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ホーム 短編長編(海外) 長編(国内) 作者 花物語

サムライUSA

壱部 ・ 弐部 ・ 参部 ・ 四部 ・ 五部

サムライ

プロローグ

 無人の駐車場を蛍光灯の青白い光が照らしている。

 この駐車場を利用する小店舗―酒屋、クリーニング店、花屋、日本食レストラン、美容院―は、とうに表のドアに閉店の札を出している。さっきまで開いていたスーパーマーケットも、零時になると最後の客を送り出してそそくさと表を閉めた。彼らが帰っていった後、がらんとした駐車場に動くものはない。地面に斜めに引かれた白線がくっきりと目立ち、古い車から漏れたオイルの染みが、黒いあざのように蛍光灯の光を吸い取っている。

 静かだ。

 駐車場わきの交差点の信号だけが、無人の道路を見下ろしながら、赤から青、黄、と音もなく色を変えていく。

 

 信号が何度目かに青に変わった時、小型のヴァンが一台、駐車場に滑り込んできた。埃で汚れた白い車体の横に細長いホースと丸いブラシを装着している。

 駐車場に入るなり、ヴァンは轟音をあげてブラシを回転させ始めた。植え込みに沿って走りながらブラシでゴミを掃き出し、ホースで吸い上げる。植え込みから次の植え込みへと無人の駐車場を隅から隅まで走り回る。驚いた野良猫が植え込みから飛び出した時だけ、ヴァンは一時停止した。動物愛護精神からではない。ひき殺してしまうと、後の始末が面倒だからだ。猫が街路樹の上に逃げてから、ヴァンは再び動き出した。

 作業がほぼ終わりかけた頃、どうしたわけか、空のペットボトルがひとつ、ホースの吸引を逃れた。ペットボトルはころころと転がって、放置されていたショッピングカートの下に入り込み、そこで止まった。

 清掃夫は舌打ちしてヴァンを止めた。ペットボトル一個くらいと思うが、ボスはことの他うるさい。きれいになっていないという苦情の電話一つで首がとびかねない。清掃夫はため息をついて軍手をはめ、ヴァンから降りた。

 良く晴れた夜だった。頭上には細かい砂粒のように星が散らばっている。風はない。動かない空気はむっと強い花の香りに満ちている。もう、夏だ。

 ショッピングカートをどけ、身を屈めてペットボトルを拾い上げ、しかし、清掃夫はヴァンには戻らなかった。

 植え込みの向こうには小店舗が一列に並んでいる。そのうちの一軒の店の奥で何かが動いたような気がしたのだ。ガラス張りのドアに閉店の札を下げた日本食レストランだ。

 清掃夫は歩み寄って、店の中を覗いた。

 椅子とテーブルが並んだフロアは、非常灯に照らされてぼんやりと明るい。その中を異様な黒い影が動き回っていた。頭に三角形の奇妙なヘルメットをかぶり、いかつくこわばった肩を持つ影は、片手に長い棒のようなものを持っている。

 サムライ。

 それは映画で見たことのある、日本の鎧武者の姿だった。

 清掃夫は、息をのんで目をこらした。

 サムライは四人いる。それが三対一で戦っているようだ。

 一人が打ちかかり、手強く跳ね返された。いったん下がると、残りの二人に無言の合図を送り、今度は三人で一斉に切りかかった。防御側は一人の刀を跳ね返し、するすると後ろに下がった。が、そこで壁にぶつかった。逃げ道を絶たれ、なおも戦ったが、ついに刀を叩き落され、降参するように両手を上げた。その無防備な腹めがけて刃が突き出された。

 清掃夫は思わず声をあげた。

 サムライは一、二歩よろよろと歩き、膝が砕けたようにばったりと前のめりに倒れた。

 うまいものだ。

 もちろん、これは演技だろう。このレストランでパーティでもやるのかもしれない。

 清掃夫は感心しながら、倒れたサムライが起き上がるのを待った。

 サムライは動かない。

 その身体の下のカーペットが、濡れたように黒い。

 勝者は床に膝をつくと、倒れた相手の首にちょっと手をやった。顔を上げると、その目がドアの外で覗き見していた清掃夫の目とかちあった。

 サムライは立ち上がると、刀を下げたままこちらに近づいてきた。顔は良く見えない。だが、清掃夫は、ヘルメットの陰で白い歯が光ったのを見たと思った。

 サムライは笑ったのだ。

 清掃夫は逃げ出した。

 停めておいたヴァンに飛び乗ると、大急ぎで駐車場を離れた。

 あとはただ、無人の交差点で、信号が規則正しく色を変えていた。


第一章 バッドニュース    

 

「勘弁してくれよ。料理の持ち込みなんて無茶だよ」

 その夜、俺は特別手ごわい相手と戦っていた。

「無茶だからわざわざ頼みに来たんじゃないの。わからない人ね」

香織さんはきつい目で俺を睨んだ。

「わからないのはどっちだよ」

 俺はため息をついた。

 俺がバイトしてるカラオケ喫茶の「エコー」は、ロサンゼルスのダウンタウンのはずれにある。カウンター、猫の額サイズのステージがあるフロア、それに個室が二つあるだけの、こじんまりした店だ。客は近くの店やオフィスで働く日系人が多く、昼食を取りに来たり、仕事帰りにビールを一杯やりに寄る。日本人留学生が、友達誘ってカラオケに来たりもする。

 香織さんはUSCの音楽科の学生で、週に一度は顔を出すお得意さんだ。家はお金持ちらしい。授業料の高い私立大学に留学してるんだから当然、予想できることだけど、おそろしく強情でわがままなお嬢さんでもあった。

 俺は戦術を変更して、からめ手から攻めることにした。

「な、このメニュー見てくれよ。和食から中華、アメリカン、メキシカンと品揃えの豊富なこと。ここから選ばないって手はないだろう?」

 コックのホセはきつねうどんからカリフォルニアロール、えびシューマイ、ピザ、ハンバーガーにタキトス、タコスとそれこそなんでもこなしちまう器用なやつだ。香織さんはふんと、鼻であしらった。

「知ってるわよ。いつも来てるんだから」

「じゃあ…」

「あのね、あたしはホセの料理に文句あるんじゃないの。ただ、このパーティは盛大にやりたいのよ」

「盛大に注文してくれていいよ」

「予算がないのよ、わからない人ね」

「つましくやるなら個人宅でやりゃいいだろ?」

「人数集まれる広い場所がいるの。一生一度のことなのよ。みんなでお祝いしてあげたいじゃないの」

 ああ言えばこう言う。俺はくたびれてきた。

「わかったよ。オーナーに頼んでやる。でも、佐藤さんがダメと言ったらあきらめろよ」

 オーナーの佐藤氏は、店の奥でレイカーズの試合の中継を見ていた。勝っていてくれろよ、と俺は心の中で祈った。こんな非常識な話を持ち込まなきゃならない時には、オーナーが少しでも機嫌がいい方が助かる。

「佐藤さん、ちょっといいですか?」

「なんだ」

 佐藤氏は画面から目を離さずに答えた。俺はちらりとスコアに目をやった。六十二対五十九。接戦だ。

「香織さんが、うちでパーティやりたいって言うんです。料理持込みで」

 佐藤氏がこちらを見た。

「アホか」

「ですよね、やっぱり」

 怒鳴られないだけ、マシだ。俺はさっさと退散しようとした。ところが。

「何のパーティなんだ?」

「ウエディング・シャワーだそうです」

 俺は香織さんから聞いたとおり説明した。香織さんの友達の真由ちゃんが来月結婚する。アメリカでは、ウエディング・シャワーというしきたりがある。新婦の友人が結婚式の前に集まって新生活に必要な品物をシャワーのように浴びせて祝ってやるという習慣だ。普通、新婦の姉妹、親友、同僚などが幹事になって計画するものらしいが、留学生の真由ちゃんの家族は日本にいる。そこで世話好きの香織さんが買って出た、ということらしい。

「招待客は二十人、みんな学生で金が無いから、料理は持ち込みたいと」

 いいよ、と佐藤氏はあっさりと言った。俺の方がびっくりした。

「いいんですか?」

「日曜日の九時なら、うちはひまだ。ただし、飲み物の持ち込みはなし。うちで買ってもらう。そこは守れよ」

 テレビからわっと歓声があがった。レイカーズがゴールを決めたのだ。佐藤氏はテレビに向き直って、もう、こちらを見ようともしなかった。

 香織さんは喜んだ。ヒロ君に相談してよかったわあ、と言う。相談というよりごり押しだったのだが、感謝されて悪い気はしない。

 真由ちゃんに知らせる、と言って、香織さんはスマホでメールを打ち始め、俺は店の後片付けと掃除を始めた。火曜日の夜で、客は多くなかった。週末の夜は、学生アルバイトの美紀ちゃんが応援に来るが、平日のウエイターは俺一人だ。もう少し忙しいとチップが増えて助かるんだが。

 香織さんが、スマホをしまって立ち上がった。

「ヒロ君、うちまでライドしてくれない?」

「なんだよ、いきなり」

「わたし、車ないのよ。整備に出してるの。ここへは友達に送ってもらったのよ」

「俺、まだ、勤務時間中だよ」

「上がっていいぞ」

 店の奥から佐藤氏が出てきてぶすっと言った。「どうせもう、誰も来ない。さっさと上がっちまえ」

 ラッキー、と香織さんが明るく言い、俺は、時短になって―そして減給になって―タイムカードを押した。

 

 翌日、ちょうど昼飯時の客が帰って、一段落した時だ。OLが二人、食後のコーヒーを前におしゃべりに夢中で長っ尻してる他は、俺の知り合いの、のりというへなちょこが、壁の大型スクリーンでテレビ見ながら、カウンターでうどんをすすっているだけだ。

「あれ、これ、『やまと』だよ」

 のりが素っ頓狂な声を上げた。

「うわ、どうしちゃったんだろ」

 ロサンゼルス郊外らしい風景が画面に映っている。百日紅とスタージャスミンの植え込みがある駐車場。中央に大手チェーンのスーパーマーケット。その両隣に、ちまちまと小さな店舗が並んでいる。ピザ屋、酒屋、美容院、それに日本食レストラン。

 俺も何回か行ったことのある日本食レストランの「やまと」だ。そのガラス扉の前に、立ち入り禁止の黄色いテープが張られている。クライムシーン、キープアウトの黒い文字が禍々しい。画面中央に、若い女性レポーターが深刻な顔をしてマイクを握って立っている。背景には数台のポリスカーと制服の警官、なにやら物々しい雰囲気だ。

 ヴォリュームを上げると、ざわざわという雑音と共に、レポーターのかん高い声が聞こえてきた。

 それによると、今日の十一時少し前、ウォールナットにある日本食レストラン「やまと」で、若い男の死体が発見された。見つけたのは、出勤してきた昼番のウエイトレス。開店準備のために、タタミルームの障子を開けると、よろいかぶとに身を固めたサムライがテーブルの上にすわっていた。畳に大量に血が流れ、壁にも血しぶきが飛んでいた。ウエイトレスの悲鳴を聞いてキッチンからスタッフが飛んできて大騒ぎになり、マネージャーが警察に知らせた、ということだった。

 警察の調べで、よろいかぶとを着て死んでいたのは、「やまと」の寿司シェフの沢木実さんだとわかった。沢木氏は、今日、出勤時間の十時を過ぎても姿を見せなかった。マネージャーが自宅と携帯に電話を入れたが、連絡がとれなかったという。キッチンスタッフはウエイトレスが悲鳴をあげるまで、沢木氏が店のタタミルームで死んでいることにまったく気がつかなかったと言っている。それ以上のことはまだ、わかっていない。

 大変だな、という声で振り返ると、いつの間にか、オーナーの佐藤氏が後ろに立ってテレビを見ていた。隣にキッチンから出てきたホセもいる。

「佐藤さん、この人、知ってるんですか?」

「一度ぐらい、どこかで顔を合わせたかな。狭い世界だからな」

 佐藤さんはリモコンを手に取るとチャンネルを切り替えて、野球中継を見始めた。ホセは、「サムライ、カワイソウネ」と言ってキッチンに戻っていき、俺はOL二人が帰っていった後のテーブルを片付け始めた。同じ日本人なのに冷たいようだけど、俺たちには何もしてやれないし、こっちも生きていかなきゃならない。

うどんを食べ終わったのりだけが、俺の後にくっついてきた。

 のりはLAに来てまだ二ヶ月にしかならない留学生で、英語学校に通いながら大学進学を目指している。俺が昔世話になった寿司シェフの幡野さんの家に下宿していて、たまたま俺が幡野さんの家に寄った時、「ヒロ君はアメリカ生活の大先輩だからな。目をかけてやってくれよ」と言われた手前、邪魔っけでもそう冷たくはあしらえない。

「ねえ、ヒロ君。『やまと』どうなっちゃうのかな?」

「どうもならないだろ。しばらく臨時休業になるだろうけど」

「そっか。じゃあ、僕も、しばらく休みになるのかな」

 のりは暢気な顔で、仕事ないなら、どっか遊びに行こうかな、と言った。

「お前、『やまと』でバイトしてるのか?」

「先々週から、週末の夜だけね。幡野さんが口きいてくれたんだよ。ウエイターって結構、大変だね」

「幡野さんは『やまと』のオーナー、知ってるのか?」

「うん。寿司シェフの実さんも、幡野さんの紹介だったんだって。時期は違うけど、築地の同じ店で修業したんだってさ」

「実さんって、死んじまった寿司シェフじゃないか」

「うん。幡野さん、ショックだろうね」

「実さんって、どんな人だったんだ?」

「よく知らないけど、なんか、ぶすっとした人だったよ。珍しいよね。寿司シェフって、おしゃべりな人多いじゃない」

「そりゃ、人それぞれだろ」

俺は幡野さんの家に電話を入れ、留守番電話にメッセージを残した。

 

