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シークレットガーデン


ガーデン

目次

プロローグ

第一章 ロックアウト

第二章 メディテーション

第三章 

第四章 ガーディアン

第五章 ガーデン

第六章 対立

プロローグ
古い鍵

透は廊下に滑り出ると、病人の目を覚まさないように、そっとドアを閉めた。足早に自室に戻ると、クローゼットの引き出しから、古めかしい大きな黒い鍵を取り出した。

かなり、難しい仕事になる。危険でもある。もし失敗すれば……。

透は、不安を心から閉め出した。失敗は許されない。時間はもうないのだ。急がなければ。透は鍵をポケットにしまった。


第一章 ロックアウト

美佳は、玄関のドアに鍵を差し込んで回した。カチッと手ごたえがあって、ロックがはずれる。ノブを回してドアを開けようとした。開かない。中から閂がかかっているのだ。またか。美佳はアパートの脇に回ってみた。思った通り、理恵のボーイフレンドの黒いムスタングが駐車場にある。

理恵は、美佳と同じ、USCに通っている学生だ。二年前から一緒にアパートを借りている。初めのうちはうまくいっていたのだが、一年前、理恵にボーイフレンドができてから、トラブルが始まった。理恵はマイケルが来ると、美佳をアパートから閉め出すようになったのだ。

「あたし達、プライバシーが必要なの」

というのが、理恵の言い分だった。

「わたしは自分の部屋に入りたいだけよ」

美佳の懸命の抗議を、理恵はどこ吹く風と受け流した。

「このアパートの壁は紙みたいに薄いのよ」

しゃあしゃあとして言ってのけた。

「声が漏れちゃうでしょう? それに、マイケルはあの後、裸で家の中を歩き回るのが好きなの。彼のボディ見てみたい? ただじゃ見せられないなあ」

理恵の声にはあからさまな揶揄の響きがある。美佳は赤くなった。露出狂に興味なんかない、と思いきりののしってやりたかったが、思うように声が出なかった。

「わかってよ、美佳」

理恵はなだめるように言った。

「マイケルはまだ親と暮らしてるし、あそこのお母さん、あたしのこと気に入ってないのよ。あたしが行くと、怖い目でにらむの。ここは日本と違って、手頃なラブホテルがあるわけじゃないし。あんたも彼氏ができたらわかるわよ」

美佳はますます惨めな気持ちになった。二十一にもなって男の一人もいないと、そう言われたような気がした。

「あんたが彼氏を連れてきたら、あたしはあんたの邪魔にならないように外に出る。それでいいでしょう?」

理恵は勝ち誇ったように言った。どうせ連れてきやしない、という腹の底がすけて見えて、美佳はムカムカした。が、それが真実であることは自分でわかっていた。

ムスタングは無遠慮に、住人用のパーキングスペースにでんと居すわっている。美佳はしばらくの間、恨めしげに黒いムスタングを見ていたが、あきらめて自分の車の方に引き返した。しょうがない。スターバックスでコーヒーでも買って、ちょっと早いがバイトに行くことにしよう。

 

「いつまでこんな事、がまんしてるのよ」

美佳のバイト先の同僚、沙知子はあきれたように言った。

「ちゃんと家賃払ってるんでしょう? 閉め出されることないわよ」

「それはそうだけど、でも…」

美佳は口ごもった。理恵が横暴なのは百も承知だ。だが、抗議しても、いつも言い負かされてくやしい思いをするのは美佳の方だった。最近はもう、文句を言うだけ無駄だと、なかばあきらめていた。

「そんなアパート、出ちゃいなさいよ。他にルームメイト見つけたら?」

美佳は黙っていた。ことはそう簡単ではない。勇ましいアドバイスをした沙知子も、それはわかっているのだ。まず、大学から近くなければならない。LAのフリーウェイの渋滞はすさまじい。そんな所に毎日、何時間も缶詰になるのは時間の無駄だ。留学生は忙しい。課題はどっさり出される。しょっちゅうテストがある。バイトもしなければならない。友達との付き合いもある。アパートは大学に近いにこしたことはない。だが、いくら近くても、度々ギャングの銃撃事件があったり、強盗が入ったりする所ではだめだ。近くて、安全で、清潔で、手頃な家賃のアパートとなると、そんなに多くはない。それに、ルームメイトの人柄の問題もある。できれば日本人がよかった。アメリカ人のルームメイトでは、美佳は一度懲りていた。

ジャッキーは悪い子ではなかった。陽気で、美佳のブロークンな英語も気にしないでよくしゃべった。だが、ジャッキーは自分のものと他人のものの区別のできないたちだった。買ったばかりのシャンプーがぐんぐんと減り、ミルクのカートンが冷蔵庫から消えた。確かに買ったはずの食パンが戸棚から消え、いつの間にかお皿の数が足りなくなり、持っていたはずのCDがなくなった。それでも美佳は目をつぶって我慢していたのだ、ジャッキーが、乾燥機に入っていた美佳のストッキングを引っ張り出して、はいているのを見つけるまでは。この時にはさすがに愕然とした。他人のストッキングなんて、なんではけるのだろう? ジャッキーの所を出て、理恵とアパートを借りた時には、本当にほっとしたのだ。理恵は自己中心だが、美佳のものには手を出さなかった。

