「時をさかのぼって、ずっとずっと遠くに行こう。時を越えて、はるか彼方まで行こう。さあ、どんな情景が心の中に浮かんでくるかな。何が見える?何が見えた?」
モーリィ・バーンスタイン
「ブライディ・マーフィを探して」
車は、210番フリーウエイを東に向かって走っていた。
「窓を開けてもいい?」
菜摘が聞くと、ハンドルを握っている亜紀は黙ってエアコンを切った。菜摘が助手席の窓を開けると、蜂の唸るようなエンジンの響きとともに、生暖かい風が車の中に吹き込んできた。片側はサン・アントニオ山系の赤茶けた山肌が明るい夏空に向かって伸び上がり、反対側はパサデナの町の細かい住宅地がずっと続いている。一軒一軒の敷地は広くはないが、どの家も裏庭に小さなプールがある。オレンジ色の日干し煉瓦の屋根と、緑色の椰子の木、赤紫のブーゲンビリアの花の間に点々と青い宝石のようなプールが覗く。LAに留学してもうすぐ一年になる。見慣れてきたとはいっても、改めて見ると、南カリフォルニアの夏はやはり美しいと菜摘は思う。
昨日、バイト仲間の亜紀から電話があって、ハウスシッターをやらないか、と聞かれた。家人が留守の間、その家に泊まりこんで家の面倒を見る、要するに留守番である。亜紀の知り合いの大学教授が夏の間、ヨーロッパへ講演旅行に出かける。ハウスシッターをすることになっていた親戚の子供が、急に就職が決まって東部に引っ越してしまった。それで大急ぎで代わりの人間を探している。期間は七月と八月の二ヶ月間、具体的な仕事は郵便の受け取りと家の中の掃除、庭木の世話だが、家一軒を預けるのだから信用のおける、煙草を吸わない、できれば女性がいい、という話だった。
「ヘイヴンズ・パークはいい所よ。こじんまりしたカレッジタウンでね、緑が多い」
ヘイヴンズ・パーク?
すごい名前だ。日本語に訳せば、天国の園。
亜紀は話し続けた。家賃を払わずに済んで、逆にシッター代をもらえるんだから、小遣い稼ぎにもなる。夏の間、大学の寮が閉鎖になって、大急ぎで住む所を探さなければならない菜摘には誂えたように都合の良い話だった。
「でも、バイトにはちょっと遠くなる」
「二ヶ月間の辛抱じゃない。それに、夏季休暇中には、アパートなんてなかなか見つからないわよ。八月末になれば学生が戻ってきて、ルームメイトの募集も増える。寮に戻らないなら、その時がチャンスよ」
「ちょっと考えてもいい?」
「いいけど、先方も急いでるから早く決めて。決まったら明日にでも引き合わせるから」
亜紀の言う通りだった。ハウスシッターを引き受けるか、荷物をトランクルームに預けて二か月の間、日本に帰るかだ。せっかくここの生活に慣れてきたのに、という思いがあった。菜摘は引き受けた。
「トンプソン教授は心理学の先生なの。奥さんのアマンダも大学で教えてるけど、彼女の専門はヨーロッパ美術史。で、教授のヨーロッパ講演旅行が決まった時、ヴァケーションも兼ねてアマンダも一緒に行くことになったわけ」
ハンドルを握っている亜紀はまっすぐ前を向いて話している。まだ昼過ぎたばかりで、帰宅ラッシュの渋滞が始まる三時には間があるのに、フリーウエイは結構混んでいた。
「アマンダにはお世話になってるの。本当ならわたしがハウスシッターしたいところだけど、うちにはモリスがいるし、カイルもいるから」
モリスは亜紀の飼っている猫で、カイルは亜紀の夫である。亜紀はジャーナリズムを学ぶためにこちらに来たが、在学中に知り合ったカイルと結婚して今は一緒に映画を作っている。ウエイトレスのアルバイトをしなければならないところを見ると、くらしは楽ではないらしい。ただ、亜紀はお金が無いことをこぼしても、湿っぽくならない。貧乏を自慢しているようにさえ見える時がある。好きな道をまっすぐに進んでいる誇りがそうさせるのか、亜紀の目は輝いていた。菜摘は時折、亜紀の輝きの前で萎縮してしまう自分を感じてしまう。青空にすっくと立つひまわりを見上げているちっぽけな蟻のような気がすることがある。
「菜摘、本当に大丈夫?」
急に不安になったように、亜紀が横から顔を覗き込んできた。
「途中で逃げ出したりしないでよ」
大丈夫よ、と菜摘は言った。
「日本に帰るよりずっといい。」
ならいいけど、と亜紀は前に向き直った。
「逃げ出す時は、わたしに電話してからにして」
トンプソン教授の家は、町の中心にあるカレッジから車で五分、シカモアの並木道に沿った静かな住宅街にあった。スペイン風の赤い煉瓦屋根のついた、大きな二階建ての家の前に亜紀は車を停めた。菜摘は、前庭の中央に植えられた一本の潅木が、レモン色のラッパ型の花を下向きに垂れ下がるように咲かせているのに目を留めた。
エンジェルス・トランペットだった。
正式な学名はダチュラ。俗名は、大天使ゲイブリエルが、最後の審判の日にラッパを吹くと、死者たちは墓場から甦るという伝説から取られている。丈夫な潅木でぐんぐん大きくなるが、寒さに弱く、冬越しに手がかかる。ここならば、冬の寒さの心配はいらないのだろう。このエンジェルス・トランペットは大株だった。一つ一つの花は、長さ三十センチはあるだろう。大天使のラッパが枝という枝からぶら下がってゆらゆらと風に吹かれているのは、どこかユーモラスな眺めだった。
トンプソン夫人―アマンダ―は、四十歳ぐらいだろう。遠いところを大変だったわねえ、と言って、ふっくりした柔らかな手で菜摘の手を握った。家の中を案内するという夫人のあとについて、菜摘は家をざっと見せてもらった。外から見ても大きな家だと思ったが、中にはいると天井の高さ、奥行き、すべてが菜摘の今いる寮の部屋より二まわりは大きい。玄関を入るとホール。はめ殺しのガラス戸から外光が入って、重厚なクルミ材の羽目板をつややかな栗色に光らせている。左手に二階へ続く階段がある。右手はキッチンと食堂。食堂の天井からは細かいガラス細工のシャンデリアが下がっている。一枚板のテーブルには白いレース編みのドイリーが敷いてあり、その上に載せたガラスの器には、色とりどりのキャンディーが盛ってある。そういえば、さっきのキッチンでも、磨きこまれた黒い石のカウンターの上には緑のリンゴを山盛りにした籐のバスケットが置いてあった。散らばったペンとかメモ用紙、スーパーのチラシのようなガラクタは何もなく、すべてが綺麗にカラーコーディネイトされている。人が住んでいる家というよりも、タウンハウスのモデルルームのようだ。左手の廊下の先には暖炉のある居間と書斎。書斎の壁は、一面作り付けの書棚になっていて、専門書がずらりと並んでいる。居間の石造りの暖炉の前には、コーヒーテーブル、クッションを並べた革張りのソファが置いてある。居心地の良さそうな居間だが、やはり暗い。暗赤色のカーペットを敷き詰めてあるせいだろうか。廊下の突き当たりのドアを出ると、そこはガラス張りのサンルームになっていた。この部屋だけは明るく、午後の光に溢れていた。ステンレス製の棚が何段もあって、そこに蘭の鉢植えが並んでいる。この鉢植えは、元々は夫人の友達が育てていた蘭なのだそうだ。その友達が病気で亡くなる前に、もらってくれないか、と頼まれたのだと夫人は言った。養子にもらったようなものよ。
二階には五部屋ある。一番大きな南向きの部屋がマスターベッドルームで、浴槽とシャワー室のついた広い浴室が付属していた。あとの四つの部屋のうち、二つはシャワー室がついていて、客用寝室として使われているらしい。残りの二つのうち、一つはデスクと本棚が備え付けられた書斎。書斎は下にもあったが、ここのご夫婦は二人とも学者だった、と菜摘は思い出した。きっと別々の書斎がいるのだろう。もう一つはがらんとした空き部屋で、段ボールの箱がいくつか置いてある。納戸として使っているようだった。
「まあ、こんなところなのよ」
暖炉のある居間に戻ってくると、夫人は言った。
「お願いするのは、郵便の受け取りと植木の水遣り。庭は週に二回、庭師が来て芝刈りしていくから、家の中のプラントの世話をお願いね。あと、木曜日の午前中にお掃除の人がくるから、木曜日に外出する時は裏口に鍵はかけないでね。もちろん、家にいてもらっても構わないけど」
庭師と掃除婦が来るなら、仕事といえるようなものはほとんどないじゃないか、と菜摘は思った。口ごもりながらそう言ってみると、夫人はにこにこと笑った。
「仕事は、わたし達の留守の間、この家に住んでもらうこと。朝、新聞を取り込んで、朝食を食べ、夕方にはここへ帰ってきて家に明かりがつく。そんな風にしたいのよ。ずっと人がいないのは無用心でしょ。この辺は治安のいい所なんだけど、それでも、最近、何軒か空巣が入ったと聞いたのよ」
空巣に入られたのは、家を売りに出している人たちだという。六月から八月にかけてはアメリカの住宅不動産取引が一番盛んな時期である。学校が終り、子供達は卒業するか学年が終わって夏季休暇に入る。引越しを考えている人々はこの間に今住んでいる家を売り、九月の新学期までに新しい家に移ろうとする。
「不動産取引のデータベースに、家の中の写真を載せるでしょ?泥棒はそれを見たらしいの。キッチンをリモデルして新しい皿洗い機やオーブンを入れた家が軒並みやられて、古い電化製品をそのまま使ってる家は無事なのよ。馬鹿にしてるわよねえ。うちの皿洗い機は古いけど、テレビは買ったばかりなの。だから、わたし達がいない間に、誰かが勝手にうちのテレビやテーブルや洗濯機を運び出さないように、あなたに住んでいただきたいの」
夫人は息もつかずにしゃべり続け、電気代や水道代は銀行から自動引き落としになっているから心配ない。庭師と掃除婦の給料は、先払いしておく。その他、もし家の管理で必要な経費があったら、領収書をとっておいてくれたら後で清算する、と夫人は言った。
「あなた、パソコン持ってるわね?」
はあ、と菜摘が言うと、自分たちもパソコンを持っていくから、週に一回、メールを送って家の様子を知らせてくれ、と言う。
「その他にも何かあったらいつでもメール送ってくれて構わないのよ。サイモン、あなた、何か言うことはないの?」
トンプソン教授は、五十半ばに見えた。白髪で痩身の神経質そうな人物で、暢気そうな夫人とは対照的に見えた。家の中一周ツアーには参加しないで、菜摘たちが居間に戻ってきてから、書斎から出てきて菜摘の正面に腰をおろした。それきり、一言も口をはさまずに、銀縁眼鏡の奥の灰色の目でじっと菜摘を見ていた。
「アマンダ、ミス・コウノはまだ、ハウス・シッターを引き受けるとは言っていないよ」
教授は、外見とは裏腹に低く野太い声で言った。
「あら、でも、引き受けてくださるわよねえ?」
夫人があわてたように言った。菜摘が口ごもりながら、わたしでよければ、ともそもそと言うと、ほっとしたように、そら見なさい、と夫に言った。
教授は口の端をわずかに釣り上げた。笑ったのかもしれない。
「若い娘さんが一人で留守番するのは怖くありませんか」
「大丈夫です」
「この町にお知り合いは?」
「いません。でも、すぐ慣れます。とてもきれいな所ですし、何となく、初めて来たような気がしないんです。よく知ってる町みたいで」
「ほう? それはまた、どうして?」
菜摘は困惑した。どうしてと言われても困る。ただ、そう思うだけだ。
「あの、きっと、亜紀から話を聞いていたからだと思うんですけど」
亜紀は数年前まで、ここのカレッジに通っていた。
教授は、なるほど、とうなずいた。
「ヘイヴンズ・パークはいい町ですよ。きっと気に入ってもらえると思います」
あとはアマンダと話して下さい、と言って書斎に消えた。
菜摘はほっとした。夫人には好感が持てるが、教授は苦手だ。あんな風にじっと見られると、こっちが迷路を走るマウスか、バナナをもらうためにボタンを押すチンパンジーになったような気がして落ち着かない。
事務的な細々したことを取り決めると、それを書類にして菜摘と夫人がサインした。コーヒーとホームメイドのクッキーをごちそうになった後、亜紀と菜摘はトンプソン家を出た。
「決まってよかったじゃない」
亜紀が言った。
うん、と菜摘はうなずいた。