夕方、香織さんが現れた。開口一番、ニュース見た? と聞いた。

「見たよ。『やまと』のことだろ」

「違う。サムライの幽霊のことよ」

「幽霊?」

「あっきれた、なんにも知らないの?」

 香織さんが言うには、「やまと」の寿司シェフは、サムライの幽霊に囲まれて刺し殺されたのだという。

「夜、パーキングを清掃していたメキシカンの掃除夫が窓の外から見たんですって。『やまと』の店の中でサムライが戦ってて、一人が殺されたんだって。三対一だったそうよ。やった奴は掃除夫が覗いてるのに気がついて、恐ろしい顔をして笑ったんで、必死で逃げたってニュースで言ってた」

「それは幽霊じゃないよ。生きてる人間が鎧武者の扮装をしてたんだ」

「もう、ヒロ君たら、夢もロマンもないのね」

「そんなものなくても生きていけるさ」

「のり君は、バイト休みになったって喜んでた。しばらく開けられないわよ、あの店。殺人事件の現場じゃね。そうだ、真由ちゃんのシャワーね、結構、人数集まりそうなの。三十人ぐらいになりそうなんだ。よろしくね」

 しゃべりたいだけしゃべって、香織さんは帰っていった。

 

 第二章 幡野さんの話

 

 その夜、俺は仕事が終わってから幡野さんの家に行った。

幡野さんは奥さんの康子さんと娘の恵ちゃんとLA郊外の庭付き一戸建てに住んでる。面倒見のいい人で、日本からの留学生がいつも一人や二人、ホームステイしている。俺も渡米したばかりで右も左もわからない時に、世話になった。

アパートを借りて一人暮らしするようになった今でも、折に触れて夕食をごちそうになりに、ここへやって来る。この家のキッチンで皆でテーブルを囲んでいるとなぜか、ほっとするんだ。自分のことを裏表よく知っている人たちの間にいる安心感かな。あまり認めたくないけど、「家族」のありがたみが、渡米して九年たって、ようやくわかってきたのかもしれない。康子さんのホームメイド、絶品の白菜とキュウリの漬物の引力は別にしても、だ。

 この夜、幡野さん宅のキッチンは静かだった。夕食の間、『やまと』の寿司シェフの話題は出なかったが、かえって不自然で会話はぎこちなかった。テーブルは早々に片付けられ、康子さんはさっさと洗い物に立った。幡野さんは難しい顔をして煙草をふかし、下宿人ののりは学校の宿題を口実に自室に消えた。俺もそろそろ引き上げようとした時、ヒロ君、と幡野さんが呼んだ。

「俺、森田と今日、電話で話したんだがな……」

 森田氏は、「やまと」のオーナーだ。幡野さんとは同じ県人会に所属している。幡野さんのうちの居間には、金色に輝く大小のトロフィーがいくつも飾ってある。県人会が、親善ゴルフトーナメント以外に何をしてるのか、俺なんかにはわからないが、出身地は、アメリカで暮らしていると結構意識させられる。「どちらのご出身ですか?」は、アメリカ人であろうと、インド人であろうと、日本人であろうと関係なく初対面の会話でよく出てくる質問だ。話のとっかかりとして無難なんだろう。出身地がオハイオ州だろうが、ボンベイだろうが、千葉県だろうが、それで相手を傷つけることはない。幡野さんと森田氏は、たしか、秋田県の出身だったはずだ。

「沢木は殺されたんだと森田が言うんだ」

 幡野さんは暗い声で言った。

「警察がそう言ったんですか?」

「今日、警察にメキシコ人の清掃業者が出頭してきたそうだ。昨夜遅く、『やまと』の店内でサムライがもう一人のサムライを刺し殺したのを見た、と言ってるそうだ」

「サムライが?」

「よろいかぶとを着た人間が、だろうな。マスコミは幽霊だと騒いでるが」

「その男は警察に通報しなかったんですか?」

「怖くて一目散に逃げてしまったと言ってる。家族や友人に話したら、夢でも見たんだと笑われたそうだ。ところが、今日になって『やまと』の事件が報道された。何か関係があるかもしれないから、と警察に話すように周りから勧められた。本当は関わり合いになりたくなかっただろうが、後であれこれ余計なことを詮索されるよりは、先に警察に情報提供しておいたほうがいい、ということだろう。不法滞在者は辛いな」

「それで、その男は殺されたサムライが沢木さんだと言ってるんですか?」

「いや。店の中は薄暗くて顔なんかよく見えなかったそうだ。サムライはかぶとをかぶってたわけだし」

「じゃあ、沢木さんとは限らないじゃないですか」

「そりゃそうだが、戦国時代の日本じゃあるまいし、現代のLAで、よろいかぶとを着た人間が一晩のうちにそんなにころころ死ぬか?」

「まあ、そうですけど」

 俺は黙った。幡野さんも黙って煙草をふかし、沈黙が続いた。康子さんはこっちに背を向けて皿を洗っている。水音だけがやけに大きく聞こえた。

「なあ、ヒロ君。俺は沢木が哀れでならないんだ。あいつは、真面目なやつだったよ。ていねいな仕事をするやつだった。いずれは独立して自分の店を持つってのがあいつの夢だった。若いのに遊びもしないで、せっせと金を貯めていたよ」

「礼儀正しい人でしたね」

 康子さんは皿洗い機の蓋をばたんと閉めると、くるりとこちらに向き直った。

「アメリカへ来てすぐ、ここへ挨拶に見えたんですよ。うちの人は、日本で同じ親方についたってだけで、実際には会ったこともなかったのにね」

 康子さんの目は怒りを含んできらきらと光っている。

「わたし、腹が立ってたまらないの。よろいかぶとなんて、漫画じゃあるまいし。ヒロ君、誰があんなことしたのか、調べてくれないかしら」

 俺は仰天した。

「それは警察の仕事でしょう?」

 警察なんて、と康子さんは馬鹿にしたように言った。

「たかが日本人ひとり死んだところで、何もしてくれやしませんよ。自分達の仲間が殺されれば大騒ぎしますけどね。実さんはアメリカ市民でもなんでもないんだから」

うん、そうだな、と幡野さんがうなずいた。

「何年か前、裁判所の前で警官が一人射殺された事件を覚えてるか? やったのはギャングになりたがっていた馬鹿な若いやつだったんだが、あの時はすごかった。ポリスカーが二十台以上出動して、ヘリコプターを何台もとばして犯人を追いかけまわしたんだ。亡くなった警官の葬儀も一大イベントになって、さすがに新聞が皮肉ったよ。一介の市民が殺された時もここまで熱心にやってくれたら、もう少し犯罪が減るんじゃないかって」

 俺は昼間見たテレビを思い出した。『やまと』の前には、ポリスカーが三台いただけだった。

「ヒロ君、俺は犯人を捕まえてくれって言ってるんじゃない。そんなことは、俺だってできないさ。ただ、沢木がどうしてこんなことになっちまったのか、それを知りたいんだ。さ来週には、沢木の弟が日本からこっちへ来るそうだ。その時、ちゃんと説明してやりたいんだ」

「ヒロ君にこんなことお願いするなんて、筋違いよね。実さんに会ったこともないのに。本当はわたし達が自分でやるべきなのよ。でも、この人は一日中、店に縛られて動けないし、わたしも、恵がいるから思うようにならない」

 康子さんはうつむいた。「正直言って、気がとがめてるの。実さんのこと、もっとちゃんと見てあげてればって」

「頼むよ、ヒロ君。沢木の弟が来た時、俺は沢木のために、何か言ってやりたいんだ」

 二人に頼みこまれて、俺は、わかりました、と言った。

「俺も仕事があるから、大したことはできないかもしれませんけど」

「うん。もちろん、仕事優先は当たり前だ。暇を見てやってくれればいいんだよ」

 

幡野さんも人がいいな、家に戻る車の中で俺は思った。誰でも自分の生活で手一杯で、人の面倒まで見られないのは当たり前じゃないか。沢木氏がおかしな死に方したからって、気に病む必要なんかないんだ。知らん顔してたってかまわないのに。

もっとお人好しなのは、その幡野さんから面倒な仕事を頼まれ、引き受けた俺だ。なんで引き受けたりしたんだろう?

 実のところ、俺は実さんに一度だけ会ったことがあった。もう随分前、幡野さんのところからアパートに引っ越した時だ。幡野さんの知り合いが何人か、引っ越しの手伝いに来てくれて、そのうちの一人が実さんだった。フォードのピックアップに引っ越し荷物を積み込んで運んでくれた。お礼にランチをおごったけど、無口な人で、特に話もしなかったし、その後疎遠になった。幡野さんはもう、忘れているらしい。俺も今日の午後まで忘れてた。

でも、その義理だけで引き受けたわけじゃない。

 

外国でひとり死んだ親族なんて、迷惑なだけだろう。日本にいないのだから、あまり交際もなかっただろうし、音信さえ途絶えがちだったかもしれない。去るものは日々に疎し。ほとんどその存在すら忘れている人間が死んだと突然の知らせを受けても、大概の人は戸惑うだけだろう。それでも、会社や商売を休んで、自分の予定を変更して、時間とお金をかけて大急ぎで飛行機に乗る。なんで自分が、と内心ぼやきながらも、世間体を考えて、義務感からはるばるやって来る。

 実さんの弟さんは、優しい人かもしれない。お兄さんの死を悼んでいるかもしれない。そうであってほしいと思う。でも、それなら余計に、その弟さんに迷惑をかけてしまった実さんは心苦しいだろう。

 幡野さんにはその気持ちがわかるのだ。実さんの代わりに、こんなことは本意ではなかったのだと、一言、弁解してやりたいのだと思う。

馬鹿げた感傷だ。でも、俺は、それに付き合うことにしたんだ。

弐部


ロサンゼルスの通り

第三章 麻美さんの話

 

 俺は翌日、のりに電話をかけて、実さんが亡くなった日に「やまと」で一緒に働いていた同僚の名前を聞いた。昼番の咲枝さんは子持ちの主婦だそうだから、簡単に家をあけるわけにはいかないだろう。だが、ディナーウエイトレスの麻美さんは学生で、しかも、のりと同じ英語学校に通っているという。

「学校が終わってから、麻美さんと一緒に『エコー』に来いよ」

「ランチおごってくれる?」

「ランチはおごらない。クリームソーダぐらいならおごってやる」

「日本式のやつ?」

「ちゃんとチェリーもついてる」

「麻美さんに話してみる」

 ランチタイムの客が一段落した二時近くになって、のりと麻美さんがやって来た。麻美さんはすらりとした身体つきの、日焼けした健康そうな美人だった。ビーチバレーをやっているという。

 約束通り、メロンソーダにアイスクリームを浮かべ、チェリーをトッピングした日本の喫茶店式クリームソーダを出してやると、麻美さんは、懐かしい、と目を輝かせた。日本じゃスタバの方がおしゃれだろうけど、ここじゃアイスカプチーノより昔ながらの安っぽいクリームソーダの方が喜ばれる。無いモノねだりってやつさ。

 クリームソーダを飲んでる麻美さんに、俺は事件のあった夜の実さんの様子を訊ねた。

「別に変わったことなかったと思いますけど」

 麻美さんはアイスクリームをソーダの底にスプーンで押し込みながら言った。

「あんまり忙しくない日で、閉店してすぐに帰りました。実さんもそうだったと思いますけど」

「『やまと』の閉店は何時?」

「十時です」

「あの日、店にいたのは誰?」

「フロアにいたのはわたしと、マネージャーの梅田さん、寿司シェフが実さんとサントス、バスボーイ(テーブルの後片付けをするボーイ)がルディ、キッチンはカルロス、エマニエル、リオ、ミゲールです。いつものメンバーです」

「最後に店を出たのは誰?」

「梅田さんだと思います。裏口の鍵をかけて、警報装置のスイッチを入れて帰るんです」

「じゃあ、鍵を持っているのは梅田さんだけ?」

「実さんも持ってました。朝一番早く出勤するのは寿司シェフですから。あの日も、朝、実さんがいないから、裏口が開いてなくてキッチンスタッフが中に入れなくて困ったって聞きました。まさか、中で死んでるなんて誰も思わないでしょ」

「鍵はかかってたんだ」

「ええ。梅田さんが来て、開けたそうです。でも、どうしてこんなこと聞くんですか? わたし、知ってることは全部、警察に話しましたけど」

 俺は幡野さんと実さんの関係を説明した。

「つまり、実さんは弟弟子にあたるわけなんだ。それで、気にしてるんだよ」

 はあ、と麻美さんは納得したんだかしないんだかわからないような顔をした。

「でも、わたしに聞いても大したこと、わかりませんよ。実さんとはほとんど話したこともありませんから」

「でも、君は、『やまと』に一年近くいるんだろ?」

 麻美さんの隣にすわってずるずるとソーダを飲んでいるのりから得た情報だ。

「一年いたって、仕事以外で実さんと口きいたことなんかないです。年齢が全然違いますから」

 アメリカで暮らしていて「ところで、おいくつですか」と聞かれることは、相手が日本からの旅行者か留学生でない限り、まず絶対にない。履歴書にさえ、生年月日を書く欄はない。年齢を聞かれるのは、医者にかかる時くらいだ。おかげで、俺の年齢推定能力はかなり退化している。でも、おそらく、麻美さんはのりと同じくらいだとして二十歳台の前半だろう。実さんの正確な年齢は幡野さんも知らないらしいが、三十五歳前後じゃないか、と言っていた。