沙知子は、黙り込んでしまった美佳を歯がゆそうに見た。

「あんた次第よ、美佳」

美佳はうなずいた。沙知子は立ち上がると、テーブルの上に紙ナプキンと箸をさっさとセットしていった。日本食レストランの開店時間は五時だ。

「美佳、あんた、今度の土曜日、あいてる?」

「別に予定はないけど…」

「じゃ、付き合ってよ」

「どこへ?」

「セミナー。彼氏と二人で行くつもりだったんだけど、彼の友達が事故っちゃってね。バイトのシフト、代わってくれって頼まれて、断れなかったの。お金は払ってあるし、もったいないから、だれか誘って行けって言うの。付き合ってよ」

「変な新興宗教とか、ネズミ講の勧誘会じゃないんでしょうね」

以前、友達の「セミナー」に付き合って、ひどい目にあった。大勢に取り囲まれて、ぜひともこの団体に加入しろ、絶対に金持ちになれる、と説得されて、気の弱い美佳はびっくりして逃げ出したことがある。

「全然違う。あたしが行ってるコミューンのセミナーだもの。今回のテーマはメディテーション。面白いから、ね」

沙知子が精神世界に興味を持っていて、ニューエイジ系のコミューンのメンバーになっているのは知っていた。沙知子は画家の卵だ。その辺も関係してるのかもしれない。

「さっちゃん、オープンして」

店のオーナーの声に、「はーい」と言って、沙知子は鍵を取ると、表のドアを開けに行った。


第二章 メディテーション


「イシスの園」というコミューンは、LAの東のはずれ、山沿いの小さな町にあった。

沙知子の車はフリーウェイを降りると、傾斜の急な舗装道路を山に向かって登っていった。両側には大きな二階建ての家が並んでいる。完璧に手入れされた緑の芝生が美しい。赤いレンガ敷きのドライブウェイは、車が三、四台は入りそうな大きなガレージのドアに続いている。美佳のアパートは、LAの中心近くにある。小さな家がごちゃごちゃと建て込み、通りにはびっしりと路上駐車の車が並んでいる。こことは世界が違った。

山がぐんぐん目の前に迫ってくる。灰緑色の木々の間に、所々、皮を剥いだように赤茶けた岩肌がのぞいている。山頂に向かって登る登山道は、傷跡のように白っぽく見える。山の上には、澄んだ九月の青空が広がっていた。どんなセミナーかは知らないが、ここまでやってきたのは無駄じゃなかった、と美佳は自分を慰めた。

間もなく、沙知子の車は横道に入った。突然、両側にあった高級住宅が消え、かわりに白い石垣に囲まれたオレンジの果樹園がずっと続いている。どこまで行くのだろう、と美佳が怪しみ出した時、前方に黒い鉄製の門が見え、沙知子は車を停めた。門のプレートに金色の文字で、イシスの園とあり、その下に、回る車輪のシンボルのようなものが彫ってあった。美佳は空気中に甘い花の香りが漂っているのに気がついた。

「こっちよ」

沙知子はさっさとスペイン風の赤い瓦屋根の、三階建ての建物の方に向かった。

セミナー会場にあてられているホールは、机も椅子も片隅に寄せられていた。フローリングの床がむき出しで、そこに二十人くらいの人が集まっていた。半分くらいは美佳と同じ年頃の学生のようだ。残り半分はずっと年配者で、そのうち二人は、そろそろ定年近い年令の夫婦らしい。皆、顔見知りらしく、大声で挨拶をかわしている。美佳はこういう場所は苦手だった。美佳が本当に気楽に話せるのは、数人の気のおけない友人の間にいる時だけなのだ。沙知子が友達を紹介してくれたが、美佳は二言、三言話しただけで、すぐ沙知子の後ろに引っ込んで、黙ってセミナーの始まるのを待っていた。セミナーの開始は午後一時ということになっていたが、フリーウエイの渋滞にひっかかって、講師の到着が遅れているという。セミナーの主催者らしい男の人が来て説明していった。だが、周りの参加者たちは沙知子も含めて、講師の遅刻など一向に気にならないらしく、おしゃべりに熱中していた。

と、ホールの入口のドアが開いた。やっと講師が来たのかと、美佳はそっちを向いて、息をのんだ。

入って来たのは背の高い男の子だった。すらりとした細身に、白い開襟シャツとブラックジーンズが似合っている。長めの黒い髪は軽くウェーブがかかっている。肌は透き通るように白く、まっすぐに鼻すじがとおっていた。長いまつげの下の、黒い大きな瞳が潤んだように光っている。赤いデリケートな唇にかすかに微笑を浮かべて、男の子はホール全体を見渡していた。やがて滑るように動いて、ホールの一番後ろの窓際の壁によりかかった。皆の視線が自分を追って動くのに気づいているのか、いないのか、全く無頓着な態度だった。