「初めはちょっと緊張したけど、でも、奥さんはいい人みたいだったから」
「アマンダは誰にでも気安くて親切よ。教授はちょっと変わったとこあるけど」
うん、とまた菜摘はうなずいた。
「あのご夫婦は子供がいないの?」
亜紀はちらりと菜摘を見た。
「どうしてそう思うの?」
「子供部屋がなかったから。それとも、もう独立して家を出てるの?」
「子供はいたのよ。でも、独立したわけじゃないの」
亜紀の表情が固い。悪いことを聞いたようだった。菜摘は、ごめん、とあやまった。
「あやまることないわ。ただ、さっき、その話をしなくてよかった」
亜紀は声を低くして言った。
「一人、男の子がいたのよ。教授の前の奥さんとの間の子で、一緒に暮らしてたんだけど、十六歳の時に家出しちゃったの。アメリカは広いから、州を越えちゃうとまず、わからないっていうからね。いまだに音信不通。小さい時から育てたアマンダは、ショックだったと思う。アマンダには子供はいないの」
そう、と菜摘は言った。子供を失くす悲しみなんて、菜摘には実感がわかない。ただ、聞いておいてよかったと思った。メールのやり取りで、不用意なことを書いて不愉快な思いをさせてしまったかもしれない。菜摘は、ふと、夫人が、蘭の鉢植えを「養子にした」と言っていたのを思い出した。
菜摘をアパートに送ってから家に戻ると、カイルが帰ってきていた。テレビを見ながらリンゴをかじっている。カイルはスナックは食べない。太るのを警戒しているのだ。
映画の撮影なんかやってるとどうしても生活は不規則になる。決まった時間にきちんと食事をとることなんかできないから、空腹をポテトチップやビスケットでごまかすと、あっという間にジーンズのサイズに影響してくる。
カイルはおしゃれだった。
洗濯したシャツにいつも自分で念入りにアイロンをかけた。たとえそれが、一枚五ドルの安物であろうとも。そしてカイルが着ると、ただの綿シャツがメイシーズかノルドストロームで買ってきたように化ける。穴のあいたくたくたのジーンズでも、カイルがはくとサマになる。アイロンの効いた真っ白なシャツに、洗いざらしのブルージーンズ、膝の穴からは日に焼けた骨張った膝小僧が覗いている。茶褐色のくしゃくしゃの巻き毛の下の黒い目はくりくりとよく動く。カイルはジーンズのポケットから緑色のリンゴを取り出すと、シャツの裾でごしごしとこすってから、白い鋭い歯を見せてかじる。いたずら小僧のような笑みがその頬に浮かぶと、亜紀はつい、見とれてしまう。カイルはハンサムな男だった。
カイルがテレビから振り返った。
「どうなった?」
「決まった。来週の日曜日からハウスシッターに行くことになった」
「うまくいったな」
満足気なその言い方が、亜紀の気にさわった。
「わたしがシッターに行った方が簡単だったのに」
「君じゃ信憑性に欠ける。やらせだと思われる。全く無関係な人間がいいんだ」
「無関係じゃないわよ。わたしの友達なんだから」
「友達くらいはいいさ」
亜紀がソファにすわると、カイルが肩に手を回してきた。亜紀は振り払った。
「なんだよ」
「心配なのよ。菜摘は気の小さな子だから」
「君が言い出したんだぜ?」
カイルは不満そうに言った。
だからよけい、気になるのだ、と亜紀は思った。
亜紀はあることを菜摘に隠していた。嘘というほど悪質じゃない、と亜紀は自分に言い訳する。知っていて、あえて言わなかっただけだ。
ヘイヴンズ・パーク、クリスタル・ドライブ213番地には、幽霊が出ると噂がたったことがある。誰もいないはずの窓に人影が見えた、とか深夜、二階の部屋から部屋へとあかりがちらちらと移動するのが見えた、とか。この家に泊まった客が、夜中に悪夢を見て目覚めると、寝室の窓の外から白い顔が覗いていた、という話もある。十代の少女の顔だった、と客は言った。この家の寝室はすべて二階にあるから、もしも生きている少女が覗いていたのなら、梯子のてっぺんにでも登っていたことになるが、夜が明けてから調べた窓の下の芝生には、梯子を掛けた形跡など全くなかった、とこの客は断言した。地元の好事家が、家に泊り込んで調査をしたことがある。カメラとビデオ、集音マイクを持ち込み、家の中の電磁波を調べた。カメラには、うっすらと楕円形の光のようなものが映っていた。好事家は、これこそ、霊であると主張したが、月光が窓に反射しただけのようにも見え、ゴーストハンターたちの間でも賛否両論がある。
ただし、これらはすべて三十年前、一九八十年代の話である。
トンプソン夫妻が一九九二年に引っ越してきてから、幽霊は出なくなったようだった。アマンダは、亜紀に、この家には二十年住んでいるが、幽霊にお目にかかったことは一度もない、と断言した。
テレビや映画でゴーストハントが話題になるたびに、地元のゴーストハンターたちはクリスタル・ドライブ213番地を思い出し、トンプソン夫妻に取材や調査を申し込んだが、教授はすべて断わっている。
今回のハウスシッターの話を聞いた時、カイルは喜んだ。願ってもないチャンスが向こうから転がり込んできた、と言った。
「ホラーはいつだって受けるんだ。でも、フィクションじゃだめだ。―Based On True Story、実際にあった話だっていうのが肝心なんだ。『エクソシスト』も、『アミティヴィル・ホラー』も、最近の『コンジャーリング』だって実話だろう?」
「『アミティヴィル・ホラー』は、手の込んだ作り話だって言われてるじゃない」
一九七九年、実話と銘打って出版されたジェイ・アーソンの「アミティヴィル・ホラー」(日本では「悪魔の住む家」と訳された)は、一千万部を売り上げたベスト・セラーになり、映画化され、さらにいくつか続編もつくられた後、二〇〇六年になってリメイク映画が作られたほどの人気作品である。
ジョージとキャシー・ルッツ夫妻は、一九七六年、ニューヨーク郊外のアミティヴィルにある大きな家を格安で買い取った。運河が目の前を流れ、ボート小屋までついた豪華なコロニアル様式の家である。ところが、次々と説明のつかない怪異に襲われ、一ヶ月もたたないうちに子供三人と犬一匹とともに、家財道具すべてを残したまま、命からがら逃げ出すはめになった。アーソンは、ルッツ夫妻に長時間のインタビューを試み、そのテープの記録から忠実に恐怖の体験を再現した、と語った。アミティヴィルのオーシャンドライブにある実在の家は評判になったが、本の出版直後から内容に疑いを抱く人々は多くいて、あくまでも実話であると主張するルッツ夫妻との間で裁判になったことさえある。
亜紀はもちろん、この話はよく知っていた。
「疑われてもしょうのないところはあると思うのよ。本の中の神父さんの証言は版によって違うし、警察を呼んだと言ってるのにアミティヴィル警察にその記録はない。地下室で発見された封印された不気味な部屋は、もともと倉庫として使われていて、開かずの間でもなんでもなかったという前の住人の証言があるし。でも、一番おかしいのは、現在その家に別の家族が何年も住んでいるのに、恐怖どころか、なんの不思議も経験してないってことよ」
「だが、本が出版された時は、ほとんどの人間が実話と信じた。今でも信じている人間はいる。なぜかと言えば、あのアミティヴィルの家には、そう信じさせるだけの歴史があったからだ。悪霊に憑かれた家ならではの歴史がね」
カイルは自信たっぷりに言って、続けた。
「そして、ヘイヴンズ・パークのクリスタル・ドライブ213番地にもそれがある。霊がいても不思議でない歴史だ。だからゴーストハンターたちはあの家を忘れない」
「アマンダとサイモンはあの家に二十年以上住んでいて、幽霊なんか影も形もないってはっきり言い切ってる。幽霊がいなくなった、とは考えられない?」
カイルはふふんと笑った。
「なによ」
カイルは意味ありげに低く声を落とした。
「去年、アマンダが感謝祭のディナーに呼んでくれたろう?」
十一月の最後の木曜日、サンクスギビングにはアメリカ中で家族親戚友人が集まって七面鳥のローストとパンプキン・パイを食べて歓談する。亜紀とカイルもいつもはサンタ・バーバラに住むカイルの両親の家に呼ばれていたのだが、去年は両親が大陸の反対側に移り住んだカイルの兄夫婦の新居を訪問することになった。カイルと亜紀も招待されたのだが、金銭的にも時間的にも大陸横断の余裕はなかった。いいさ、とカイルは言った。たまには贅沢して外食しよう。マリー・カレンダーのサンクスギビング・スペシャルはうまいって聞くよ。
すると、アマンダが感謝祭の三日前に亜紀に電話をかけてきた。サンタ・バーバラに行かないのなら、今年はうちに来ない? カレッジの留学生を二人、お客に呼んであるんだけど、四人じゃターキーは食べきれないのよ。あなたとカイルが来て手伝ってくれたら、助かるんだけど。
亜紀とカイルは喜んでヘイヴンズ・パークに出かけ、アマンダのロースト・ターキーをご馳走になった。パンと野菜を刻んでオーブンで焼いたスタッフィングも、パター風味の効いたグリーンビーンズも、とろとろのマッシュポテトもおいしかった。二人の留学生は一人はフィリピン、もう一人は中国から来ていて、どちらも礼儀正しく、笑顔でグレービーやクランベリージェリーをまわしてくれた。トンプソン教授のどこか醒めたような皮肉な目も、芳醇な赤ワインのおかげか、今夜は心もち和らいでいる。亜紀はおおいに食事と会話を楽しんだ。コーヒーとパンプキンパイの後、留学生二人はレポートがあるからと帰っていったが、亜紀とカイルは残ってその夜は二階の客用寝室に泊めてもらった。
「あの晩、僕はなかなか寝つけなくて、ずっとベッドの中で目をさましてたんだ。羊を数えても、何しても目が冴えて眠れやしない。このまま朝になるんじゃないかと思った頃、廊下に軽い足音がした。誰かが階段を下りていくんだ。アマンダかサイモン、どっちだろう、と僕は思った。しばらくすると、階下のキッチンで椅子を引く音がした。二人のうちのどっちかが、キッチンのテーブルにすわったんだと僕は考えて、目を閉じて眠ろうとした。でも、やっぱり眠れない。あきらめて、本でも読もうかと思って、ふと、気がついた。階下に降りていった誰かはいつまでたっても二階に上がってくる気配がないんだ。時計を見ると三時を過ぎてる。僕は心配になって、キッチンへ様子を見に行った。君を起こさないようにそっとベッドを抜け出して、裸足で階段を降りていった。明かりをつけるまでもなく、キッチンには誰もいないのがわかった。椅子は六脚ともきちんとテーブルの下に押し込まれてる」
「空耳だったんでしょ」
「うん、僕もそう思った。半分眠りかけて夢を見たのかもしれない、と思った。キッチンは寒かった。冷たい風がすうと首筋を撫でて、僕は急いでベッドに戻ろうとした。その時窓が二インチ(四センチ)ほど開いてるのに気がついた。不用心じゃないか。僕は窓を閉めようとして近づいて、見たんだ」
「何を?」
「窓の外は真っ暗だった。僕の背後から玄関ホールの常夜灯の明かりがさしこんでいて、ガラス窓が暗い鏡のように僕の顔を映し出していた。顔は二つあった」
亜紀は息を呑んだ。
「どういうこと?」
「僕の後ろに、もう一つ、顔が映っていた。白い、少女の顔だ……ぞっとしたよ。僕はすぐに振り返ってみた。キッチンにはもちろん、誰もいない。もう一度、向き直って窓を見た時には、少女の顔は消えていた」
カイルは言葉を切った。テレビではトーク番組のゲストが何かのジョークを言ったらしい。観客がどっと笑った。
ややあって、カイルは言葉を続けた。
「翌朝、僕はアマンダとサイモンに聞いてみた。昨夜、どちらかがキッチンに下りていかなかったか、と。二人とも知らない、と言っていた。アマンダがなぜそんなことを聞くのかと気にしたので、僕は、昨夜遅く、階下で物音を聞いたので下りていってみたら、キッチンの窓が開いていた、と言った。アマンダはサイモンが、料理の熱気を追い出すのに窓を開けたまま閉め忘れたのだ、と非難した。サイモンは……君もわかるだろう、どこ吹く風で、閉めたとも忘れたとも答えなかった。僕は少女の顔のことは言わなかった」
カイルの顔は少しばかり青ざめて見えた。
