ダウジング―二股に分かれたハシバミの枝を使って、地下の水脈または鉱脈を探し出す伝統的な技術。求める水脈(鉱脈)の上に来ると、枝の先端は突然、地面に向かって強く押し下げられるような動きを示す。枝の代わりに、ペンドラム(振り子)を使うこともある。
ダウザー―ダウジングを行う技術者。水脈占い師
一馬は車を止め、信号待ちの長い行列に阻まれて、駐車場から出るに出られないでいたセダンを前に入れてやった。セダンのドライバーは、片手を軽く挙げて感謝の意を表すると、のろのろと一馬の前に割り込んできた。一馬はにやりと笑って、ゆっくりとアクセルを踏んだ。金曜日の夕方、帰宅ラッシュの車の流れは、再びスムーズに動き出した。
一馬は気分爽快だった。ポケットには、さっきリスティング(家を売家として市場に出すこと)を勝ち獲った契約書がある。とろい爺さんドライバー一人、前に入れてやるぐらい何でもない。あの家は、3ベッドルーム、2アンドハーフバス。敷地が10250とやや小さいが、間取りもいいし、閑静な住宅街で環境がいい。学校区もいい。フリーウェイからは遠からず近からず、通勤には便利だろう。きれいに住んでいるから、バイヤーの受けはいいだろう。リスティング価格六十万ドルで市場に出して、反応を見てみよう。敷地サイズからすると、少し高めだが、セラーは売り急いでいるわけじゃない。待ってみよう。
セラー(売主)が、代理人であるエージェントに払うコミッションは、売値の六パーセント。この家がフルプライスの六十万ドルで売れた場合、コミッションは三万六千ドル。これをバイヤー(買い手)のエージェントとセラーのエージェントが折半するから、セラー側のエージェントの取り分は一万八千ドル。駆け出しの頃は、これを更に所属している事務所と分けなければならなかったが、今では、一馬は百パーセントの取り分を保障されている。一万八千ドル。自然に頬が緩んでくる。悪くない。
クラプトンの「レイラ」のメロディーが車内に響いた。一馬はポケットから携帯を引っ張り出した。
「一馬? ジム・スティーブンスだ」
「やあ、ジム。この間のチャーター・オークの家は残念だったよ。また次を捜すから」
「そのことなんだ。インターネットで、見てみたい家を見つけたんだ」
「どこの家だ?」
ジムの言う家の番地を、一馬は頭に叩き込んだ。
「わかった。折り返し連絡するよ」
一馬は左右を見渡して、スーパーマーケットの駐車場に車を乗り入れた。ネットで、ジムが興味を持った家を見てみた。場所は、ラ・セリナ。ジムとエミリーが希望していたエル・ローブルではないが、そのすぐ隣の町だ。環境は悪くない。敷地もジムの望み通り大きいし、エミリーがこだわっている学校区もいい。価格―六十万五千ドル。ジムとエミリーの財力からすると、買えるぎりぎりの価格だった。リスティング・エージェントはタイラー・ハドソン。タイラーとは、リアル・エステイト・エージェントの会合で、数回顔を合わせたことがある。一馬は、タイラーの携帯に電話をかけた。
家を見たいという一馬に、タイラーはへへー、と間の抜けた声を出した。
「お前さんのクライアントも物好きだな。鬼婆の家が見たい、か」
「鬼婆?」
「おっと。これは俺がそう呼んでいるだけだぞ。仲間内のジョークだ」
「なぜ、鬼婆なんだ」
タイラーの大げさなため息が聞こえた。
「いっぺん会ってみりゃ、わかる」
「お前がリスティングしたんだろう?」
「ああ、それはまちがいない。そいつだけはな」
何を言ってるんだ、こいつは、と一馬は苛々した。
「時間を設定してくれ。今日の夕方、七時はどうだ?」
「連絡するよ」
タイラーの返事を、一馬はそのまま駐車場で待った。気持ちが高ぶってくるのがわかる。ジムとエミリーは、過去二ヶ月間、家を捜していた。彼らの家は、一馬がリスティングして既に買い手がついている。あとは、引越し先の家を捜すだけなのだが、これが難しかった。南カリフォルニアの不動産取引は、リーマン・ショックの後、どん底まで落ち込んだが、盛り返して再び上り坂に入った。一軒の売家を数人のバイヤーが争い、家の価格は上昇中である。リアル・エステイト・エージェントがリスティングの契約を取り、FOR・SALEの看板を家の前に立てるか立てないかのうちに、フルプライスで売約済みになることも珍しくない。
ジムとエミリーの家は、リスティングして五日目にフルプライスで売れた。ただ、「家の明け渡しは、セラーが引っ越し先の家を買ってからにする」という留保条項を一馬が契約の中に入れておいたために、ジムとエミリーは家を追い出されずにすんでいる。二人は懸命に家を捜し、今までに五回、これは、と思う家を見つけ、買取のオファーを出している。そのたびに誰かに一手、先んじられるか、他の誰かがもっと高い値段をつけるかして、悔しい思いをしていた。ジムとエミリーの焦りと悔しさは、彼らのエージェントである一馬の焦りと悔しさでもあった。鬼婆でも何でも、この家が、ジムとエミリーの望みをほぼ満たしている家であってくれれば、と一馬は願った。
十分後、再び「レイラ」のメロディーが鳴った。が、タイラーの返事は期待はずれだった。
「今日は都合が悪いそうだ。明日にしてくれと、鬼婆が言ってる。明日の午前中だ」
はやっている気持ちに水をさされた気分だった。だが、しょうがない。ジムとエミリーに連絡して、明日の午前中のアポを取りつけた。
時計を見る。六時二十五分。まずい。ミーガンをデイケアに迎えに行く時間だ。一馬は、スーパーマーケットの駐車場から車を出した。
エル・ローブルは、ロサンゼルスの東四十マイル、サン・ゲイブリエル山系のふもとにある、こじんまりとしたカレッジタウンだ。先年、「マネー」誌が、全米で住むのに最も望ましい町を調査した時、トップテン内に選ばれたことがある。人口三万五千人、緑が多く、住民の教育レベルは高い。年収も高く、家の価格も高くなり、ハイスクールを出たばかりの若いカップルなどはあまりいない。三十代、四十代を越えて安定した職業を持った夫婦とその子供たち、あるいは二十代前半の若い学生というのが代表的なエル・ローブルの住民像である。
町の中心にあるシカモア・カレッジは優秀なアート系カレッジとして全米に知られている。一九四六年創立、学生の総数は千二百人。カレッジの建物は市庁舎、図書館、公園、コーヒーショップなどに混じって、緑の多いエル・ローブルの町の中心にあった。
演劇学部は、石造り、重厚な構えの二階建ての建物と、そのすぐ隣にある四角い、倉庫のような窓のない建物からなっている。二階建ての方には、講義の行なわれる教室、教授たちの研究室、学部事務室が入っている。だが、学生の大部分はほとんどの時間を、隣の倉庫のような建物で過ごしていた。ここには、ブラックボックスと呼ばれる、内側を黒く塗ったスタジオ式の劇場がある。それに付属して、リハーサル・ルーム、楽屋、大道具部屋、衣装倉、劇場監督の執務室、アクターやスタッフの休憩室であるグリーンルームがついている。
金曜日の午後、演劇学部二年のアレクは、映画評論の講義が終わるや否や、真っ先に教室を飛び出した。階段を二段とばしに走り下りると、隣のシアターの建物に駆け込んだ。演劇学部は年に二回、冬と初夏に、学部主催の大きなプロダクションを行なっている。学生が集まって行なう自主公演は頻繁にあったが、学部主催の二回のプロダクションは予算も大きく、上演期間も長い。演出家は外部から招かれることもあれば、学部の教授が担当することもあった。スタッフとキャストはもちろん学生で、オーディションで選ばれる。三日前、この初夏の公演、ユウリピデスの「バッカス信者」のオーディションがあり、今日はその発表日だった。スタジオ・シアターの入口のホールには、もう大勢の学生が集まって、張り出された配役表を眺めながら、興奮した面持ちで声高に話し合っている。
