ったのである。これは、日本を民主主義国家にする上で、障害になるだろうか。
熟考の末、彼らは賢明にも、これを放っておくことにした。健全な民主主義国家育成の役には立つまいが、害にもなるまいと判断したのである。東洋の一小国の国民がそろって猫好きだからといって、これを軍国主義の証拠とするわけにもいくまい。第一、動物虐待を禁止する法令ならば書けるが、猫偏愛を禁止する法令など、どうやって書けというのか。
「今後、徒ニ猫類ヲ、哀憐シ、又ハ、崇拝スルコトヲ禁ズ」
本国の記者連中に知れたら、全世界の笑い者になる。
昭和二十六年(一九五一)日本がついに占領を脱し、再び独立国家として立った時、欧米各国の不可解なものを見るような視線を感じて、この猫崇拝をやめようと提案する日本人もいた。これから、日本も国際社会のなかで、様々な国家と付き合い、国を建て直していかねばならない。あらぬ誤解、行き違いを生むかもしれないような特殊な習慣は、この際、改めるべきだというのが、その主張であった。この時、ときの首相は愛用の葉巻に火をつけ、長々と煙を吹き上げてから、豪快に笑い飛ばしてこう言ったと伝えられる。
「たで食う虫も好きずきと言うが、どこの国にも妙なえこひいきはある。インドの牛、イギリスの馬、フランスのプードル、オーストラリアのクジラ。日本の猫だけが悪いとは言えんよ。ほっときゃいいのさ」
かくして、遠く徳川第五代将軍綱吉公に端を発した「生類憐みの令」は、二〇××年の今も、日本人の心と暮らしの中に脈々と生き続けているのである。
しかし、時代は移る。三百年の長きにわたって続いている法令といえども、その施行状況に変化が生じるのは当然である。今日の日本の猫たちは、三百年前の先祖たちに比べて、はるかに安全かつ快適な暮らしを約束されている。
まず、登録制度。綱吉公の時代にも、飼い猫の登録は義務づけられていた。しかし、個体の識別に使われる目印がせいぜい、毛並み、毛色、尻尾の長短程度で、これでは、迷い猫になった時の捜索にも、捨て猫をした不届きな飼い主を見つけて処罰するにも、十分な情報とはとても言えなかった。
この点、今日の日本の猫たちは、科学技術の進歩の恩恵をたっぷりと受けている。猫福祉厚生庁の巨大なデータベースには、猫の写真付き登録簿が保存され、猫の名前、生年月日、性別、種別、母猫の名前、父猫の名前(もし、わかれば……)、毛色、マーキング、短毛長毛の別、尻尾(短、長、無)、目の色、鼻紋(人間の指紋に代わるもの)、そのほかの身体的特徴、生まれた都市、現住所、保護責任者の名前(通常は飼い主)まで、細かく記載され、一目で個々の猫が識別できるようになっている。
さらに、飼い主はこの登録の際に、猫の右肩の後ろにマイクロチップの埋め込みをすることを要求されており、このチップの登録ナンバーによって、猫の身元照会は著しく進歩した。捨て猫は皆無、もしくは激減した。迷い猫の保護も容易になった。愛猫を見失って悲嘆に暮れる飼い主は、猫福祉厚生庁のデータベースにアクセスする。その「尋ね猫」欄に登録ナンバーを打ち込めば、全国各地の猫保護施設(猫センター)に保護されている猫の情報がすぐに得られる。また、猫保護施設の方でも、保護した野良猫はまず、念入りに右肩後ろのスキャンを行い、身元の確認をする。もし、迷い猫であるとわかれば、即座に飼い主に連絡がいく。実際、人間の子供の迷子よりも、迷い猫の保護ははるかに能率的に行われているのである。(人間の子供にマイクロチップを埋め込むことは、ここでは触れない種々の問題があり、現在行われていない。)
「本当に、夢のようです」
迷い猫になった愛猫を無事に取り戻した東京都江東区の会社員、佐藤光恵さん(三十三)は、愛猫を抱きしめ、報道陣のインタビューに答えてこう語っている。
「うちのミータンがいなくなった時は本当に、目の前が真っ暗になりました。どこかで交通事故にあったんじゃないか、木の上に登って、降りられなくなって泣いているんじゃないかともう、心配で心配で。特に昨日は雨でしたから、この雨の中、どうしているんだろう、凍えて、おなかもすいているだろうに、果たして生きているのだろうかと……(号泣)必死に探したんです。毎日、毎日、うちの近所から隣町まで、ミータンの名前を呼びながら歩き回りました。ポスターも作ってあちこちの掲示板に張ってまわりました。ご近所の皆さんも手伝ってくださって。あとはもう、神様仏様におすがりするだけだとお祈りしていたら、猫センターから電話があって、ミータンが無事に保護されたと。皆さんのおかげです。本当に、どうもありがとうございました」
このように、マイクロチップのおかげで、高い確率で迷い猫は無事に飼い主のもとに戻っているが、旧来の捜索方法が全く役に立たないわけではない。神様仏様はともかく、ポスター張りと名前の連呼は、特に捜索活動の初期には有効である。言うまでもなく、猫保護施設に収容されるまでは、マイクロチップは役に立たない。現在このブランク期間の短縮を求める声が高まっており、政府は、各町内ごとに、町内会長の家にマイクロチップのスキャン設備を常備する条例を検討中である。
猫の保護、福祉厚生に関わるすべての仕事を統括する政府機関が、猫福祉厚生庁である。ここでは、猫福祉厚生員(通称、猫役人)が、全国の猫保護施設と連絡を取りながら、猫の保護哀憐に努めている。予防注射の徹底、迷い猫の探索とその保護、保護者のいない猫(飼い主に先立たれた猫、野良猫など)のアドプション事業、一般市民向けの無料飼育相談、健康相談、猫にからんだ法律相談(猫同士、猫と他の動物―犬、金魚、鳥などが多いーのトラブル解決)などである。
猫福祉厚生庁の調査部は、やや特殊な仕事を担当している。ここは、猫専門の警察とでもいうべき部で、猫の虐待、殺傷事件が起こった場合の調査機関である。猫に対する加害行為は、日本では非常に強いタブーであり、国民の間に強い嫌悪の情を引き起こすため、厳重に禁じられている。違反者は軽い虐待(猫に水をぶっかける、石を投げる)、保護責任遺棄(捨て猫)で罰金刑。傷害、猫殺害となると、終身懲役を科せられる場合さえある。猫福祉厚生庁は、時として、いにしえの綱吉公と同じ、強い権力を発動することがあることに留意したい。「生類憐みの令」は、生きているのである。
ーコリーン・マックブライド著「日本の動物愛護」より抜粋―
その家は大きかった。どっしりとした石造りの三階建ての洋館で、周りを高いコンクリート塀で囲ってある。塀の上には有刺鉄線が植え込まれている。入口は頑丈なスチール製の扉で、家というより、要塞という感じがする。スチール扉の右に郵便受けとインターホンがついていた。ブザーを押すと、女の細い声で応答があった。銀之丞が名乗ると、小さな潜り戸を開けて二十代の若い女が出てきた。この家の娘だろうか。