亜紀は突然、猛烈に腹が立った。知っていたら、もし、知っていたら、絶対に菜摘にハウスシッターの話など持っていかなかった。
「なぜ、今まで黙ってたの?」
カイルは降参するように両手を広げた。
「君はどう思う? 僕だって気のせいだと思いたかったよ。これでも一応、二十一世紀に大学教育を受けた人間なんだ、幽霊を見ましたなんて公言したくなかったさ。実際、本当に僕の気のせいだったかもしれないんだ」
カイルは真っ白な鋭い歯を見せてリンゴをかじった。
「僕としては菜摘が何か感じてくれるといいと思う。でも、やってみなきゃわからない。君は頻繁に菜摘と連絡を取ってくれよ。彼女が何かおかしな体験をした、と言ってきたらすぐに教えてくれ。僕は「ヘイヴンズ・パーク・ゴーストクラブ」にわたりをつけた。地元のゴーストハンターが組織している、二十年の経験を持つ実績あるグループだ。喜んで協力すると言ってきた。彼らがあの家を調べる様子をドキュメンタリー風に撮る。ところどころ、菜摘の体験をドラマ仕立てで組み入れることも考えてる」
「アマンダとサイモンは家の撮影なんか許可しないわよ」
「彼らはヨーロッパにいるんだ。そうだな、調査はあの家でするが、撮影自体は別に家を借りてもいい。とにかく、ネタはあの家で起きるできごと、あの家で菜摘が体験するできごとなんだ」
「何も起きないことを祈るわ」
「なんでだよ。君はどっちの味方なんだ」
カイルは不満そうだった。口を尖らして、子供のようにすねた表情になった。亜紀の胸の奥のどこかが、きゅっと縮むように痛んだ。不愉快な痛みではなかった。
「どこかのクレイジーな映画作家の味方よ」
亜紀はカイルの首に両腕を巻きつけた。
ヘイヴンズ・パークの生活は快適だった。菜摘は毎朝、町の中心にある私立のカレッジまでエクササイズを兼ねてサイクリングする。カレッジ内の陸上グラウンドを軽く走った後、近くのベーカリーで焼き立てのクロワッサンを食べ、コーヒーを飲む。菜摘は知らなかったが、アート系ではアメリカで十本の指に数えられる有名なカレッジだそうで、緑溢れる敷地内にヘレニズム風の円柱を備えた校舎が点在している。周辺には気のきいたコーヒーショップや画廊、アンティークの店、レコード店、楽器店などが多くあって、町の図書館もここにあった。菜摘はベーカリーで朝食をとった後、図書館で勉強し、飽きると、公園を散策し、画廊を覗いたりした。コーヒーショップのカウンターにいるおじさんや、二人乗りのベビーカーに双子を乗せて公園で日光浴している若いお母さんとも顔なじみになった。中でも黒いラブラドル・レトリーバーを連れたおじいさんとは、顔が会えば必ず言葉をかわすようになった。数日後、電話をかけてきた亜紀に、菜摘がそのことを話すと、亜紀は、へえ、と驚いたような声を出した。引っ込み思案な菜摘がよく知らない人間とうちとけて話すことなどめったにないと知っていたからだろう。
「ここ、いいとこね。勇気出してここに来て本当によかったって思う」
亜紀に感謝する、と菜摘は言った。何かでお礼しなくちゃね、と。
「お礼なんていいけど…。何事もない? 良く眠れる?」
亜紀の声はなぜか心配そうだった。亜紀が口をきいた仕事だし、トンプソン夫人は亜紀の恩師だから、不安なのかもしれない。
「大丈夫。うまくいってる」
菜摘は亜紀を安心させようと、事細かに説明した。木曜日には菜摘が図書館に行っている間に掃除婦が来て、家中の絨毯に掃除機をかけ、キッチンと浴室を磨いたようにきれいにしていった。居間のテーブルなど、うっかり触って指紋をつけたら怒られそうだ。土曜日の朝に来た庭師は、芝刈りをして、雑草を抜き、ポーチとドライヴウエイの枯葉を掃いていった。庭の花壇にはスプリンクラーが設置してあって自動的に水をやるし、実際、菜摘のやることは家の中のハウスプラントと蘭に水をやることぐらいなのだ。
「夜はちゃんと眠れる?」
「うん。ここ、静かよ。大学の寮だと、深夜になると窓閉めてても車の音が聞こえたけど、ここじゃしーんとしてる。騒音っていったら、オウムがぎゃあぎゃあいうぐらい」
「オウム?」
「うん。夜中にふっと目が覚めると、オウムが騒いでるの。ロングビーチでは、ペットが逃げて野生化したオウムがいっぱいいるって聞いたけど、ここにもいるのかな」
「さあ、聞いたことないけど」
亜紀の声は困惑の響きを帯びていた。
「じゃ、他の鳥かもしれない」
でも、あれはオウムだ、と菜摘は思った。日本にいた時、ペットショップでバイトしたことがある。そこにいたオカメインコや黄帽子インコの騒ぐ声にそっくりだった。今度、トンプソン夫人にメールを出す時に聞いてみよう。
だが、その週末にトンプソン夫人に報告のメールを出した時には、菜摘はそんなことは忘れていた。
それは、突然に起こった。
菜摘は車でスーパーマーケットに買出しに行く途中だった。いつも曲がる通りをうっかり行き過ぎてしまい、Uターンできるところを探してそのまま走り続けた。五分も走っただろうか。そのうち、両側のガソリンスタンドや商店はまばらになり、個人住宅やタウンハウスに変わっていった。交通量もぐっと少なくなって、菜摘の前後を走っていた車もいなくなってしまった。どんどん知らない所に入りこんでいくようで、菜摘が焦り始めた時、ふいに、奇妙な感覚が菜摘を襲った。
この通り、よく知っている。
このまま行くと信号があって道は二手に分かれる。左は住宅街に入る。右を行くと、カレッジの寮の脇を通って、大きな公園に出るはずだ。
信号があった。
菜摘は右手の道に入った。シカモアの並木道を走ると、三階建ての建物が見えてきた。カレッジの寮だ。その後ろに大きな緑地がある。公園だった。
菜摘は公園の駐車場に車を停めた。
駐車場のすぐ脇に、薄緑のネットが張られたテニスコートがあって、視界をさえぎっている。だが、菜摘はそのコートの向こうに何があるのか知っていた。
コートをまわりこんだ先には、子供用の浅いプールがある。その先は芝生になっていて、所々、日陰を作るように白樺の木が植えられている。その先にはさらに広い草地があるはず……。
菜摘は車を降りて、柔らかな草を踏みながら歩いていった。
テニスコートの先にプールはなかった。芝生もない。大きな白樺の林になっていて、ベンチやテーブル、バーベキューグリルが設置されたピクニックエリアになっている。
菜摘は首をかしげた。憶えているのと違う。
だが、白樺の林を抜けた先には、記憶にあるとおりのなだらかな草地が広がっていた。
菜摘は呆然として、夏の日の光を受けて輝く無人の草地を見渡した。
ここ、知っている……。
ゆるやかな起伏のある草地、遠くに見える住宅の屋根、吹き渡ってくる風が、草の葉を翻してさざなみのように揺れる……たしかに見覚えがある。
だが、気のせいだ。何かと混同しているに違いない。だって、わたしはここに来たのは初めてなのだから。
菜摘はそう決めて、車に戻ろうとした。
白樺の林の中に、銅像が立っていた。さっきは気がつかなかったが、花籠を下げた三人の少女が腕を組んで歩いている像だ。台座に嵌め込まれた金属板には、「春の祭り」とある。
突然、菜摘は思った。
これは、まちがっている。
ここには仔馬を連れた少年の銅像があるべきだ。
菜摘の記憶ではそうなっている。
だが、どうして?
わたしは一度もここへ来たことはないのに!
ちらちらする木漏れ日でまだらになった林の中に、菜摘は立ちすくんだ。一人でいることが急に怖くなった。ざっと風が吹き過ぎて、白樺の枝を揺らし、足元の枯葉を巻き上げ、小さなつむじ風のように菜摘の身体を揺らした。
菜摘は急いで車に引き返し、スーパーへは寄らずにそのまま家に戻った。
翌朝、菜摘はカレッジ近くの公園で、ラミレス老人に行き会った。老人はいつも通り、犬のシャドウを連れて散歩中だった。
「お早う、お嬢さん。いい天気じゃないかね?」
老人は晴れ渡った夏空を示しながら言った。
菜摘はお早うございます、と挨拶しながら、腰をかがめてシャドウの頭を撫でた。シャドウは真っ黒なラブラドル・レトリーバーで、金色の目で物憂そうに菜摘を見上げ、二、三度、お愛想に尻尾を振った。
老人は笑った。
「シャドウのやつ、年食ってすっかり怠け者になった。昔は散歩に連れ出すとそこらじゅう、跳ね回ったもんだがな」
「シャドウはいくつなんですか?」
「十二歳だな。人間の年にすると七十歳くらいだそうだ。わしとおんなじジジイだ」
老人が石のベンチに腰を下ろすと、シャドウはその足元に伏せて、長く伸ばした前足にあごを載せた。日向ぼっこするつもりらしい。
「お嬢さんも、ここへ掛けないかね?」
それじゃ、少しだけ、と菜摘は老人の隣にすわった。寝不足のせいで、頭の奥がぼうとしている。昨夜もうるさくオウムが騒ぎ、菜摘は夜中に目が覚めてしまったのだ。朝の光が目に突き刺さるような気がして、菜摘は目を片手で押さえた。
老人が何か言っている。
菜摘ははっとした。
「ごめんなさい。聞き取れませんでした。もう一度言っていただけますか?」
「この町には慣れたかね? と聞いたんだよ」
菜摘は無理に笑顔を作った。
「ええ。昨日は、初めての公園に行ってきました、と言うか、道を間違えちゃったんですけど」
菜摘がカレッジの寮の裏手にある公園の話をすると、老人はよく知っていた。
「オルテガ・グリーンだ。テニスコートがあったろう?」
「ええ」
「昔はあそこで夏になると野外コンサートや映画鑑賞会なんかをやったんだよ。町議会の建物がこっちへ移ってからはこっちのセントラル・パークでやるようになって、今はすっかりさびれちまった。昔は子供用のプールなんかもあって、イースターのエッグハントやら、ハロウイーンのコスチュームコンテストやらで賑やかだったんだが」
「あの、ピクニックエリアに女の子の銅像がたってますよね?」
「ああ、立ってるな。あれは、ここのカレッジ出身のえらい彫刻家の作品だそうだよ。あれが立った時には、税金の無駄遣いじゃないかって言われたもんだ。わしはそんなに悪い銅像でもないと思うが、どう思うかね?」
「いいと思いますけど…あの、あれ、ずっとあそこにあるんですか?」
老人は変な顔をした。
「ずっとあるよ。あれが立った時、うちの息子はまだ小さかったから……一九七五年頃じゃなかったかな」
ラミレス老人はヘイヴンズ・パークで生まれて育ったと言った。
最初にここへやって来たのは老人の祖父母で第一次大戦のすぐ後だったという。その頃はこの辺一帯、オレンジとレモンの果樹園しかなかった。老人の祖父母も果樹園で働くためにメキシコから移ってきたのだと言う。夫婦はオレンジの木の世話をしながら三人の子供を育てあげた。二人は他州へ移ったが、ラミレス老人の父は幼馴染と結婚し、クライスラーのディーラーになってここに落ち着いた。ヘイヴンズ・パークの最初の代理店だったという。今じゃ日本車に押されて見る影もないがね、と老人は残念そうに付け加えた。昔はアメリカ車は鳴らしたもんだったのさ。カレッジが出来たのは一九六四年で、老人はその一期生だった。専攻は、現代アメリカ文学。ホーソンやマーク・トウエインを読み、なかでもポーがお気に入りだったらしい。卒業後はこの町の高校で英語を教えていた。老人はしばらく昔話を続けてから、付け加えるように言った。
「今、思い出したんだが、オルテガ・グリーンの銅像が盗まれたことがあった。でも、前の銅像だ。男の子とポニーの像で、ある朝、忽然と消えちまってた。夜のうちに誰かが台座からはずして持っていっちまったんだな。寮の学生のいたずらじゃないかと疑われて、学生たちは迷惑しとった。今の銅像はその後に立ったんだよ」
菜摘は頭の芯がしびれたようになった。
少年と仔馬の銅像はあったのだ。
でも、何十年も前に盗まれてしまった。
菜摘の生まれるずっと前に。
老人はふと、菜摘の顔を見て、どうしたね? と聞いた。
「気分でも悪いかね?」
菜摘は両手で顔をこすって、愛想笑いを浮かべた。知らないうちに、額に汗をかいていた。
「大丈夫です。少し寝不足で。オウムがうるさくて、夜、目がさめちゃうんです」
「オウムを飼ってるのかね?」