アレクが入っていくと、同学年のショーンが振り向いて、ディオニソスのお出ましだ、と言った。アレクは配役表を見た。筆頭に、彼の名前がある。
ディオニソス―アレク・キャサディ。
アレクはにんまりした。欲しかった役だ。
「お前が取るだろうと思ってたよ」
ショーンが言った。
「僕、ルックスがいいから?」
アレクが笑いもせずに言った。
「この長髪のせいよ」
後ろから誰かが、アレクの肩の下まで伸びた金髪を引っ張った。振り返ると、三年のジェシカが立っていた。
「長く伸びたわよね。まだ伸ばすの?」
「『わたしの髪は神に捧げられたものだ。たやすく切らせるわけにはゆかぬ』」
去年のクリスマス、初夏のプロダクションは「バッカス信者」と発表された時から、アレクは髪を伸ばし始めたのだ。
「君は? 何やるの?」
アレクは配役表に目を戻した。
アガヴェ―ジェシカ・リベラ。
ヒロインだ。アレクはジェシカにおめでとうと言った。「バッカス信者」はギリシア悲劇で、歌って踊る合唱隊は女だが、役に名前があり、せりふがついている女は、ヒロインのアガヴェただ一人だ。演劇学部の三分の二を占める女子学生はみんな、この役が欲しかったはずだ。何気なさを装っているものの、ジェシカの瞳は満足そうに笑っていた。
「ね、明日の夜、うちでパーティやるの。来ない?」
「何時?」
「七時。家はね……」
ジェシカは、アパートの住所を教えた。アレクがスケジュール表に書きとめていると、横から、三年生のホリーが口を出した。
「アレク。念のために言っとくけど、あんた、レポート提出しないとプロダクションには参加できないのよ。わかってんでしょうね」
「わかってるよ。君は何やるの? 合唱隊?」
「舞台監督」
「うへえ」
ショーンが大げさな悲鳴をあげた。ホリーはショーンに向き直った。
「リハーサルは時間厳守。遅刻の言訳はききませんから、飲み過ぎないようにね、ペンテウスさん」
「君も来ればいいのに」
アレクが言った。
「遊んでる時間は無いの。スケジュールの調整から、予算の割り振りまで、やることは山ほどあるんだから。あんた、本当はパーティどころじゃないはずよ、アレク。ブレヒトのレポート、提出期限は過ぎてるんだから」
ホリーはくるりと背を向けると、ずんずんとホールを出て行った。
「なあに、あの態度」
ジェシカが呆れたように言った。
「あの調子で二ヶ月、あいつに頭からガミガミ言われたら、僕、いつか爆発するぞ」
ショーンが言った。
「悪気はないんだよ。言い方キツイけどさ」
アレクが言うと、ショーンはおどけた様子で目を回してみせた。
「お前、変わってるよ」
「七時よ。飲みたい人は、自分でボトル持参のこと」
ジェシカが言った。
一馬とミーガンは、キッチンテーブルに向かい合って夕食を食べていた。今日の献立はスパゲティ・ミートソースにグリーン・サラダ。一馬に時間の余裕が無い時の、お助け料理だ。作りおきのミートソースを電子レンジで解凍して、ゆでたスパゲティの上にかけるだけ。パックいりのサラダに出来合いのドレッシングを添える。本当なら、成長期の娘に、もう少し手をかけた家庭料理の味を教えてやりたいのだが、一馬は時間があったためしがない。ミーガンはそれでも、おいしそうにスパゲティをほおばっている。口の周りがミートソースだらけ。せっかくの美人が台無しだ。
ミーガンは九歳。面長で色白の顔立ちに、茶褐色の大きな目が印象的だった。鼻はちんまりと小さく、笑うと右頬にえくぼが出た。最近、ますますエレインに似てきたな、と一馬は五年前に離婚した妻のことを思い出して複雑な気分だ。ミーガンがびっくりしたように目を見張って、こっちを振り向いたりすると、そこにエレインがいるような錯覚に襲われて、一馬は時々、どきりとする。
「ダディ、ミルクもう一杯もらっていい?」
一馬は、確かめるようにミーガンの身体つきを眺めた。ミーガンの手足は若い雌鹿のようにすらりとのびている。よくしまった身体には、無駄な脂肪は一片もついていないように見える。それでも、女の子である以上、気をつけてやらなければ、と一馬は思う。
「ミルクはもうダメだ。水にしておきなさい」
ミーガンは素直に、水のコップを持ってきた。
「ダディ、ソフィーのところね、子犬が生まれたんだって」
一馬の頭の中で警報が鳴った。
「全部で五匹。すごくかわいいんだって。もう少し大きくなったら一匹だけ残して、あとは人にあげるんだって。ね、一匹もらっちゃだめ?」
ミーガンは怖ろしいほど真剣な渇望の色を目に浮かべて、一馬を見つめている。
「わたし、ちゃんと世話するから」
一馬は口をへの字に曲げた。ミーガンはもう、数年前から子犬を欲しがっていた。ミーガンが一年生の時、最初の作文は、「わたしの一番欲しいもの―子犬」だったし、サンタクロースへの手紙にはいつも、子犬がリストの一番上にあげられている。
「サンタさんへ。わたしの一番欲しいものは、子犬です。それがだめなら、アメリカン・ガールか、自転車を下さい。色は青がいいです。ダディには、キャディラックの新しいSUVをあげてください。色は白がクールだと思います。さようなら。ミーガン」
この手紙を読んだ時には、正直、どうしようかと迷ったが、結局、良識が勝ちを占めた。今の、この、時間をやりくりしながら綱渡りしているような生活に、子犬が加わったらどうなるか。ミーガンはああ言ってるが、まだ子供だ。子犬の世話から、しつけまでの責任は持てないだろう。
「ミーガン。前に言ったろう? もう少し大きくならないと、子犬は飼えないよ」
ミーガンはしょんぼりと下を向いた。こういうミーガンを見ると、一馬の良心はちくちくと痛む。ミーガンはひとりっ子だ。母親はいないし、父親の仕事は、時間の定まらないリアル・エステイト・エージェントで、ろくろく相手をしてやれない。ミーガンがいつまででも子犬にこだわっているのは、そのせいだろうか。淋しい思いをしているのだろうか。「ミーガン…」
一馬が何か慰めの言葉をかけてやろうとした時、「レイラ」のメロディーが鳴った。タイラーだった。
「一馬、例の鬼婆の家だけど、日にち変更してくれないか。明日じゃなくて、あさっての日曜日。時間は午前中ならいつでもいい」
一馬はため息をついた。
「わかった。クライアントに聞いて、折り返し連絡する」
「悪いな。気の変わりやすい婆さんなんだ」
一馬はジムの携帯に電話して日にちの変更を伝え、了解をとると、タイラーに連絡をつけた。ミーガンは一連の会話を黙って聞いていたが、一馬がタイラーと話し終わって電話を切ると、「あさってはお仕事?」と聞いた。
「うん。ごめんよ」
日曜日は、サンドイッチを持って、二人で山へピクニックに行く約束だったのだ。
「ピクニックはまた、今度にしよう」
「うん」
こういう風にききわけがいいから、一馬は余計に不憫になる。
「ごちそうさま」
ミーガンはスパゲティの皿をおしやった。
「デザートにチョコレートミルク、もらっていい?」
「待ってなさい、今、作ってやる」
一馬は立ち上がって、テーブルを片付け始めた。
ジェシカがルームメイトと借りているアパートの居間には、二十人近い人が集まって、それぞれソファにすわったり、床にクッションを並べてそこにたむろしたりしている。ほとんどは演劇学部の学生で、アレクはよく知っていた。知らない顔が混じっているのは、ルームメイトの方の友達だろう。ジェシカのルームメイトのメラニーは、文化人類学を専攻していると聞いた。さっきまでそこでショーンと話していたが、今は二人とも姿が見えない。アレクは部屋の隅にすわって、ぼんやりと煙草をふかしていた。