手入れの行き届いた芝生の間の小道を通って、家に案内される。応接間に通すと、ここでお待ちください、と言って若い女は出て行った。
応接間には、先客がいた。警察の人間らしい背広姿の男が三人、固まって話をしている。他に三人が、複雑そうな電子機器をテーブルに設置しているところだった。話をしていた男の一人がじろりと銀之丞を見た。
「お前さん、誰だい?」
銀之丞は身分証を取り出した。
「猫福祉厚生庁調査部から参りました。夏目銀之丞です」
鋭い目をした男は、ちらりと身分証の写真と銀之丞の顔を見比べた。
「猫役人さんか」
それきり、また自分たちの話に戻っていった。銀之丞の方は、一顧もしない。
別に驚くことでもなかった。警察は通常、猫がらみの事件を喜ばない。お役所特有のセクト主義で、猫福祉厚生庁とは、いつも縄張り争いを演じていがみあってきた。警察にすれば、自分の管轄内に猫役人がずかずかと入り込んでくるのが気に入らない。素人にうろうろされては、迅速な事件解決などできるはずがない。犯罪が起こり、捜査活動が必要なら、プロのこちらにまかせてくれというのが言い分である。一方の猫福祉厚生庁の言い分は、ことは猫である、というのに尽きる。猫に関してはこちらがプロである。それに、警察は人間同士の争いを追いかけるのに手いっぱいである。そんなところに任せていては、もの言えぬ猫の事件など、後回しにされるだけではないか。
この争いは、どちらの主張も一理ある、と銀之丞は思っている。だからこそ、今回のような重大事件では、猫と犬は協力し合うことになっているのである。だが、それは建前でしかない。二年前、銀之丞は福岡県警と協力して猫殺しの捜査にあたったが、その時の記憶は愉快なものではなかった。今回、世田谷署が建前を超えて協力してくれるならありがたいが、あんまり期待するものではなかろう。人間の縄張り意識というやつは、時として、発情期の雄猫のそれより強烈だ。
飼い主の上野聡子はなかなか現れない。
銀之丞は、電話に複雑なコードをつないでいる捜査員を感心して眺めていた。銀之丞自身は機械に強くない。エレクトロニクスに強い人間を見ると、無条件に尊敬の気持ちがわいた。もっと良く見ようと一歩近づくと、さっきの鋭い目をした刑事が、また、こちらに視線を投げてきた。邪魔するな、という無言の圧力を感じて、銀之丞はその場を離れた。
花の香りがする。
応接間には、庭に出るための大きなフランス窓があり、石畳のテラスに続く。その先はばら園になっていた。銀之丞は飼い主が出てくるのを待ちながら、これまでにわかっていることを整理した。
誘拐された猫の名前はレオナルド。登録番号―世田谷5GXB424。黒白茶ぶちの三毛猫。三歳九ヶ月の雄。右わき腹に直径3センチほどの大きさの黒いハート型のマークあり。尾は長く、目は金色。生まれたのは神奈川県小田原市。現在は世田谷区の上野聡子の飼い猫になっている。
「お待たせいたしました」
声で振り返ると、この家の女主人が部屋に入ってくるところだった。
上野聡子は私立大学の教授だ。専門は社会心理学。背の高い、女にしてはがっしりした体格の五十代くらいの女性で、髪はショートカット。かっちりしたパンツスーツを身につけている。きちんと化粧した顔はやや憔悴の色が見えるが、挨拶した声はしっかりしていた。
続いて入ってきたのが、夫の上野洋介だろう。聡子より年下に見える。職業は著述業。登山家で、アルピニストの間では結構知られた名前らしいが、なんともいえない威圧感のある奥方と並ぶと、影の薄い感じがするのは否めない。
上野聡子は安楽椅子にすわると、客たちにもかけるように促した。ソファは刑事三人がすわるといっぱいになった。エレクトロニクスの三人は、知らん顔で作業を続けている。銀之丞はフランス窓のそばに立っていることにした。
「世田谷署の吉田です」
鋭い目の刑事が、上野聡子に名刺を渡した。「さっそくですが、お話をうかがわせてください。猫がいなくなったのは、いつですか」
「三月三日、木曜日の朝でした。わたくしは講義がなかったものですから、ここで新聞を読んでおりました。すると、レオナルドが入ってきて、そのまま外へ出て行ったのです。それが最後でした」
上野聡子の声はかすかに震えたが、表情は変わらなかった。
「何時ごろでしたか?」
「九時過ぎだったと思います。いつもレオナルドが朝の散歩に出かける時間なものですから、わたくしも気に留めませんでした。そこのフランス窓から、なんにも言わず、いつもと同じ様子でふらっと出て行ったんです。それきり、夜になっても戻ってきません。いつもなら、暗くなる前に、ごはんを食べに戻って参ります。それが、あの日は、名前を呼んでも現れませんでした。うちは、夜間は猫を外へ出さない習慣で、いつも、食事が済むと朝までケージに入れておりました」
さっきの若い女が、コーヒーを運んできた。夫妻と刑事たちの前のテーブルにコーヒーを置くと、窓際の銀之丞にも持ってきてくれた。かわいい子だな、と銀之丞は思った。小柄の丸顔が、スコティッシュフォールドに似ている。
上野聡子はコーヒーに手も着けなかった。
「翌日、一番で『尋ね猫』の届を出しました。新聞に広告を申し込み、ポスターとチラシを手配しました。うちの大学の学生たちに手伝ってもらって、町中にポスターを張りました。チラシは日曜の朝刊に入って配られたはずです」
これです、と上野洋介がチラシを刑事に渡した。銀之丞は首を伸ばして、後ろから覗き込んだ。中央に大きく猫の写真が載っている。「尋ね猫」の字の下に、お礼差し上げます、の文字があり、上野家の電話番号が載っている。
「電話はありましたか?」
「一回だけ。でも、まちがいでした。雌だったんです。うちのは雄ですから」
吉田刑事はうなずいた。「続けてください」
「それから、おとといの夜に、レオナルドを預かったと脅迫の電話がかかってきました」
「ちょっと待ってください。電話は今朝かかってきたんじゃないんですか?」
「最初にかかってきたのは、おとといの土曜日です。八時過ぎでした。若い男の声で、猫を預かっている、返してほしければ、一億円用意しろ、と言ってきたんです」
「一億、ですか?」
「ええ。わたくし、いたずら電話だと思いました。主人も同じ意見でした」
「途方もない金額ですからね」と、わきから洋介が言葉を添えた。