「透」

沙知子としゃべっていた女子学生が男の子の方に移動していった。男の子はちらりとこっちを見たが、すぐに、数人の女の子に囲まれておしゃべりを始めた。

「とおる? 日本人みたいな名前ね」

美佳は沙知子に小声で聞いた。

「日本人よ」

そうはみえない、と美佳は思った。きっとハーフだ。

「ここの住み込みのメンバーなの。セミナーに出てくるなんて、珍しいな」

沙知子は美佳の脇腹をこづいた。

「ラッキーじゃない。つかまえなさいよ、あんた、フリーなんだから」

「年下よ」

美佳は言い返した。

「あんなゴージャスな子なら、年下でもいいわよ。紹介しようか?」

美佳は黙っていた。沙知子に悪気がないのはわかってる。だが、何かというと仲人役を勤めたがる友人達にはうんざりしていた。それから五分ほどして講師が現われた時には、心底ほっとした。

講師は中年の白人女性で、遅刻の詫びを述べたあと、参加者に床にすわるように促した。皆が講師を囲むように半円になってすわると、落ち着いた声でメディテーションの説明を始めた。メディテーションの目的は、と講師は言った。心を平らで静かな状態、沈黙の状態に保つことで、我々の心の奥深くに隠された能力を呼び覚ますことにあります。言葉で言うと容易に聞こえますが、実際にやってみると、それほど簡単ではないのがすぐにわかります。

講師は紙と鉛筆を全員に配ると、これから三分間、頭の中に浮かんでくる言葉でもイメージでも何でも、閃くままに書いて下さい、と言った。

「用意……始め」

講師の声で、皆が一斉に紙の上にかがみこんだ。かさかさと、鉛筆が紙の上を走る音が部屋の中に満ちた。美佳は困った。何も思いつかない。ちらりと隣の沙知子を見た。沙知子は一心に鉛筆を動かしている。周りを見回した。何も書いていないのは自分だけのようだ。美佳は焦った。何も思いつかないまま、紙の上に丸を描いた。丸の周りを花びらで囲んだ。茎をつけて葉を描くと、小学生の描いたようなひまわりの花ができた。美佳は馬鹿馬鹿しくなった。何をしてるんだろう、わたしは。来週はレポートの提出だというのに。「社会の中での嘘の効用について論じよ」―なんて変てこなテーマだろう。人はなぜ嘘をつくのか。なぜ嘘をついちゃいけない? 沙知子に頭が痛いと嘘を言えばよかった。そしたら、こんなとこに来なくてすんだのに。でも、そうすると、理恵とマイケルにアパートを追い出されただろう。行き場がなくてうろうろするのは苦痛だ。いや、手はあった。スターバックスに行って……

「はい、そこまで」

講師の声が響いて、美佳は我に返った。紙の上のひまわりの花を見て、恐慌をきたした。読み上げろと言われたら、どうしよう。

講師は読み上げろとは言わなかった。こうやって紙に書いてみると、わたし達の心がいかに次から次へと、色々なイメージや思いを追ってさまよっていくかわかるでしょうと言っただけで、すぐ次のエクササイズに移った。

心と身体をリラックスさせる呼吸法の訓練、オブジェを使った集中力を養う訓練と続けた後で、講師は、一人一人に、糸にビーズ玉を通したネックレスのようなものを配った。

「今度は目を閉じて、心の中にオブジェを再現します。オブジェを再現したら、それを見つめていてください。オブジェを見つめるだけで、何も考えない。それでも、皆さんの心の中には、色々な考えが浮かんでくるでしょう。学校のこと、仕事のこと、家庭のこと。また、心はいろいろなつぶやきを発します。『これでいいんだろうか』とか、『うまくいってる』とか。そういう雑念、雑音が入り込んできたら、ビーズ玉を一つ動かして、またオブジェに気持ちを集中してください。また入り込んできたら、また一つ動かす。では、目を閉じて、気持ちを静めてください。始め」

美佳のオブジェは黒い猫のぬいぐるみだった。美佳の心の中の猫は、頭をまわしてこっちを見た。「なんで動くのよ」美佳の心がつぶやいた。美佳はビーズ玉を一つ動かして、また猫を見つめた。「この猫、太りすぎてる」また一つビーズ玉を動かす。「この調子じゃ、ビーズ玉、足りなくなっちゃうんじゃないかしら」また一つ動かす……講師の声が終わりを告げるまでに、美佳のビーズ玉はほとんど全部、反対側に動いていた。皆も同じらしい。「あたしなんか、一巡しちゃった。これは二巡めよ」

沙知子が、半分、片側に動いたビーズ玉を見せた。

ふと、美佳は誰かに見られているように感じて、振り返った。美佳の視線は、透という、あの男の子の黒い瞳にぶつかった。透は美佳の斜め後ろにすわって、じっと美佳を見つめている。隣にすわっている女の子が何か話しかけたが、透は知らん顔で、無遠慮に美佳をじろじろと見ている。何よ、と美佳は反発した。