部屋の中は、薄い紫色の煙がたなびいて霞がかかったようだ。CDはさっきまでのTレックスから、突然、軽いモダンジャズに変わった。リズとギルバートが、部屋の中央で抱き合って踊り始めた。誰かが鋭く口笛を吹いたが、二人は見向きもしない。アレクは、もう一缶、バドワイザーを開けた。
「君がアレクかい? ディオニソスに決まった…」
アレクは目の前に立っている男を見上げた。肩幅の広い、がっちりした体格の男だ。どこかで見たことがあるような気もする。
「ドノヴァンだ。四年の。僕はあまりプロダクションには参加しなかったから、君は知らないかもな。すわってもいいかい?」
アレクはどうぞと言って、クッションを一つ回してやると、煙草を差し出した。
「いや、結構。僕は吸わない」
ドノヴァンはクッションを背中にあてて、壁に寄りかかった。
「三年のホリー、知ってるだろう? 僕は先学期、テレビドラマと政治についてのリサーチプロジェクトで、ホリーとチームを組んだんだ。ホリーはよく君のことを話してたよ」
「悪口ばっかりでしょう?」
アレクは笑った。
「君がプロダクションに夢中で、授業の方はすっぽかしてばかりいるって言ってたよ。君はアクターになるつもりなの?」
「さあ…。特に考えてません」
「アクターになるには、学位は大した役には立たないよ。アクティング・スクールに行った方が早い。せりふの覚え方から演技まで、ずっと効率的に教えてくれる」
「まだ、何も決めてませんから…」
ドノヴァンは、考え深げにアレクを見た。
「考えた方がいいよ。余計なおせっかいかもしれないが」
その通り、余計なおせっかいだ、とアレクは腹の中でつぶやいた。クッションを回してやったことを後悔していた。
「プロダクションに参加しないのなら、なぜ、演劇を専攻したんですか? ハムレットを演るんじゃなくて論じるなら、文学部の方がいいでしょう?」
アレクは逆襲に出た。ドノヴァンはにやにやした。
「大昔からある議論だな。戯曲は板に乗せなきゃ、その真価を発揮しない、か」
すぐ真面目な顔になった。
「僕は、戯曲そのものより、広い意味での演劇―つまり、舞台、映画、テレビを含んだエンタテインメントが、社会に及ぼす影響の方に興味があったんだ。紀元前、ギリシア文明の時代から、演劇は社会において非常に重要な役割を果たしてきた。紀元前のアテネにおいて、観劇は市民の娯楽でなく、義務として考えられていたんだ。アテネの成人男性は、ディオニソスに捧げられた円形劇場で…」
ドノヴァンは、アレクの顔を見て、口をつぐんだ。
「ごめん。もちろん、君は知ってるよな。ギリシア悲劇の講義で、最初に教わることだ」
「いーえ、初耳でした。講義時間は睡眠にあてることにしてるもんですから。それで、演劇が社会に及ぼす影響について研究すると、将来、どんな仕事につくことになるんですか」
「僕は卒業したら、高校で演劇を教えることになってる」
ドノヴァンは立ち上がった。
「君のディオニソス、楽しみにしてるよ。それじゃ」
ドノヴァンは薄紫色の霞の中に消えていった。ホリーのやつ、とアレクは腹の中で毒づいた。わざと、あの頭でっかちに頼んで、僕に説教しようとしたんじゃないだろうな。アレクはまた、バドワイザーの缶を開けた。
パーティは今や、フルスウィングしていた。リズとギルバートは部屋の真ん中でぴったり抱き合って、唇を重ねている。その隣でメリッサがスカートを翻し、身体をくねらせて踊っている。薄紫の霞はますます濃くなってきて、今はそこに、ほこりっぽいような、甘い香りが混じってきた。誰か、ジョイントを持ち込んだな。
「ねえ、こんなもの見つけたわよ。誰かやらない?」
かん高い声のする方を見ると、いつの間にか、メラニーが戻ってきていた。ゲーム板のようなものを、頭の上で振っている。
「何、それ?」
誰かが聞いた。
「ウィージャ盤。誰かやらない?」
「それ、あたしのよ」
ジェシカの声だ。
「去年のクリスマスに誰かからもらったのよ」
「ウィージャ盤って何するの?」
「ポインターの上に、何人かで指を置くの。で、いろいろ質問すると、ポインターがひとりでに動いて、答えを教えてくれるのよ」
「よせよ、くだらない」
ショーンの声がした。
「高校生のお遊びだよ、そんなの」
「興味ない人は、無理にとは言いません」
メラニーのつんけんした声が聞こえた。
「やらないとは言ってないじゃないか」
アレクはちらりと騒ぎの方を見た。メラニー、ショーン、ジェシカ、それにもう一人、アレクの知らない女の子が床にすわりこんで、ウィージャ盤を囲んでいる。リズとギルバートはまだ離れない。ドノヴァンの姿はどこにも見えない。メリッサはポーラと組んで、激しく踊り続けている。誰かがジョイントを回してよこした。深く吸って、吐き出すと、隣の誰かに回した。頭の奥がじーんとしびれたようだ。ふわふわと身体が軽くなってきた。誰かのかん高い笑い声がする。
「あんた、インチキしたでしょ?」
「してないよ。誓ってしてない」
「じゃ、誰が動かしたのよ」
「この部屋にいる霊のしわざだよ」
ショーンが厳かに言ってのけ、ジェシカのけたたましい笑い声が響いた。
「やーめた。こんなことしてるより、ね、ここに本物のサイキックがいるじゃない」
「どこに?」
「ほら、ここ!」
誰かが乱暴に身体を揺すぶった。アレクは目を開けた。ジェシカが、目の前に立って、見下ろしている。
「あんた、サイキックだって本当?」
「アレクが?」
ショーンのたまげた声が聞こえた。
「嘘だろう?」
「嘘だよ」
アレクはきっぱりと言った。つもりだった。いい気持ちのところを邪魔されて、腹を立てていた。だが、実際には、自分の声とは思えない、ボソボソしたつぶやきのようなものが口から漏れてきただけだった。
「あんた、ダウザーでしょ」
ジェシカが苛立たしげに言った。
「ダウザーって、あの、二股になった木の枝で地下水のありかを見つけだすっていう、あれ?」
メラニーが聞いた。
「そう。でも、アレクは地下水だけじゃないの。失くしたものなら、何でも見つけ出せるのよ。この間、スージーが、スタジオ・シアターの鍵をどこかに忘れてきちゃって、大騒ぎしたの。それをアレクが、ダウジングで見つけ出したのよ」
「へえ、お前がサイキックだなんて知らなかったな」
ショーンが言った。
「僕はサイキックじゃない。ダウジングは超能力とは、何の関係もないんだ」
アレクが言った。幾分、頭がはっきりしてきた。
「何言ってるのよ。普通の人間にできることじゃないじゃない」
ジェシカが言った。
「ね、やって見せてよ」
「いやだ」
「ケチ。ちょっとやって見せてよ。あたし、一度も、ダウジングって見たことないんだ」
メラニーが言った。
「何? 何の話してるの?」
メリッサとポーラが踊るのをやめて寄ってきた。ジェシカが説明した。
「すごい。やって見せてよ」
メリッサが言った。アレクはそっぽを向いて、返事をしなかった。本当は、やってもよかったのだ。どうってことはない、パーティのお遊びだ。だが、いい気分で眠っているところを起こされて、虫の居所が悪かった。意地になって無視した。
「本当はできないんだろう? ダウジングなんて」
ショーンが挑発するように言った。
「大体、この二十一世紀に…」
「そんなことない、ね、アレク」
突然、ジェシカの手が、ジーンズのポケットに入り込んできた。
「何すんだよ」