「でも、今朝、また電話がかかってきました。男の声で、レオナルドを返してほしければ、三千万円を使用された札で用意しろ、と。わたくし、もう、動転してしまって」
「今度はいたずら電話とは思わなかった?」
「思いません。男はレオナルドの声を聞かせたんです。あれはレオナルドでした。男は、警察に知らせたら、猫を殺すぞと言いました。わたくし、どうしたらいいのかわからなくて…」
上野聡子の声は、悲鳴のようだった。
洋介が聡子の手を軽く叩いて、慰めの言葉をかけた。「大丈夫だよ。レオナルドはきっと帰ってくる」
「必ず取り戻します。ご安心ください」
吉田刑事はきっぱりと言った。銀之丞の耳にも、頼もしく聞こえた。刑事は質問を続けた。
「それで、土曜日の電話と今朝の電話ですが、同じ声でしたか?」
上野聡子は首をかしげた。「わたくしは同じように思いました。どちらも、若い男の声で」
「年齢はわかりませんか?」
「さあ、十代後半か、二十代の初めごろじゃないでしょうか」
「電話の背景はどうですか。屋内か屋外かわかりませんか?」
聡子は考え込んだ。
「そう言えば、土曜日の電話は雑音が多くて聞き取りにくかった。町中の公衆電話かもしれません。すぐ隣で誰かが話をしていました。女の声だったように思います」
「話の内容はわかりませんか?」
「聞き取れませんでした」
「今朝の電話はどうです?」
「もっと静かな場所からでした。多分、室内だと思います」
「犯人の心当たりですが、上野さんは誰かに恨まれているようなことはありませんか?」
「ありません」
「ご主人は?」
「ありませんよ。僕らは静かに暮らしている平凡な市民です。人の恨みを買うようなことはしていません」
「わかりました。犯人が接触してくるのを待ちましょう。電話してきたら、できるだけ会話を引き延ばしてください。逆探知します。それまで、お休みになっていただいて結構です」
「あのう」
吉田刑事のきびきびした質問の後では、銀之丞の声はいかにも間が抜けて聞こえた。
「すみません。ちょっといいですか?」
「どちら様でしょう?」上野聡子が聞いた。
「猫福祉厚生庁から来ました。夏目銀之丞です。上野さんにちょっとお願いがあるのですが…」
「なんでしょうか?」
「レオナルドのバスケットを見せていただけませんか?」
二階の南向きの一室が、レオナルド専用の部屋になっていた。毛足の長いカーペットを敷き詰めた部屋に、家具は一つもない。代わりに、大きな金属製のキャットケージが据えてある。中には、猫用のバスケット、トイレ、猫が登って遊ぶためのタワーが据え付けてあった。新品同様の爪とぎが、ケージの壁に立てかけられてある。使われた形跡がないのも道理で、レオナルドは買ってもらった立派な爪とぎより、カーペットの方がお好きらしい。あっちこっちに猫の爪でかきむしられた痕がある。猫が転がして遊ぶ、鈴のついたボールが三、四個、床に転がっていた。
猫のいない、猫部屋。いないというだけで、どうしてこうも空虚に見えるのか。日の光だけが、窓からさんさんと降り注いでいる。
銀之丞は窓から外を見下ろした。細かい金網を通して、真下にテラスとバラの花壇が見えた。
「お庭をちょっと拝見できますか?」
上野夫妻と三人の刑事は妙な顔をして、銀之丞の後についてくる。
きれいな庭だった。コンクリートの塀がぐるりと敷地を取り囲む中に、たくさんのばら、背の低い灌木、芝生が形よく配置されている。さっきコーヒーを持ってきてくれた若い女が、ホースで芝生に水をまいていた。
「あれは、お嬢さんですか?」
「いえ、小出真弓さんといって、わたくしの大学院の学生です。アルバイトでわたくしの秘書のような仕事をしてもらってます」
小出真弓は、銀之丞がずかずかと芝生を横切っていくと、驚いたように水を止めた。
「お仕事の邪魔をしてすみません。ちょっと質問があるんですが」
小出真弓は、上野聡子の顔をうかがうように見た。
「なんでも正直にお答えしなさい」聡子が言った。
「レオナルドを外で見かけたことはありますか?」
「はい」
「どこで?」
小出真弓は首をかしげた。
「山彦神社とか……。滝川さんのお宅の木の二股になったとことか。あと、ここの裏手にあたる家、黄金丸という猫の家ですけど、そこのガレージの屋根の上にもよくすわってました」
「レオナルドのところへ、近所の猫が遊びに来ることはありますか?」
「はい、たまに」
「よく来るのは誰ですか?」
「小林さんのところのマリアンと広瀬さんのお宅のペパーだと思います。武市さんのところの虎丸も時々来ますけど、雄猫で、どっちかというと、レオナルドの喧嘩相手と言った方がいいように思います」
「そう、ありがとう。お仕事を続けてください」
銀之丞はまた、ぶらぶらと庭を歩き回った。
「いったい…」と吉田刑事が苛立った声を出した時、銀之丞は立ち止まって塀を指さした。
「あの有刺鉄線ですが、いつ付けられたんですか?」
「半年ほど前です」
「何か、特別な理由があって?」
「理由と言っても……」上野聡子は、洋介と顔を見合わせた。「以前、ご近所で空き巣に入られたと聞きまして。それで、用心のために」
「それは、不安に思われたでしょう。レオナルドの主治医はどなたですか?」
「堀音三郎先生です。ドリトル犬猫病院の」
「山吹町二丁目の?」
「そうです。あの、それが何か?」
「いや、確認したいことがあるだけです。ところで、レオナルドの名前の由来を教えていただけますか?」
「由来、ですか?」聡子があっけにとられた声を出した。
「三毛猫の名前としては、個性的ですよね」
「そうかもしれませんけど。レオナルドはわたくしの恩師から譲られた猫なんです。わたくしが名付けたわけではありません」
「恩師というと、ブリーダーの、ええと…」
「小泉八重子先生です。わたくしの大学時代の恩師です」
「今は小田原にお住まいの?」
「ええ」
「あの、夏目さん、でしたか?」
上野洋介がたまりかねたように声をあげた。「猫の名前なんて、事件と関係があるんですか?」
「あるかもしれませんし、ないかもしれません。まだ、わかりません」
銀之丞は三人の刑事の方を向いた。
「大体、見せていただいたように思いますので、僕はこれで失礼します」
おい、と吉田刑事が驚いた声を出した。「犯人はこれから接触してくるんだぞ」
「わかってます。そちらの方は警察にお任せします。僕はちょっと調べたいことがありますので」
上野聡子の方に向き直った。「後でまた、様子を見に伺います。お時間を取らせました」
銀之丞は一礼して、表門の方に向かった。聡子に言われて、小出真弓が門まで送ってきた。
「小出さん」