いいえ、と菜摘は野生のオウムが夜中に騒ぐ話をした。老人は首をかしげた。
「ヘイヴンズ・パークに野生のオウムがいたかな? お嬢さんがハウスシッターしてる家はどの辺にあるのかね?」
菜摘が通りの名前を言うと、老人の表情が険しくなった。
「それは山に近い、袋小路になっている通りだね? で、その家は突き当たりから何番目の家かね?」
「二番目ですけど」
「二階建てで、北向きの大きな家かね? エンジェルス・トランペットが前庭に植わっている」
菜摘は驚いた。
「そうです。トンプソン夫妻をご存知なんですか?」
老人は、いや、知らない、と言った。それきり、口をへの字に曲げたまま、黙りこくっている。
「あの、わたし、そろそろ…」
菜摘が立ち上がると、シャドウが耳をぴくりと動かして頭をもたげた。
お嬢さん、と老人が声をかけた。
はい、と菜摘が立ち止ると、老人は、気をつけなさいよ、と言った。菜摘は、道路を横切る間、シャドウの黄色い目がずっと追いかけてくるのを感じていた。
菜摘は注文をまちがえた、グラスを割った、客の頼みを忘れ、お釣りをまちがえ、まちがったテーブルに料理を運んだ。とうとう、オーナーが菜摘をキッチンに呼んで、今夜はどうかしたのか? と聞いた。具合が悪いなら休んでもいいよ、顔色が良くない。
菜摘は赤くなってあやまるしかなかった。店を出る時に、亜紀が、イン&アウトで待ってて、とささやいた。
イン&アウトは人気のあるハンバーバージョイントだ。赤と白の陽気なインテリア、タイル張りの床、眩しいほど明るい照明、壁にかかった六十年代風のイラスト、プラスチックの皿とカップ。すべてが明るく清潔で合理的だ。フレンチフライの匂いが漂う店内は、混んでいて、テーブルの家族連れが立ち上がると、すぐにティーンの群れが占領した。近くの映画館から流れてきたらしい。今週封切の映画の感想を元気よくしゃべっている。
菜摘はどうにか隅に空いた二人がけのテーブルを見つけて腰をおろした。食欲はまったく無かったので、コークを飲みながら亜紀を待った。
「一体、どうしたっていうのよ」
亜紀はテーブルの向かいにすわると、ダブルダブルにかぶりついた。もう一つを菜摘の方におしやる。
「おごりよ」
「わたしはいい。おなか空いてないの」
亜紀は旺盛な食欲を見せてハンバーガーを食べ続け、菜摘は氷が溶けて水っぽくなったコークを飲んでいた。亜紀が、菜摘の分のバーガーも平らげ、指についたソースをナプキンでぬぐいながら、言葉を発したのはそれから五分もたってからだろう。
「何かあったの?」
菜摘は黙っていた。
「まだ、オウムがうるさいの?」
菜摘は黙っていた。亜紀はため息をついた。
「約束したよね。逃げ出す前にわたしに相談するって」
「逃げ出すなんて…。ただ、どう考えていいのかわからなくて」
菜摘はぼそぼそと話し出した。初めはつっかえながらだったが、そのうち、勢いに乗って一気に話してしまった。
一度も行ったことがないはずなのになぜか見覚えがある公園のこと、何十年も前に盗まれた銅像のこと、夜中に騒ぐオウムのせいで寝不足なこと。
本当は、誰かに話したくて、相談したくてしょうがなかったのだ。ただ、信じてもらえないのじゃないかと怖かった。頭がどうかしてしまったのじゃないかと、そう思われてもしかたがない。自分自身、どうかしてしまったのじゃないかと思っていたのだから。
もし、亜紀が笑い飛ばしたら、それとも菜摘の神経を疑うようなことを言い出したら、菜摘は泣き出してしまったかもしれない。
亜紀は笑わなかった。真面目に菜摘の話を聞き、それはデジャヴだ、と言った。
「デジャヴ…」
「フランス語。『見たことがある』っていう意味。現在進行形のある経験とか出来事を、過去に同じことが起こったと強く感じること。菜摘の、初めて通る道路、初めて見る公園を確かに前に見たことがあるように感じるというのは典型的なデジャヴだわ。特別に珍しい現象じゃないのよ」
亜紀はデジャヴの説明を始めた。
「デジャヴの原因はいろいろあると言われてるけど、要するに記憶のいたずらなの。よくあるのが、今現在あることが起きている、脳がそれと認識して記憶する。この二つの間にわずかなずれが生じると、写真の二重写しみたいに、認識した時にはもうその記憶があることになってしまうから、結果としてデジャヴになる。もう一つは、一度も見たことがない、と本人は固く思いこんでるけど、本当は過去に見たことがあるから記憶に残っている場合」
亜紀は、あるアメリカ人の女性が友人と旅行中に、ある小さな町を通った話をした。その町を見るのは初めてのはずなのに、なぜか見覚えがある気がする。教会の塔や学校の建物もよく知っている気がする。飲み物を買おうとドラッグストアを探した時、彼女は運転している友人に道案内をして難なく店を見つけた。あまり不思議だったので、帰ってから彼女は両親にこの話をした。その結果、まだ彼女が母親に抱かれていた幼児だった頃、一度だけ、この町を車で通ったことがあったとわかった。車の窓から見える風景をなぜか彼女は記憶し、そして、忘れてしまった。
「嘘みたいな話でしょ。でも、人間の記憶って不思議なものなのよ。本で読んだり、テレビで見たりしたことを実際に体験したことと錯覚して憶えてるのもよくある。菜摘は、わたしがオルテガ・グリーンの話をしているのを聞いたことがあるんじゃないかな」
菜摘は首をかしげた。亜紀からあの公園の話などきいたことがあっただろうか? そう言うと、亜紀は、二人とも忘れてるのかもしれない、と言った。
「わたしが他の人に話してるのを、菜摘がたまたま耳にしたってこともあるでしょ。意識して聴いている必要はないのよ」
「でも、銅像は?」
どうやら気がふれたわけではないらしいが、やっぱり釈然としなかった。亜紀が何十年も前に盗まれた銅像のことを知っていたとは思えない。
「亜紀だって、仔馬と少年の銅像なんか見たことないはずよ」
「その銅像の話は初耳よ。でもね、記憶って正確なコピーというより、再構成なの。思い出すたびに、細部が少しづつ変わっていく。ゴッホの「ひまわり」とか、ムンクの「叫び」とか画家が同じモチーフを使って何枚も絵を描くことがあるでしょ。あれに似てる。多分、菜摘はオルテガ・グリーンに似た林を見たことがあるんじゃないかな。そこには少年と仔馬の銅像があったから、組み合わせちゃったのよ」
菜摘にはなんとも言えなかった。そう言われれば、そうかもしれないと思えてくる。そもそも、あの公園で感じた感覚「デジャヴ」は、なんとも不可解なものだった。自分でも信じられないと思っているのだから、亜紀に分析されるとますますおぼつかなくなってくる。砂の山が少しずつ崩れていくようだ。目覚めた時にははっきりしていた夢の中の情景が、時間がたつにつれて、細部がわからなくなっていくのとよく似ていた。
「デジャヴの解釈は他にもいろいろあるの。未来予知の一種だとか。テレパシーで他の人の記憶を受信したとか。そうなるともう、オカルトとか超能力の領域に入ってくる」
菜摘は首を振った。自分がなんであれ、超能力者でないことだけは、はっきり自信を持っている。
「あとは……ある種の薬物を服用するとデジャヴが起こると言われてるけど、菜摘、ドラッグはやってないよね?」
「当たり前じゃない」
菜摘はむっとして言った。
安心した、と亜紀は初めて笑顔を見せた。
「亜紀はデジャヴを経験したことある?」
「映画を見ていて、あれ、このシーン、見たことあるって思ったことは何度もある。新作だから以前に見たはずないのにね。きっと、似たようなシーンを見たことがあるんだな。最近のハリウッド映画のオリジナリティの無さときたら……リメイク、リメイクの連続だものねえ」
菜摘の経験したデジャヴはそんなものではない気がしたが、とりあえず、少しは安心した。
「菜摘、デジャヴが気になるなら、わたしの知り合いでそういうことに詳しい人がいるの。今の話も彼からの受け売りなんだけどね。その人に話しておこうか? わたしよりもっとよく説明してくれると思う」
「うん、ありがと」
「それと、オウムのことだけど、オウムじゃなくって、コヨーテが騒いでるんじゃないの?」
「コヨーテ?」
「菜摘はずっとLAの町中に住んでたから知らないでしょうけど、あの辺は山が近いでしょ。緑も多いから野生のコヨーテが住んでるの。外見はやせこけたシェパード犬によく似てる。うさぎとかリスとかねずみとかの小動物を狩って生きてて、たまにペットの小型犬とか猫を襲ったりもする。夜行性で夜に狩りをして、獲物を捕まえた時には興奮してギャアギャアと騒ぎ立てるのがよく聞こえるわよ。聞いたことない?」
「知らない」
「多分、コヨーテだと思う。人を襲ったりはしないから、無視してればいいのよ」
菜摘はうなずいた。なんとなく、うまく丸めこまれたような気がしないでもない。亜紀が、なんとかして菜摘をなだめて、ハウスシッターを続けさせようとしているような気がした。菜摘はハウスシッターの仕事を投げ出すつもりなどなかったのだが、亜紀は心配したのかもしれない。ここで菜摘が「逃げ出す」ことになったら、紹介者の亜紀の面目が丸つぶれになるのだろう。
「アマンダにはメール出してる?」
果たして亜紀はそう聞いてきた。
「うん」
「こういうことも報告してるの?」
「ううん。家の管理とは関係ないことだから」
亜紀はほっとしたように見えた。
「その方がいいわね。心配させるだけだから」
「あのね、亜紀。あの家、何かあるの?」
亜紀はぎょっとしたように見えた。表情が一瞬こわばり、言葉が出てくるまでに不自然な間があった。
「何かって何?」
「史跡とか……何かで有名な家なの?」
菜摘は、ラミレス老人の話をした。老人は、トンプソン教授夫妻は知らないのに、家の所在は知っていたように思えた。
「古い家ってだけで、別に有名な家じゃないと思うけど」
亜紀はひきつったような笑いを浮かべながら言った。
「わたしは知らないわ」
「そう」
「何かあったら、わたしのとこに電話しなさいよ。すぐに飛んでいくから」
亜紀の顔は真剣だった。やっぱり何か変だ、と菜摘は思った。
その夜。
まだ肌寒い春の日。雨雲が低く垂れ込めた空模様を気にしながら、数人の大人たちがゆるやかな起伏のある草地を歩き回っている。彼らの歩いた後には、赤や青、黄色の色鮮やかなプラスチックの卵が緑の草の間から覗いている。幼稚園ぐらいの子供達が、横一列に並んで、歩き回る大人たちの様子を熱心に見ている。子供達は皆、小さなバスケットを手にしている。両親や年上のきょうだい、祖父母が少し後ろで話しながら子供達の様子を見守っている。
わかった、これはイースターのエッグハントの情景だ。
やがて、大人たちが草地から退いた。甲高い笛の音を合図に、子供達は歓声を上げて、草地に飛び出し、せっせと卵を拾い始めた。
子供達はみんなオウムをお供に連れている。赤や黄、緑や青の鮮やかな羽のオウムがギャア、ギャアとわめきながら、子供達と一緒になって卵を拾っている。強いくちばしでくわえるものもいれば、伸縮自在の鉤爪のような足で器用に掴むものもいる。
今日の一等賞である金色の卵はまだ、誰にも見つかっていない。背の高い雑草の陰に、ひっそりと隠れるように置かれている。
菜摘は、シャーロットに金色の卵を取らせたかった。シャーロットの赤いリボンを結んだポニーテールが、はるか向こうで、ぴょこぴょこと動いている。シャーロット、シャーロット、と菜摘は呼んだ。ようやくシャーロットがこちらを向いた。だが、菜摘が指で金色の卵が隠れている雑草を指さす前に、巨大な灰色のオウムがギャア、ギャアと鳴き叫びながら空中をまっしぐらに突進してきた……
菜摘は悲鳴をあげて飛び起きた。
部屋の中は真っ暗だ。
菜摘は大きく息を吐いて、ベッドに仰向けに倒れた。心臓がまだどきどきしている。
変な夢だった。途中までは楽しかったのに、最後には悪夢に変わった。夢に文句をつけてもしょうがないのだが。
菜摘は枕元の時計を見た。午前三時過ぎ。まだ外は暗い。
寝返りをうって、再び眠りこもうとした時、ギャア、ギャアと鳴く声が聞こえた。菜摘は起き上がって耳を澄ませた。
亜紀のいう、コヨーテだろうか?