アレクはジェシカの身体を押しのけようとしたが、ジェシカの手は変に敏捷に動いて、ポケットの中を探りまわる。
「よせったら」
ようやくジェシカを押しのけた時、ジェシカの右手は、アレクの車のキーを握っていた。
「返せ!」
アレクは飛びかかった。ジェシカは素早く飛びのいて、勝ち誇ったようにキーを振って見せた。
「欲しかったら、自分で見つけ出すことね。みんな、アレクを押さえてて」
わっと全員が飛びついて、アレクの身体を床に押さえつけた。ジェシカは、さっと部屋を出ていった。アレクは暴れたが、十人近い人間に手足を押さえつけられてはかなわない。結局、ジェシカが戻ってきて、いいわよ、と言うまで、その場から動けなかった。ようやく解放されると、アレクは息を切らしながら起き上がった。
「冗談が過ぎるぞ、ジェシカ」
「冗談なんかじゃないもの。あたし、本当にダウジング見たいのよ。ね、協力してよ」
アレクは周りを見回した。部屋にいる全員が自分を見つめている。期待に満ちた目をして。リズとギルバートでさえ、キスをやめて、こっちを見ている。怒りがどこかへ消えていった。にっと笑った。
「わかったよ」
「糸か、ひもをくれない? これくらいの長さでいい」
アレクは指で五インチ(十二センチ)ほどの長さを示して見せた。
「それと、何か小さくて、おもりになるようなもの。穴の開いたコインとか、指輪とか」
メラニーが裁縫箱を出してきて、太い木綿糸をはさみで切ってくれた。ジェシカは、小さな青い石のついた指輪を中指からはずした。
「これでいい?」
アレクは指輪を糸の先に結びつけると、糸の反対側の端をつまんで、前、後ろにぶらぶらと揺らした。
「木の枝を使うんじゃないの?」
メラニーが聞いた。
「木の枝を使うやり方もある。でも、家の中じゃ、ペンドラムの方が便利だ」
アレクはペンドラムを前、後ろと揺らし続けた。
「それで、どうやるの?」
メラニーがまた聞いた。
「メラニー、アレクの気を散らしちゃだめよ」
ジェシカが注意した。
「構わないよ。言ったろう? 僕はサイキックじゃないんだ。ペンドラムに質問するだけさ。僕の鍵はどこにありますかって。ペンドラムはイエスかノーで答えてくれる。イエスだったら右回り」
ペンドラムは徐々に前後の動きから、時計回りに回転するように動き出した。
「ノーだったら左回り」
ペンドラムの動きは小さくなり、前後に動き始め、やがて時計と反対回りに回転を始めた。
「お前、自分で動かしてるんだろう?」
ショーンが聞いた。アレクはペンドラムから顔を上げて、ショーンを見た。
「当たり前じゃないか。ペンドラムがひとりでに動くはずないだろう?」
「じゃあ、どうやって鍵を探すんだ?」
「まあ、見てろよ」
アレクはペンドラムの動きを前後に戻した。きらきらと、指輪の青い石が電灯のあかりを反映して光る。やがて、アレクは部屋の中の空気が波のように脈打ち始めるのを感じた。アレクはペンドラムに尋ねた。
「僕の鍵は、この部屋の中にあるかい?」
まわりがしん、とした。アレクばかりでなく、全員が前後に揺れるペンドラムの動きを見つめている。ペンドラムは徐々に、左回りに動き始めた。ノー。アレクは居間を出た。みんなも、黙りこくったまま、ぞろぞろと後に続いた。アレクはキッチンに入った。
「僕の鍵は、この部屋の中にあるかい?」
前後に揺れていたペンドラムは、右回りに動き始めた。イエス。アレクは振り子の動きを前後に戻した。狭いキッチンの中央に立って、まわりを見回した。
「僕の鍵は、僕の右側にあるかい?」
ペンドラムは左回りに動いた。ノー。
「僕の左側にあるかい?」
ペンドラムの動きは変わらない。ノー。
「僕の前にあるかい?」
ペンドラムは徐々に回転を緩め、やがて右回りの回転を始めた。イエス。アレクは自分の前を見た。食器戸棚がある。戸棚を開けた。積み上げた皿の後ろに、アレクの鍵束があった。みんなは一斉にしゃべり出した。
「おい、どうしてわかったんだよ」
ショーンが言った。
「ダウザーだからよ」
ジェシカが満足そうに言った。アレクは鍵束を調べていた。
「車のキーがない」
アレクはジェシカを見た。ジェシカはにやにやしている。アレクはペンドラムに尋ねた。
「僕の車のキーは、この部屋の中にあるかい?」
ノー。アレクは隣のドアを開けた。バスルーム。アレクは同じ質問を繰り返した。ノー。その隣の部屋。ベッドルームだった。ジェシカか、メラニー、どちらのかは知らないが。アレクは部屋の中央に立って、ペンドラムに尋ねた。
「僕の車のキーは、この部屋の中にあるかい?」
イエス。
「僕の車のキーは、僕の前にあるかい?」
イエス。アレクは前に進んだ。目の前にあるのは、クリーム色の掛け布団がきちんと折り返してあるベッドだ。
「僕の車のキーは、ベッドの上にあるかい?」
ノー。
「ベッドの下にあるかい?」
ノー。アレクは考え込んだ。ペンドラムは前後の動きに戻った。
「ベッドの中にあるのかい?」
イエス。アレクの顔に微笑が浮かんだ。糸の先に結びつけられた指輪は、電灯の明かりを反映して、きらきら光りながら右回りに動いている。
「マットレスの下にあるのかい?」
イエス、イエス、イエス。アレクはひざまずいて、マットレスの下を探った。程なく、車のキーをつかみ出した。まわりで見ていたみんなが拍手した。ショーンはピーッと口笛を吹いた。
「すごいじゃない。ね、どうしてわかるの?」
メラニーが聞いた。
「ジェシカ、君、本当はこっそりアレクに教えておいたんだろう?」
ショーンが言った。
「そんな暇、あるわけないでしょう? わたしが居間に戻ってすぐ、アレクはダウジングを始めたんですもの」
「じゃあ、パーティの前だ。あらかじめ、二人で打ち合わせをしておいて…」
みんながあれこれ論議している間、アレクは黙ってベッドにすわって、車のキーをキーホルダーにつけていた。信じるやつは信じればいいし、信じないならそれでもいい。アレクはダウジングの有効性を説いてまわる伝道師になるつもりは毛頭なかった。ダウジングはうまくいく。なぜ、うまくいくのかは、アレクにもわからないし、苦労して説明をでっちあげてもしょうがないのだ。アレクは車のキーをつけ終わると、キーホルダーをポケットにしまって、指輪に結びつけた糸をほどき始めた。少し苦労したが、どうにか、固くこぶになった糸を爪の先でほぐして、糸をほどいた。
「はい、これ」
顔を上げると、部屋の中には誰もいなくなっていて、ジェシカが最後の一人を追い出して、ドアを閉めるところだった。ジェシカはアレクの手から指輪を受け取ると、ちょっとの間、調べていた。ちょうど、手品師に時計とか、ボールペンを貸してやった人が、空中に消え、また手元に戻ってきた自分の所有物を不思議そうに調べるような顔だった。それから、指にはめると、アレクの隣にすわった。猫のように光る瞳でアレクを見ると、にっこりと笑った。
「あんた、素敵よ」
アレクはジェシカの手が肩を押さえるのを感じた。そのまま、二人はベッドに倒れ込んだ。
日曜日の朝、一馬はジムとエミリーを連れて、家を見に行った。タイラーの言う、鬼婆の家は、ラ・セリナの町の東寄り、エル・ローブルとの境目にあった。表通りからは一本内側に入った通りに面していて静かだ。二階建ての大きな家で、玄関は南に面している。車が三台入るガレージの隣の前庭は小さいが、緑の芝生はよく手入れされている。一馬はMLS(マルチ・リスティング・システム)で見た、この家の情報を思い出した。建坪2050スクウェアフィート。敷地のサイズは12615スクエアフィート。1965年建築。3ベッドルーム、3バス。石造りの暖炉がついた広い居間、キッチンは最新式。広々とした食堂。バックヤードにバーベキューのできるテラスがついている。価格―六十万五千ドル。ジムとエミリーには、ちょっと高いか? 一馬は二人の様子を見た。緊張した面持ちで近所を眺めている。日曜の朝十時、車は一台も通らない。歩道沿いに植え込まれている楓の木が、風に吹かれてさやさやと鳴る。どこかで子供の笑い声がした。