銀之丞は潜り戸のところで振り返った。「何かお話しになりたいことがおありですか?」
小出真弓は、一瞬、すくみあがったように見えたが、すぐに首を振った。「いいえ」
銀之丞の後ろで、潜り戸が閉まった。鍵のかかる音が聞こえた。が、すぐにまた開いた。三人の刑事のうちの一人が出てきた。
「ちょっと待った。俺も一緒に行くよ」
銀之丞は、目の前の刑事をしげしげと見た。五十歳くらい。およそ風采のあがらない小男である。くたびれたねずみ色の背広を着た小太りの身体の上に、これまた丸い頭が載っている。てっぺんに残ってる毛はちょぼちょぼ、丸い大きな目に、潰れた鼻、おちょぼ口。さっきの吉田刑事が精悍なグレートデンを思わせるとしたら、この刑事はパグに似ている。それも、くしゃみをしたパグだ、と銀之丞は思った。
「世田谷署の森だ」パグが言った。
「警察と猫福祉厚生庁は協力して捜査に当たることになっている。協力するよ」
おそらく、森は上司からお目付け役を命じられたのだ。うちの管轄内で勝手なことはさせない、ということだろう。もちろん、警察の協力は必要だが、捜査にいちいち口を挟まれてはやりにくい。特に銀之丞は猫に似て、単独行動が好きだ。犬のように群れをなす警察とは、ハントのやり方が違う。内心の不快感を押し殺して、銀之丞は猫なで声を出した。
「でも、森さん、お忙しいでしょう? 僕は一人で大丈夫ですから」
「忙しいさ。だから、さっさと片付けよう。俺の車がある」
パグはよく訓練された警察犬だった。銀之丞の気持ちは沈んだ。どうやら、犬を連れて歩き回ることになるらしい。仕方ない、この状況をせいぜい利用させてもらおう。だが、最後の最後、獲物に爪を立てるその瞬間には、うるさく吠えまくる犬は邪魔なだけだ。
上野邸から少し離れた路上に、森は車を停めていた。法規どおり、まず、車の下を覗き込んで猫が潜り込んでいないのを確かめてから、森は助手席のドアを開けた。
「乗れよ」
銀之丞が乗り込むと、「どこへ行く?」と聞いた。
「獣医に会いに行きます。ドリトル犬猫病院」
森の目が光った。「獣医がこの件に関係してるのか?」
「してないかもしれません。でも、レオナルドの主治医です」
森は変な顔をした。困惑すると、丸い目がますます大きくなって、パグそっくりになる。
「俺たちは、誘拐事件の捜査で、いちいち、人質のかかりつけの医者に会いに行ったりしないぞ」
「それは誘拐されたのが人間だからですよ。今回は、猫です」
「猫が誘拐されると、そいつの獣医の顔を拝まなきゃならんのか? 何が狙いなんだ」
「猫をよく知りたいだけですよ」
森はあきらめたように肩をすくめた。車を廻しながら口の中で小さく、だから猫は嫌いなんだ、とつぶやいたのが聞こえた。
二人はしばらく、黙ったまま車を走らせた。銀之丞は横目で、運転している森の様子をうかがった。むすっと不機嫌そうな顔をしている。事件解決には、異種間の友好が不可欠だ。銀之丞は骨を投げてみることにした。
「三千万は大金ですね」
うう、と犬は唸るような喉声を出した。肯定の返事らしい。
「上野聡子は払うつもりなんですか?」
「実家が資産家でな、裕福らしい」
「それにしても、破格の身代金ですよ」
「よっぽどかわいい猫なんだろう」
「猫かわいがりですよ」
「洒落にならんな」
「そうですか?」
「猫がかわいいのは、寝てる時だけだ。静かだからな」
「森さんは猫、お嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ、寝てればな。うちに一匹いる。女房が飼ってるんだ」
「ブリードはなんです?」
「駄猫だよ。あの駄猫のせいで、猫がらみの事件が起きると、俺んとこにまわってくるんだ。他のやつは犬を飼ってる」森の声には、忌々しそうな響きがあった。
「さっきの質問、あれはどういう意味だ」
「どの質問ですか?」
「全部だ」笑いもしないで言った。
「猫役人の質問ってのは変わってるな。猫の散歩コースに、名前の由来か。そっちはお前さんの専門だからまかせる。俺が言ってるのは、最後の質問だ。何か言いたいことはないか、と小出真弓に聞いたろう?」
銀之丞は今出てきた上野邸の印象をもう一度、心に呼び起こした。要塞のような石造りの家。有刺鉄線のついた塀に、金網の張ってある窓。
「森さんはどう思われましたか? 僕は上野聡子が、猫をかわいがっているとは思いません」
「身代金、三千万だぞ」
「大事にはしている。でも、かわいがってはいない」
「なぜ」
「猫専用の部屋を作ってありましたから」
「たまたま部屋が空いてたからじゃないのか。あれだけ大きな家だ」
「森さんの家では、猫はどこで寝てますか?」
「居間の隅のバスケットだ。俺の家は、駄猫に専用の部屋をやれるほど大きくないよ」
「猫だって、そんなもの欲しくありませんよ。猫は犬に比べれば独立心の強い動物ですがね、それだって、一人ぼっちで閉じ込められるのは好きじゃありません。どんなに至れり尽くせりの贅沢な部屋でもね。それより、飼い主がうろうろしている家の中を、邪魔にされながらあっちこっち覗いてまわってる方がいいんです。気が向いた時には、飼い主の膝で昼寝させてもらってね。あ、次を右に曲がって、三ブロック入った左側です」
車が道を曲がって住宅街に入ると、銀之丞は話を続けた。
「レオナルドは自分の部屋に閉じ込められていた。飼い主は、猫が自分のそばにいるのを歓迎していない。そのくせ、大事に囲い込んだ。立派な部屋を用意し、出られないように窓に金網を張った。なぜなんでしょうね」
「貴重な猫なんじゃないのか? えらく高価な猫」
「たしかに、雄の三毛猫は珍しいんです。でも、高価ではありません。むしろ、縁起が悪いと嫌われる方が多い。それに、貴重な猫だったら、ずっとケージに閉じ込めておきますよ。純血種のショーキャットのブリーダーはそうしています。だが、レオナルドは外を出歩いていたらしい。わけがわかりませんね」
車が止まった。「ドリトル犬猫病院」と大きな看板の出ている瀟洒な赤レンガの二階建ての建物の前である。
猫福祉厚生庁の記録によれば、ドリトル犬猫病院は今の場所に開業して四十年近くになる、この辺では一番古い犬猫病院である。獣医師は堀音三郎と、その息子の智彦。
ガラスのドアを開けると、獣臭さと消毒薬の臭いが入り混じって、つん、と鼻をついた。狭い待合室には、チワワを抱いた老婦人が一人と、黒猫を入れたバスケットを膝に載せた小学生ぐらいの男の子とその父親らしい男がすわっているだけだ。あまり流行ってはいないらしい。しかし、右手の受付の背後には、カルテらしいファイルが、この病院の歴史を誇示するように、天井までぎっしりと詰まっていた。