 麻美さんは口をとがらして続けた。

「年が違う上に興味の対象がまるで違うから、話すことなんかないんです。実さんに期末試験の話なんかしたってしょうがないでしょ?」

「でも、テレビとか映画とかスポーツの話なんかしなかった? 音楽とかは?」

「全然。テレビも映画も見ない人みたいでしたよ。お客さんがそんな話しても、へえ、そうですか、みたいな感じで。野球にもバスケにもフットボールにも興味なし。音楽は…一度、耳にイヤホンを入れてるから、何、聞いてるんですかって聞いたことあるんです。そしたら、スペイン語会話のテキストだって」

 麻美さんは、処置なし、といった顔をした。

「真面目なのはわかるんですけど、あんまり笑顔も無くて、わたしなんか最初、ちょっと怖いみたいに思いました」

「お店で実さんは誰とも話をしなかったの? マネージャーとか、もう一人の寿司シェフとかは?」

「みんな、梅田さんとはよく話してます。気安いというか、年が離れてるって気がしないんです。実さんも梅田さんとは普通に接してたと思いますけど、それ以上じゃないんじゃないかな。サントスはとっても陽気で、冗談ばかり言ってます。実さんとは本当は合わないたちだと思う。以前、サントスが、ミノルは酒も飲まず、遊びにも行かず、ギャンブルもしないし、ガールフレンドもいない。何が楽しくて生きてるんだろうって言ったことがありました。その時は、自分が遊び好きなもんだから、あんなこと言ってるって思ったけど、でも、考えたらその通りなんです。死んだ人のこと悪く言いたくないですけど、実さんって、近づきがたくて、よくわからない人でした」

 カウンターの向こうに立ち、うつむいて黙々と手を動かす実さんの姿が見えてくる。

「店の中で、実さんと一番仲がよかったのは誰だろう?」

「多分、ランチウエイトレスの咲枝さんじゃないですか。年が近いから。あと、仲がいいっていうのとはちょっと違うかもしれないけど、バスボーイのルディとはよく話をしてました。スペイン語会話の練習のつもりだったんだと思いますけど」

「何を話してたんだろう?」

「さあ。わたし、スペイン語はわからないんです」

 俺は礼を言って、麻美さんとのりを帰した。咲枝さんとルディから話を聞く必要がありそうだ。俺は幡野さんの携帯にメールして、森田さんから二人の電話番号を聞き出してもらうように頼んだ。今晩、あまり忙しくなかったら、早めに上がらせてもらって、どちらかに会いに行こうと思ったのだが、夕方、香織さんがエコーに姿を現したことで、計画はおじゃんになった。

 

 第四章 レジストリ

 

「ヒロ君、今晩、付き合ってよ」

「どこへだよ」

「ベイビーズラス。ギフト・レジストリを登録するの」

 都合が悪い、なんて言っても聞く相手じゃない。幡野さんからはまだ、咲枝さんとルディの電話番号を言ってこない。店は暇で、オーナーの機嫌は悪い。俺は、香織さんに付き合うことにした。

 香織さんの車は地下駐車場の真ん中にでんとすわっていた。真っ白でピカピカのBMW.ナンバープレートはMYFARCN。マイファルコン、あたしのハヤブサの意味だろう。

「整備は済んだのかい?」

「何の?」

 もう忘れてるらしい。俺は深く追及しないことにした。下手につつくと、後の仕返しが怖い。「わからない人ね」と軽蔑されるくらいならいいが、思いがけない深手を負わされる一言が待ってるかもしれない。一度、空港の出発ロビーいっぱいの人の前でやられて、顔から火が出た。以来、トラウマだ。

 あまり飛ばさないでくれよ、と俺は頼んだ。フォローするのに骨が折れるからな。俺の年寄りシヴィックをいたわってやってくれ。

 香織さんの辞書に「忖度」という言葉はない。

「まどろっこしいわねえ。あたしの車で行きましょ」

「でも、俺の車……」

「心配しなくても、ちゃんとここまで送ってあげるわよ。もう、ぐずぐずしてたらお店、閉まっちゃうじゃないの。わからない人ね。そっち乗って!」

 新しくて整備したてのBMWは快調に走った。悔しいけど、走りの滑らかさ、音の静かさ、クッションの良さは、俺の十二年もののシヴィックよりはるかに優れている。これも言っておかなきゃならないが、香織さんの運転は、「荒いがうまい」。俺は安心してシートに寄りかかった。

「ところで、ギフト・レジストリって何だ?」

「結婚するカップルが、ほしい品物を選んでお店に登録しておくの。ゲストはそれを見て、自分の予算に合ったものを選んで買ってあげるのよ。普通は台所用品とか寝具とかバス用品ね」

「日本じゃ結婚式のお祝いは現金封筒だって聞いた」

 俺は日本の結婚式に行ったことないから知らないが、友達の話によると、二十歳台だと二万円とか、三十歳台だと三万円とかの「相場」があるらしい。

「こっちでもキャッシュを贈る人はいる。でもね、この方が合理的じゃない? 誰もが二百ドル、三百ドルのギフト代出せるわけじゃないでしょ。そういう人は、レジストリから予算に合った品物を選べばいいんだから」

 なるほどね、と俺は感心して、あれ、と思った。

 待てよ。

「香織さん、俺たち、どこへ行くの?」

「ハシェンダハイツのベイビーズラスよ、真由ちゃんのとこから近いから」

「結婚祝いのレジストリが、なんでベビー用品の店なの?」

 香織さんは無言のまま、ちらり、と俺を見た。

「ってことはつまり……」

 できちゃった婚、か。

「真由ちゃんが結婚するヴィンスは、もう、家を持ってるの。家具も電化製品もバス用品も一通りそろってるから、いらないのよ」

「ヴィンスっていくつなんだ?」

「五十二歳って言ってた」

「真由ちゃんは?」

「二十七歳」

「倍近く年が違うじゃないか」

「そりゃそうよ。ヴィンスにとっては三度目の結婚になるんだもの。二度結婚して、二度離婚したの。それで、息子が二人、娘が三人いる。一番上の息子は三十歳ですって。あとの子どもたちも、もう独立して家を出てる。一番下だけがまだ未成年なんだけど、別れた奥さんの方と暮らしてて、ヴィンスとは時折、休暇を一緒に過ごすだけみたいね。真由ちゃん、会ったことはないらしいけど」

「呆れたね」

「何が? 離婚、再婚は日本でも珍しくないでしょ」

「真由ちゃんはいいのか? そんな年寄りで、二度も結婚に失敗してて、自分より年上の息子がいるような相手で」

「真由ちゃんがいいと言ってるんだから、いいんでしょう。それに、ヴィンスは年寄りじゃないわよ。自分で持ってたビジネスを売って、もうリタイアしてるの。アウトドア派で、キャンプやツーリングによく出かけてる。生活をエンジョイしてるのよ。ヒロ君より、きっとずっと体力あるわよ」

 どうせ俺は、生活に疲れた勤労青年だよ、とふと、ひがんでみたくなった。

「真由ちゃんの両親はなんて? 父親なんて、へたすると義理の息子より年下になっちまうんじゃないか?」

「多少はもめたみたいだけどね。でも、結局は真由ちゃんしだいでしょ。これ、そんなに悪いはなしでもないのよ。相手はお金持ってるし、今のとこ健康だし、連れ子は一人を除いてみんな成人して家を出ていて、末の娘も一緒に暮らしてはいない。初婚じゃなくても、夫婦水入らずには変わりないでしょ。それにね……」

 香織さんは意味ありげに黙った。

「それに、何だよ」

「ヴィンスと結婚すれば、真由ちゃん、永住権が取れるのよ」

 それか……。

 アメリカで生まれる幸運に恵まれず、それでもアメリカで暮らしたい人間が喉から手が出るほど欲しい永住権。

 

 アメリカの移民政策はどんどん厳しくなっている。仕事や投資、特殊技能を理由にしての永住権申請では一年に許可される件数が決まっているから、順番待ちになる。何年かかるかわからない。技能なんか何も持っていなくても、高い給料と豊かな暮らしを求めてアメリカ移住を望む人間は、世界中に大勢いる。

特に中南米諸国。国境のこちらとあちらで、あまりにも違う生活水準を見れば、こっちで暮らしたくなるのは当たり前だ。ベトナム戦争の頃、アメリカ軍に志願すると、満期除隊の後、永住権をもらえたそうだ。戦場に行くんだから、それこそ命懸けだ。そうやって永住権を得た人に会ったことがある。人の好い普通のおじいさんだった。銃の扱いにやたら詳しかったけど。

 今はそんな制度はないから、手っ取り早く永住権を手に入れる方法は二つ。一つは、アメリカ政府が行っている永住権取得籤引き制度。但し、これは特定の国民のみにあてはまる制度だし、くじに当たらなければそれまで。宝くじを当てようとするのに似ている。

もう一つが、アメリカ市民との結婚だ。

「ヒロ君には、真由ちゃんの気持ち、わかるでしょ」

 香織さんの言葉に、俺は、ああ、と言って、ため息をついた。

 

 ベイビーズラスで、香織さんはベビー服だの、紙おむつだの、哺乳瓶だの、ベビー用ブランケットだの、玩具だのをせっせと見て回って、コンピューターに登録した。それはいいんだけど、時折、俺に意見を求めるのが困りものだ。

「ヒロ君、こっちの黄色いアヒルちゃんと、ピンクのうさちゃん模様と、どっちが可愛いと思う?」

「どっちも可愛いよ」

「だから聞いてるんじゃないの、もう、わからない人ね」

 文句言われても、俺はベビー服には興味がないんだから仕方ない。

 店の人はにこにこして香織さんに、予定日はいつですか? と聞いた。

「十二月の末なんです」と、香織さんが答えると、楽しみですねえ、と俺に向かって言った。この人、何か勘違いしてないか?

「おい、さっさと済ませて早く出よう」

「ちょっと待ちなさいよ。あと、子供用の靴を見たいの」

「なんで靴? 赤ん坊が歩くのなんてずっと先の話だろ」

「だから楽しみなんじゃないの。早くこの靴が履けるくらい、大きくなりますようにって、親ってそう願うものでしょ」

 話にならない。

「何、焦ってんのよ。ヒロ君も、こういうこと、少しは知っておいたら? いつ、必要な知識になるかわからないでしょ」

 当分、その予定はないよって言い返そうかと思ったが、止めた。下手なこと言うと、香織さんが何を言い出すかわからない。ベイビーズラスで修羅場なんてごめんだ。

だいたい、なんで俺と来るんだ。真由ちゃんと来れば良かったじゃないか。俺がそう言うと、香織さんが珍しく暗い顔になった。

「そのつもりだったのよ。でも、真由ちゃん、急に体調崩しちゃって、来れなくなっちゃったの」

「病気?」

「本人ははっきり言わないんだけど、学校も休んでるんですって。大したことないといいんだけど」

 俺も心配だ。シャワーは来週の日曜日だぞ。

 エコーの駐車場に戻ると、幡野さんからメールが来ていた。咲枝さんとルディの電話番号を知らせるメールだった。

 

 第五章 咲枝さんの話  

 

 二つの電話番号のうち、俺は、咲枝さんの方に先に電話した。店の中で実さんと一番親しかった人だし、なんといっても死体の第一発見者だ。電話してみると、子供が学校へ行っている間なら、時間が取れるというので、俺は早起きして、仕事に行く前に咲枝さんの家に寄ることにした。

 執拗にまつわりつく眠気を冷たいシャワーで吹き飛ばしてから、六十番のフリーウエイに乗った。咲枝さんの住むタウンハウスへ行くには、幸い、LAの中心部に向かう朝の通勤の渋滞とは逆方向に走ることになる。咲枝さんは熱いコーヒーを用意して待っていてくれた。

「本当にびっくりしたわ。あんなことが起きるなんてねえ。あ、このドーナツ、おいしいのよ。一ついかが?」

 咲枝さんのご主人はUPSのドライバーをしているのだという。咲枝さんは在米十二年、二人の間には小学校三年生と一年生の女の子がいる。居間のマントルピースの上に、咲枝さんによく似た、目の細い、ふっくりした頬の女の子の写真が並んでいる。時間が無いので俺は簡単な自己紹介の後、さっさと質問を始めた。

「咲枝さんはあの日、何時に『やまと』に行かれたんですか?」

「十一時少し前だったわ。いつも通り、裏に車を停めて裏口から入ったの。そしたら、実さんがまだ来てないんだけど、何か知らないかって梅田さんに聞かれたのよ。そう言えば、裏に実さんのフォードが停まってなかったな、と思ったけど、知らないって言って。いつも通り、開店準備にタタミルームの障子を開けたとたんに、あれを見つけちゃって」

「驚いたでしょうね」

「キャッて叫んだわよ。でもね、初めは誰かのジョークだと思ったの。キッチンの誰かか、サントスが鎧着てテーブルに座ってるんだって…。サントスならやりそうだわ。で、馬鹿な真似やめなさいって言おうとしたところで、畳が汚れてるのに気がついたの。なんだろうと思って良く見たら、血じゃないの。テーブルが黒いから、最初は血が流れてるのに気づかなかったのよ。ぞっとして見直したら、かぶとの下の顔と目が会っちゃって。まっすぐこっちを見てるのに、何も見てないの。ビー玉みたいで……おお、イヤだ」

 咲枝さんは急に寒さを感じたように、半袖から出ている肉付きのいい二の腕をごしごしとこすった。

「それから警察がやってきて大騒ぎ。わたしも尋問されたのよ。警察って横柄でいやね。どことどこに触ったか、とか、ナイフをどうしたんだ、とか、まるで犯人あつかい」

「ナイフ? 実さんは刀で殺されたんじゃないんですか?」

「知らないわよ。警察がナイフって言うんだから、そうなんでしょ。わたしはナイフも刀も見なかった。でも、テーブルの下に転がってたとしても気付かなかったと思う。覗き込む余裕なんかなかったもの」