一馬は、玄関脇の電子ロックの暗証番号を押して、鍵を開けた。二人を促して中に入り、あ然とした。
入ってすぐ、カーペットを敷いた応接間になっていた。そこに安楽椅子とコーヒーテーブル、それにコンピューターが置いてあった。それはいい。だが、そのテーブル、椅子、床の上まで一面に、倉庫よろしく四角い箱が積み上げられている。何だろうと思って見ると、バービー人形の箱だった。それこそあらゆるドレスを着たバービーの箱が、山のように積み上げられ、山が崩れて床一面に散乱している。百個ぐらいはありそうだ。どれも開封されていない、真新しいバービーだ。この家は婆さんの一人暮らしだと聞いているが、バービーのコレクションでもしているんだろうか。古い、開封されていないバービーは、収集家の間で怖ろしく高い値で取引されるとは聞いている。
バービールームを抜けて先へ進むと、右手にキッチン。床のタイルは新しい。最新式に改造済みだというその歌い文句どおり、きれいなキッチンだ。隣の広い食堂。たしかに広いが、広く見えなかった。巨大なキングサイズのベッドがどーんと部屋の真ん中を占拠し、その前に四十六インチはありそうなテレビが据えられている。この部屋の床にも、応接間からはみ出してきたように、バービーが積み上げられている。
その先、廊下の突き当たりに居間がある。暖炉もちゃんとあった。家具は無し。代わりに、ディズニーのキャラクター人形が床一面にぶちまけてあって、足の踏み場もない。ミッキーマウスとドナルドダック、ダンボ、くまのプーさん、人魚姫にシンデレラ。三歳児ぐらいのサイズはありそうな大きいのもあれば小指の先ほどの小さいのもある。素材もぬいぐるみ、プラスチック、ビニール、ガラス、陶器ととりとめがない。一馬は足元のダンボのぬいぐるみを拾ってみた。まだディズニーの商標のシールがついている。中古ではない。新品なのだ。何のためにこんなに人形を集めたものやら、一馬には見当もつかない。店でも開くつもりなのか。
ジムとエミリーは内心、たまげただろうが、何も言わずに、人形を踏まないように慎重に足場を選んで歩いている。
「間取りを見て下さい。ガラクタは無いものと考えて」
難しいだろうけど、と一馬は心の中で付け加えた。
カーペットを敷いた階段を登って二階へ上がる。ベッドルームが三つ。どのベッドルームにも家具は入っていたが、使っていないのは明らかだった。ここにもバービーとディズニー人形が溢れかえっているのだ。床に投げ出されたミニーマウスが、引きつったような笑いを顔に浮かべて天井をにらんでいる。婆さんは人形フリークらしいが、バットマンや、スパイダーマンはお気に召さないらしい。ここにあるのは、少女趣味のお姫様人形か、ぬいぐるみばかりだ。
二階を見た後、三人はバックヤードに回った。芝生と背の低い潅木で庭が作ってある。レンガを敷き詰めたテラスがあって、バーベキューができるようになっていた。もう一度、ぐるっと一階部分を回った後、三人はこの奇妙な人形だらけの家を出た。
ちょうど昼時だったので、レジェンドバーガーは混んでいた。一馬は運よく、空いたばかりの隅のブースを見つけた。前の客が残したトレイをさっさと自分で片付けると、通りかかったウェイターにテーブルを拭いてもらい、ジムとエミリーをすわらせた。カウンターでバーガーを注文して戻ってくると、ジムとエミリーは顔を寄せ合って、ひそひそと話をしていた。ジムが電卓を取り出して数字をはじき、また顔を寄せて、ひそひそと話をする。エミリーが顔を上げた。
「あの家は、学校区はどこでしたっけ?」
「ブラッドレイ小学校。評判のいい学校ですよ。高校はエル・ローブルになります」
エミリーは満足そうにうなずいた。この二人には、これから小学校へあがる小さな子供が二人いる。学校区のいいことは絶対条件だった。
「間取りは気に入ったんです。二階のメインベッドルームの浴室は、もうちょっと広いといいんだけど。本当は浴槽がほしいところよね、シャワーだけじゃなく。でも、もう一つのバスルームに浴槽は付いてるから、そっちを使えばいいのよね」
「バックヤードは気に入った。広々として。あれなら、子供のブランコが置ける」
「あの、居間の暖炉はアグリーだわ。何であんなもの作ったのかしら」
「石で暖炉を作るのは、六十年代の建築の流行だったんですよ。あの鏡板も、その時、張ったものでしょうね」
「暖炉のデザインは、家を改造する時、直せるよ。浴槽も入れればいいじゃないか。あの家は、まだ、値上がりするだろう?」
一馬はちょっと考えた。敷地の広さ、環境の良さから考えると、あの家は本当はもっと高い値がついていてもおかしくない。六十万五千ドルというのは、お買い得の値段だ。
「きちんと手入れすれば、もっと高く売れるでしょう。八十万ドルぐらいは取れると思いますよ」
ジムとエミリーは顔を見合わせた。
「どうしますか。オファーを出しますか?」
ジムが一馬を見てにやっと笑った。親指を一本立てて、言った。
「ゴー」
ウェイターが、ハンバーガーとコークの載ったトレイを運んできた。
ジムとエミリーを自宅に送り届けると、一馬はミーガンを迎えに、セイラとケヴィンの家へ行った。ドアベルに応えて玄関に出てきたセイラは、アレクが来ていて、今、ミーガンと遊んでいるところだから、ちょっと上がっていかないかと言った。確かに、庭の方から、ミーガンのはしゃいだ笑い声が聞こえる。じゃ、少しだけ、と一馬はバックヤードにまわった。
芝生に面したテラスの日よけの下で、ケヴィンが庭椅子にすわってバドワイザーを飲んでいる。アレクとミーガンは芝生の上で、わあわあ騒ぎながら、木の枝でチャンバラの真似をしていた。
「や、一馬。暑いな。そこのアイスボックスに缶ビールが入ってるから、勝手にやれよ」
一馬は恐縮して、缶ビールは遠慮し、コークを一つ取った。ケヴィンは今はもう引退しているが、以前はかなり成功した弁護士だった。セイラとの間に、子供は三人。上の二人は女の子で、ずっと年が離れて末っ子のアレクが生まれている。「おっと、しまった!」ベイビーだったかな、と一馬はひそかに不謹慎なことを考えたことがある。一馬がLAに留学してきた時、ホームステイしたのが、セイラとケヴィンのこの家だった。その頃、もう上の二人の女の子は独立していて、アレクだけが家に残っていた。まだ小学生で、一人取り残された気がしたのか、十歳近く年の違う一馬によくなついた。一馬は二年間、この家に厄介になり、その後、ガールフレンドのエレインとアパートを借りて、一緒に暮らし始めた。すぐにミーガンが生まれ、卒業を待たずにエレインと学生結婚し、永住権を申請し、リアル・エステイト・エージェントの資格を取り、仕事を始め、卒業し、アパートを出てコンドミニアムに引越し、エレインとうまくいかなくなり、別居、離婚と目の回るような十年の間、セイラとケヴィンはずっと、一馬のいい相談相手となり、精神的、実際的な援助を惜しまなかった。セイラとケヴィンがいなかったら、とうてい、ここまでやってこれなかったと一馬は思う。今だって、不規則な時間で働くリアル・エステイト・ビジネスをどうにかこなしながら、ミーガンを一人で育てていけるのは、セイラとケヴィンが頻繁にベイビーシッターを引き受けてくれるからだ。ありがたいな、と一馬は思う。