銀之丞が受付の女の子に猫福祉厚生庁の身分証を見せると、二人はすぐに応接間に通された。十分ほどして、院長の堀音三郎が現れた。
堀獣医は、還暦を過ぎているように見える。白髪に老眼鏡、白衣の良く似合う、品のいい紳士だった。銀之丞は、レオナルドが誘拐されたことを明かして、協力を求めた。堀獣医は立派な額にしわを寄せて顔をしかめた。
「迷い猫になったことは聞いていました。どこをほっつき歩いているのか、困った猫だと思っていました。しかし、誘拐とは.…」
大変なことになった、と何度も繰り返した。
「それで、上野さんから話を聞いてこちらへいらしたのですか?」
「先生が主治医だとうかがいました。ご協力をお願いしたいのです」
「もちろんです。なんでも、私にできることがあれば」
だが、銀之丞はすぐ失望した。堀獣医は質問には答えてくれたが、ひとつも役に立つ情報を与えてくれなかった。
レオナルドは少々癇は強いが、持病はない。健康な猫だ。上野聡子は良心的な飼い主だ、定期的にきちんと健康診断に来ている。いや、連れてくるのは本人ではなく、その秘書の方だ。いや、レオナルドの前に猫を飼っていたことはない。動物を飼うのは初めてだと言っていた。いや、上野聡子のことは良く知らない、恨みを持っている人間がいるかどうかは全くわからない。
「堀先生」
銀之丞は声を改めた。堀獣医の目を覗き込むようにして尋ねた。
「レオナルドには何か特別な価値がありますか?」
堀獣医の顔が、仮面のように表情を失った。逃げるようにあちこちへ視線をそらし、最後に、膝の上で組んだ両手の指先を見つめたまま、動かなくなった。獣医師の大きな、それでいて器用そうな手だった。沈黙が続いた。
銀之丞は追い討ちをかけた。
「上野さんは、何か我々に隠していらっしゃる。しかし、主治医の先生ならばご存知でしょう?」
獣医師は決心したように顔を上げた。
「上野さんから何も聞いていらっしゃらないなら、わたしの口から申し上げるわけにはいきません」
「しかし…」
「患蓄の秘密は守る。これは獣医師のモラルです」
モラルを盾にされては話は進まない。あきらめて、銀之丞と森は動物病院を辞した。
「うちの駄猫の獣医はもう少し親切だぞ」外へ出るなり、森が言った。
「これからどうする?」
「この辺を少し歩きます」
「車があるぞ」
だが、銀之丞は首を振った。車で回ったのでは猫の住む町はわからない。猫は車に乗らないからだ。時間の無駄だと、森はいったんは渋い顔をした。が、銀之丞が、お忙しいなら僕一人でも、と言うと、むきになってついてきた。だから猫は嫌いなんだ、と嫌味を言うのは忘れなかった。
上野邸近くは昔からある古い住宅地で、裕福な家が多い。広い庭に生け垣をめぐらした家が並んでいる。猫には住みやすい町だろう。緑が多くて、隠れ場所に不自由しない。獲物になるような小鳥や、小型哺乳類も多そうだ。狩りが下手だったり、そんな気になれない怠け者向きには、所々に無料食料配給所がある。銀之丞は、生ゴミ集積所から、たった今、ちくわをひとつ失敬して急ぎ足に出ていった猫―茶と白のブチ、おそらく野良猫―を見送った。なかなかいい町だ。現代に生きる猫にとっての最大の敵、自動車もスピードを出していない。道路に「通学路」の標識がある。
上野邸のような、高い塀で周りを取り囲んだ家もある。誰を警戒しているのか知らないが、猫の侵入は防げないだろう。猫はオリンピック級のアスリートで、こんな塀を駆け上ることなどなんでもない。現に黒猫が一匹、のそのそと塀の上をこっちに向かって歩いてくる。二人の姿を見ると、立ち止まった。金色の目が光って、猫役人と刑事をじっと観察する。やがて、たいして興味あるしろものでもないと見定めたのか、腰を据えて悠然と顔を洗い始めた。
「あれは野良猫かね?」
「いや、飼い猫でしょう。朝の散歩に出かけてきたところですよ。ここがいつもの巡回コースなんでしょう」
「ご近所さんか。あいつに聞いてみちゃどうかね? 先日、この近所で誘拐事件が発生しましたが、不審な人間を見かけませんでしたか、とね」
「そうしたいですけどね」
銀之丞は軽くいなした。猫役人に対するこの手のからかいには、慣れっこになっている。
黒猫はふいに顔を洗うのを止めると、塀の内側に飛び降りて姿を消した。
「ここの家の飼い猫のようですね」
「なぜ、わかる」
「塀から飛び降りるのに、まるで警戒していませんでしたから。ところで、このあたりは、そんなに治安が悪いんですか?」
「有刺鉄線か?」
打てば響くように返事が返ってきた。
「あれは俺も変だと思った。治安は悪くないよ。管轄内でも犯罪発生率の低い町だ。この辺の連中が高い塀で家を囲むのは、泥棒の心配よりプライバシーの保護のためだ。なんであんなもの、つけたかな」
「人間を警戒したわけじゃないと思います。それなら監視カメラもつけるでしょう。あれは、猫を対象にした装置、それも猫の侵入を防ぐというより、脱出を防ぐ手段でしょう。レオナルドを敷地内に閉じ込めようとしたんじゃないかと」
「だが、レオナルドは出歩いてたんだろう?」
「そのようです。猫の散歩を止めるのは容易なことじゃない。彼はちゃんと、抜け道を見つけました。塀の下を通る細い排水溝だと、僕はにらんでます」
外へ出たレオナルドはどこへ行くか。雄猫だから、テリトリーは広いだろう。
上野邸から四百メートルほど離れた家の庭に、堂々としたケヤキの木があった。てっぺんは二階の屋根より高い。周囲の家々を睥睨して、ひときわ高くそびえたっている。表札を見ると、滝川、とある。
銀之丞はしばらくの間、その塀の外に立って、立派な木を見上げていた。この木に登れば、あたりの家の庭、通り全部が見渡せる。猫は犬と違い、嗅覚より視覚に頼る動物だ。この木は猫の気に入るだろう。
通りをずっと行った先に、こんもりと丸く木の茂った丘のようなものが見える。
「あの森はなんですか?」
銀之丞が尋ねると、森は明るい日の下で、目を細めるようにした。
「あれは山彦神社だ。祭神は、オトタチバナヒメノミコトとヤマトタケルノミコト、スクナヒコナノカミ。縁結びと家内安全、五穀豊穣にご利益がある。建立は十七世紀にまでさかのぼる、由緒正しい神社だ。祭礼は五月と十月。聞いたことないか? 山彦祭。神輿が出て、結構、華やかなんだぞ」
森は管轄内の祭の自慢をした。もちろん、猫たちにとってはそんなことはどうでもいい。雨宿りのできるご機嫌な軒下と、邪魔されないでぬくぬくと眠れる縁の下、獲物の多い森、車の突っ込んでこない静かな神社の境内は、猫たちに人気の集会場のはずだ。
パーン!