美佳の視線が、透の前にあるビーズ玉に落ちた。ビーズ玉は一つも動いていなかった。二巡目も終わって元に戻ったっていうことかしら。それとも、ずるをして動かさなかったのか。まさか、何の雑念も入り込まなかったっていうことはないわよね、まさか、そんな。透は美佳の心を読んだように、にやっと笑った。美佳はあわてて前に向き直った。

講師は手を上げて、皆のおしゃべりを静めた。

「初めからできる人はいません。毎日訓練を続ければ、やがて集中できるようになります。でも、ここまでは準備段階です。ここからが真のメディテーションになります。目を閉じて、心の中にオブジェを再現してください。それから、オブジェの輪郭を薄く、薄くしていきます。すけるようになったら、すっと心の中から消してください。残るのは何もない、空っぽの心。真の暗闇です。その状態を保ってください。一つでも雑念が入り込んできたら、メディテーションはそこで終わりです。やってみましょう」

講師の合図で、美佳は目を閉じた。心の中に黒い猫を思い浮かべる。猫の姿がぼやけてきて、すっと空気中に消えた。一瞬、心が闇に閉ざされた。「やったわ」美佳の心がつぶやいた。

美佳は目を開けた。わずか二秒だった。たった二秒で、美佳の心は集中力を失った。周りを見ると、皆も目を開けて、照れたような笑いを浮かべている。「もう少しだったのになあ」と誰かが大きな声で言って、皆がどっと笑った。

「初めは一秒か二秒、そんなものです」

講師の落ち着いた声が割って入った。

「心というものは、大きな、深い湖です。その澄みきった水面に、まわりの景色が映って見える。もし本当に水面が静かだったら、湖底の景色さえ、見えるかもしれない。だが、水面が波立っていたら、まわりの景色もゆがんで見えるし、湖底など、もちろん見えない。だから、水面はあくまでも静かに、静止していなければならない。だが、それがいかにむずかしいか! ほんのちょっとした風で、湖水は波立ち、水面は揺れるんです。だが、これをコントロールした時、初めて真のメディテーションが行なわれる。ヨガの熟練者がサマディと呼ぶ、至福に満ちた静けさが訪れるんです」


第三章 

質疑応答の後、講師は場所を隣のサロンに移した。サロンは明るい広い部屋で、中央に低いコーヒーテーブル、その周りに安楽椅子やソファがある。庭に面して、大きなフランス窓が開け放され、レースのカーテンを翻す風が花の香りを運んできた。

テーブルの上にお茶の仕度がしてあった。めいめい、勝手に緑茶か紅茶かコーヒーを選んで淹れると、講師を囲んでおしゃべりが始まった。

「アストラル・トラベルについて聞きたいんです」

一人の学生が、熱心さをむき出しにして聞いた。

「アストラル・トラベルね。やったことがあるのですか?」

講師が尋ねた。

「ありません。やってみたいんです」

「アストラル・トラベルって何?」

もう一人の学生が聞いた。講師が説明した。

「アストラル・トラベル。OBEとも呼ばれますね。アウト・オブ・ボディ・イクスピアリアンス。人間の身体には、肉体の他にもう一つの身体、アストラル体が宿っている。このアストラル体を肉体から離して、自由に動かすことをアストラル・トラベルというんです」

「聞いたことある」

沙知子の声だった。講師はうなずいた。

「世界中で、昔からよく報告されていますよ。通常、肉体はベッドに横たわったまま、昏睡状態になる。意識の方はアストラル体と共に浮遊して、この世界の色々な場所、時には全くの別世界を訪れている。肉体とアストラル体とは、臍の緒のようなコードで結ばれていて、このコードは、アストラル体がどんなに遠くへさまよっていっても、切れることはない。このコードがある限り、アストラル体は何があっても、瞬時に肉体に戻ることができる」

「もし、何かの拍子にコードが切れたら?」

「その人間の死が訪れる、と言われていますね」

 

美佳は沙知子の隣にすわって、お茶受けのクッキーをかじっていた。ふと、透がいないのに気がついた。セミナーは質疑応答で終わりだから、先に抜けて帰ったのだろう。わたしも早く帰りたいな、と美佳は思った。来週のレポートの締め切りが気になる。美佳は、アストラル体についてのディスカッションを熱心に聴いている沙知子をつついた。

「いつまでいるの?」

「もう少し。この話、聞き逃したくないの」

美佳はため息をついた。

「退屈だったら、庭を見てきたら? ここの庭はとてもきれいよ」

沙知子に言われて、美佳はフランス窓から外へ出た。

サロンの外のテラスから、白い小石に縁取られた小道が、花壇のあいだをうねうねと続いている。両側は秋咲きのバラが今さかりで、風が吹き抜けるたびに、甘い香りを運んでくる。しばらく小道をたどっていくと、バラの間に大きな素焼きの甕が一つ置かれていた。甕の中には、銀緑色の細長い葉と、紫色の長い花穂をもった草花が植えこまれていた。ラベンダーだ。随分大株だ。葉にさわってみた。独特のつんと清らかな香りがする。美佳は花の上に身をかがめると、胸いっぱいにさわやかな香りを吸い込んだ。