「仕事の方はどうだね?」
ケヴィンがのんびりした口調で尋ねた。
「まあまあです。夏に向けて、そろそろ、物件が動き始めました」
リアル・エステイトが動くのは、春から夏にかけてだ。子供のいる夫婦は、何とか、子供の夏休みの間に、引越しを済ませ、新学期はできれば新しい家でスタートしようとする。勢い、家の売り買いは、初夏に集中する。
「エレインから連絡はあるかね?」
一馬は、ぐっとつまった。コークを一口飲んでから、ようやく答えた。
「月一回の、ミーガンへの電話だけです。元気は元気らしいんですが」
一馬とエレインの離婚は、友好的とは程遠い泥仕合だった。五年たった今でも、一馬はエレインの名前を聞くと、平静でいられない。思い出したように動悸が早くなり、身体が熱くなる。それがエレインとの間にあった情熱の記憶のせいなのか、それとも二人が憎しみを込めて思いきり傷つけあったあの時期のせいなのか、一馬にはどちらともわからなかった。一馬はコークの缶を握り締めた。冷たい金属の感触が手の平に快く伝わってくる。気がつくと、ケヴィンは静かな目で一馬の横顔を見ていた。
「ミーガンの母親なんだからな。それを忘れちゃいけないぞ」
アレクとミーガンのチャンバラが激しさを増し、アレクがミーガンの持っている枝をたたき落とした。
「勝った!」
「ずるい! アレク、ずるい!」
ミーガンはアレクに飛びかかると、シャツの袖をつかんだ。軽くステップを踏んで足払いをかけると、アレクはあっけなく芝生に倒れた。ミーガンは馬乗りになって押さえつけた。アレクは倒れたまま、げらげら笑っている。
「たいしたもんだな、ミーガンの柔道は」
ケヴィンは感心したように言ったが、一馬は立ち上がった。
「ミーガン!」
ミーガンははっとした顔でこっちを見た。一馬の声の調子で、しまったと思ったのだろう。きまり悪そうに、おずおずと一馬の元にやってきた。
「アレクは柔道を知らないんだ。言ってるだろう? 道場の外で、技をかけちゃいけない。人に怪我をさせる」
「ごめんなさい」
ミーガンは小さな声で謝った。
「大丈夫だよ、一馬」
アレクが起き上がってきた。
「受身くらいはできる。前に、ミーガンに教えてもらったから」
ミーガンは六歳から、エル・ローブル・スポーツセンターで、柔道を始めた。元々は、一馬が、少年時代から続けてきた剣道の稽古のために通い始めたのだ。なんでも一馬の真似をしていた小学生のアレクも入門して、稽古を続け、この春、初段に進級した。だが、ミーガンはどういうわけか、剣道ではなく、隣の道場で行なわれていた柔道の方に興味を持った。まあ、どっちでもいい、と一馬は思っている。護身術として、何か一つはマーシャル・アートを身につけてほしいと願っていたから、それが柔道でも、剣道でも構わなかった。
「ミーガンは随分上達したんだな」
ケヴィンの言葉に、ミーガンは嬉しそうに笑った。
「ダディの方はどうかね? 稽古には行っているのか?」
「いえ、それが」
「全然だよ。なあ、ミーガン」
アレクが言った。
「じゃ、一手、お教え願おうか」
一馬はさっさと芝生の上に出て行って、さっきミーガンが落とした枝を拾った。
「来いよ、アレク」
蹲踞の姿勢を取った後、アレクと向かい合って、一馬は驚いた。しばらく見ないうちに、うまくなった。悪い癖だった、肩を怒らしたような固さが取れて、隙の無い、自然な構えだ。これは油断できない。アレクが誘うように、そろりと前に出る。一馬は動かない。また、そろり、と前に出る。
「アレク、がんばれ!」
ミーガンの声が聞こえた。あいつめ、と一馬が思った時、激しい気合を乗せて、アレクの枝が殺到してきた。一馬は素早く跳ね上げ、横に飛んで、アレクの枝の根元をピシリ、と叩いた。アレクが枝を取り落として、手首をこすった。
「うまくなったよ。でも、まだ、脇が甘いな」
「段が違い過ぎるよ。一馬は四段じゃないか」
アレクはふくれっつらをした。
「アイスクリームが欲しい人、取りにいらっしゃい」
セイラの声がして、「欲しい!」とミーガンがキッチンへ駆け込んでいった。「わしも!」とケヴィンが言って、一馬は、俺が取ってきますよと、ミーガンの後へ続いた。
「学校は? うまくいってるか?」
一馬はくっついてきたアレクに聞いた。
「うん。今度、学部のプロダクションで、ディオニソスをやる。明日から、毎日、リハーサルだ」
アレクの口調はどことなく、得意そうだった。
「がんばれよ。公演は見に行くから」
一馬には、アレクが大学で何をやってるのか、さっぱりわからなかったが、何にせよ、弟のように思っているやつが、一生懸命やっていることだ。応援してやるつもりでいる。
キッチンでは、セイラがボウルに山盛りにしたアイスクリームの上に、ミーガンがマラスキーノ・チェリーを乗せている。
「あんたたちも?」
「俺は結構です。ケヴィンに一つ、作ってやってください」
「あの人、甘いものは控えるように医者に言われてるんですけどね」
セイラはぶつぶつ言いながら、もう一つ、ボウルを出した。
「あんたは?」
息子の方に向いて聞いた。アレクはちょっとためらった。
「やめておく。太ると困る」
そうだ、と一馬は思い出して、キッチンテーブルの上に置いておいたブリーフケースから、宣伝用のマグネットを取り出した。グリーンヒルズ・リアル・エステイトと、一馬の所属している事務所のロゴが入り、そこに一馬の顔写真と名前、電話番号が入っている。
「これ、新しく作ったんです」
「あら、写真、変えたの?」
セイラはマグネットを受け取って、しげしげと見た。
「ええ。前のは数年前にとった写真で、ヘアスタイルが全然違うでしょう? 初めてのクライアントに会うと、変な顔されたんで」
一馬は離婚してから髪を伸ばし、今は後ろでまとめてポニーテイルにしている。
「いいじゃない、これ。ハンサムよ」
セイラは冷蔵庫のドアにマグネットを貼り付けると、アイスクリームの方に戻った。
「お前にも一つやろうか?」
一馬はアレクに聞いた。
「いいよ。僕、当分、家なんか買わないもの」
「だろうな」
一馬は笑った。
「でも、便利だろう? リハーサルのスケジュールを冷蔵庫に貼っておくのに」
アレクは、冷蔵庫に貼り付けられたマグネットをじっと見た。
「やっぱりもらう」
「アレク、これ、ダディに持っていってあげてちょうだい」
セイラが、アイスクリームのボウルを押し付けた。
一馬は苛立っていた。セラーはジムとエミリーのオファーを受け入れた。エスクロー(家の譲渡手続き)はオープンした。順調に行けば、六十日でエスクローはクローズし、売買契約は完了ということになる。にもかかわらず、セラーの婆さんはまだ、引越し先の家を探し始めてもいないというのだ。
「どうしてそういうことになるんだ」
一馬は苛々と、電話でタイラーにかみついた。
「あの家は売れたんだ。引越しを考えていないっていうのは、どういうことだ」
「そう怒るなよ」
タイラーは、一馬の権幕に辟易した声で、なだめるように言った。
「鬼婆だって言ったろうが。あの家は、最初に市場に出てから今まで一年半、売れなかったんだぞ。どうしてだと思う? 価格に問題があったわけじゃない。セラーが鬼婆だからだ。俺の前に、何人、エージェントが替わったと思う?」
「何人替わろうと問題じゃない。今のエージェントはお前だろう? 何とかしろ」
「俺も何とかしたいよ。だけどな、鬼婆は俺と口をきかないんだ。自分のエージェントと口をきかないクライアントをどうやったら……」
「もういい!」