「そうでしょうね」

「テレビでサムライの幽霊だって騒いでたけど、あれはでたらめよ。あのよろいかぶとは、昔のサムライの霊がとりついてるような骨董品じゃないもの。森田さんが去年、日本から取り寄せたイミテーションなの。『やまと』には全部で四つあって、いつもタタミルームに飾ってあった。去年のハロウイーンの時、サントスが着て剣舞の真似事みたいなのをしてみせたら、お客さんの子供達は大喜びしてた」

「咲枝さんは、『やまと』の中では実さんと一番親しかったと聞いたんですが、最近、実さんの様子に何か、変わったこととか、気がつかれたことはありませんか?」

 咲枝さんは手を振った。

「親しいなんて…。わたしは少し世間話をしただけですよ。でも、まあ、真面目な人だったわね。酒も煙草もやらない。昼休みにはスペイン語会話を勉強してた。カリフォルニアじゃ、キッチンスタッフはほとんど全部、メキシコ移民で英語が通じない人もいるでしょ。将来、自分が店を持った時のためにって思ってたんでしょうね。あとはひたすら働いてお金を貯めてた。もう、亡くなってしまったから言ってもいいと思うけど、実さん、『やまと』が定休日の月曜日には、別の店でアルバイトしてたの。中国人経営の店で、カウンターじゃなく、キッチンで寿司作ってたのよ。あんなに働いて、身体壊さなきゃいいけどってわたしなんか、心配したわ」

「店の外に友達なんかいなかったんですか?」

「さあ、聞いたことない。東京の同じ店で修業した先輩がLAでやっぱり寿司シェフしてるって言ってたけど」

 幡野さんだ。

「出身地が同じ人とかは?」

 咲枝さんは首をひねった。

「さあ…。実さん、あんまり聞いたことのないところの出身だったのよ」

「へえ、どこですか?」

「西の方だった。郷土料理かなんかの話をしてる時にひょこっと出てきたのよねえ。ちょっと待って、今思い出すから……」

 咲枝さんは天井を睨んで考えこんだ。

「いや、いいです」

 幡野さんか雇い主の森田さんに聞けばわかるだろう。

「とにかく、仕事以外じゃろくろく口も利かないような人だった。確かに腕は良かった。仕事が速くてきれいで、さすがに東京で修業した人だと思ったけど、あんなに愛想が悪くちゃちょっと困るかなとも思ったわね。お客さんからお酒勧められても、断わっちゃうんだから。下戸だったんだろうけど、ご愛嬌に、形だけでも飲む振りしないとね」

「彼女もいなかったんですよね」

「いたみたいよ」

 俺はびっくりした。みんなの話から、実さんという人は、全くの朴念仁だと思っていた。

「いたんですか?」

「お節介かなと思ったんだけど、一度、知り合いの女の子を紹介しようかなと思ってね、彼女はいないの? って聞いたことがあるの。そしたら、そんな気になれないって、言われちゃった。もしかして、女に興味ないのかと思ったら、向こうも気をまわしたみたいで、以前はいたけど、振られたんだって言ったの。あんたみたいな真面目な人を振るなんて、馬鹿な女の子だねって言ってやったら、俺が不甲斐ないから仕方ないんですって言ったのよ。なんか辛そうで、あたしももう何も言えなくなっちゃった」

 沈黙。

 俺の気持ちも重くなった。

咲枝さんは、コーヒーのお代わりいかが、と言いながら立ち上がろうとしたので、俺は辞退した。そろそろ行かないと仕事に遅刻する。

「お邪魔しました」

 表口まで送りに出てきた咲枝さんは突然、みまさか、と叫んだ。

「実さん、みまさかの出身だって言ってた。わたし、関東の出身で、西の方はよく知らないものだからピンと来なかったのよ。みまさか県」

 そんな県あっただろうか?

 社会科の授業ははるかに遠い昔で、そこで聞いた内容はぼんやりした霞の向こうに消え去っている。

 俺は咲枝さんに礼を言って仕事に向かった。

 

 第六章 ルディの話        

 

 実さんは、あまり面白味のない人だったらしい。真面目で努力家だが人付き合いが下手で、友人も恋人もいない。礼儀正しいが、そこから一歩踏み込むことはない。誰の邪魔にもならず、誰の気も引かない。傍から見れば、何考えてるかわからない。麻美ちゃんのちょっと怖い、というのは正直な感想なんだろう。

 実さんの弟がやって来るまであと一週間あまり。俺はルディに電話をかけ、今晩のアポイントメントを取り付けた。時間は十一時。俺の仕事の都合上、多少早上がりにしてもどうしてもその時間になる。人を訪ねるには遅い時間だが、俺は心配しなかった。ティーンエイジャーにとっては、十一時なんてまだまだ宵の口だろう。事実、ルディはあっさり承知して住所を教えてくれた。

 

ルディは、まだ高校生で両親と兄弟姉妹と一緒に、メキシコ系移民の多い地区の一戸建てに住んでいた。今朝訪問した咲枝さんの家の周辺よりも道路は狭く暗く、入り組んでいる。舗装はでこぼこで、あちこちに穴が開いている。家が小さいのに住んでいる人間の数は多いから、道路の両側には、車庫に入りきらない車が隙間無く路上駐車している。どれも古い年式で、バンパーがへこんだり、塗装がはげたりしているのも珍しくない。香織さんのBMWなら、こんな時間にここに駐車しておくのは剣呑だ。でも、俺の古いシヴィックは、ここではしっくりと町になじんだ。

 ルディの告げた番地の前に停車して、最初に目についたのは、茶色くはげかかった芝生でもなく、ドライブウエイに設置されたバスケットボールのゴールでもなかった。前庭に植わっている松の木に、トイレットペーパーの花が満開だった。

 高校生がよくやるいたずらだ。トイレットペーパーのロールを高く放り投げて、ペーパーを木の枝に引っ掛ける。落ちてきたロールを拾ってまた投げ上げる。これを繰り返すと、木の枝という枝から無数の白い紙がひらひらと、七夕の短冊か、クリスマスツリーのモールのように翻ることになる。

 当初はそれなりに壮観だが、トイレットペーパーは所詮トイレットペーパーだ。あまり上品な飾りとは言えない。雨でも降れば濡れて破れ、パルプ状になった汚らしい灰色の塊が惨めにぶら下がることになる。町の美観を損ねることはなはだしいので、ほとんどの町でこのいたずらは禁止されているはずだが、伝統を誇るこのトイレットペーパーの花吹雪は一向に絶滅に向かう気配はない。

 ルディの家の花はまだ新しいようだった。街灯の明かりを反射して白く輝いている。このいたずらは卒業式の前後に、夜中にこっそりと目当ての家に車で乗り付け、数人がかりでしかける。この家の誰かが、来月、高校を卒業するのだろう。もしかしたら、ルディかもしれない。

 俺は花盛りの木をじっくり鑑賞してから、表口に向かった。ベルを鳴らすまでもなく、ドアが開いて、ひょろりと背の高いメキシコ人の男の子が顔を出した。

「ヒロ?」

 俺がそうだ、と答えると、入って、とドアを大きく開いた。

「親父たちはもう寝てるんだ」

 小声でささやくと、暗い家の中を通り抜けて奥へ導いた。

 

スイッチを入れると、そこは、明るい黄色い電灯に照らされたキッチンだった。暗闇に慣れていた俺は、目を瞬いてまわりをを見回した。磨きこまれた木のテーブルの周囲に椅子が七、八脚。片側に白いホウロウのオーブン。流しの奥の出窓には赤白チェックのカーテンがかかり、鉢植えのハーブが並んでいる。壁にはきれいに洗った様々な大きさの鍋が掛かっている。業務用かと思うような大きな冷蔵庫の扉には買い物メモや子供のシールがべたべたと一面に貼ってある。カウンターの隅にコーヒーメーカーと電子レンジ。壁の時計はコチコチと音をたてて時を刻み、乾いた空気の中にはタマネギとスパイスの香りが濃厚に漂っている。

ここは、ひとつの世界の中心、家族が集まる場所だ。懐かしく、安心のできる場所。俺は、子供の頃によく行った、ばあちゃんの家の台所を思い出した。

「何か飲む?」

 ルディは冷蔵庫を開けて中を覗きこんだ。

「バドワイザーでいい?」

「いや、運転するからビールはいい。コークかペプシがあったらもらおうか」

 ルディはコーク缶を出してテーブルの上を滑らせてよこした。自分はバドワイザーを開けて、うまそうに一口飲んだ。

「君、いつ二十一歳になった?」

「ついさっき」

 ルディはにやっと笑って言った。

「ママに叱られないか?」

「もう寝てるって言ったろ」

 ルディは戸棚をかき回してポテトチップの袋を探し出し、大きなボールに入れてテーブルの上に置いた。仕事を終わったばかりで腹が減ってたので、俺は遠慮なく手を出した。二人とも口をきかなかった。ひとしきり、ポテトチップをつまむ、かさかさという乾いた音ばかりがキッチンに響いた。やがて、ルディはボールを俺の方に押しやると、椅子の背に寄りかかって両足をテーブルに載せた。

「あんたに協力しろってオーナーに言われたけど、何聞きたいの?」

「実さんのことだ。実さんの弟がもうすぐ、日本から来るんだ。それで、今度の事件のこと、説明できるようにしておきたいんだ」

「警察の仕事だろ」

「警察が何かしてくれると思うか?」

 ルディは声を出さずに笑った。

「思わない」

「協力してくれるかい?」

「いいけど、でも、僕は何も知らないよ」

「君は実さんと親しくしてたって聞いた」

「まあね」

「実さんのこと、どう思う?」

「ミノルはクールだったよ」

「クール?」

 思いがけない言葉だった。誰に聞いても真面目一方の堅物としか思われていなかったような実さんが、クールだって?

「どんなとこがクールなんだ?」

「ミノルはファイターだった。男は戦うために生まれてくるんだって言ったよ。男はココロザシを立てたら、脇目もふらずに戦え、それがサムライだって」

「そんな話をしてたのか? スペイン語で」

「そう。ミノルが僕に日本語で『進撃の巨人』を読んでくれて、意味をスペイン語で言ってくれる。で、僕がミノルのスペイン語の間違いを直す。交換教授だよ」

「日本語に興味があるのか?」

「当然。僕、剣道やってるんだ」

 へえ、と俺は子供と大人の中間のような、ルディの顔を眺めた。

「ミノルも中学までやってたんだけど、膝を痛めて止めたんだって、残念がってた」

 思いもよらなかった。実さんは、日本人の同僚の誰にも心を開かなかったのに、メキシコ人のティーンエイジャーとだけは会話が成立していたらしい。

「何、変な顔してんの」

「いや。今までいろんな人にミノルの話を聞いたんだけど、みんな、ミノルは無口で無愛想だって言ってたから」

「当然。おかしくもないのにニタニタ笑えるかよ。男は半年に一度、片頬で笑えばいいんだ」

「それもミノルが言ったのか?」

「うん」

 俺は呆れた。実さんはウルトラ硬派の信条を持っていて、この少年はそれに傾倒しきっていたらしい。いや、でも有り得るか。この年頃の少年はロマンチストで、「挑戦」とか「栄光」とか「地獄の訓練」とかいう言葉にころりと参る。少年マンガやアニメを見てみろ。主人公たちは、勝利の栄光を目指し、喜々として過酷な修行に励んでいるじゃないか。現実にも「死のブートキャンプ」とか、「SEALSの特殊部隊訓練」への参加者はあとをたたない。実は俺もそういうのに憧れた時代があった。毎晩必死で腕立て伏せと腹筋運動に励み、ダンベルを振り回していた。今となっては忘れたい過去だ。ルディを笑えない。

「何、赤くなってんの」

「なんでもない。ミノルが亡くなった夜だけど、君は仕事に出ていたよね。何か、変わったことはなかった?」

「ないよ。いつも通りだった」

「何時頃に店を出た?」

「十時頃かな」

「ミノルは?」

「同じ頃」

「ミノルは夜、店を出てからまた戻るなんてことはあった?」

「知らない」

 俺はちょっと考えた。

「ミノルが死んだこと、どう思う?」

 ルディの顔が険しくなった。きつい目で俺を睨みつけた。

「F××× ×××」

 Fで始まる最悪の罵倒の言葉だ。俺はすぐに謝った。

「悪かった」

 崇拝していたヒーローが死んで、どう思うもないものだ。事件の被害者の家族にマイクを突きつけて、今のお気持ちは? とやるマスコミと同じ、無神経な質問をしてしまった。罵倒の言葉に、ルディの、俺に対する怒りと、ミノルが死んだことへの悲しみと切なさがこめられている。俺はもう一度謝った。

「すまなかったよ」

 ルディはしばらく黙っていたが、やがて、ぽつり、と言った。

「ミノルは敵に殺されたんだ」

 俺は息を呑んだ。

「敵?」

「コジロ」

「それが敵?」

「うん」

「それ、警察に言ったのか?」

「言った。証拠があるのかって聞かれた」

「あるのか?」

「無い」

「じゃ、どうしてコジロがミノルを殺したってわかるんだ」

「二週間ぐらい前、仕事に行ったら、ちょうど、ミノルがメルセデスから降りてくるところだった。メルセデスはすぐに行っちまったけれど、超クールな車だったから、あれ、誰 って聞いた。そしたら、コジロの車だって言って、あいつは敵だって言ったんだよ。ミノルの様子がなんとなくおかしくなったのはそれからなんだ」

「様子がおかしいって?」

「元気がなくなって、僕ともあまり話さなくなった。そうかと思うと、変なこと言い出すんだ。敵を前にして逃げるのは卑怯と思うか、なんて」

「なんて答えたんだ?」

「敵前逃亡は銃殺だよって言ってやった。ミノルはそうだなって言って、みんな冗談だって言った。でも、目は笑ってなかった」

「その、コジロって何者なんだ?」

「知らないんだ。僕はあの時、車に気をとられてて、あんまりよく見てないんだ」

「男か?」

「多分」

 実さんの知り合いでメルセデス・ベンツに乗る人間が、そんなにたくさんいるとは思えない。幡野さんに聞いてみよう。

 いつの間にか壁の時計が一時近くを指している。俺は話を切り上げて帰ることにした。キッチンの裏口を出ると、ガレージだった。そして、そこにゴージャスとしか言いようのないアキュラが駐車していた。俺がヒュッと口笛を吹いて賛嘆を表すと、ルディの顔が赤くなった。