「それはラベンダーだよ」

後ろから声をかけられて、美佳は飛び上がった。振り向くと、少し離れた小道に透が立っていた。悪さを見つけられた子供のような気がして、頬が熱くなった。透はゆっくりと美佳に近づいてきた。

「すみません。勝手にうろうろして」

美佳は小さな声であやまった。

「かまわないよ」

透は自分もラベンダーの上にかがみ込んで、株の中に手を入れると、調べるようにあちこち探った。

「そろそろ、少し切ってやったほうがいいな」

透は花の咲いている花穂を根元から摘み取り始めた。

「ラベンダーはね、ラブチャームによく使われるんだ。この花を身につけていると、恋人が現われる。ラベンダーの香りのついた便箋で手紙を書くと、想いがかなうって言われてる。平和と幸福の花でもあるんだ。ラベンダーを部屋に置いておくと、安らかな気持ちになる」

透は摘み取った花をひょいと美佳に差し出した。

「あげるよ」

美佳はどぎまぎした。男の子から花をもらったことなどない。

「ありがとう」

透は身体を起こした。

「戻ったら、食堂に行って、濡れたティッシュとアルミホイルをもらうといい。それで根元をくるんでおけば、しおれない。水揚げしてコップに挿しとけば、二、三日はもつよ」

美佳はうなずいた。冷たい美貌のせいで、さっきは高慢そうに見えたけれど、案外、気さくな子なのかもしれない。

「君、ここ初めてだよね」

「友達に誘われて来たの。とてもきれいな所ね」

「手入れが大変だけどね。僕はこき使われてる」

透は笑った。

「僕は透。東野透。君は?」

「川原美佳」

「留学生?」

「USC。あなたは?」

「僕? 僕はこの春、ハイスクールを卒業した。カレッジはまだ決めてない」

すると、十八歳。やっぱり年下か、と美佳はちょっとがっかりした。自信たっぷりな話しぶりから、もう少し上かと思ったのだが。気がつくと、透は奇妙な微笑を浮かべて、美佳を見ていた。

「あてて見せようか。君、今月、誕生日だろう?」

「九月十五日。どうしてわかったの?」

「勘だよ。メディテーションは直観力を高めるんだ。君は乙女座だろうって思ったんだ」

美佳は透の前にあった、一つも動いていないビーズ玉を思い出した。透はポケットを探って、大きな黒い鍵を取り出した。

「これ、誕生日プレゼントにあげるよ」

美佳は鍵を受け取ってみた。古めかしい、黒い重い鍵だった。鍵穴に差し込む先端部分が歯ブラシのような形をしていて、その反対の端は丸い輪になっている。こんな鍵、今時、アンティークショップでしか見かけないだろう。美佳は、ありがとうと言ったものの、何に使うのか見当もつかなかった。透はまだ、口元に奇妙な微笑を浮かべている。

「その鍵はね、魔法の鍵なんだ。今晩、寝る時にその鍵を握って眠ってごらん。いい夢が見られるよ」

冗談だろうか? 美佳が問いただそうとした時、沙知子の声が美佳を呼んだ。振り返ると、沙知子が小道をこっちへ降りて来るところだった。

「君の友達が来たみたいだね。忘れないで、今晩その鍵を使ってごらん。じゃあね。ハッピーバースデイ」

透は立ち去りかけて、振り返った。

「その鍵のことは、誰にも言っちゃだめだよ。内緒にしておくんだ」

今度こそ、小道を庭の奥の方に遠ざかっていった。

その夜、アパートに戻ると、美佳はラベンダーをコップに挿して机に飾った。寝巻に着替えると、透にもらった鍵を握ってベッドに入った。透の言った「魔法の鍵」を信じたわけではないが、せっかくもらった誕生日のプレゼントだから、言われた通り、使ってみようと思ったのだ。ここ数年で初めてもらったバースデイプレゼントだった。もう、プレゼントっていう年でもないでしょう、と母に言われてから、誕生日プレゼントとは縁が無い。そりゃ、そんな年じゃないかもしれない。でも、プレゼントをもらえば嬉しい。

部屋の中は、ラベンダーの花のいい香りがした。美佳は深呼吸をして目を閉じた。すっと眠りに引き込まれた。次の瞬間、美佳は見たこともない屋敷の、コートヤードに立っていた。



第四章 ガーディアン
ガーデンの中

その若い男は、雑木林の中をうろうろ歩き回っていた。オリンは、木立の陰からじっと男を見守った。ジョギング用のトレーニングウェアの上下にスニーカー。腰にスマホとウォーターボトルを下げている。首の周りにタオルとイヤホンがからみついている。男は困ったように空を見上げ、手で額の汗をぬぐった。タオルを首にかけていることを忘れているらしい。明らかに動転しているのだ。男は右、左と首を回して考え込んでいたが、やがて決心したように、右に向かって歩き出した。右―サイレントガーデンの方向だ。オリンは配下のボラールに合図を送った。ボラールは男の前方に回りこむと、藪の陰でピシリ、と枯れ枝を折る音をたてた。男はぎょっとしたように立ち止まった。まじまじと薄暗い林の奥をのぞきこむと、今度は反対方向に向かって歩き出した。ボラールがそばに戻ってきた。