トンプソン夫人は、主寝室を使ってくれて構わない、と言ったが、菜摘はこじんまりした客用寝室の方が好きだった。北向きに窓があり、表の通りと前庭が見渡せる。
街灯の明かりがぼんやりと照らす無人の通りは静かだった。痩せたシェパードに似た犬が、獲物を求めて走り回っている姿はなかった。
菜摘はベッドに戻ろうとして、ふと、気がついた。
前庭の情景がどこかおかしい。
芝生の中央にあるはずのエンジェルス・トランペットの大株が見えない。門も、玄関までの小道もちゃんと見えるのに、エンジェルス・トランペットだけが無い。ただ、緑の芝生が広がっているだけだ。
菜摘はきつく目を閉じた。
再び目を開けてみると、エンジェルス・トランペットはちゃんと前庭の芝生の真ん中に立っていて、ラッパ型の花がゆらゆらと夜風に吹かれていた。
わたしは夢を見ていたのだ、さっきは、まだ、ちゃんと目が醒めていなかったのだ。
菜摘は激しく鼓動する心臓をなだめようと、自分に言い聞かせてベッドに戻った。
眠りはなかなかやってこなかった。
目を閉じると、一面、緑の芝生におおわれた前庭の情景が浮かんでくる。
そして、それでいいのだという気がする。
この家の前庭にはエンジェルス・トランペットは植わっていなかった。その方が正しいのだと、菜摘の記憶が主張するのだ。
なぜかはわからないが。
「デジャヴ?」
亜紀の話を聞いたカイルは露骨に不満そうな顔をした。
「なんでデジャヴなんだ? 幽霊が出るはずなんだ」
「幽霊の出欠にまで責任持てません」
亜紀が言うと、カイルは難しい顔でうなった。
「菜摘は気が小さいから、すっかり怯えちゃってた」
菜摘の目は寝不足で赤く充血し、目の下には黒いくまが出ていた。この上、幽霊でも出たらどうなることか。
「ね、この計画、中止しない?」
そうすれば、菜摘に全部話してしまえる。それで菜摘があの家を出るというなら、自分が代わりにシッターに入ればいい。だが、カイルには、やめる気は全くなかった。
「君がシッターに入ったって、何もおこらないよ」
「なぜよ?」
「素質ゼロだからさ。君は何度もあの家に泊まったことあるじゃないか。オウムの鳴き声を聞いたことが一度でもあるかい?」
亜紀は黙った。自慢じゃないが、怪異めいた出来事に出会ったことはこの三十年間に一度も無い。みんながよく話している、金縛りにさえ、なったことがなかった。
別に君が悪いってわけじゃないよ、とカイルは弁解するように言った。
「ただ、向かないってだけだ。それに、前も言ったように、君がシッターじゃ証人としての客観性に欠けるんだ。君は内輪の事情を知っている。いわば、ロナルド・デフォー・ジュニアの弁護士の立場なんだよ」
ロナルド・デフォー・ジュニアは、一九七四年十一月のある夜、アミティヴィルの自宅で悪魔の声を聞いて、眠っている両親と弟二人、妹二人の一家六人全員を、ライフル銃で撃ち殺した。事件の一年後、ルッツ夫妻がデフォー家を買い、引っ越してきた。「アミティヴィル・ホラー」の出版にあたっては、ロナルド・デフォー・ジュニアの弁護士であるウィリアム・ウェーバーの協力があったとされる。ウェーバーは後に、あの本を作り上げるには、「大量のワインと想像力」が必要だったと雑誌のインタビューで語っている。フィクションであると認めたも同然だ。
「菜摘には、あの家で起きた事件の話はしてないよな?」
「してない。先入観を持たせちゃいけないって、あなたが言ったのよ」
うん、とカイルは満足そうに言って、両手をこすり合わせた。
「それなのに、彼女は深夜、オウムの鳴き声を聞いている。素晴らしいじゃないか」
「コヨーテだってごまかしたけど、菜摘だって馬鹿じゃないんだから、そのうち気がつくわよ。公園で出会ったおじいさんは知ってるみたいだったし」
「菜摘が自分で気がつく分には構わないんだ。それも、ストーリーのうちなんだから」
最低、と亜紀はつぶやいた。菜摘を騙してる自分も含めて。
「わたし達、菜摘をモルモットに利用してるみたい」
「ストーリーのためだよ。これはグレイト・ストーリーになるぞ。映画にしたら、菜摘にもちゃんとお礼はする。誰が損するっていうんだ?」
「そううまくいくといいけど」
「いくさ」
「菜摘が怖がって逃げ出したらどうする?」
「いいよ。それもハプニングだ」
「明日にでも逃げ出すかも」
亜紀は意地悪く言った。
「それは困る。彼女、そんなに参ってるのか?」
「相当よ」
カイルは考え込んだ。
「予定より早いけど、専門家を送り込んだ方がいいかもしれないな。菜摘にうまく説明してくれるだろう。それまで、なんとかなだめておいてくれよ」
「できるだけやってみるけどね」
亜紀が言うと、やってみる、じゃ困るんだ、とカイルは言った。
「そうだ。明日、君と僕であの家に行ってみよう。僕ももう一度、あの家を見ておきたいし。何か口実を見つけてくれないか?」
猫のモリスが膝の上に這い上がってきて、ごろごろと喉を鳴らし始めた。
第六章 訪問者
トンプソン夫人は、養子にした蘭をことのほかかわいがっているらしく、水のやり方や温度の管理をこまごまとメモ書きにして残していった。ひと鉢、ひと鉢にプラスチックの名札が立ててあって、品種の名前が書いてある。カトレア、デンドロビューム、シンビジューム。菜摘は蘭はよく知らないが、園芸は嫌いではない。菜摘の家はマンションで庭が持てなかったが、郊外に住む伯母の家には小さな庭があった。菜摘は伯母の家に行くたびに、草抜きや水遣りを手伝った。植物は大事にしてやれば、必ずこたえてくれると、伯母は言った。何かの本で読んだことがあるんだけれど、音楽を聞かせるとよく育つ、というのよ。それがおかしいの。植物にも好みがあるらしくて、温室でクラシックを流してやると機嫌よく、ぐんぐん成長して大きな花を咲かせるんだけど、へヴィ・メタルを聞かせると、縮こまって花も小さいんですって。
菜摘は二階の空き部屋で古いラジオを見つけて、サンルームに持ち込んだ。重い上に、ダイヤルを回して波長を合わせなければならない旧式なラジオだったが、電池を入れ替えてやると、ちゃんと動いた。菜摘は蘭の手入れをする時には軽いミュージックを流すことにした。デンドロビュームの音楽の好みはわからないが、今のところ、文句はなさそうだ。菜摘と一緒に機嫌よく「酒とバラの日々」や「煙が目にしみる」を聞いている。
玄関のベルが鳴った時、菜摘は「ビギン・ザ・ビギン」を聞きながら、蘭の鉢に肥料の粒を置いているところだった。
ドアを開けると、紙袋を下げた亜紀が微笑しながら立っていた。
「こんにちわ、菜摘。そこまで来る用事があったから寄ってみたの」
その後ろには若い男が立っていて、ハーイと白い歯を見せた。
「紹介するわね。カイルよ。わたしの夫」
菜摘はもごもごと挨拶の言葉をつぶやきながら、差し出された手を握った。亜紀から色々話は聞いていたが、会うのは初めてだ。浅黒い肌のしまった身体つきで、ジーンズが良く似合ってる。亜紀と同い年のはずだが、ずっと若く見えた。
「これね、日本から送ってきたのよ。この辺には日本食品の店はないでしょ? たくさんあるから、おすそ分け」
渡された紙袋はずっしりと重い。中を見ると、インスタントラーメン、真空パックされた餅、レトルトのカレーと白米、冷や麦とそうめん、缶詰の小豆、みつ豆、ようかん、緑茶のパックとせんべいが入っていた。
「こんなにたくさん…」
「たくさん届いたのよ。わたし一人じゃ食べきれないから手伝って。カイルは日本食はあまり得意じゃないの」
「どうもありがとう。あの、中に入って。今、コーヒー淹れるから」
菜摘は二人を居間へ通した。玄関先に立たせておくわけにもいかないじゃないか。菜摘は紙袋をキッチンへ置くと、コーヒーメーカーをセットした。
「どうですか、ヘイヴンズ・パークは気に入りましたか?」
カイルに聞かれて、菜摘は小さな声で、ええ、と答えた。ただの儀礼的な質問だとわかっていても、それに亜紀の夫だと紹介されても、やはり初対面の人と話すのは苦手だ。
「カイルもこの町、良く知ってるのよ。学生時代、この町でアパート借りてたから」
亜紀が助け船を出すように言った。そうだった、と菜摘は思い出した。亜紀とカイルはここのカレッジの学生で、ここで知り合ったのだ。
「ここは結構、歴史のある町なんですよ。調べてみると、独立前、スペインの植民地時代からの修道院が町の中心だったことがわかるんです。修道僧たちがここに住んでいたアメリカ先住民と一緒になって果樹栽培を始めたことがそもそもの始まりだったんです」
カイルが説明を加えた。
「そうなんですか」
菜摘はつぶやくように言った。
「カイルにね、あんたがこの町に興味持ってるって、話したのよ。前に来たことがあるような気がするって」
「それは…」
菜摘は言いかけて絶句した。気がするだけで、初めて来たことは分かりきってる。菜摘は留学するまで一度も日本を離れたことはないのだから。菜摘は亜紀にデジャヴの話をしたことを後悔した。
「僕はこの町の郷土史愛好家のグループを知ってるんですよ。良かったら、紹介しましょうか? 色々、興味深い話が聞けますよ。せっかくこの町にいらっしゃるんだから」
「そうしなさいよ、菜摘。専門家から話を聞けば、少し安心できるんじゃない? それに、あんた、来学期は、アメリカ史の単位をとるって言ってたじゃないの。レポートの資料ぐらい集めておけるわよ」
それもいいかもしれない、と菜摘は思った。亜紀は菜摘の話を聞いて、心配してくれたのだ。さっき、お節介な、と迷惑に思ったことを後ろめたく思った。
「そうね。お願いしようかしら」
菜摘が言うと、亜紀はほっとしたように、それがいいわよ、と言った。コーヒーができて、三人はようかんを食べながら当たり障りのない話をした。
ふいに、カイルが立ち上がった。
「すみません、ちょっとトイレを拝借」
あ、と菜摘が場所を教えようとすると、カイルは手を上げて「知ってます」と言って、部屋を出ていった。
「カイルはあたしと一緒に何度かここ、来てるの」と亜紀が言って、菜摘は納得した。そうだった、ここはなんでも夫婦一組で行動する所だった。
「彼に話したのね、デジャヴのこと…」
「悪かった? でも、あんた、気にしてたみたいだから」
「ううん。ちょっとびっくりしただけ。あ、コーヒーのお代わりは?」
二人はしばらくバイト先や、菜摘の学校の話などの世間話をしていた。
ふと、菜摘は気がついた。カイルが、トイレに行ったきり戻ってきていない。
「カイルは?」
「随分長いトイレね」
亜紀が立ち上がったので、菜摘も後からついていった。キッチンわきにあるトイレのドアは開いていた。
「あら、いやだ。どこ行ったのかしら。カイル!」
亜紀が大声をあげると、二階でばたん、とドアの閉まる音がして、カイルが下りてきた。
「何してたの?」
亜紀が咎めるように言うと、カイルは、ごめんよ、と少しも悪いと思っていない口調で言った。
「オウムの鳴き声がしたから、ちょっと覗いて見ただけだよ」
「オウム?」
「二階でギャア、ギャアって声がしたから、オウムがいるのかなと思ったんだ。でも何もいない。空っぽの部屋だった」
オウム……
菜摘は冷たい風がすうっと首筋を撫でたような気がした。
「わたしたちには何も聞こえなかったわよ。何か聞こえた?」
亜紀に言われて、菜摘は首を振った。
「ほらね。あなたの空耳じゃないの?」
亜紀が言って、腕時計を見た。
「大変、そろそろ帰るわ。菜摘、またね」
カイルも笑顔で言った。
「コーヒー、ごちそう様。郷土史研究グループには、話をしてみますよ」