「僕の車なんだ」

「君の?」

 漆黒の車はピカピカに磨き上げられ、薄暗いガレージの中で夜の湖のように白い光を放っていた。

「親父さんが買ってくれたのか?」

「まさか。バイトで金貯めて自分で買ったんだ。リース切れの三年落ちを知り合いから安く譲ってもらった。ラッキーだった」

 そういえば、のりのやつが冗談のように、「やまと」で一番いい車に乗ってるのは、一番若くて一番給料の安いバスボーイだと言っていた。こいつのことだったのだ。

「いい車だな」

「うん」

 ガレージから外に出ると、星が一杯に輝いていた。どこかの家の裏庭で犬が吠えている。その吠え声が誰もいない街路に響いて、なんとなく物悲しい気分になった。

 ルディは俺が車を駐車したところまでついてきてくれた。あのアキュラを見た後では、俺の小さなシヴィックは、大鷲の前のスズメのようにみすぼらしく見えた。ワックスがけまでは手が回らないにしろ、今度の休みには洗車してやろうと心に誓った。

 俺が車に乗り込むと、ルディが何か言った。俺は窓を開けた。

「何か言ったか?」

「コジロを見つけたら、教えてくれ」

「なぜ」

「当然、ミノルの仇を討つんだ」

 俺が言い返す言葉を見つけ出す前に、ルディは足早に家の方に戻っていった。

 

 第七章 メルセデス・ベンツ       

 

 コジロは何者か。

 電話で今までの経過を報告すると、幡野さんはかなりショックを受けたようだった。特に、ルディの「ミノルは敵に殺された」という意見は承服しがたかったようだ。あいつは、敵を作るような、そんな男じゃない、と繰り返し言った。馬鹿正直なくらい、まっすぐなやつなんだ、強盗とか通り魔に殺されたというならまだしも、ひとの恨みを買うようなそんな男じゃない、と言う。コジロという名前も聞いたことがないと言った。「沢木に、メルセデス・ベンツを乗り回すような裕福な知り合いがいるとは思えないんだがなあ」とかなり懐疑的だった。だが、森田氏にもあたって、一応調べてみると約束してくれた。

 翌日の土曜日、俺はもう一度早起きして、仕事に行く前に咲枝さんに電話をかけた。幡野さんと話している間に思いついたことがあったのだ。

ルディは、夕方、出勤した時にベンツから降りてくる実さんを見かけている。実さんは仕事熱心で無遅刻無欠勤。すると、実さんは通常通りランチタイム前に出勤して仕事し、ディナータイムが始まるまでのスタッフの休憩時間に、コジロの車でどこかへ出かけたのだ。

 そのコジロはいつ「やまと」に来たか。

 レストランで働く知り合いを訪ねる時、たいていの人間は開店中に来て、売り上げに貢献していくものだ。多分、コジロはランチタイムにやってきてカウンターにすわり、実さんの握る寿司を食べながら、彼の身体が空くのを待っていたはずだ。知り合いなら、挨拶ぐらいはしただろうし、無口な実さんも寿司を握りながら少しは話をしたはずだ。カウンター越しに客と寿司シェフが会話している時、一番近くにいるのは誰か? ウエイトレスだ。

 

コール音が続き、留守かな、とがっかりしたところで、ハローと、聞き覚えのある明るい声が出た。

「咲枝さん。ヒロです。先日は失礼しました」

「ああ、ヒロ君。おはよう。こちらこそお構いもしませんで。良かった、今、ちょうど子供を日本語学校に落として帰ってきたところなの」

「聞き忘れたことがあるんですが、あの、今、いいですか?」

「いいわよ、何でも聞いて」

「二週間ほど前に、実さんの知り合いのコジロという男が、ランチに来ませんでしたか?」

「コジロ?」

 勢いこんで電話した俺の期待をはぐらかすような、なんとも頼りない咲枝さんの声が返ってきた。

「どんな字を書くの?」

「字はちょっとわからないんです」

 字どころか、男か女かも曖昧なのだ。

「二週間ほど前に、実さんの知り合いが『やまと』にランチを食べに来て、その後、二人でどこかへ出かけたはずなんですが、気がつきませんでしたか?」

 たまたま入ってきた客と寿司シェフが意気投合して出かけた、という筋書きは、実さんの場合は有り得ない。絶対に以前からの知り合いだったはずだ。

「二週間ほど前、ねえ。……そういえば、誰か来てたわね」

 やった、と俺は叫びたかった。

「どんな人でした?」

「派手な人だったわよ。年頃は実さんと同じくらいだと思うけど、がっちりした身体つきで、ごつい感じだった。よく日に焼けてて――あれは絶対、日焼けサロンだわね――口髭なんかはやしちゃって。紫のシルクのシャツ着て、前のボタンを三つぐらい開けて、そこからゴールドのネックチェーンがちらちらするの。ロレックスなんかこれ見よがしにしちゃってさ。日本で見たら、ヤーさんまちがいなしって格好だけど、ここだから、『派手な男』で済んでるのね」

「日本人?」

「だと思う。日本語しゃべってた」

「実さんとはどんな話してました?」

「どんな話ってもねえ。あんまりよく聞こえなかった。実さんはあの通り、下向いてぼそぼそとしかしゃべらないし、相手の客の方はビール飲んでよく食べてた。でもまあ、普通の話だったと思うわよ。景気がどうとか言ってたから」

「実さんはその男と、昼の休憩の時に出かけたはずなんですが、どこへ行ったか知りませんか?」

「さあ。わたしは仕事終わったらさっさと帰ったから。その男の人がどうかしたの?」

「いや、ちょっと。実さんの知り合いが『やまと』を訪ねてくるなんて珍しいと思って」

「それはそうだわ。実さんの知り合いが来るなんて、初めてじゃなかったかしら。でも、あの人、コジロなんて名前じゃないわよ」

「え?」

「実さん、コジロなんて呼んでなかった。なんて言ってたかなあ」

 咲枝さんの記憶は今いち、信用できないところがある。昨夜、幡野さんは実さんの出身地は岡山県だと言ったのだ。岡山市内の高校を卒業してすぐ、東京に出て寿司職人の修業を始めたのだと。だが、今は、咲枝さんの記憶に頼るよりない。

 咲枝さんは電話の向こうでしきりに思い出そうとしているようだった。

「一度だけ、実さんが名前を呼んだのよね。わりと平凡な名前だった。ああ、ここまで出てるんだけど……」

 俺は黙って待った。これは思い出してもらいたい。ぜひとも。

 ああ、とため息のような声が聞こえた。思い出したか?

「こういうのって、老化の始まりなのかしら。イヤねえ。これだから、うちの娘たちに馬鹿にされるんだ。マミー、もう忘れちゃったのって最近、生意気でしょうがないの。反抗期かしら」

「ゆっくり考えて下さい」

 俺は咲枝さんの思考を娘達から名前に引き戻した。

「平凡な名前なんですよね。すずき、とか、なかむら、とか、たなか、ですか?」

「そこまで平凡じゃなかったように思う」

「さいとう、とか、さとう、とか、かとう、とか、とうのつく名前?」

「違う。もっとこう……」

 受話器からは、咲枝さんが低くつぶやく声が蜂の羽音のように聞こえてくる。

「派手な客が入って来て、寿司カウンターにすわったのよね。わたし、お茶を持ってってやって……実さんが突き出しを出したとこで、客が、久しぶりだなって言ったんだ。実さんびっくりした声で……思い出した! ナガイ! ナガイじゃないかって言ったんだ」

「ナガイですか」

「そう。コジロなんて名前じゃなかった。ナガイよ」

「ありがとうございます。その男について、また何か思い出したら教えてください」

 俺は携帯の番号を教えて、電話を切った。

ナガイ。

長井か、永居か、名貝かもしれない。実さんの知り合いの中で、ナガイという名前の日本人を探せば、何かわかるかもしれない。ナガイという男の様子は、いかにもうさんくさい感じがする。想像をたくましくしてみれば、色んな可能性があるじゃないか。実さんが、ナガイという男に弱みを握られて、脅されていた、とか。何か無理な要求をされて、それを拒んだために殺された、とか。

ただ、ロレックスの時計をして、ベンツを乗り回す男が、貧乏な寿司シェフを脅すのは理屈に合わないような気もする。普通、逆だろう。

俺は妄想を打ち切って、幡野さんの携帯にナガイという名前に心当たりはないか、とテキストしてから、仕事に出かけた。

参部

パーティの飾り

第八章 ウエディング・シャワー      

 

 真由ちゃんのウエディング・シャワーのある日曜日の夜、のりが、香織さんに頼まれた、と言って大きな段ボール箱を「エコー」に持ってきた。開けてみると、金モールやペーパーフラワー、色電球のついた電気コードがわさわさと出てきた。

「会場に飾ってくれって言われたよ」

「じゃ、お前、手伝っていけ」

「ええー。僕、お使いだけのつもりだったのに」

「『やまと』は閉店してて暇なんだろ」

「映画見に行こうかと思ってたんだ」

「あとでクリームソーダ出してやるから」

「なんか最近、ヒロ君、人使い荒いよ。誰の影響だろ」

 ぶつぶつ文句を言うのりに手伝わせて壁に金モールと電気コードを張り巡らせる。テーブルには、白いテーブルクロスをかけ、ペーパーフラワーを飾った。これだけのことで、見慣れた店内が結構上品でお洒落な店に見えるから不思議だ。

八時少し過ぎに、香織さんが腕一杯の風船を抱えて現れた。

「どう、順調?」

「ご指示通りしといたけど、これでいいのか?」

 俺は電飾のスイッチを入れた。ぱっと色電球が輝き、チカチカと瞬きを始めた。

「これ、クリスマス用だろ?」

「細かいこと言わないの。きれいだからいいのよ」

 香織さんの指示で、中央にフードを載せる大テーブルを据えつける。バフェ形式で、フードはめいめい、勝手に取ってもらう。入口入ってすぐの所に受付用の細長いテーブルを置いた。

「受付はのり君、お願いね。参加費の五ドルを徴収してレシートを渡す。ギフトを受け取ったら、必ずシールに名前を書いてもらって、ギフトの箱に貼り付けるのを忘れないで。誰からかもらったかわからなくなると困るから」

「ええー。責任重大だなあ。香織さんやればいいのに」

「今日ね、チャイニーズの女の子がたくさん来るの。チンジャオロウスウとか、カンパオチキンとか、持ってきてくれるそうよ」

「ほんと?」

「受付、やるわね?」

「やる」

「おい、準備はできたのか?」

 佐藤氏がキッチンから顔を出した。

「こいつは、俺からだ」

 ざるに山盛りの枝豆だった。

 シャワー開始の九時きっかりに、最初の客が現われた。

真由ちゃんのクラスメイトだというチャイニーズの女の子。二人とも色白でほっそりとして、袖なしのドレスから出ている腕なんて、ちょっと強く握ったら折れちゃいそうだ。マリーカレンダーのレモンパイと、パンダキッチンのカンパオチキンを持ってきた。受付ののりの顔が、露骨にほころんだ。

彼女たちを皮切りに、次々と客が到着する。俺はしばらくの間、飲み物の注文をとってまわるのに忙しかった。真由ちゃんの英語学校が、アジア系の多い地域にあるせいだろう、たまに、フィリピンかインドネシア人が混じるほかは、ほとんどがチャイニーズかコリアンのように見えた。年齢はおおよそ十代から二十代。四十歳ぐらいの日本人の夫婦が小学生くらいの男の子を連れて現れた時はちょっとびっくりした。真由ちゃんのホームステイ先のホストファミリーだそうだ。

 客は全部で三十人くらいいただろうか。受付横のテーブルには、きれいにラッピングされたギフトの山ができた。のりの手で几帳面にラベルが貼られている。フードテーブルには、サラダ、フルーツ、寿司、春巻き、シューマイ、フィッシュアンドチップス、ピザ、タコス、オレンジチキン、ムサカ、チリ、サンドイッチ、ラザニア、カップケーキなど、食べきれないほど、大量の料理が並んでいる。なかなか賑やかなシャワーになりそうだ。ただ、肝心の主役がまだ到着していない。

「真由ちゃんはどうしたんだ?」

 俺はコークを渡しながら、香織さんにそっと聞いた。ベイビーズラスで、体調が悪いって聞いたから、ちょっと不安になった。

「心配しなくても、ちゃんと来るわよ。主賓は少し遅れてくるように言っておいたの。その方が目立つでしょ」

 香織さんの計算どおり、それからしばらくしてやって来た真由ちゃんは、拍手で迎えられた。

 真由ちゃんは細く小柄な女の子で、二十七という年よりも大分若く見えた。小花の散った模様のサマードレスが良く似合う。はにかんだような笑顔がかわいらしい。

 香織さんが乾杯の音頭を取り、祝福の言葉を述べると、客たちはめいめい、好きなように飲んだり食べたりし始めた。のりが、カンパオチキンに突進していくのが見えた。香織さんは如才なく、次々にテーブルを回って人の輪をつなげていく。完璧なパーティホステスだ。俺がパーティを開く時は、ぜひ、香織さんに女主人役をお願いしたい。そうこうするうちに、近所のラーメン屋店主で、うちの常連客のよしさんがやってきた。