一馬は癇癪を爆発させた。
「婆さんが欲しがってるタイプの家を言ってみろ」
一馬はMLSから、婆さんの気に入りそうな家を探し出すと、プリントアウトした。その間に、婆さんの家に電話をかけた。
「はい」
蚊の鳴くような、あわれっぽい小さな声が電話に出た。
「ガルディ夫人? 初めまして。橋本といいます。ジムとエミリー・スティーブンズのエージェントです」
電話の向こうは沈黙している。わかっているのだろうか? 一馬は首をかしげた。
「あなたの家を買った、ジムとエミリー・スティーブンズです。おわかりですか」
「はい」
ようやく、あわれっぽい声が鳴いた。
「引越し先をまだ、お探しでないと聞いたので、いくつか、お気に入りそうな家を探してみました。これから、そのリストをお届けにあがります。ご自宅にいらっしゃいますか」
沈黙。
「三十分くらいで行きますからね」
一馬はプリントアウトをひったくると、事務所の自分のブースから飛び出した。とたんに、モーリス・スワンソンと鉢合わせした。
「よう。不景気な面して、どうした。問題かい?」
モーリスは舌なめずりするような調子で言った。一馬はこのモーリスのにやけた笑顔が、虫酸が走るほど嫌いだった。もっともそれは向こうも同じことだろう。この事務所で、売り上げ一位のトップ・エージェントはパティ・ホー。その次が一馬、次いでモーリスだった。一馬とパティの間はきわめて友好的で、持ちつ持たれつの協力関係にある。実際、新人の一馬を一人前のエージェントに育てあげたのは、パティだったのだから。一馬とモーリスの間は、そううまくはいかなかった。モーリスは一度、一馬のつかんだクライアントを横からひったくり、二人は事務所の中であやうく殴り合いになりそうになったことがある。あの時は、パティが仲裁に入って、何とかおさまったのだ。その後、一馬はできるだけモーリスと顔を合わさないようにしているが、同じ事務所の中では簡単ではなかった。今、モーリスは、一馬の不幸はわが身の幸せとばかり、にたにた締まりのない笑いを口元に浮かべて一馬を見ている。
「困ったことがあるなら、相談に乗るよ、ん?」
「結構だ」
一馬は言い捨てて、顔をそむけた。モーリスはさらに何か言いたそうだったが、こっちをじっと見ているパティ・ホーの視線に気づいて離れていった。だが、その前に口の中で小さく、しかし充分に聞こえるように、「コックサッカー」と罵ったのが一馬の耳に届いた。いつかぶん殴ってやる。一馬は足早に事務所を出た。
しかし、問題の婆さんの家に近づいた頃には、一馬の心から、勘にさわる同僚の姿はきれいに消えて、目下の契約のことだけが心を占めていた。ジムとエミリーの家はとうに売れていて、バイヤーは倉庫と親戚の家のガレージに家財道具を預け、ひたすら家が空くのを待っている。二人がやっと気に入った家を見つけ、オファーが通ったと連絡してやった時には、これで家に入れると大喜びしたのだ。ジムとエミリーは、何軒もの家をトライしては、競争に勝てず、何度もくやしい思いをしてきた。それが、ようやく、気に入った家を手にいれたのだ。そして俺は、家を捜して毎日、毎日、何時間も走り回り、買取のオファーを何枚も書き直し、何件もの電話をかけまくって、今、ようやく契約を完了させ、コミッションを手にいれようとしている。それが、最後の最後になって、婆さん一人の気まぐれで一頓挫をきたしている。婆さんが動かず、この契約が流れたら、家が空くのを待っているバイヤーは今度こそあきらめて、手を引くかもしれない。そうなったら全てご破算、一からやり直しだ。二家族が、望みの家を手に入れそこない、そのエージェントはコミッションを手に入れそこなう。膨大な時間と努力がすべてパア、家で昼寝をしていたのと同じことになる。一馬は歯をくいしばった。そんなことにはさせない。させるものか。タイラーのやつが怠慢で無能で何もしないのなら、俺が婆さんを動かして、この契約をまとめてやる。一馬はもう一度、携帯で婆さんに電話をかけた。
「はい」
蚊が鳴いた。
「ガルディ夫人、先ほど電話した橋本です。もう十分ほどで、そちらにうかがいます」
一馬が着いた時、鬼婆の家は、しんと静まり返っていた。一馬は力をこめて、ドアベルを鳴らした。誰も出てこない。ドライブウェイに車が停まってるし、さっき電話で話したのだから、婆さんはいるはずだ。一馬は、もう一度ベルを鳴らし、ドアをノックした。
「ガルディ夫人、橋本です」
ようやく、中で閂をはずす音がして、ドアが細く開いた。灰緑色の目が一つ、臆病そうに隙間からのぞいている。
「ガルディ夫人ですか? はじめまして。橋本一馬といいます。今、売りに出ている家のリストをお持ちしました。ここを開けてもらえますか?」
灰緑色の目は、瞬きもせずに一馬を見つめている。ドアはそれ以上、一インチも開かなかった。一馬はリストを、ドアの隙間から差し入れた。
「気に入った家があったら、タイラーに連絡すれば、家の中を見られますから」
やっと、リストが受け取られた。ドアはそのまま、パタンと閉まった。閂のかかる音が聞こえた。
一馬は鬼婆の家の薄暗い玄関ポーチから、日の当たるドライブウェイに出て、ようやく、息をついた。鬼婆の家のバックヤードの塀の上に、大きなカラスがとまっていて、一声、カアと鳴くと、羽根を広げて飛んでいった。
アレクはディオニソスの最初の長ぜりふを言い終わった。演出家の顔つきで、彼が気に入っていないのがわかった。演出は、外部から招かれたジャック・リース。リースはロンドンで数年前、斬新な古典演出で評判になった。その後、インディ系の映画にも進出して、今、注目株の若手だ。アレクにとっては大事なチャンスだった。フーム、とリースは鼻を鳴らした。
「いいよ、アレク。とても良かった」
アレクは黙って次を待った。
「だが……」
そら来た。
「もっと、情熱というか、怒りがほしいな。ディオニソスは淡々と、事の経過を述べてはいる。だが、彼の内面には燃えるような怒りと、復讐への意志があるはずなんだ。彼を否定し、受け入れようとしなかった、彼自身の肉親への怒りがね。そこをどう表現するか。考えてみてくれ。じゃ、次。バッカス信者たちのダンス」
アレクがむっつりと部屋を出ていこうとすると、入れ替わりに入ってきたジェシカが、アレクの頬をちょいと撫でた。
「よせよ」
アレクは顔をそむけた。
「元気出して」
ジェシカはささやいて、ウインクした。
「ジェシカ、急いで」
舞台監督のホリーの声が飛んできた。
アレクはグリーンルームに行くと、ソファの上にひっくり返った。隅の安楽椅子で台本を読んでいた誰かが話しかけてきたが、アレクは二言、三言おざなりに返事したきり、相手にしなかった。さっきのジャックの言葉が頭の中でうなるような音をたてて回転している。燃えるような怒りと復讐への意志。ディオニソスは主神ゼウスと人間の女の間に生まれた。父方の親族はみんな神様だ。気楽に親戚付き合いできるような連中じゃないから、家族と言えば、死んだ母親の親族しかいない。そこで無視されたら、そりゃ、淋しいし、悔しいよ。けど、だからと言って、あそこまでやるっていうのは……。ディオニソスが復讐のために何をやったか考えると、アレクは背筋が寒くなる。怒りと復讐。言葉で言えば、簡単だけど……。どこかでドラムの音がする。ジャックはダンスシーンにライブミュージックを使うって言ってたっけ。その練習かな。押し殺したようなドラムのビートを聞いているうちに、まぶたが段々重くなってきた。
鹿皮を身体にまとった若い、ハンサムな神は葡萄の蔓の巻きついた杖を手に、じっとアレクを見ている。
―なぜ?