突然の破裂音に銀之丞は飛び上がった。車のバックファイアーかと周囲を見回すが車はいない。続いてまたすぐパーン! パーン! と破裂音。女の悲鳴。ズズズーンと腹に響く重低音の音楽に続いて、早口にしゃべる男女の声が聞こえてきた。
「テレビだよ」森が背後の滝川家を指さして、苦笑した。
それから、銀之丞と森はせっせと歩き回って、レオナルドに関する情報を集めた。誘拐のことは言わず、ただ、迷い猫になったまま見つからないレオナルドを探していると言った。大概の家には猫がいて、飼い主と話している見慣れない男たちを、ビー玉のように光る目でじっと観察した。
失踪の後すぐ、上野夫妻と秘書、それに聡子の大学の学生たちが何人か、町中を歩き回ってレオナルドを探していたのは、近所の人たちも見ていた。中には、捜索の手伝いを申し出た人もいたが、上野聡子に丁重に謝絶されたという。普段からあまり付き合いのいい家ではないらしい。ただ、飼い主と違って、レオナルドは社交的な猫だったらしく、あちこちの家をよく訪問していた。あそこの家の門柱の上でよく昼寝していたとか、ここの家の生け垣を潜り抜けて出て来たのを見たとか、近所の猫好きの目には、なかなか活動的な猫として映っていた。ただ、それも去年の夏ぐらいまでだという。
「夏頃から、レオナルドの姿を見かけなくなったんです。その前までは、うちにも毎日のように遊びに来ていました。うちのマリアンの友達なんですよ。一度、上野さんに、ええ、ご主人の方です、道でお見掛けしたんで、レオナルドは病気ですかと聞いたことがあるんです。そしたら、病気じゃないが、外へは出さないことにしたんだと、そういう返事でした」雌のヒマラヤンの飼い主、小林家の奥さんは言った。
「すると、最近は全然見かけなかった?」
「いいえ、ちょくちょく見ましたよ。前ほどじゃないですけど。上野さんのお考えが変わったんだろうと、うちでは話してたんですよ」
「去年の夏だ。あの家が塀の上に有刺鉄線を張り巡らした。わしは文句言ったことがあるんだ。あれじゃ、猫が塀の上を歩けないじゃないか。うちのペパーの散歩道だったんだ。そしたら、泥棒よけだとか言っとったが、猫好きのやることじゃないよ」アメリカンショートヘアーを大事に抱いた、広瀬さんのおじいさんが言った。
「この近所でその少し前に空き巣があったそうなんですが、ご存知ですか?」
広瀬さんは考えこんだ。
「知らないな。空き巣なら、二丁目の雉猫の家だ。なんと言ったかな、えーと、そう、ジンジャーだ。だが、かれこれ五年も前の話だよ」
「最近、レオナルドを見かけたことは?」
「今年になってから、ひょっこり遊びに来たよ、久しぶりなんでびっくりした。レオナルド、と呼ぶとミャアと返事したよ」
「レオナルドには、何か特別なところがありましたか?」
「まあ、三毛の雄だからな。珍しいだろうよ。昔は嫌われたもんだが、最近の若いやつは変わってるから、案外、希少価値かもしれん」
近所の意見は一致していた。レオナルドがこの町へやって来たのは三年前だが、その頃は好き勝手に町中をうろついていた。それが去年の夏、何事かが起こって、上野聡子は猫を外へ出さなくなった。塀の上に有刺鉄線まで張って、厳重に囲い込んだ。そして、最近になって、再び、猫を外へおっ放した。ほどなく、猫は誘拐された。三千万円の身代金が要求され、上野聡子は払う用意がある。
銀之丞は首をひねった。
わからない。
山彦神社の傍に小さな猫カフェがあった。三月にしては暖かい陽気の中、汗を拭き拭き歩いている森が気の毒で、銀之丞は寄っていくことにした。一休みして、アイスコーヒーでも飲んでいこう。
「猫宇宙(キャットスペース)」と木の札に書かれたガラスのドアを押して開けると、チリリンと鈴が鳴った。レジの横にすわっていた三十二、三の女性がいらっしゃいませと言った。茶色い髪をひっつめにして、後ろで結んでいる。化粧っ気もないのに、低くしゃがれた声に妙に色気のある女性だった。銀之丞はすぐに、シャム猫を連想した。
銀之丞がアイスコーヒーを二つ注文した。
「初めてお越しのお客様ですね?」
女性の方も抜かりなく、銀之丞と森を観察していたらしい。
「そう」
「当店では、お飲み物代のほかに、入店料として三百円頂きますが、よろしいですか?」
「かまわないよ」
「お得な会員カードもございます。一か月千円で、何回でもご入店いただけますが」
「そっちはいい」
「さようですか。では、どうぞ、ごゆっくり」
奥の部屋は、普通の家のリビングルームのような作りになっていた。あちこちに座り心地の良さそうなソファやクッションがしつらえてあり、七、八匹の猫がすわって、新来者をまじまじと見ている。
先客が二組いた。大学生ぐらいの女の子が二人、子猫にボールを投げてやって遊んでいる。子猫がボールを追いかけてしりもちをつくと、楽しそうにキャッキャッと笑った。もう一組は中年の女性二人で、買い物帰りらしい。コーヒーを飲みながら話している。時折、隣にすわっている猫を撫でている。
森は壁際の安楽椅子に納まると、足を投げ出し、丸い腹の上に両手を組んで、満足そうな唸り声を発した。銀之丞もゆったりとソファに身を落ち着け、目を閉じた。適度に空調が効いた室内で、すっと汗が引いていくのがわかる。朝から歩き回って疲れた身体に、クッションの柔らかさが心地よかった。こうしていると、つい、眠ってしまいそうだ。
リンリンという鈴の音に、銀之丞は強いて片目を開けた。
森が、猫と遊んでいた。
アビシニアンの子猫の前に、静々と派手な鳥のおもちゃを下ろしてやる。子猫が手を出して爪でひっかけようとすると、寸前でさっと猫じゃらしを引き上げる。鈴がリン、となる。子猫は再び待機の姿勢を取る。緑の瞳に恐ろしく真剣な色を湛えてじっと、おもちゃを見ている。細くて長い尻尾がゆっくりと左右に揺れている。森の方も大真面目な顔をしている。また、派手な鳥を、そろそろと子猫の顔の前に下ろしてやる。満を持して、子猫がはっと飛びついた。成功。鳥の羽根を右手の爪にひっかけた。が、自分も勢い余って横倒しに転んだ。獲物は放さない。仰向けにひっくりかえったまま、両手でしっかりと押さえつけ、ガチガチと噛みついた。森はハアハアハアと、奇妙な音をたてた。笑ったらしい。
「かわいいですね」
銀之丞が言うと、森はぎくりとこちらを向いた。
「なんだ、起きてたのか」
受付にいた色っぽい女性がアイスコーヒーを運んできた。
「この猫はネフェルティティというんです。暴れん坊さんです」
銀之丞は冷たく汗をかいたグラスをありがたく受け取った。
「この辺は初めて来たんですが、静かでいい所ですね」
銀之丞のお世辞に、相手の顔がほころんだ。この店のオーナーなのかもしれない。
「ええ、古い町ですから。新興住宅地みたいに、しょっちゅう住む人が変わったりしません。みんな、顔見知りです」
「猫好きも多い?」
「ええ、皆さんよく、遊びに来てくださいます」
森は猫じゃらしを放り出し、仏頂面でアイスコーヒーを飲んでいる。子猫と遊んでいる現場を押さえられたのがしゃくなのだろう。子猫は、動かなくなった鳥のおもちゃに退屈したらしい。鈴の入ったボールを転がして一人で遊び始めた。
銀之丞の向かいの壁に、掲示板があった。「子猫の幼稚園」「キャットケージ安く譲ってください」「キャットショーのお知らせ」などに交じって、そこに、見覚えのある黒白茶まだらの三毛猫のポスターがある。大きく「尋ね猫」とあり、上野聡子の電話番号がついていた。
「この猫は、まだ、見つからないんですか?」
とぼけて聞くと、女性の顔がくもった。
「まだみたいですね。本当に、どこへ行っちゃったんでしょう」
「知ってる猫なんですか?」
「よく、この辺をうろついてました。かなり押しの強い猫でしてね、トラブルメーカーでした」
銀之丞は緊張した。「何したんですか?」
「よその家の玄関の前に、オトシモノを落としていくんです。わざわざ、玄関の真ん前に。その家のご主人はかんかんに怒って、いつかこっぴどくどやしつけてやるって言ってたそうですけど……あら、まさか、その人が何かしたわけじゃないですよね」
「わかりませんよ。どこの家ですか?」
「知りません。わたしは、アルバイトのメイちゃんから聞いただけですから」