亜紀たちが帰った後、菜摘は二階の部屋をひとつひとつ点検した。別に何もおかしいところはない。空き部屋にも入ってあたりを見回したが、段ボール箱や使ってない家具がごちゃごちゃ置いてあるだけの殺風景な部屋だ。掃除婦はこの部屋もきちんと掃除機をかけていくから、埃はたまっていないのだが、それでも、使われていない部屋には、寒々とした空気が漂っている。
この部屋の窓は、菜摘の使っている客用寝室とは違って南のバックヤードに面している。眼下には緑の芝生と植え込み、日の光を受けて青い宝石のように輝くプール、白い大理石造りのジャクジーが見える。ちゃんと家具を入れれば、きっと明るい、気持ちのいい部屋になるはずだ。なぜ、この部屋を空き部屋にしておくのだろう、と初めて不思議に思った。
その翌々日の夕方、菜摘がそろそろ夕食の支度をしようと考えていると、玄関のベルが鳴った。ドアを開けると、若い、といっても多分、菜摘より二、三歳上ぐらいの男が、緊張した顔つきで立っていた。
ポロシャツに折り目のついた長ズボンをはいている。足元はスニーカー。肩からくたびれたショルダーバッグを下げ、手に書類を入れる大判の茶封筒を持っている。菜摘の顔を見ると、無理に作ったような気弱な笑顔を浮かべて、ハローと言った。
これは宗教の勧誘に違いない、と菜摘は身構えた。全身から、善良で勤勉なお節介焼きのオーラがにじみ出ている。
菜摘はことさらに冷たい事務的な声で、どなたですか、と訊ねた。
男の気弱そうな笑顔が大きくなった。
「『ヘイヴンズ・パークの歴史を守る会』から派遣されて来ました。ニコラス・ウイルソンといいます」
宗教ではないらしい。史跡保存団体の寄付金集めか何かだろうか。
菜摘はさらにガードを固めた。
「何か御用ですか?」
「河野菜摘さんですよね? ここの家のハウスシッターをされてる?」
「そうですけど」
菜摘はたじろいだ。なぜ、名前を知っているのだろう。菜摘がシッターをしているのを知っている人間は何人もいない。隣近所にはトンプソン夫人が引き合わせてくれたが、道で会えば挨拶を交わす程度でしかない。
「不思議な体験をされた、と聞いたんで話をうかがいに来たんですが。僕はデジャヴを専門に研究していまして」
あっと、菜摘は思った。カイルが、「郷土史研究グループに話してみる」と言っていたのをすっかり忘れていた。
しどろもどろになりながら、あわてて若い男を居間に通した。
「ごめんなさい、ミスター・ウイルソン。すっかり失礼をしてしまって……あの、カイルの知り合いの方ですか?」
「ニコラスと呼んでください。ミスター・ウイルソンなんて呼ばれると、僕の親父のことかと思います。僕も菜摘と呼んでいいですか?」
ニコラスはにこにこと笑って言った。色白のぽっちゃり型で、笑うとますます好人物に見える。カレッジの大学院で心理学を研究しながら、「歴史を守る会」のボランティアをしている、と言った。茶封筒から薄いパンフレットを取り出して、最近の活動の成果です、と言って差し出した。古い教会の写真が表紙で、そこに「歴史研究 オークリー教会の謎を探る 二〇一四年夏季号」とある。
「オークリー教会をご覧になったことは?」
「いいえ」
「それは残念だ。ヘイヴンズ・パークの教会の中でも最も古い、スペイン伝道時代からの由緒ある教会です。一九一四年に火事にあって、オリジナルの建物はもう、塀の一部しか残ってませんが、再建された教会には植民地統治時代のメダルや備品などが保存されてまして、非常に興味深いものですよ」
ニコラスはページをめくって、古い十字架やロザリオ、燭台や、ステンドグラスのかけらなどの写真を指し示して説明した。菜摘はカリフォルニアの歴史には詳しくない。ただ、失礼にならないように、はあ、はあ、と聞いていた。ニコラスはふと、気がついたように顔を上げた。
「すみません、つい、夢中になってしまって。これから二時間ぐらい、お時間頂いてお話をうかがってもよろしいでしょうか? もし、ご都合が悪いようなら、出直します」
自分の興味には熱中してしまうが、悪い人間ではないようだった。
大丈夫です、と菜摘が言うと、ニコラスはショルダーバッグから小型のテープレコーダーとマイクを取り出した。正確な記録のためです、と言われて、菜摘は録音を承諾した。では、と、ニコラスは、改まった口調で今日の日時、場所、インタビューの相手―菜摘―の名前を吹き込んだ後で言った。
「河野菜摘さん、あなたが体験されたデジャヴを話してください」
マイクを向けられて、菜摘は恐ろしく緊張した。喉に何かつかえたようで、うまく言葉が出てこなかった。何回か話し出そうと口を開いて、また閉じた。
ニコラスは録音を中止して、そんなに固くならないで、と言った。
「デジャヴは決して特殊な体験じゃないのです。ある統計によれば、調査人口の三分の二がなんらかのデジャヴを経験しています。怖がる必要はないんです。ゆっくり、落ち着いて話してください。菜摘さんのデジャヴはいつ起きたんですか?」
「一週間前、いえ、八日前の日曜日です」
「どこで起きたんですか?」
「マウンテン・ヴールバードです。スーパーへ買出しに行く途中でした。道を間違えてしまって」
ニコラスの質問に答えているうちに、言葉が滑らかに出るようになった。菜摘はオルテガ・グリーンのこと、見たことも無いのになぜか憶えている銅像のことを話した。さらに、夜中に聞こえるオウムの鳴き声、エッグハントの夢、その後で見た不思議な前庭のヴィジョンも付け加えて話した。いつの間にか、録音されていたが、そんなことは少しも気にならずに話し終えた。
ニコラスはテープレコーダーを脇に置いた。考え込むような顔で宙を見つめたまま、動かなくなった。ニコラスの視線は、菜摘を通り越してその先にある何かに向けられている。菜摘は振り返ってみた。菜摘の背後にある、ガラス戸の入った食器戸棚。その暗いガラス面にニコラスの白い顔が映っていた。二つの穴のように暗い目が、ガラスの奥から菜摘をじっと見返してくる。菜摘の背筋に戦慄がはしった。
時間にすれば、わずか数秒のことだったかもしれない。ふっと呪縛が解けたようにニコラスは身動きして、菜摘の方を見た。
「非常に興味深いお話でした。いくつか、質問をさせていただいてよろしいですか?」
何事もなかったように、ニコラスは言った。すっかり、愛想のいい好青年の顔に戻っている。菜摘は気を落ち着けようと努めた。
「ご出身はどちらですか?」
「東京です」
「ご家族は今、そちらに?」
「ええ」
「こちらへ来られたのはいつ?」
「四ヶ月前、今年の三月です」
「アメリカは初めてですか?」
「はい」
「ご家族の誰かが、以前にこちらへ来られたことは?」
「ないと思いますけど…」
「思う? あるかもしれない、ということですか?」
「いえ、ありません」
あったら何かの話が出ていたはずだ。
「ご友人の誰かからここの話を聞いたことは?」
「ヘイヴンズ・パークの、という意味なら、亜紀が話していたかもしれません」
「『どんどん亭』で一緒に働いている久保田亜紀さんですね?」
「はい」
「失礼ですが、生年月日を教えてください」
ニコラスはメモを取った。それから、茶封筒から十枚ほどの白黒の写真を取り出し、テーブルの上に並べた。すべて違う銅像の写真で、背景もまちまちだったが、モチーフは共通だった。仔馬と少年だ。
「オルテガ・グリーンにあった銅像がどれだか、わかりますか?」
菜摘は順番に写真を見て、一つを指さした。
十歳くらいの少年が、仔馬と向かい合って立っている。両手で持ったリンゴを馬の鼻面に押しつけている。背景は倉庫のように何もない白い壁だ。
ニコラスはその写真を取り上げてじっと眺めた。
「なぜ、これだと思われました?」
「わかりません。違うんですか?」
「いや、正しいから驚いてるんです。『仔馬と少年』と聞いただけで、この写真を選ぶ人はあまりいないんじゃないかな。普通は、こっちの、少年が仔馬に寄り添っている像とか、仔馬に乗っている像を選ぶ。この写真は公園に据えつけられる前にアトリエで撮られたもので、背景に公園の木立は写っていませんしね」
つまり、とニコラスは咳払いして言った。
「菜摘さんは、一九七二年にオルテガ・グリーンから盗まれてなくなってしまった銅像を正確に言い当てた、ということです」
「でも、わたし、その銅像を見たのは今が初めてです」
「初めてですか? 本当に?」
菜摘はわけのわからない混乱に襲われた。
初めて? 違う、わたしは憶えているのだ。木立の中に立っている少年と仔馬のブロンズ像。ちょっと膨らんだ少年の頬、さし出したリンゴの丸み、少年を見守る仔馬の優しいまなざし。風が緑の枝を揺するたびに、仔馬の背に光の粒が踊る。かなたの草原から射しこむ明るい光、子供たちの笑い声を運んでくるような……。
菜摘は熱っぽい額を押さえ、目を固く閉じてうつむいた。頭の中に暗黒が渦巻いている。天地左右がわからない。方向感覚が失われているのに、まわりの暗闇が回転しているのだけはわかる。頭が変になりそうだ。吐き気がする。
「これを…」
ひんやりと冷たい何かが指に触れた。濡れたタオルを受け取って額に押し当てる。すっと汗の引く感覚とともに、まともな世界が戻ってきた。
目を開くと、心配そうな顔のニコラスが覗きこんでいる。
「大丈夫ですか?」
菜摘はうなずいた。
「デジャヴ…」
そのようですね、とニコラスが言った。
「なぜ、こんなことが起こるんですか? わたしは本当に、本当に、その銅像を見たことはないのに」
なぜ、こんな目に会わなきゃいけないの、と言いたかった。
デジャヴの原因は諸説あって、まだ、はっきりしないところがあるのですが、とニコラスが言いかけた。
「知ってます。記憶の二重写しか、忘れていたか、薬物の作用か。亜紀が説明してくれました」
「そうです。しかし、それだけではありません」
「超能力ですか?」
菜摘は馬鹿にしたように言った。しかし、ニコラスは大真面目な顔で首をかしげた。
「超能力と言っていいのかわかりませんが、デジャヴは、生まれる前、つまり、前世の記憶だという説があります」
菜摘はぽかんとニコラスを見た。
「記憶の二重写し、忘れられていた記憶の突然の想起なども、デジャヴの原因になるかもしれません。しかし、前世の記憶としか考えられないデジャヴの例もあるのです。たとえば、一九二〇年代のことですが、ある英国の少年が、家族と共に英国本土近くのガーンジイ島を観光で訪れた際に、島の洞窟をひどく怖がったという話があります。少年は、自分は昔、洞窟の奥に囚人として閉じ込められたまま餓死したのだと訴えました。その時は誰も少年の話を本気にしなかったんですが、それから数年後、洞窟の一部が崩れて、少年が言ったまさにその場所から骸骨が一体、発見されました。もし、偶然に発見されることがなかったら、多分、永久に見つからなかったでしょう。これなど、前世の記憶としか説明のできないデジャヴです」
ニコラスは身を乗り出した。
「デジャヴを研究する意義は、まさにここにあるのです。もし、デジャヴが前世の記憶であることが証明されれば、リーインカーネーション、輪廻転生が証明されたことになります。死は終りではなく、肉体が滅びても、魂は存在し続けることになります。これはすごいことですよ。人類が二千年以上にわたって議論してきた問題に決着がつくんです。肉体と魂の二元論が証明される」
熱の入った講義は続いた。
「魂は存在するのか? 古来、ほとんどの宗教はイエス、と答えていますが、二十一世紀の科学は今のところ、魂の存在に否定的です。肉体は脳の支配を受けており、脳それ自体はたんぱく質の塊にすぎない。人間の思考、感情等、いわゆる精神活動のすべては脳内の化学反応と電気パルスによってもたらされる。肉体が滅べば脳もまた滅び、すべてが無に帰する。一元論です。しかし、多くの人々は、僕も含めて、科学の導き出したこの見解に納得していない。菜摘さんは、グレイト・ソウル・トライアルをご存知ですか?」