「チーフ、どうしますか」

「あずまやで捕獲する。準備しろ」

ボラールが合図を送り、林のあちこちで見守っていた部下が一斉に、音も無く、あずまやに向かって動いた。オリンは男から目を離さずに、ゆっくりと後をつけていった。

雑木林を抜けると、平らな石を敷いた小道に出る。少し先に、白い円柱に赤いつるバラのからみついたあずまやが見える。薄暗い林を抜けて日のあたる小道に出ると、男は明らかにほっとしたようだった。歩く速度をゆるめた。きょときょとと不安げにあたりを見回すのもやめて、まっすぐにあずまやに向かった。一休みして、これからどうするか考えようというわけだろう。いきなり見知らぬ庭園に迷い込んでしまった者としては、ごく普通の行動だ。これはイノセントじゃないか、とオリンは思った。まあ、すぐにわかる。

男があずまやに近づいた時、中からふいにボラールが現われた。男が立ちすくんだところを、後ろからリンデンが羽交い絞めにして押さえつけた。男は抵抗したが、リンデンはオリンの部下の中でも身体が大きく、腕っぷしには自信をもっている。難なく後ろ手に縛り上げた。部下達が二人を取り囲み、リンデンは男の肩を押さえて地面にひざまずかせた。オリンは男の前に立った。

「お前の名前は?」

男は、目を大きく見開いてオリンを見た。茶色い目玉が、飛び出しそうにむき出されている。オリンは同じ問いを繰り返した。

「名前は?」

男は口を開いた。が、声が出ない。恐怖ですくみあがっているのだ。

「縄を解いてやれ」

リンデンは不安そうにオリンを見たが、命令に従った。男は縛られていた手首をさすって、やや落ち着いたようだった。

「おとなしく質問に答えれば、危害は加えない。名前は?」

「リチャード。リチャード・デュラン」

男はかすれた声で答えた。

「どこから来た?」

「ドルフィンスクエア」

やや間をおいて付け加えた。

「……ロンドン」

「何しに来た?」

男は黙った。

「答えろ。何しに来た?」

男は堰を切ったようにしゃべり出した。

「わからない。そもそも、ここはどこなんだ。僕は公園を走っていたんだ。右脚に、こむらがえりを起こしたんで、ベンチにすわって一休みした。気がついたら、ここにいたんだ。ここはどこだ? 公園の一部なのか? お前達は誰だ?」

「ここはロード・ヘリオスの庭園だ。許可無く立ち入ることは許されない」

「僕はそんな所は知らない!」

「鍵を持っているか?」

「鍵?」

「どうやってここへ来た?」

「わからない」

「鍵はどこにある?」

「知らない」

男は顔をおおった。

「僕には何もわからない。家に帰してくれ」

「正直に答えれば、帰してやる」

ボラールがすっとオリンのそばへ寄った。

「一応、長の指示を仰いだ方がいいでしょう。最初、サイレントガーデンに向かった以上は……」

「しかし…」

オリンはためらったが、ボラールはオリンよりずっと年長で、ガーディアンとしての経験も長い。オリンはうなずいた。

「トレイターズ・コートへ連れて行け」

リンデンが男の腕を取ろうとした。突然、男はリンデンを突き飛ばした。驚くほど敏捷に立ち上がると、猛然と小道を走り出した。オリンと部下は、あとを追った。が、追跡は長くは続かなかった。男はふいに、何かにつまずいたようにつんのめると、前のめりにぱたりと倒れた。小道の傍らにあるローズトレリスの陰から、オリンのいとこのキーファーが現われると、ゆっくりと男に近づいた。身をかがめて男の背中に刺さった短刀を引き抜くと、爪先で男を仰向けに引っくり返した。オリンが、やめろ、と叫んだが、キーファーは落ち着き払った態度で、男の胸から出ている、白い光のコードを短刀で断ち切った。バン! という大きな音がして、男の身体が一瞬、まぶしい光を発した。次の瞬間、男の姿は消えうせていた。