―わからないか?
―あそこまでやることはない。
ディオニソスは答えなかった。アレクは押した。
―なぜ?
ディオニソスは杖で地面を打った。噴水のように、真紅の液体が噴き出して、アレクの身体に降りかかった。生臭い、胸の悪くなるような臭いがあたりに漂った。血。
アレクは悲鳴をあげて飛びのいた。ディオニソスは愉快そうに笑った。
―なめてみろ。
アレクは夢中で首を振った。
―なめてみろ。
ディオニソスの杖から葡萄の蔓がするすると伸びて、アレクの身体に巻きついた。必死にもがいたが、緑の葉の茂る蔓はしなやかで強靭だった。ディオニソスは蔓をつかんでアレクを引き寄せた。赤い血がシャワーのように頭から降り注いでくる。蔓はさらに伸びてアレクの首に巻きついた。きりきりと締め上げられて、アレクは口を開いてあえいだ。赤い液体が容赦なく口の中に注ぎ込まれる。生暖かく芳醇な赤い水。酸味の中にほんのりと甘い香りが漂う。アレクは目を開いてディオニソスを見た。
―味わってみろ。
太陽の熱と大地の豊かさをたっぷりと吸い込んだ赤ワイン。冷たく冷えた心と身体を暖めてくれる。青ざめた頬に血の気がよみがえり、瞳に光が、唇に歌が、手に力が、そして足は、ダンスのステップを踏む。アレクは喉を鳴らして、赤い液体を飲んだ。
―来い。バッカスの踊り手たちよ。鹿皮をまとい、髪に葡萄の葉を飾った乙女たちよ。時がきた。共に酔い、共に歌おう。
遠いドラムの音が響く。アレクは赤い液体を飲み続けた。
「アレク、風邪ひくわよ。アレク」
身体を揺すぶられて、アレクは目をさました。ホリーがそばに立って、見下ろしている。アレクは目をこすった。
「何? もう出番?」
「違う。今は休憩。あんた、またシェイクスピアの講義、さぼったでしょう?」
「忙しいんだよ」
「学年末の課題で苦労するの、あんた自身なのよ」
アレクは横目でホリーを見た。
「四年のドノヴァンって、知ってる?」
「ドンなら知ってる。何で?」
「やつとそっくりなこと、言うからさ」
「あんたのためを思って言ってるだけよ」
「余計なお世話だ」
アレクは勢いよく起き上がった。
「ああいう理屈っぽいの、嫌いなんだ」
「ドンは優秀な学者よ。まじめだし」
「ああいうのが好み?」
「馬鹿ね。そんなこと、言ってないでしょ。それに、ドンにはちゃんと、付き合ってる人がいるのよ」
「へえー。物好きもいるんだな。誰?」
「学内の人じゃないらしい。一度しか見たことないけど、きれいな人だった」
「ホリー!」
メリッサが呼びに来た。
「アレクも来て。リハーサル、再開しますって」
ホリーとアレクは急いでスタジオに戻った。
一馬は、夕食の後片付けを済ませると、皿洗い機のスイッチを入れた。それから、タイラーに電話をかけた。
「よ、一馬。リストありがとう。助かったよ」
「それで、どうなった? 婆さんの気に入った家はあったか?」
「三軒、見たいって言うんで、昨日、まわってきた。うち、一軒に今日、オファーを出したよ」
一馬はほっとした。どうやら、流れに乗ってきたようだ。
「相手が受けるかどうかはわからないがな」
タイラーはあやふやな口調で付け加えた。一馬は緊張した。
「どうしてだ? そんな低い額を提示したのか?」
「額の問題じゃないんだ。鬼婆が、留保条項をつけろってきかなかったのさ。今、住んでいる家が売れるまでは、契約は完了させないって」
「何だって?」
一馬は目の前が真っ暗になった。
「婆さんの家はもう、売れてるんだぞ! 何のためにそんなもの付けたんだ!」
「怒鳴るなよ。俺は鬼婆に説明したぞ。そんな必要はないし、そんなもの付けたら、他の買い手に取られちまいますよって。でも、どうしてもつけろって、きかないんだ」
一馬は胸が煮えくり返る思いだった。
「お前、この契約、流す気か?」
「とんでもない。コミッションが欲しいのは、お前と同じさ。だがな、一馬、あれは鬼婆だ。一筋縄じゃいかないんだ。あの婆さんが、エスクロー、クローズ寸前で契約をつぶしたこと、何度あると思う?」
一馬は、指の間から、約束されたはずのコミッションチェックが、するりと抜けていくのを感じた。はっきりと感じた。ミーガンが、柔道着に着替えて、緑の帯を締めて階段を降りてきた。
「ダディ、用意できたよ」
「そういうわけでな、一馬。セラーが、留保条項つきのオファーを受けてくれるかどうか。後は神様にお祈りするだけだ」
一馬は電話を叩き切った。
「どうしたの?」
ミーガンが心配そうに一馬の顔をうかがった。一馬は深呼吸した。
「何でもない。お仕事の話さ。じゃ、行こう。急がないと練習に遅れる」
その夜、ミーガンを寝かせた後、一馬が悪態を吐き散らしながら、キッチンを行ったり来たりして、次に打つ手を考えていると、「レイラ」のメロディーが鳴った。
「ミスター・ハシモト? 夜分遅く失礼します。わたしはグラディス・ガルディの娘で、マリー・ルイーズ・サマン。母から、今度こそ、本気で家を売るつもりだと聞きまして、それでお電話さしあげたんですが…」