「いいえ」
「一九四十年代のことですが、アリゾナの山中に一人ぼっちで暮らしていた七十歳になる鉱夫がおりました。ジェイムズ・キッドというこの老人は、一九四九年の十一月のある朝、いつも通り小屋を出て行った後、二度と戻ってきませんでした。彼の運命はいまだに不明です。おそらく、当時、誰ひとりとして孤独な老人の運命など気にしたものはなかったのでしょう。キッドの名前がにわかに人々の口に上るようになったのは、一九六〇年代になって、老人が十七万ドルを越える株券と現金を町の貸金庫に残していたことが明らかになってからです。ジェイムズ・キッドは手書きの遺書を遺しており、それには、自分には妻子は無く、葬式の費用を引いた後のすべての財産は『人間の魂の存在を科学的に証明するための研究に使われるように』と書いてありました。いつの日にか、死に瀕した肉体から魂が離れるその瞬間を捉えた写真が撮影されると期待している、とも書いている。彼の意図は明白でした」
菜摘はいつの間にか興味を覚えていた。
「そんな遺書が有効なんですか?」
「困ったことに有効だったんです。一九六十年代の十七万ドルというのは、かなりの大金です。今の価値でいえば、一三〇万ドルを超えるでしょう。この事件が報道されると、世界中から自薦他薦の遺産相続人が名乗り出てきました。キッドの妻や子供、孫、親戚だと自称するやからも大勢出現しましたよ。アリゾナの裁判所はこの難問に頭を抱えました。『魂の存在を科学的に証明するための研究』とはなんでしょうか? そんな研究をしているのは誰でしょう? 心理学者? 哲学者? 宗教家? 医者? 生理学者? 心霊学者? 霊能者?」
菜摘はくすりと笑った。大勢のえらい学者や法律家が魂の存在についてかんかんがくがく大真面目で議論しているところを想像するとおかしい。ニコラスもにやにやしている。
「後世の我々にとっては笑える光景ですが、裁判を担当した判事は大変だったでしょう。この裁判はアリゾナ州都であるフェニックスで行われました。不死鳥の名を持つ町で魂の不滅を議論する、出来すぎじゃありませんか?」
「結局、誰が遺産を相続したんですか?」
「三分の二をアメリカ心霊学協会が、残りを別の心霊学研究団体が相続しました。残念なことに五十年たってもまだ、ジェイムズ・キッドが望んだようには魂の存在は証明されていませんがね。まあ、この二つの団体を責めるのは酷かもしれない。魂の存在は、人類始まって以来の謎だから、たかだが半世紀では時間が足りないでしょう」
話が少しずれてしまいましたが、とニコラスは言った。いえ、面白かったです、と菜摘は答えた。
「僕は二元論を支持しています。魂は存在する。アメリカ心霊学協会は、それを幽霊の存在を証明することで成し遂げようとしていますが、僕は反対だ。魂の存在を証明する一番いい方法は、リーインカーネーションを証明することだと考えています。ただ、リーインカーネーションは今まで、西洋社会ではあまり取り上げてこられなかった。なぜだかわかりますか?」
菜摘は首を振った。
「菜摘さんは仏教国からお出でになったから、輪廻転生にあまり抵抗がないかもしれませんが、キリスト教の影響の強いヨーロッパ及びアメリカでは、これは大変なことです。キリスト教は輪廻を認めていません。もちろん、魂の存在は認めていますが、死後、魂が別の人間または動物に転生するという発想はありません。死者の魂は最後の審判の日に、大天使ゲイブリエルのラッパを聞いて甦り、神のもとへ昇天する、といいます。一方、仏教は、魂は六道を輪廻して解脱を待つと説きます。僕は浅学にして仏教にはくわしくないのですが」
ニコラスはちょいと鼻の頭をかいた。
「しかし、キリスト教国でも、リーインカーネーションを信じる人々が少しずつ増えてきました。わが国のジョージ・S・パットン将軍は自分は繰り返し、軍人として生まれ変わってきたと信じていました。アレクサンダー大王の下でも、ナポレオン配下の兵士としても戦ったことがあると述べています。彼が一九四三年、シシリーを訪れた時、どうしても初めて訪れたという気がしなかったといいます。デジャヴですね。最近の例ではヴァージニア大学のスティーヴンソン教授の研究があります。教授は三歳未満の子供のデジャヴの例を集めてリーインカーネーションの可能性を探っていました。三歳未満に限ったのは、それ以上になると、子供の現世の記憶が増えてくること、大人から聞いた話を自分が経験したことと勘違いすることが増えて、記憶の純粋性が損なわれてくるからです。僕も、教授の本を読みましたが、非常に面白かった。ただ、やはり、リーインカーネーションを文化として持っている国―例えば、スリランカのような―例が大半を占めていました」
ニコラスの講義は留まるところを知らないように続いた。菜摘は彼がちょっと息をついた隙を捉えて、かろうじて言葉を挟んだ。
「それで、わたしのデジャヴは前世の記憶だと、そうおっしゃりたいのですか?」
ニコラスの顔が輝いた。
「その可能性はある、そう思いませんか? 菜摘さんは一九七二年に失われたブロンズ像の記憶を持っている。菜摘さんが生まれる前、海を隔てた外国の公園にあった像です。特に有名な像ではない。複製や写真をどこかで見た、とは考えられない。他の像との混同も、あの銅像は少々変わったデザインでしたから考えにくい。いや、たとえ複製や写真があったとしても、オルテガ・グリーンを訪れた時にデジャヴが起きたことを考えると、菜摘さんはあの像を、あそこで見た、つまり一九七二年以前に見たと考えるほうが自然です」
菜摘は首を振った。
「信じられませんか?」
「申し訳ないけど、わたしには…。あんまり荒唐無稽で」
ニコラスはため息をついた。
「たいていの人がそう言うんです。でも、僕はあきらめませんよ。菜摘さんのデジャヴは非常に有望だと思います」
「お役に立てるとは思いませんけど」
菜摘はあやふやな口調で言った。
「菜摘さん、退行催眠の話を聞いたことがありますか?」
「たいこうさいみん?」
「催眠術をかけて、被験者の子供時代の記憶を引き出すことは、トラウマの治療の一環として時々行われますが、それをさらに遡って、生まれる前の記憶を呼び覚ますことです。この一番有名な例が、ブライディー・マーフィです」
ブライディー・マーフィはアメリカで最も有名なリーインカーネーションの例である、とニコラスは言った。
コロラド州プエブロに住む実業家モーリイ・バーンスタインは、催眠術に興味を持ち、自身、熟練の術者だった。一九五六年十一月、バーンスタインはヴァージニア・タイという三人の子持ちの主婦に出会った。二十九歳のタイは、催眠術の被験者として有望だと見たバーンスタインは、彼女の退行催眠を試みた。
七歳、三歳、一歳と子供時代を遡り、バーンスタインはさらに「もっともっと前」「別の時代、別の場所」の体験を語るように求めた。すると、タイは十九世紀アイルランドで生きた娘、ブライディー・マーフィの生活体験を、とうとうと語り始めたのだ。普段のタイの話しぶりとはまるで違う、強いアイルランドなまりで。
それによると、ブライディーはアイルランドのコルクで、プロテスタントの家庭で育った。父親の名前はダンカン、職業は法廷弁護士。母親はキャサリーン、父と同じダンカンという名前の兄がいる。
バーンスタインは六回のセッションを通してブライディーの生活をできるだけ細かく、具体的に聞き出そうとした。周囲の人々の名前、日付、場所、習慣、歌、店……。それによってバーンスタインはブライディーの生年は一七九八年、没年は一八六四年、腰を骨折して六十六歳で死亡したと推定した。ちなみに、ヴァージニア・タイはアイルランドに行ったことはなく、周囲にアイルランド人の知り合いもいない、と断言した。術者のバーンスタインも、アイルランドに関する知識は、世間一般の常識を超えるものではなかった。
後に、バーンスタインはこの体験を本にまとめて出版した。本の中では、タイのプライバシーを守るために、彼女の名前はルース・シモンズとなっている。
「もし、興味がおありだったら、読んでみてください」
ニコラスはショルダーバッグから紙が黄色く変色し、古本独特のかび臭いような匂いがする本を出して菜摘に渡した。「ブライディー・マーフィを探して」とある。菜摘はちょっとためらったが、受け取って、さっきもらったパンフレットに重ねた。
「あの、デジャヴの研究をされてる方が、どうして歴史研究会のボランティアもなさるんですか」
ああ、とニコラスは微笑んだ。
「歴史の研究者の中には、リーインカーネーションに興味を持つ人間がいるんです。もしも、生まれ変わりが証明されて、その人間が過去の時代を思い出して話してくれれば、こんなに研究に役に立つことはありませんからね。僕らも、前世の記憶の真偽を確かめるために、歴史家の知識の助けを借りることがよくあります。つまり、持ちつ持たれつなんです」
なるほど、と思った。
ニコラスのバッグから、メールの着信音が聞こえた。ちょっと失礼、と言ってニコラスはスマホを取り出して確認した。
「すみません、行かなくっちゃならないようだ。すっかり長居して申し訳ありませんでした」
「いえ、面白いお話でした」
本当だった。全部を信じたわけではないけれど、ニコラスの話を聞くのは楽しかった。新しい知識を得ると、世界が変わって見える。
「菜摘さん、お願いがあるんです。もし、またデジャヴが起きたら、教えてくれませんか?」
真剣な顔と声に、菜摘は、はい、と答えていた。ニコラスはメモを一枚破ると、そこに自分のスマホの電話番号とメールアドレスを書きつけて渡した。菜摘はその紙片を借りた本に挟んだ。
玄関までニコラスを送って出たところで、菜摘は立ち止った。
「今、オウムの鳴き声が聞こえませんでしたか?」
「オウム?」
二人は息をひそめるようにして、耳をすませた。何も聞こえない。
「空耳だったみたい」
菜摘は作り笑いを浮かべて言った。
「最近、多いんです。デジャヴだけじゃなくって、空耳まで」
ニコラスは奇妙な顔で菜摘を見ている。前世の記憶どころか、頭がおかしいと思われたかもしれない、と菜摘は心配になった。
「さきほども、オウムの話をしておられましたね? 夜、オウムが騒ぐので目がさめる、と」
「あれはいいんです。亜紀が言う通り、コヨーテが狩りをして騒いでるのを聞き間違えたんだと思います。この辺には野生のオウムはいないそうですし」
でも、カイルもオウムの鳴き声を聞いた、と言った。
「野生のオウムはいますよ」
ニコラスはゆっくりと言った。
「この辺でも最近、ペットとして飼われていたオウムが逃げ出して野生化して繁殖しています。ラブバード、グリーンパロットなんかです。生態系を崩すんじゃないか、と野鳥の会やレンジャー、環境保護グループは心配しています」
なんだ、いるんだ。
菜摘は拍子抜けした。
「夜、騒いでるのなら、街灯とか民家の常夜灯の近くに巣があるのかもしれませんね。あまりうるさいようだったら、役所に報告すればアニマルコントロールが来て巣を撤去してくれますよ」
「いえ、いいんです。それほどうるさくないから」
原因がわからないから気になったのだ。わかれば、どうということもない。せっかく自力で生き延びている鳥の巣を壊すようなことはしたくなかった。
「わたし、この家には何かあるんじゃないか、なんて思っていたんです。空耳もデジャヴも、変な夢を見るのも全部、家のせいにしようとしていたんです」
「それはすごい。僕の守備範囲からははずれますが、この家が幽霊屋敷だと面白いですね」
まんざら冗談とも思えなかった。
「面白いなんてひどい。住んでる者の身にもなってください」