オリンはキーファーにとびかかると、胸倉をつかんだ。

「なぜ殺した?」

「この男はトレイターだ」

「違う!」

「逃げたじゃないか」

「怯えていただけた」

キーファーは胸倉をつかんでいるオリンの手をぐいと押さえた。オリンの目を見てささやいた。

「逃がしたのは、お前のミスだ」

オリンは手を放した。一瞬、かっと血の上った頭に、冷水を浴びせられたように感じて、オリンはうつむいた。

「逃げられやしない。殺すことはなかったんだ」

キーファーの冷たいグレイの目が光った。

「オリン。俺達はこの庭園のガーディアンだ。忘れるなよ」

オリンが言い返そうとした時、見張りの笛が鳴った。高く、低く、暖かい空気を震わせて、歌うように快い音色。だが、内容は、警戒を伝えるものだった。

「コートヤードに侵入者。」

オリンはキーファーを鋭く見た。

「この時間のガーディアンは僕だ。手を出すな」

オリンは部下を連れて、コートヤードへ急行した。


第五章 ガーデン

美佳は呆然としていた。ここはどこだろう? 目の前に、三階建ての立派なお屋敷がそびえている。写真で見た、英国のマナーハウスに似ている。石造りで、高い窓が並んでいる。窓には皆、厚いカーテンがかかっていた。中央に大きなフランス窓があって、ここが屋敷から庭への出入り口になっているらしい。フランス窓にもカーテンがかかっていた。美佳はカーテンの隙間から、中をのぞいて見た。薄暗くてよく見えない。

灰色の石を敷き詰めたコートヤードは、対照的に、明るい日の光に照らされていた。美佳はコートヤードの中央に立って、太陽を見上げた。こっちが南だ。石畳は日の光を反射して眩しいほどだったが、コートヤードの周囲は塀で囲まれ、その塀に沿って深緑の背の高い木が植え込まれて、日陰を作っている。さっきから水音がすると思ったら、大きなアカシアの木の下に、石の泉水があった。後ろ足で勢いよく立ち上がった馬の石像がついている。馬の口から水が噴き出して水盤に落ちていた。隣に石のベンチ。そばに、白萩が、こぼれるように花を咲かせている。所々に石のコンテナが置かれて、細かなレースのような葉を持ったシダ、斑入りのホスタ、青いサルビアと、薄い桃色が可憐なコスモスが植え込まれている。きれいな庭だった。こんなきれいな庭があるのに、屋敷には誰も住んでいないように見える。

美佳は自分の身体を見下ろした。ネグリジェに裸足。もちろん、これは夢なのだ。わたしは夢を見ているのだ。美佳は前にも、夢の中でこれは夢だと、はっきりわかっている夢をたびたび見ている。どれも非常にリアルな夢だった。それでも夢は夢だ。目が覚めれば、何事もなく自分のベッドに横たわっていた。それなら、と美佳は少し安心して思った。今のうちに、あちこち見ておこう。コートヤードの塀に、庭に出るためのアーチ型のゲートがついている。美佳はゲートを押してコートヤードを出た。

ゲートを抜けると、道路に出た。狭いが、車が通れるように舗装してある。靴をはいていない美佳には平らな道路は有難い。さて、どっちへ行こう? 美佳は右へ行くことにした。左側は広々とした芝生、その向こうに雑木林が見える。右側はずっと、コートヤードの塀が続いている。

甘い香りが漂ってきた。左側の芝生が無くなって、魔法のように、ローズガーデンが現われた。細い小道が走る両側は、一面のばら、ばら、ばらだった。中央にレンガ敷きのやや広い道があり、その両側と天井はつるバラでおおわれている。ローズトレリス! なんて見事な。美佳は中を通ってみた。甘い香りが鼻腔をくすぐり、鮮やかな色彩が目を眩ませる。夢だ、と美佳は思った。これは夢の庭だ。

ローズトレリスを抜けると、平たい白い石を敷き詰めた小道に出た。右手に白いあずまやが見える。美佳はそっちへ行って見た。白い円柱のある、ローマ風のあずまやだった。ここにも赤いつるバラがからんでいる。美佳はあずまやの中のベンチにすわって、一休みした。日盛りの中を歩いてきたので、冷たい大理石の感触が快かった。ベンチの背もたれには、古代ローマ風の衣装をつけた男女の群れが彫ってあった。何人かが弓と矢筒を持っているところを見ると、狩りの群れだろうか。犬が数匹、周りを跳ね回っている。だが、女達は花づなを持って踊っているように見える。小さな男の子がタンバリンを叩いている。群れの中央にいるひときわ背の高い若い男は、竪琴を奏でているようだ。美佳はしばらく彫刻を眺めていたが、やがて立ち上がって、あずまやを出て先に進んだ。右側は蔦のからんだ、背の高いレンガ塀。この向こう側にも庭があるはずだ。あとで入口を捜してみよう。左側は雑木林だった。もうちょっとしたら、紅葉が見事だろう。と、小道が終わって、再び舗装道路に突き当たった。右側へ行くと、ぐるっと回って屋敷の方に戻っていくことになりそうだ。左へ行こう。

道路は緩やかなカーブを描いて、左へ、左へと曲がっていく。右側に開けた空間が見えてきた時、美佳は声をあげた。湖だった。

岸辺にボート小屋があり、その隣に木製の桟橋が長く、湖面に突き出している。桟橋の先は、手すりのついた広いテラスになっていた。美佳は歓声をあげて桟橋を渡り、テラスまで走っていった。広々とした湖水を、さざ波をたてて涼しい風が吹き渡ってくる。日の光が、水の面に反射してきらきらと光った。美佳は思いきり深呼吸して、髪を散らし、ネグリジェの裾をふくらます風を楽しんだ。