「ヒロ君、盛り上がっているじゃないか」

「すみませんが、今日は貸し切りで…」

「知ってるよ。食い物足りてるか? うちの店の餃子持ってきたぞ」

 よしさんは、チャイニーズの友達としゃべっていた真由ちゃんに近づくと、おめでとう、と大きな声で言って肩を叩いた。幸せになれよ。いいか、人生は、結婚から始まるんだ。これからが本物の人生だからな。

 真由ちゃんは、とんでもない飛び入り客に驚いてる。香織さんが、佐藤氏からマイクを借りると、ステージに上がった。

「皆さん、お話がはずんでいるところ、申し訳ありませんが、少々お時間を拝借して、今夜の主賓、花嫁の真由ちゃんから一言、ご挨拶を頂きたいと思います」

 拍手喝采。

 真由ちゃんは赤い顔をしてステージに上がり、香織さんからマイクを受け取った。赤い顔をますます赤くして、ありがとうと言い、半泣きになりながら、幸せになります、と言ってお辞儀した。全員がいっせいに拍手し、誰かの指笛がぴーっと鳴った。よしさんが、ひときわ大きい声で、いいぞ、と叫び、「マスター、カラオケだ!」と怒鳴った。よしさんの「人生劇場」を皮切りに、カラオケ大会が始まった。

 そのまま終われば、シャワーは大成功だったはずだった。そうならなかったのは、香織さんのせいではなく、よしさんのせいでもなく、もちろん、俺のせいでもない。

 シャワーの終り近く、十二時に近かっただろう。俺は二人連れの男に声をかけられた。「君、ちょっと」

「はい。少々お待ち下さい」

 俺はよしさんに新しいビールを運んでから、なんでしょうか? と男たちに訊ねた。その時には、何か変だ、と気がついていた。この二人はいつ入ってきたのだろう。入口には「パーティのために貸し切り」と張り紙してある。もう、飛び入りはごめんだ。それでも、煙草を吸ったり、風に吹かれて酔いをさましたい客のために、ドアはロックしてない。よそ者が紛れ込む余地はあった。俺は、ちらりとギフトの山に目をやった。いじられた様子はない。

 二人連れの一方は野暮ったいスーツを着た赤毛の白人、もうひとりはラフなジャケットを細身の身体にひっかけたラテン系の男だった。人種と身なりは違っても、二人ともどこか横柄な空気を漂わせているのは共通していた。日曜日の夜、友人が集まってのお祝いの席とは完全に異質な存在だ。理由はすぐにわかった。

「西條香織さんは、いるかね?」

 男の一方がバッジを見せて聞いた。

 香織さんは、佐藤氏とカウンターで話をしていた。

「あ、ヒロ君。あと三十分ぐらいでお開きにするつもりなんだけど……」

 顔を上げた香織さんの目が、俺の後ろに立っている二人の姿をとらえた。

「この二人が、君に話があるそうだよ」

 香織さんは不思議そうに二人の刑事を見た。本当に、わけがわからない、という顔だった。

 西條香織さんですね? とラテン系の男がバッジを見せた。

「そんなものここで出さないでくれ。パーティがぶちこわしになる」

佐藤氏がぶっきら棒に言って、カウンターの奥へあごをしゃくった。

「話があるなら奥でしろ」

 キッチンの横に、部屋とも呼べない狭いスペースがあって、佐藤さんはそこに机を置いて伝票整理などの事務仕事をしている。香織さんと刑事二人はそこへ入っていった。俺も後からついていった。香織さんを一人にしたくなかった。

 二人は自分たちを、LASDのジョンソンとロドリゲスと自己紹介した。

「西條さん、五月××日の火曜日、夜十一時半から翌日午前二時半までの間、どこにいらっしゃいましたか?」

 ラテン系の刑事が聞いた。言葉は丁寧だったが、香織さんを見る目は厳しかった。

「家にいたと思いますけど」

「誰かそれを証明してくれる人がいますか?」

「わたし、アパートで一人暮らしです。そんな人いるわけないでしょ」

 香織さんは全く平静だった。警察の尋問なんて屁とも思ってないらしい。度胸だけはある、と俺は感心した。

「そうですか、困りましたね」

 ラテン系の刑事は大仰にため息をついた。

「西條さんの車はBMWで色は白、登録ナンバーは、MYFALCN。間違いありませんか」

「ええ」

「その車が、火曜日夜の十一時半にウォールナットのレストラン『やまと』の裏口にとまっているのを見た人がいるんですがね」

 俺は心臓が止まったような気がした。

「その時間に『やまと』で沢木実氏という日本人の寿司シェフが殺されています。知っていましたか?」

香織さんは黙っている。

いきなり、すべての感情を失ったように無表情に宙を見つめている。俺にも、刑事にも見えない何かをまじまじと見ているようだった。

「もしもし、西條さん、聞いていますか?」

 刑事が、無反応の香織さんに苛立ったように聞いた。指を香織さんの目の前でパチリ、と鳴らす。

「え? 何ですって?」

「ウォールナットの『やまと』で起きた、寿司シェフ殺害事件を知っているか、とお尋ねしたんです」

「知ってます。ニュースで見ました」

 香織さんは気を取り直したようにしっかりした声で答えた。

「我々としては、なぜ、あなたの車がその時間に『やまと』の裏口に駐車していたのか知りたいのですがね。あなたは『やまと』にいらしたんですか?」

「先ほども言いました。自宅にいました」

「しかし、あなたの車は『やまと』に駐車していた。なぜですか?」

 香織さんは沈黙している。

 俺はやきもきした。

 なぜだ。なぜ、黙っている?

 あの夜、香織さんはここに来て、ウエディングシャワーの会場に使わせろ、と強談判していたじゃないか。その後で、俺に自宅まで送らせた。自分の車は整備に出した、と言っていた。なぜ、そう言わない?

「あの……」

 俺はたまりかねて口を出そうとした。とたんに腹に衝撃を感じて、うっとうめいた。香織さんが肱で俺の横腹を思い切り突いたんだ。

「何か?」

 刑事は、初めて俺に気がついたようにこっちに目を向けた。

「いや、何でもないです」

 強烈な肱撃ちが、黙ってろという合図であることは馬鹿でもわかる。

「君は?」

「ここのウエイターをしています。あの、そろそろ閉店なんですが」

 刑事は俺を無視することに決めたらしい。再び香織さんに向き直った。

「いつまでもだんまりを決め込んでいると、警察署に来てもらいますよ。なぜ、あなたの車が『やまと』の裏にあったんですか?」

「見まちがいじゃないかしら?」

 ふいに香織さんは明るく言った。「誰だか知らないけど、その目撃者の方、きっと見まちがえたのよ。暗いから無理もないわね。わたしの車はうちの車庫に入ってました」

「いっしょに来てもらいます」

 今まで黙っていた大男の赤毛の刑事が香織さんの腕を捕えた。香織さんは俺の方を向いた。

「ヒロ君、あとのことは頼むわ。参加費はお店へのチップだから、佐藤さんとホセとあなたで分けて。受付やってくれたから、のり君にも少し分けてあげて。皆には、何も言わないのよ。わたしは急用で出かけたと言って、あやまっておいてちょうだい」

 俺は呆然と、刑事二人と店を出て行く香織さんを見送った。

 ウエディング・シャワーは無事に終わった。招待客の誰も、香織さんが警察に連れていかれたことに気がつかなかった。俺がお開きの宣言をして、香織さんが急用で抜けたことを言うと、そのまま素直に納得したようだ。真由ちゃんだけが、ちょっと不安そうな顔をして、何か言いたそうに俺を見ていたのを覚えている。俺は知らん顔をした。

たくさんのギフトは、真由ちゃんの小さな赤いミニ・クーパーには入りきらず、入らなかった分は友達の車に載せた。真由ちゃんは俺にも佐藤さんにも丁寧に礼を言って帰っていった。

 

翌日の月曜日は、「エコー」の定休日だ。いつもなら、俺はジョギングの後でゆっくりと朝食をとって、町に出かける。気が向けば映画を見たり、玉突き場に入り込むこともある。一週間分の日用品を買い込んでアパートに帰ると、コインランドリーで洗濯する間に、パソコンをいじくる。月曜日は、俺の衣服と心、両方の洗濯日だ。

 だが、今日はどこへも出かけなかった。

ジョギングから戻ると、駐車場でシヴィックを洗ってやった。シャボンをつけたスポンジでゴシゴシとこすってから、車の屋根からホースで水を流すと、埃と泥とスモッグと鳥の糞が混じった泡だらけの茶色い水が流れていった。濡らした新聞紙でウインドウを磨いた後、勢いづいて、車の中も掃除機をかけた。俺の愛車は、ここ何年もの間になかったほど、中も外もきれいになった。

洗車は、考え事をするにはいい仕事だ。もくもくと手を動かしながら、俺は頭の中でひたすら、答えの出ない問題を考え続けた。

 

香織さんはなぜ、黙っていたのだろう?

 

香織さんが実さんの殺された夜、「やまと」にいなかったことは、俺が一番よく知っている。あの夜、香織さんは九時少し過ぎに「エコー」に現れて、ウエディング・シャワーの相談を持ち掛けた。その後、俺に、家まで送ってくれ、と言った。自分の車は整備に出してるからないのだ、と言った。香織さんのアパートはパサデナだ。ダウンタウンから三十分はかかる。途中、事故の渋滞にひっかかって、着いたら十一時を少し過ぎていた。香織さんのBMWは車庫に無かった。だから、この点では、香織さんは刑事に嘘をついてる。

なぜだ。

 整備に出したと言えば、警察はその整備工場を調べるだろう。調べられて困る理由は一つしかない。

 香織さんは車を整備に出したりしていなかったんだ。あの晩も、ちょっと変だとは思ったんだ。新車同様のBMWでもトラブルが起きたりするのかな、と。

 あの晩、車庫に車は無かった。盗まれたか? まさか。二日後には、香織さんは自分の車で「エコー」にやってきたじゃないか。

 すると。

 考えられるのは一つだ。

 火曜日の夜、香織さんは誰かに自分の車を貸したんだ。そして、その誰かが、実さんの殺された時間に、「やまと」の裏口に車を駐車していた。香織さんの車は目立つ。プライベートナンバープレートまでばっちり正確な目撃証言だ。見間違い、なんて見え透いた言い訳が通用するとは思えない。

 なぜ、香織さんは本当のことを警察に言わないんだろう。

 香織さんがあの晩、「やまと」にいなかったことは、俺が証言できる。俺だけじゃない。フリーウエイを降りた後、香織さんは、明日の朝のパンを切らしてた、と言って俺に深夜営業のドラッグストアへ寄らせた。店員は、香織さんと顔なじみらしかった。つまり、香織さんには確かな「アリバイ」があるんだ。でも、香織さんは俺にそのことを言わせなかった。あの強烈な肘撃ちは、何よりも雄弁に香織さんの意思を伝えていた。

 かばってるんだ。

 香織さんは、車を貸した誰かをかばってる。

 一体、誰を? そして、なぜ?

 

 第九章 真由ちゃんの話

 

翌日、平日なのに、珍しくエコーが忙しかった。俺と佐藤氏の二人がかりでオーダー取りに駆け回り、ホセは大車輪で料理を次から次へと出し、ようやく一息つけた時は、もう、十時の閉店まであと何分もなかった。大急ぎでテーブルを片付けていると、真由ちゃんが入ってきた。

「こんばんは、ヒロ君。日曜日はどうもありがとう」

 こちらこそ、俺も楽しかったよ、と当たりさわりのない挨拶を返したが、真由ちゃんの様子がなんとなく変だった。突っ立ったまま、もじもじしている。

「悪いけど、もうクローズなんだよ」

「ごめんなさい、お仕事中。あの、ヒロ君に聞きたいことがあって」

 真由ちゃんは訴えるように俺を見た。

「香織さん、どこにいるか知らない?」

 俺はどきりとした。家にいるんじゃないの? と努めて何気なく言った。

「いないの。家の電話にも携帯にも出ないの。メールしても返事が来ないんで、香織さんのクラスメイトにも電話してみたんだけど、昨日の授業も欠席だったっていうのよ」

「それじゃ、どこかへ遊びに行ってるんだろ」

「どこへ? 大学はもうすぐ期末試験なのに」

 そうだった。学生やめて時がたってるから、試験というものがあるのを忘れてた。

「香織さん、学校は真面目に行ってるのに、この大事な時期に無断欠席なんて変よ」

「うん、まあ、そうだな」

 自分でも歯切れが悪い返事だと思った。

「ヒロ君、何か知ってるんでしょ?」

「知らないよ。俺がなんで…」

「だって、シャワーの時、男の人が二人来て、香織さんを連れて行ったって」

「誰だ、そんなこと言ったやつ」

「のり君が見たって」

 あの野郎……。ろくなことしない。

「ヒロ君、何か知ってるなら教えてよ。その男の人って、誰だったの?」

 俺は黙ってた。

「もしかして、警察?」

「どうしてそう思うんだ?」

 言ったとたんに閃いた。

「香織さんの車を借りたのは、君か?」

 真由ちゃんはうなずいた。

「わたしの車、整備に出てて、それで、実さんから会いたいって電話があった時、香織さんの車を借りたの」

 真由ちゃんの頬が赤くなって、目のあたりが潤んでる。泣きそうなんだ。

 俺はあわてた。

「おい、片付け、済んだか?」

 佐藤さんが奥から出てきた。

「真由ちゃん、車の中で待っててよ。ここ片付けたらすぐ行くから」

 

 俺が地下駐車場に行くと、真由ちゃんは、赤いミニクーパーの中でスマホをいじっていた。少し落ち着いたようで、もう、泣いていなかった。俺が、店から持っていったアイスティーを渡すと、スマホをしまって、ありがとうと礼を言った。

「またメールしてみたの。でもやっぱり返事ない」

 俺は単刀直入に切り出した。

「君、実さんと付き合ってたのか?」

「ずっと前の話よ。ヴィンスと知り合ってからは電話したこともなかった。だから、あの日、急に会いたいって言われて、びっくりした」

「実さんの方から連絡してきたんだ」

「大事な話があるからどうしても会いたいって。実さんの仕事が終わった後に、時間作ってくれないかって。すごく遅い時間になっちゃうから、家に来てほしくなかったし、実さんの家にも行きたくない。ヴィンスに悪いでしょ。だから、わたしが実さんをアパートの前で拾って、『やまと』に行くことにした。閉店後だけど、実さんは裏口の鍵を持ってたから」

「大事な話って、なんだったんだ?」

「ウエディングプレセントをくれたの。立派な和食器のセット。おめでとうって」

 真由ちゃんの声がかすれた。ぽろぽろと涙がこぼれてきた。

「わたし、実さんにひどいことしたのに、実さんったら……」

ひどいこと?