菜摘が冗談半分に抗議すると、ニコラスはすみません、と頭をかいた。
ニコラス・ウィルソンの訪問があって、菜摘の気持ちはぐんと軽くなった。その夜もオウムが鳴き騒ぐ声で目がさめたが、寝返りをうってすぐにまた眠りこんでしまった。夢の中では、金色の目をしたオウムが、炎の尾を引きながら空いっぱいに飛びまわっていた。
第七章 殺人事件
家に戻ると、カイルは居間のテーブルにパソコンを据えてしきりに何かを打っていた。亜紀がただいま、と言ってもろくろく返事もしない。先週、ヘイヴンズパークの家を訪問してから、さらにこのプロジェクトに熱中するようになった。
オウムの鳴き声なんか、聞こえなかった、と亜紀が言っても、確かに聞いた、とがんばった。
「菜摘だって何も聞いてないのよ。あんたの気のせいよ」と亜紀が言うと、証拠がある、と言って、白い鳥の羽毛を出してみせた。二階の空き部屋の窓敷居の下で拾ったのだという。亜紀は羽毛を手にとってみた。白というより、灰色に近い。
「あの家には絶対に何かある。まちがいない」
カイルは満足そうに言って、鳥の羽毛を大事そうに封筒に入れてしまい込んだのだ。
パチパチパチ、とパソコンのキーを叩く音が続く。亜紀はカイルの隣に腰を下ろすと、ため息をついて脚を伸ばした。
今夜は忙しかった。テーブルとキッチンを往復して水を飲む暇も無いほどだった。まだ若いとはいっても三十歳を越えると、一段体力が落ちるのかもしれない。今夜みたいに忙しいと、いつまで立ち仕事を続けなければならないのだろう、とつい考えてしまう。カイルが定職についてくれると、生活はぐっと楽になるが、映画の撮影に入れば、その仕事は辞めざるを得ない。時折、撮影助手の仕事が入るが不定期で、あてにならない。毎月の家賃・光熱費を払って生活していくには、亜紀のバイト収入が不可欠だった。不平を言う気はないが、プロジェクトが成功してくれれば、この生活から一歩抜け出せるかもしれない、とは思う。
パチパチ、というパソコンの音が止んだ。
カイルはモニターから目を上げて、菜摘の様子はどう? と聞いた。
「元気よ。あなたが手配した心理学者がうまくやったみたい。すっかり落ち着いてる」
今夜の菜摘は店の忙しさを楽しんでさえいるようだった。珍しく顧客と話などしていた。わたしより若いだけのことはある、と亜紀は羨ましくなった。このプロジェクトさえ、成功すれば…。
テーブルの上には新聞の切り抜きや雑誌のコピーが散乱している。プロジェクトの資料だ。
「一家惨殺」とか「深夜の惨劇」とかいう見出しが踊っている。亜紀はそのうちの一枚、「夫を逮捕」に載っている若い男の白黒写真を手にとった。何かの証明写真から取られたものだろう。髪を七三にきちんと分け、眼鏡をかけた男が、スーツとネクタイに身を固めて緊張した面持ちで写っている。善良で真面目な男に見えた。母の日に電話を忘れず、結婚記念日には花を持って早めに帰宅するタイプだ。面白味は皆無だが、とてもじゃないが、妻と幼い娘を手にかけるような男には見えない。
亜紀がそう言うと、人は見かけじゃわからないさ、とカイルは言った。
「でも、ずっと無罪を主張してたんじゃないの?」
「そりゃ、死刑にはなりたくないだろうから、必死さ」
別の写真。家の前で撮った家族三人のスナップだ。金髪の髪を肩まで伸ばした若い女は美人だが、つんと顎を上げているせいで、高慢な感じがする。ノースリーブのトップスから伸びた二の腕は筋肉質でよく日に焼けていた。学生時代はバレーボールでもやっていたに違いない。ベルボトムのジーンズを腰骨でひっかけるようにはいているのがあの時代を感じさせる。並んでいる夫は、妻よりも一インチ(二センチ)ほど背が低い。カジュアルなゴルフウエア姿で、妻の肩にぎこちなく手を回して微笑している。二人の間にいる五歳ぐらいの女の子は母親譲りの金髪をお下げに編み、赤白青のストライプのリボンを結んでいる。母親としっかりと手をつないで、無表情にカメラの方を見ている。もう片方の手には、クマのぬいぐるみをぶら下げている。クマの耳にも、同じ赤白青のリボンが結ばれている。
亜紀は写真を裏返してみた。一九七二年七月四日、とある。独立記念日の休日、家族でパレードを見物に出かけるところででもあったのだろうか。何不自由ない幸せそうな家族に見えた。だが、わずか一ヶ月後、このうちの二人が理不尽な暴力の犠牲になってこの世を去った。
一九七二年八月十日午前三時二十三分、ヘイヴンズ・パーク警察は、男の声で助けを求める電話を受けた。十二分後の午前三時三十五分、警察がクリスタル・ドライブ213番地に到着すると、キッチンで主人のジョージ・マックブライド(二十五歳)が血まみれの手に受話器を握り締めて昏倒していた。二階の主寝室には妻のアン(二十九歳)と娘のシャーロット(五歳)が、寝巻き姿で血に染まってベッドに横たわっていた。ジョージは腹と胸、右の太ももをナイフのようなもので数回刺されていたが、病院に運ばれて意識を取り戻した。アンとシャーロットも数回にわたって胸と腹を刃物で刺され、さらにアンは喉を切り裂かれていた。二人とも警察が到着した時点で既に死亡していた。キッチンには明らかな格闘のあとが残っていた。窓ガラスが割れ、壁にかかった鍋やフライパンは叩き落とされ、テーブルと椅子はひっくり返り、割れたグラスとスコッチの瓶が転がっていた。凶器と思われるナイフとアイスピックは居間のカーペットの上に無造作に投げ捨てられていたが、キッチンから持ち出したものとわかった。キッチンの冷蔵庫には、血で「ブタ」の文字が殴り書きされていた。
ジョージ・マックブライドは、大手の会計事務所に勤める公認会計士で、二年前にアンと結婚してヘイヴンズ・パークに引っ越してきた。妻のアンは、成功しているインテリア・デザイナー。シャーロットは前の夫との間の子供である。
ジョージは警察の尋問に対して、一人の女に率いられた五人の男が突然に家に押し入ってきたのだ、と答えた。八月九日の夜、妻と子供が二階の寝室へ引き上げた後、ジョージは居間で一人でテレビを見ながらスコッチの水割りを飲んでいた。疲れていたので、ソファに横になったが、そのままうたたねしてしまったらしい。ふっと目が覚めると、家の中に見知らぬ男女がいた。女はつばの広い麦わら帽子をかぶり、長い金髪が背中に垂れていた。裾のひろがったネグリジェのような白いドレスを着て、手に火のついた白いキャンドルを持って歩き回っていた。男は五人ともTシャツにジーンズ、長髪で一人は赤茶色の顎鬚を生やしていた。部屋の中には強いマリファナの匂いが漂っていた。ジョージが起き上がって無断侵入を咎めると、女がかん高い声で笑った。次の瞬間、男たちは一斉にジョージに飛びかかってきた。ジョージは激しく抵抗したが、誰かに後ろから頭を殴られて昏倒した。それからどれほど時間がたったのかわからない。ジョージは身体中が冷え切っているのに気がついた。手が血にまみれてぬるぬるする。なんとか電話のあるところまではっていき、警察に電話した。あとは憶えていない。
十一月三日、警察はアンとシャーロットの殺害容疑でジョージ・マックブライドを逮捕した。ジョージは一貫して無罪を主張したが、裁判で有罪となり、終身刑を宣告された。二〇〇五年三月一日、ニュースは、「天国の園」で起きた妻子殺害事件の犯人、ジョージ・マックブライドが医療刑務所で死亡したことを報じた。胃癌だった。
「なぜ、警察はマックブライドの話を信じなかったのかしら?」
マックブライド事件のファイルを読み終えて最初に亜紀が思ったことはそれだった。格闘の跡はあったのだし、ジョージは重傷を負っていた。無断で入り込んできたヒッピー風の侵入者の存在を疑う理由はないと思う。
僕も不思議に思ったんで、知り合いのジャーナリストに尋ねたんだけど、とカイルが答えた。
「家庭内で妻子が殺された場合、よっぽどはっきりした反対の証拠が無い限り、第一に疑われるのは夫なんだそうだ。まず、機会がある。自分の家だから当然だ。次に、動機がある。どれほど仲が良いように見えても、夫婦間の感情のもつれは外からじゃわからない。マックブライドの場合、ジョージはまじめ一方だったのに較べて、アンは社交的で派手な性格だったらしい。収入もアンの方が多かった。シャーロットはアンの連れ子だった。一見、うまくいっているように見えても内実はわからない、と警察は考えたんだろう」
「それは偏見じゃない?」
「事件のあった夜、ジョージは酒を飲みながら居間のソファで寝ていた。一方、アンは娘と一緒に二階の寝室にいた。夫婦喧嘩があったと思われてもしようがない状況だよ。違うと言うならタイミングが悪すぎた。警察は一応、ジョージのいう無断侵入の男女を探してはみた、だが見つからなかった。となると、ジョージが二人を殺して、偽装工作に格闘の跡を作り、自分を刺した、という線に戻ったんだ。冷蔵庫の『ブタ』の血文字なんか、もろに三年前のマンソン・ファミリーの真似みたいだしな」
「あなたはどう思うの? ジョージ・マックブライドが犯人だったと思う?」
「十年前だったら、イエスと答えたんだけどな。今は判断を保留するよ」
事件から三十五年、ジョージ・マックブライドの死から二年たった二〇〇七年、あの夜、奇妙なつば広の麦藁帽子をかぶった白いドレスの女と、数人のヒッピー風の男たちを見た、という証人が現れた。ヘイヴンズ・パークの隣町で酒屋を経営していた男で、一九七二年の八月九日の夜遅く、数人の男女が車でやってきてビールとワインを買っていったが、そのうちの一人の女がマックブライドの描写した女とそっくりだったという。
証人を掘り出したのは、マックブライドの死をきっかけに事件を再調査していたジャーナリストで、彼はその結果を雑誌に発表した。三十五年も前の事件、しかも犯人とされた男は既に死亡しているが、冤罪だったのではないか、と疑問を投げかけたルポルタージュは少なからぬ議論を巻き起こした。ヘイヴンズ・パークの市民グループや歴史研究会はもちろん興味を持った。ヘイヴンズ・パーク警察は既に裁判で決着のついた事件としてノーコメントで押し通し、ヘイヴンズ・パーク・ゴーストクラブはこの機会に、もう一度、トンプソン夫妻に家の調査を申し出てあっさりと断わられた。
「あの家に出るのは、殺された女の子の霊なのかしら」
カイルは再びパソコンを操作しながら、わからない、と言った。
「僕が見たのは五歳の子供の顔じゃなかった。といって、殺された奥さんの顔とも思えない。子供じゃないけど、大人でもない。少女っていうのが一番ぴったりくるんだ」
「菜摘はどっちも見てない」
「うん。でもオウムの鳴き声を聞いている。マックブライド夫妻は二階の南向きの部屋に鳥かごを置いて、大きな白いオウムを飼っていた。オウムってのはうるさい鳥でね、近所の家から何度も騒音の苦情を受けてる。でも、絶対に手放そうとしなかったというから、よほど大事にしてたんだろう。事件の後、鳥かごの中にいたはずのオウムはいなくなっていた。警察はキッチンの流しに、切り落とされたオウムの首を発見した。身体の方はみつからなかった」
亜紀は身震いした。
事件全体が気ちがいじみている。
カイルは隣町の酒屋の元主人―もう引退していた―に会いに行き、ある情報を掴んだ。二人は明日、目の前で事件を見ていたという証人に会うことになっている。そのために、亜紀は明日の夜、バイト先から休みを貰っていた。
「明日の予定なんだけど、午後六時過ぎにしか時間がとれないって相手が言うんだ。インタビューのあと、向こうで一泊して戻ろう。その方が君も疲れないだろう?」
いいわよ、と亜紀は微笑んだ。カイルの思いやりが嬉しかった。
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