向こう岸は森のようだ。深緑の木立を背景に、神殿のような建物が見える。行ってみたいが、ボートが無いと無理だろう。美佳はちらりとボート小屋の方を見た。あの小屋の中にボートがあるのだろうか。美佳はちょっと考えたが、今日はやめておくことにした。こちら岸で、まだ、見たい所がたくさんある。水の中を見下ろすと、魚の影が見えた。美佳の影が湖水に落ちたからだろう。黒っぽい大きな魚が水面に浮かび上がってきて、口をパクパクさせている。どうやらここで、餌をもらいつけているらしい。ネグリジェの美佳は、何も持っていない。期待させては悪いような気がして、美佳はしばらく眺望を楽しむと、湖を離れた。さて、どっちへ行こう? このまま進むか、それとも、さっきのレンガ塀の背後にあるはずの庭を捜してみようか。

美佳は引き返すことにした。屋敷の方へ向かう舗装道路を下っていく。右側はずっと、高いレンガ塀が続いている。左はオレンジの果樹園だった。随分歩いたが、レンガ塀に入口は無い。美佳は首をかしげた。どこから入るのだろう? ようやく、小さな木戸があったので入ってみた。中は、小さなハーブガーデンだった。細い小道で細かく仕切られた区画に、様々なハーブが植え込まれ、ネームプレートがついている。区画の一部は草が抜かれ、土がきれいにならされていた。美佳は土にさわってみた。まだ湿っている。誰かが、ついさっきまでここで仕事をしていたらしい。屋敷は無人に見えた。だが、もちろん、この庭には、誰か管理している人間がいるはずだ。その時、レンガ塀の向こうから誰かの話し声が聞こえた。こっちに来る。美佳はあわてて木戸を抜けた。次の瞬間、目が覚めて、ベッドに横たわっている自分に気がついた。


第六章 対立

侵入してきた若い女は、ハーブガーデンを出た後、すぐに消えたと話して、オリンは報告を終えた。部屋の中に沈黙が降りた。

ガーディアンの番小屋は東の森の中にある。部下は皆、宿舎に引き上げて、今、番小屋の中には、長と、その配下の二隊を率いているオリンとキーファーしかいなかった。暖炉では、枯れた松の太い枝が燃やされ、日が落ちて暗い部屋をわずかに照らしていた。ガーディアンの長は、しばらくの間、何も言わずに炎を見つめていた。オリンはその辛抱強い、物言わぬ横顔を見ているうちに、ふいに胸が痛くなった。

長は老いていた。髪は真っ白に変わり、痩せた褐色の頬には、長年の警護と庭仕事の心労からくる深い皴を刻みつけている。がっしりした肩は責任の重圧に耐えかねるように前に傾いていた。だが、皮の鞭を握ったその手はまだ力を失っておらず、低くしゃがれた声は、いったん事がおこれば、部下を叱咤して四方に奔らせた。

突然、長は振り返ると、よく光る目でオリンを見た。

「尋問したのか」

「いいえ。明らかにイノセントでした。寝巻姿で、裸足で。あれは何も知らずに、ふらふら迷い込んできただけです」

「お前は甘過ぎる」

キーファーが口を出した。

「侵入者は皆、イノセントを装う。捕えてみなきゃわかるものか」

オリンはかっとして言い返した。

「捕えてどうする? 尋問したところで、何も知らないと言われれば、それまでだ。特に、尋問も終わらないうちに殺されては」

ジョギングの途中で一休みし、うっかり眠りこんで、この庭に迷いこんできた若い男の顔が頭をよぎった。オリンと同じくらいの年頃だった。だが、キーファーは平然としていた。

 「逃げる者はトレイターだ。やましいことがあるから逃げるんだ」

「怯えて逃げる者もいる」

「イノセントなら、怯える必要はない」

「お前のやり方じゃ、恐がらない方がおかしい。それをいちいち殺していたら…。僕らは首切り役人じゃないんだ」

「なんだと…」

長は持っていた鞭で、ぴしりと床を叩いた。二人は沈黙した。長はオリンをにらみながら、厳しい声で言った。

「我々の仕事は、ロード・ヘリオスの庭園を管理し、守ることだ。侵入者はすべて、例外なく、あらためなければならない。お前はそれを怠った」

オリンは唇をかんだ。

「だが」

長は今度はキーファーに、そのきつい目を向けた。

「ヘリオス卿は、サイレントガーデンに近づかない限り、イノセントが他の庭を散策することは許すと言われた。イノセントを殺しては、卿の意思にそむくことになる」

キーファーはうつむいた。

長はしばらく黙って二人を見ていた。静かな声で続けた。

「鍵はどこにある? 失われた鍵はどこにある? 鍵を取り戻せ。侵入者を完全に防ぐことはできない。その大部分はイノセントだからだ。だが、もし、その中にトレイターが紛れ込んできたら? 鍵を取り戻せ」

二人は黙ったまま、うやうやしく頭を下げた。

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