「君が殺したのか?」

 真由ちゃんは泣くのを止めてぽかんと俺を見た。何を言われたのかわかってない顔だ。俺は質問の方向を変えた。

「なんで実さんと別れたんだ? 喧嘩したのか?」

「そんなこと……実さんはいつも優しかった」

「じゃあなんで」

 他人のラブライフなんて、俺の知ったことじゃないんだけど、つい、聞いちまった。

「実さんと結婚しても、永住権取れないでしょ?」

「取れるさ。実さんが永住権取れば、その配偶者も自動的にとれる」

「うん。でも、いつになるかわからないでしょ? 実さんの順番が来る前に、私のヴィザが切れちゃう。言われたの。絶対確実に永住権取るなら、アメリカ市民と結婚しなきゃだめだって。それが一番早いって。だからわたし……」

 実さんと別れて、別な相手探したってことか。

「ヴィンスとは、パーティで知り合ったの。知ってるでしょ、アメリカ人とアジア人のお見合いパーティ」

 そういうパーティを企画するクラブがあることは知ってる。数年前に移民局に摘発されたけれど、こういうものは、いったん無くなってもまたすぐに別の名前で出てくる。「エコー」のお客さんからも、度々話を聞いた。

「やっといい人を見つけて、結婚までこぎつけて、これで夢がかなったって、思ってたのに、こんなことになるなんて」

 真由ちゃんはまた、ほろほろと泣き出した。

 話を聞くうちに、俺は、だんだん、真由ちゃんに同情したい気持ちが無くなってきた。良く言えば夢見る夢子さん、悪く言えば、身勝手で計算高いだけじゃないか。そりゃ、恋愛も結婚も、個人の自由だけどね。婚活って言って、結婚相談所に登録して、せっせとお見合いパーティに参加する女は日本にもたくさんいる。日本でいう、「年収うん百万以上」って条件が、ここでいう、「アメリカ市民」なんだろう。実さんは、「条件」に合わなかった。「永住権者」が「市民権者」に、かなわなかったってだけだ。

 でも、なんだかなあ。

 実さんは、咲枝さんに、恋人と別れたのは、自分がふがいないから、仕方ないんだって言ったそうだ。こんな小娘に振り回された実さんが気の毒になった。まあ、それは俺の意見。他人にはまた別の考え方があるだろう。なぜだか知らないが、香織さんは、必死で真由ちゃんをかばってるらしいし。俺は幡野さんに頼まれた仕事を果たせばいい。

「『やまと』に着いたのは何時?」

「十一時半ごろ」

「帰ったのは?」

「一時少し前」と言って、真由ちゃんは赤くなって、あらぬ方向に視線をそらした。

「プレゼントもらって、その他にもいろいろ、今までのこと、話したりしたから……」

 そうか。

 深夜の、誰もいないレストラン。久しぶりに会った、昔の恋人同士の間で、やけぼっくいに火がついたとしてもおかしくない。

「どこで話してた? タタミルーム?」

 真由ちゃんはそっぽを向いたまま答えなかった。

「一時に『やまと』を出たのは、君一人だったんだね。実さんは残ったの?」

 真由ちゃんは俺に視線を戻した。

「友達に迎えに来てもらうから、ライドはいらないって」

「友達って誰?」

「知りません」

「コジロ? ナガイ?」

 真由ちゃんは首を振った。

「ただ、友達って」

「今の話、香織さんは知ってる?」

 真由ちゃんはうなずいた。

「『やまと』の事件をニュースで見てから、香織さんに話した。香織さん、誰にも言うんじゃないって」

 それでわかった。警察がなぜ、香織さんを引っ張って留め置いているのか。多分、BMWから実さんの指紋が発見されたんだ。そして、香織さんがなぜ、頑固に沈黙を守っているのかも。

警察がこの話を知ったら、どうなるか。真由ちゃんはアリバイがないどころじゃない。タタミルームには、真由ちゃんの指紋が残ってる可能性がある。痴話げんかの果てに、真由ちゃんが実さんを刺し殺して、凶器のナイフを持ち去ったともとれるんだ。殺人の疑いがかかるかもしれない。そうなれば、ヴィンスとの結婚だってどうなるかわからない。

「わたし、警察に行く。香織さんにこれ以上、迷惑かけられない」

 真由ちゃんが突然、ぽろぽろと涙をこぼしながら言った。

「ダメだ。絶対に行くな」

 俺はどなりつけた。思わず真由ちゃんの肩をひっつかんでいた。

「なんのために香織さんががんばってんだよ。君が出頭したら、香織さん怒るぞ。いいか、香織さんにはアリバイがある。俺が証言できるんだよ。ほかにも証人がいる。だから、じっとしてろ」

「でも……」

「でももクソもない。君が実さんを殺したんじゃないんだろう?」

「違う!」

 真由ちゃんが悲鳴のような声をあげた。

「じゃあ、黙ってじっとしてろ。君は何も悪いことはしてないんだ」

「わたし、香織さんに申し訳なくて」

「永住権、とれなくなってもいいのか」

 真由ちゃんの顔から表情が消えた。能面のように固く冷たい顔から、暗い二つの目が俺を見つめる。

「じっとしてろ、いいな?」

 真由ちゃんは黙ってうなずいた。

 

 第十章 マーロウ

 

真由ちゃんにああ言ったものの、正直言って、俺は頭を抱えた。

 どうしたらいい?

 

香織さんは真由ちゃんを守って、頑固に沈黙を続けるだろう。警察は放さない。香織さんは試験を棒に振り、それどころか、弁護士が必要になるだろう。日本にいる香織さんの家族は大騒ぎして、こっちへすっ飛んでくるかもしれない。香織さんの両親には、一度、会ったことがある。物静かで人のいいご夫婦だ。あのご夫婦が、またトラブルに巻き込まれるのは見たくない。

真由ちゃんは信用できない。俺は精一杯脅しておいたけど、あのタイプは、緊張に耐えられなくなれば、後先考えずにすべてをぶちまける。真由ちゃんは警察に引っ張られ、ウエディングシャワーまでした結婚は白紙に戻る。

そして、実さんの弟は来週、LAにやってくる。兄さんが勤め先のレストランで、深夜、こともあろうにサムライに刺し殺された、容疑者は兄さんの昔の彼女だなんて話を聞かされて、何がなんだか、わけがわからないだろう。

 

 世間では、困った事態になった時は、一人で悩んでないで信頼できる人に相談しろ、という。俺も全面的に賛成する。問題は、「信頼できる人」はそんなにいないことだ。

 今まで、俺は困った時は、幡野さん夫婦に相談した。職探しとか、金欠とか、車の故障とか、散々世話になってきた。ただ、真由ちゃんの告白は、幡野さんには話せない。少なくとも今はまだ。

 幡野さんは、すぐ警察に通報しろと言うだろう。俺がためらったら、自分で電話をかけるかもしれない。それでは、香織さんを裏切ることになる。あの強烈な肱撃ちは、はっきりと香織さんの意思を伝えていた。

俺のもう一人の相談相手は、認めたくないけど、当の香織さんだった。忖度なしでズバズバものを言い、ブルドーザーなみの馬力で行動する香織さんにかかると、大概の問題は木っ端みじんに粉砕された。今回は、その香織さんもいない。

俺は朝まで悶々と悩んだ。正直、俺の知ったことかって思いもした。大体、俺、なんでこんなに必死になっているんだ? 実さんには、半日、引っ越しを手伝ってもらっただけ。幡野さんはお世話になってる恩人ってだけ、香織さんは、勤め先の店のお得意さんってだけ。

 馬鹿みたいだ。いち抜けたと放り出してしまおうか。余計な荷物背負い込まなくても、俺の生活は十分に苦しいんだし……。

 

 ランチタイムの「エコー」は忙しかった。近くの歯医者さんが、従業員の送別会をやると七人のグループで現れ、他にも次々に客が入って、俺はオーダー取りに走り回った。佐藤氏も珍しくテレビを消して手伝い、どうやら無事に乗り切った時には、俺はくたくたに疲れていた。もう若くない。寝不足はこたえる。

 ホセが作ってくれたまかないのチーズトルティヤで、昼食をとっていると、入口のドアが開いて誰かが入ってきた。まだ客が来るのか、少々うんざりしながら、いらっしゃい、と声をかけて顔を上げた。

 康子さんが微笑みながら立っていた。

「恵の学校の用事で近くまで来たから、寄ってみたの」と言った。その後ろから、のりの奴が顔を出して、こんちわー、と能天気な声をあげた。

康子さんとのりはカウンターにすわった。注文の天ぷらそばを持っていくと、ありがとう、と言って箸をとった。

「ナガイとコジロ、まだ見つからないの。わたしもうちの人も、あちこち当たってるんだけど、みんな知らないって言うのよ」

「大丈夫、俺が見つけますよ」

 安請け合いであることは、十分承知の上だ。

「ヒロ君ならできるよ、マーロウだもん」

 隣できつねうどんをすすっていたのりが無責任な口を出した。俺はむっとした。

「で、お前は何しに来たんだ?」

「僕? ウエディングシャワーのお手伝いした時のチップをもらいに来たんだよ。香織さんが、ヒロ君から貰ってって言ってたから」

 ああ、そうか。

 チップは紙包みにして、キッチンに保管してある。俺は、のりの分のチップを渡してやった。のりは包みの中をちょっと覗いて、「わっ、結構ある」とはしゃいだ声を出した。

 康子さんは、ソバを食べ終わると、バッグから封筒を取り出して、俺の前に置いた。

「ヒロ君、これ、使ってちょうだい」

「何ですか?」

「LA中、あちこち走り回ってたら、ガソリン代も馬鹿にならないでしょう? うちの人はそういうとこ、気づかない人で…。少しだけど、必要経費として使ってちょうだい」

 有難く頂戴した。

「必要経費だって。ヒロ君、ほんとにマーロウみたいだね」

 また、お調子者が能天気な口をはさむ。

「そのマーロウってのはなんだ」

「あれ、ヒロ君、マーロウ、知らないの? 香織さんが言ってたんだよ、この前の夜」

 この前の夜って……。

「ウエディング・シャワーの時か?」

「うん」

「香織さん、何言ったんだ?」

「パーティまだ終わってないのに、変な男と出てきたから、僕、どこ行くのって聞いたんだ。そしたら、チップはヒロ君から貰ってくれって言ったんだよ」

「それから?」

「時間は稼ぐから、犯人見つけてってマーロウに伝えてねって言った。僕、マーロウって誰って聞こうとしたんだけど、どんどん行っちゃった。今日、友達に聞いたら、有名な私立探偵なんだってね。フィリップ・マーロウ」

 のり君、行きますよ、と康子さんが呼んで、のりは、はあーい、と間の抜けた返事をして出ていった。

 

 「もう、わからない人ね」という、香織さんの声が聞こえるような気がするが、俺は、のりじゃないから、わかる。

 黙秘して時間を稼いでやるから、その間に実さんを殺した犯人を捜し出せ。

 刑事に意味がわからないように、香織さんはのりに日本語で話したんだろう。

 俺はため息をついた。

 またかい、香織さん。

 無茶な注文だ。

 そして、俺がその注文を受けなきゃならないのも、いつも通りだった。

 

        

 

 久しぶりに着たジャケットは、肩と二の腕のあたりが少しきつかった。知らない間に少し太ったようだ。週一回のジョギングじゃ、目前に迫る三十代の中年太りをくい止めるには足りないらしい。来週から週二回にしよう。

 それ以外は、まあまあ及第だろう。コットンシャツにネクタイ、ラフなジャケット、コットンパンツ。黒縁の伊達眼鏡。鏡の中から見返してくる男は、マーロウには見えないけど、ウエイターにも見えない。俺はこれも久しぶりの革靴をはいて、朝の光の中に歩み出た。

俺の忠実なシヴィックが駐車場で待っている。年式が古いのは隠しようもないが、洗車したばかりでフロントガラスもミラーもぴかぴかに光っている。ハヤブサは無理でも、ツバメくらいには見える。

 俺は、六十番フリーウエイに乗って、LAの東に向かった。実さんを殺した犯人を見つけるには、被害者の実さんをもっと良く知らなきゃならない。昨夜、幡野さんに電話して、実さんの住んでいたアパートを聞いた。

「どうやって入るんだ? 俺は鍵持ってないぞ」と幡野さんは言った。

「なんとかします。住所だけ教えてください」

 幡野さんは「無茶するなよ」と言った。俺だって無茶はしたくない。でも、クライアントが檻の中じゃ、多少強引なのはしかたないんだ。

 

実さんのアパートは、「やまと」から車で三十分ほどのところにあった。

鉄柵で囲まれた狭い敷地の中に、味もそっけもない鉄筋コンクリートの二階建てが並んでいる。

道路に一番近い建物に、紫と黄色の横断幕がでかでかと張られていて「新入居サービス月間――家賃一ヶ月無料」と読める。どうやらそこが管理人のオフィスらしい。俺は、そのすぐ前の来客用の駐車スペースに車を入れた。ベルを鳴らすとすぐ、待っていたようにドアが開いて、太った中年の女が顔を出した。