「メイちゃんとお話しできますか?」
「今日は非番です」
銀之丞は名刺を取り出した。「今晩、メイちゃんにこの番号に電話するように言ってもらえませんか?」
名刺を受け取った女性の顔が引きつった。猫福祉厚生庁は、当然、猫カフェの営業には強い監督権限を持っている。
「猫たちの安全のためです。ご協力お願いします」
突然、「猫踏んじゃった」のメロディーがあたりに響き渡った。森はニコリともしないで、背広のポケットから携帯を取り出した。二言、三言低い声で話すと、スイッチを切ってポケットに戻した。無言のまま、銀之丞を促す。小柄な身体全体から、獲物を追う磁気を発散させている。銀之丞は立ち上がって、「猫宇宙」を出た。
「接触してきた。受け渡しは明日、午後三時。場所は追って連絡すると言っている」
森の声には静かな興奮がにじんでいた。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン
誰かがうるさく玄関のベルを鳴らしている。誰だよ、こんな時間に。夜中だぞ……
ピンポン、ピポン、ピポン、ピポン、ピポン、ピンポーン
銀之丞は飛び起きた。煌々と明かりのついた居間。つい眠ってしまったらしい。目をこすって壁の時計を見る。八時五十分。
ピンポン、ピンポン、ピンポーン
ベルは執拗に鳴り続ける。表にいる誰かは、よっぽどあきらめの悪いやつらしい。嫌な予感がした。隅の鳥かごで、これまた眠っているのを叩き起こされたカナリヤのカラスが、羽根をばたつかせて抗議している。
ピンポーーーーーーーーーーーーーン
玄関のドアのピープホールに片目をあてて覗く。と、反対側からも薄い茶色の目が覗き込んだ。銀之丞は思わず、一歩後ろに下がった。予感的中。今日は悪日だ。
「こんばんは、銀之丞。お見舞いに来ました」
ドアを開けてやると、薄茶色のロングヘア―の女の子がにこにこして言った。片手に犬の引き綱を握っている。赤い引き綱の先には茶色い柴犬が、ご主人と同じく愛嬌を振りまいて、尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「金四郎の散歩の途中なの。入ってもいい?」
礼儀正しく聞いたのはいいが、銀之丞が返事をする前にもう、するりと入り込んでいる。
「雑巾貸して。金四郎の足を拭いてあげるから」
「なんの用だ」
「言ったでしょ。お見舞いに来ました」
「僕はどこも悪くないよ」
「ノー。ご機嫌見舞い」
「ご機嫌うかがい」
「うん、それ。雑巾貸してください。それとも、金四郎がこのまま上がってもいい?」
銀之丞は柴犬の泥のついた足を見た。ため息をつくと、雑巾を取りに浴室へ行った。
コリーン・マックブライドは九歳。卵型の顔に長いまつげで縁取られた、大きな薄茶色の瞳を持っている。ちょっぴり上向きの小さな鼻。頬は薄いばら色。笑うと、形のいいピンクの唇から、真っ白な小さな歯がこぼれるように見える。つまり、コリーンはかなり目立つ美少女なのだ。ただ、その口はいつも、コリーン・マックブライドの意見を世界に述べるために忙しく動いている。そして、コリーンは、この世の中のありとあらゆる出来事について、意見を持っているのだ。
コリーンのダディとマミーは二年前、ダディの仕事の都合でロサンゼルスから東京へやって来た。ダディは生粋のアメリカ人だが、マミーは日本人で、コリーンは小さいころから日本語を教え込まれており、こちらに来ても言葉の不自由はなかった。銀之丞とマミーはいとこ同士で、コリーンが日本に来て早々、猫を飼いたいと言い出した時、相談をかけられた。コリーンは結局、説得されて猫を飼うことはあきらめた。小学生には責任が重すぎるし、健康診断だ、登録だと金がかかりすぎる。その代わり、この茶色の柴犬がやって来たわけだ。
「この間のレポート、どうだった?」
柴犬の足を拭いてやりながら、銀之丞は尋ねた。先月、コリーンは学校の課題で、日本の古い習慣についてレポートを書かなければならなかった。コリーンが選んだのは、日本の動物愛護についてで、当然、銀之丞が手伝いに駆り出されたのである。
「先生がほめてくれた。Aもらいました」
「良かったな」
「銀之丞のおかげです。どうもありがとう」
コリーンは神妙な口調で言った。犬を抱えて居間に入ってくると、ソファにすわった。
「オレンジジュース、飲むか?」
「いただきます。ありがとう」
コップを受け取ると、だが、コリーンは不満顔で言い出した。
「いっぱいベル鳴らしたのに、なんでなかなか開けてくれなかったの?」
「疲れてたんだよ。つい、眠っちまった」
「事件?」コリーンの目が光った。
銀之丞は内心、舌打ちする思いだった。うるさく聞かれる前に、はぐらかしておくに限る。
「そうだ。事件が山積みだ」
「じゃあ、大変だね」
「とっても大変だ」
「お縄にできそう?」
マミーは、コリーンに日本語を教えた時、教材として日本のテレビ番組の録画を使ったのだという。そして、コリーンが一番気に入って、喜んで見た番組というのが時代劇、それも捕物帳だった。結果、コリーンの日本語というのは、時として英語が混じる中、突然、古色蒼然たる武家言葉と、江戸市井もののべらんめえ調とがとびこんできて、聞いてる人間が息を呑むというものになったのである。慣れてる銀之丞でさえ、時折、絶句して返事のできないことがある。
黙っている銀之丞をコリーンは不思議そうに見上げた。
「どしたの?」
「マミーはもうちょっと別な日本語教材を使うべきだったな」
「まちがってた?」
「まちがいじゃない」
「なら、いい。銭形平次、大好きでした。遠山の金さんはクール。ね、金四郎」
茶色の柴犬が尻尾を振った。コリーンはその頭を撫でてやった。
「今度も犬と一緒に捜査するの?」
「コリーン、警察官のことを犬なんて呼んじゃいけない。失礼になる」
「なんで?」
自分はそう呼んでるくせに、とコリーンの顔に書いてある。銀之丞は大人の威厳をとりつくろって言った。
「彼らはそう呼ばれるのが嫌いなんだ」
「なんで? ステイツじゃ、ポリスはピッグなんだよ。ピッグじゃかわいそうだけど、犬ならいいのに。犬はかわいいよ」
コリーンは柴犬の顎の下をくすぐった。
銀之丞の心の中に、今日一日、一緒に歩き回ったパグの顔が浮かんだ。大真面目に猫じゃらしを振り回していたパグ。頭の中でパグがくしゃみをした。あまりありがたくない連想を、銀之丞は心の中から追い出した。
「ね、銀之丞。犬と猫はどこが違うの?」
「犬はカニス・ルパス・ファミティアリス。イヌ科イヌ属のイエイヌ。猫はフェリス・シルベストリス・キャタス。ネコ科ネコ属のイエネコ」
「そういうんじゃなくって」
「わかってる。犬は集団で暮らす。ボス犬が一匹いて、その犬を中心に群れを作る。狩りをする時もお互いに協力して獲物を追う。こう、一匹が獲物を見つけて追いかけるだろう?」
銀之丞はテーブルの上にあった携帯を獲物、オレンジジュースのコップを犬に見立てて動かしてみせた。
「他の犬たちはこっちから回りこんでくるんだ。」
もう一つのコップを別働隊の犬に見立てて動かす。コップが携帯にぶつかった。
「獲物は挟みうちにあって、あっさり捕まっちまう」
「頭がいいんだね、犬って」
「ああ、たいしたもんだ」
「猫は違うの?」
「猫は全然違う暮らしをしている。ひとりで暮らす。ひとりで獲物を追う。その代り、猫は自分のテリトリーをよく知っている。どこに獲物が多いか、どこに獲物の隠れ場所があるか、知り尽くしてる。猫は獲物を追いかけない。そろそろと忍び寄るんだ」
コップがじりじりと携帯に近づく。
「獲物が隠れ場所から出てくるまで、息をひそめてじっと待つ。獲物が出てくると…」
コップがカチンと音をたてて携帯にぶつかった。
「気がついた時には、猫の爪が獲物の首に食い込んでる」
「陰険だね、猫って」
コリーンの感想に、銀之丞はちょいと傷ついた。
「別に陰険じゃないさ。生き物には、それぞれのやり方があるってことだ」
キッチンでコップを洗っていると、居間の方で哀愁を帯びたメロディーが響いた。マダム・バタフライの「ある晴れた日に」。銀之丞の着メロだ。
「あたしが出てあげる」
コリーンが言った。何気なく、頼む、と言った銀之丞は、次の瞬間、飛び上がった。「猫宇宙」のメイちゃん!
「ハロー? はい、夏目銀之丞のセルフォンです。はい、いますよ。ハングオン」
コリーンが居間から顔をのぞかせた。
「銀之丞。女の人です」
銀之丞は携帯をひったくった。「もしもし」
女の声が聞こえた。「夏目さん?」
瞬間、張り詰めていた神経の糸がゆるんだ。女の声には聞き覚えがあった。
「柳沢さん。すみません、連絡できなくて。実は、その、事件がおきまして、それで…」
電話の向こうは沈黙している。
「あの、この事件が片付いたら、必ずご連絡しますので、そうしたら、食事に行きましょう。柳沢さんは、イタリアン、お好きですか?」
「ええ」
「いいレストランを探しておきますよ」
「それは……楽しみですけど」
柳沢明子の返答はなんとなく歯切れが悪かった。どうしたんだろう? しばらく沈黙が続いた。やがて、明子のためらいがちの声が聞こえた。
「お電話さしあげたりして、かえってご迷惑じゃなかったかしら?」
「迷惑?」
「先ほど、電話に出られた方」
目の前にコリーンがすわっている。にこにこしながら、小指を立ててぴょこぴょこ動かしてみせる。いったい、マミーはどういう教育をしてるんだ。それに、畜生、柳沢明子はとんでもない誤解をしている。
「違いますよ。あれは親戚の子です。犬の散歩の途中に立ち寄っただけです」
沈黙。
「とにかく、この事件が片付いたら、食事に行きましょう。その時、さっき電話に出た子を紹介しますよ。小学校三年生です」
銀之丞は大汗かいて、電話を切った。コリーンは涼しい顔をしている。
「誰? 新しい彼女?」
「新しい彼女になったかもしれない彼女。君のおかげでパアになったかもしれない」
「ハウカム」
「君が電話に出たから。僕の彼女とまちがえてる」
コリーンはけらけらと笑った。
「笑いごとじゃないんだぞ。僕はもう二十九だ。そろそろ家庭を持って落ち着きたい」
「うん、早くマリーした方がいいよ。マミーもそう言ってた」
「マミーがなんて言ってたって?」
「銀之丞はいつも女に逃げられる。待ってるとトウが立つから、さっさと誰かと見合いさせてマリーさせようって、銀之丞のシスターと電話で話してた。ね、銀之丞、タワーが建つって何?」
銀之丞は絶句した。オレンジジュースが胃から逆流してくるような気がした。
「大丈夫。マミーには、銀之丞にはちゃんと、新しい彼女がいますって、言っといてあげる」
「ダメだ。何も言うな」
「だって」
「いいから、黙ってろ」
コリーンはふくれ面で、ぷいと横を向いた。
再び「ある晴れた日に」が鳴り響いた時、銀之丞はカナリヤに餌をやっているところだった。コリーンは天井に鼻を向けて、目の前にある携帯を無視している。しかたなく、銀之丞は片手に餌入れを持ったまま、小指で通話ボタンを押した。
「はい、夏目です」ぶっきら棒に言う。
「あの、この番号に電話するように言われたんですけど」怯えたような細い声が言った。
「メイちゃん? 『猫宇宙』の」あわてて餌入れをテーブルに置く。
「はい、市川めぐみです」
緊張しきってる。銀之丞は取っておきの優しい声を出した。
「連絡ありがとう。僕は、猫福祉厚生庁の職員です。迷い猫を探しています。レオナルドっていう三毛猫なんだ。知ってるね?」
「はい」
「『猫宇宙』のママから、君がレオナルドのことを話してたって聞いたんだ」
「わたし、なにも知りません」
「レオナルドのオトシモノのことを怒ってる人がいるって、そう言ったんでしょ?」
市川めぐみは黙りこんでいる。
「もしもし、市川さん?」
「はい」
「僕はただ、その人の話を聞きたいだけなんだ。名前と住所を教えてくれないかな」
「そう言われても……。あたしはただ、その家の前を通った時に、その人がレオナルドに向かって怒鳴ってるのを見ただけです。番地なんか知りません」
「そうか」
銀之丞は考え込んだ。「君は大学生? 高校生?」
「大学二年です」
「明日の朝、『猫宇宙』の前で待っててくれないかな。その家は、あそこから遠くないんでしょう?」
「ええ」
「その家の前まで案内してくれるだけでいいんだ。明日の朝、八時でいいかな?」
メイちゃんはちょっとためらったが、承知した。銀之丞は電話を切った。
コリーンはとっくに天井の鑑賞を止めていた。
「ね、今の電話、猫の行方を知ってる人?」
「コリーン、もう遅いよ。送っていくから帰りなさい」
「その人、明日の朝までに殺されちゃうよ」
銀之丞があっけにとられていると、コリーンは弁解するように言う。
「だって、捕物帳ではいつもそう。岡っ引きが踏み込むと、大事の証人が匕首で刺されて死んでる」
「コリーン」
「あたり一面が血の海」
「コリーン、くだらないこと言ってないで、さっさと帰りなさい」
「銀之丞」
「黙れ」
「猫は、思ってるより近くにいるよ」
「どうしてわかる?」
「女の勘」
銀之丞は黙って玄関のドアを指さした。
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