「おはようございます。お部屋をお探しですか?」

「ちょっと部屋を見せてもらいたいんです」

 どうぞどうぞ、と満面の笑顔でオフィスの中に招き入れられた。物置ほどの狭いスペースで、書類とパソコンの載ったデスクがやたらに大きく見える。ここのアパートの外観をを淡い水彩で描いた絵が、額に入って壁にかかっている。そうやってみると、結構、高級に見える。写真にしなかったのは正解だ。

「コーヒーは?」

「いや、結構です。あまり時間がないので」

 仕事に遅刻したら、佐藤氏にどやされる。

 まあ、お急ぎなのねえ、と管理人は満足気に言って、デスクの後ろに太った身体を窮屈そうに押し込んだ。

「それで、どんなお部屋をお望みで?」

「お宅の、二〇五号室を見せて頂きたいんです。わたしはこういう者です」

 管理人の笑顔が消えた。

 俺は昨夜パソコンで作ったばかりの名刺を差し出した。

「今日のLA ノリアキ・ナカムラ」とあって、住所と電話番号、メールアドレスが印刷してある。もちろん、全部でたらめだ。

 管理人はろくろく見もしないで、名刺をデスクに置いた。

「日本人向けのタウン情報誌なんです。こちらにお住まいだった沢木実氏の部屋をちょっと見せていただきたいんですが」

「サムライの幽霊に殺された寿司シェフでしょ? お断りします。規則がありますから」

「しかし、警察の調べはもう終わったのでしょう?」

「入るなとは言われてませんけど、プライバシーの問題がありますからね。当月分の家賃はちゃんと頂いてますから、ご本人の代理人が見えるまで、部屋はそのままにしておくんです」

「部屋を荒らしたりはしませんよ。見るだけです。非常に特異な事件でした。日本人コミュニティはあの事件に興味を持っていまして、被害者の沢木氏にも大いに同情しているんです。沢木氏がこういう立派なアパートで平穏に暮らしていたということを知れば、大いに慰められるでしょう。ひいてはこのアパートにとっても、悪い話にはならないと思うんですがね」

「そうですかねえ」

 管理人は疑い深そうな顔をした。当たり前だ。俺だって疑う。

「ご心配なら、立ち会ってくださってかまいませんよ。なに、大した時間はとりません。お時間頂いた分は、ちゃんとお礼をいたしますから」

 俺はデスクの上に、二十ドル紙幣をそっと滑らせた。

「でも、規則だからねえ」

 管理人は言ったが、視線は吸い付いたように紙幣から離れない。

「お名前は出しませんから、誰にもわかりませんよ」

 俺は言って、もう一枚、二十ドル紙幣を追加した。康子さんの封筒に感謝だ。

「しょうがないねえ。見るだけですよ」

 管理人は二枚の紙幣をするりとデスクから掬い取ると、引き出しからマスターキーを取り出した。

 

 管理人は部屋を開けると、ドアに寄りかかった。

「ここですよ。早くして下さいね」

 部屋はいわゆるスタジオフラットで、一室で寝室、居間、キッチンの機能を兼ね、それにユニットバスが付いている。

 ホテルの部屋のように、がらんとした印象だった。きちんとメイクされたベッドとサイドテーブル、デスクと椅子、クロゼット。家具はそれだけだった。流しとガスレンジの周りに鍋やフライパンなどの調理用具は全く無い。冷蔵庫とコーヒーメーカー、電子レンジがあるだけで、それもほとんど使った様子がない。実さんは家で料理はしなかったのだろう。

作り付けの食器棚に、一人前のコップと皿、マグカップ、箸、ナイフ、フォークが並べてあった。どれも99セントストアで買ってきた安物だ。なんか、痛ましい気がした。仮にも料理人だったのだから、食器を見る目はあったはずなのに。

デスクの上段の引き出しを開けてみた。アドレス帳とか、日記とか、スケジュール表、システム手帳、名刺入れのたぐいのものを探した。だが、便箋、封筒、ペンなど若干の文房具が入っているだけで、個人的な記録は一切無かった。警察が持ち出して保管しているのかもしれない。

下段の引き出しには、寿司や料理に関する本が入っていた。

そういえば、この部屋にはテレビが無い。ディナーウエイトレスの麻美さんは、実さんはテレビにも映画にもスポーツにも興味はないって言ってたな。興味がないと言うより、テレビを見る暇など無かったのかもしれない。ランチウエイトレスの咲枝さんの言うように、週に7日、朝から晩まで働いていたら。

 壁には「やまと」の営業用カレンダーがかかっている。実さんが亡くなった火曜日に、待ち合わせのメモでも書いてないかと期待したが、何もなかった。他の日と同じ、ごく普通の日だったに違いない。

 写真やポスターもない。ただ、ベッドの脇の壁に日本画のようなものが画鋲で留めてあった。ぺらぺらした紙で、何かの雑誌から切り抜いたものらしい。よく床の間に掛けてある掛け軸みたいに縦長の絵で、枯れ木に一羽の鳥がとまっている。俺に絵の良しあしはわからないけど、さびしい絵だと思った。スマホで写真を撮ろうとすると、管理人に、写真は困ります、と鋭い声で止められた。これ一枚だけですから、と言ったが、管理人がドアから踏み込んできそうだったので、諦めた。

クロゼットを開けてみた。下着類、靴下、Tシャツとジーンズがきちんと収まっている。南カリフォルニアの気候では、それ以外はほとんど必要ないとはいっても、もう少し何かありそうなものだ。たまには気分を変えて、しゃれた格好してみたいこともあっただろうに。真由ちゃんとのデートの時は、何着て行ったんだろう。

「そろそろ、いいですか?」と管理人が声をかけてきた。

「もう、終わりますから」となだめて、俺はベッド脇のサイドテーブルに注意を移した。寝る前に手に取る本は、その人間の個性をあらわすんじゃないかな。少なくとも、今、何に関心を持っているかはわかる。俺のベッド脇には、ボブ・ディラン詩集が載ってる。

実さんのサイドテーブルには、スペイン語会話のテキストと、日本語の雑誌が載っていた。雑誌は、よく日本食料品店などに置いてある無料のタウン誌で、表紙に「今が旬! イケテル日本食レストラン大特集」と、ある。何ヶ月か前のバックナンバーだ。「やまと」が載っているのかな、とぱらぱらとめくってみたら、何かがページの間からはらりと落ちた。拾い上げてみると、名刺だった。表に日本語でトーマス・J・オカモト、弁護士、とあり、オフィスの住所と電話番号、メールアドレスが印刷されている。裏はその英語バージョンになっていた。

 実さんは弁護士に用があったのだろうか。それとも、たまたま手元にあった名刺を、しおり代わりに挟んであっただけなのか。ちらりと後ろを見ると、管理人は、開いたドアに寄りかかってスマホをいじっている。俺は名刺をポケットに滑りこませた。

 雑誌の方は、とページをめくっていると、

「もういいでしょう? わたしも仕事があるんですから」

 管理人が苛々した声で催促した。四十ドルの効果が切れたらしい。雑誌を持って出ようとすると、それは置いていってください、とぴしゃりと言われた。

 俺は雑誌のタイトルと発行元を手帳にメモして退散した。

 

仕事の休憩時間に、俺は康子さんに電話した。

「今朝、実さんの部屋を見てきました。雑誌の間に、弁護士の名刺がはさんであるのを見つけました」

「何の弁護士?」

「ただ、弁護士ってだけです」

「普通、弁護士には専門があるものよ。交通事故賠償、医療訴訟、遺産相続、移民法、刑事事件……」

「いや、ただ、トーマス・J・オカモトとしか」

「ふーん。実さんは何かのトラブルを抱えてたのかしら。私は何も聞いてなかったんだけど……」

「調べてみます」と言ったが、康子さんは「それは私がやるわ」と言った。

「ヒロ君にばかり甘えてられないものね」

「そうしてもらえると、助かります」

 弁護士に会うとなると、アポイントメントを取ったり、色々面倒だろう。「エコー」の始業前や、休憩時間にちょっと、というわけにはいかない。それに、俺みたいな若僧が行くより、立派な大人の幡野さんや康子さんの方が向こうも信用する。

「その雑誌の方は何だったの?」

俺が雑誌名を言うと、康子さんは首をかしげた。そんな月遅れの雑誌をわざわざ取っておいたのは、何か理由があるのかもしれない、と言った。

「警察は日本語の雑誌なんか気にも留めなかったでしょうけど、ナガイもコジロも、レストラン関係者じゃないかって気がするの。とすると、その月遅れの雑誌に手がかりがあるかもしれない」

 

 雑誌を調べようにも、現物が手元にないから厄介だ。あの管理人め、四十ドルもふんだくっておきながら、無料の雑誌一冊持ち出させなかった。

 思いついて、俺はノリの携帯に電話をかけた。

「お前、『今が旬! イケテル日本食レストラン大特集』って雑誌持ってないか?」

「何それ?」

「よくマルカイとかミツワなんかにおいてある無料のタウン誌だよ。何ヶ月か前のバックナンバーだけど」

「見たような気もする。なんで?」

「俺が見たいんだ。持ってるか?」

「ちょっと待ってて」

 五分ほどたってから、俺の携帯が鳴った。

「あったよ」

 ビンゴ!

食いしん坊のノリなら、捨てずに取ってあるだろうと思ったんだ。

「それ、こっちへ持ってきてくれ」

「ええー、これから?」

「急ぐんだ。クリームソーダおごってやる」

「もう飽きた」

「かきごおり。宇治金時」

「アイスクリーム付き?」

「ダブル」

「乗った」

夕暮れの海岸

 第十一章 ナガイ    

 

 俺は夕暮れのパシフィック・コースト・ハイウエイを北へ走っていた。左手にはマリブの長い海岸線が延びている。水平線近くをゆっくりと動くヨットの白帆が、暮れかけた空の色を背景に寒そうにはためいている。右側の丘の上には、オレンジ色の電灯のあかりがぽつぽつ灯り始めた。このあたりは、LAでも有数の高級住宅地だ。

金曜日の夜とあって、遊びに出かける高級車がことさらに目立つ。俺の小さなシヴィックは、メルセデスやポルシェの間に挟まって、健気に、懸命に走る。次の休みの日には、また洗車して、今度はワックスもかけてやろうと心に誓う。黄色いフェラーリが海風を巻いて俺を追い抜いていった。スカーフをなびかせた、ちょっときれいな女の子が運転していたが、今日はほとんど気にならない。バットマンがバットカーで通りかかっても気にならないだろう。

俺はこれからナガイに会いに行くのだ。

 

のりの持ってきた日本食レストランを特集した雑誌に、「ライジング・サン」というレストランが紹介されていた。マリブにある海を見晴らすジャパニーズ・フュージョン・レストランで、開店してまだ二年ちょっとだが、お店はお洒落で料理がおいしいと評判だという。お値段の方もそれなりに張るらしいが人気だそうだ。時々、あの映画このドラマで顔を見た人々がさりげなく食事に訪れたりもする。要予約。

 フードの写真が大きく載っている。色鮮やかなロール寿司、エディブルフラワーを散りばめた刺身サラダ、茹でたロブスター、ハマグリの吸い物、貝柱の刺身。どこがフュージョンなのかよくわからないが、うまそうではある。

 オーナーからのご挨拶の横に、小さな写真を見つけた時、俺は心の中で、ビンゴ! と叫んだ。一見、メキシカンかと思うほど浅黒い肌で、口髭を生やした男が真っ白な歯を見せて笑っている。緋色のシルクシャツの襟元を大きくくつろげているので、首にかかったゴールドのチェーンが見えている。「ライジング・サン」オーナーの長井恭介氏の風貌は、まさに咲枝さんの描写通りだった。

 

「今日のLA」誌は、来月号で「新しい日本料理」の特集を組むことに決定した。ついては、当誌専属ライターのノリアキ・ナカムラ氏が、ジャパニーズ・フュージョン料理で人気の「ライジング・サン」オーナーの長井氏にインタビューしたい。電話でそう言うと、快く承諾を得られたが、長井氏は非常に多忙で、時間が取れるのは二週間後になるという。それでは間に合わない。俺は作戦を変更した。

 金曜日の夜はレストランの書き入れ時だ。オーナーは店に居るだろう。そこに奇襲をかける。相手が驚いてまごまごしている隙に、こっちのペースに持ち込んで、無理矢理に自白させる。これでいこう。

ひとつ、問題がある。金曜の夜は、「エコー」も忙しい。普通なら休みなど取れない。やむを得ず、仮病を使った。ひどい腹下しで動けない、と哀れっぽい声で電話をかけると、佐藤氏はさんざん罵ったあげく、今日はバイトの美紀ちゃんと二人でなんとかするから、明日は必ず出てこいよ、と言った。大事にしろ、とぶっきら棒に言われた時には、さすがに良心が痛んだ。

 

やがてガラス張りのしゃれたレストランが見えてきた。そこを通り越して、脇道に入って車を停めた。LAでは、ひとは乗っている車でその人間を判断する。ヴァレーパーキングの高級レストランに俺のシヴィックを乗り入れるわけにはいかない。俺の愛車だ。いつもなら、ちっとも恥じたりしないけれど、今日は舞台設定上、都合が悪い。俺はレストランまで歩くことにした。

 レクサスやコルベットが次々に到着しているエントランスに近づくと、努めてゆったりと気楽そうに歩いた。幸い、気持ちのいい夕暮れで、待ち合わせの客がアペリティフの合間に外の空気を吸いに出てきたり、ディナーは終わったが話の終わらない客が海を見ながらしゃべっていたりで、人が頻繁に出たり入ったりしている。彼らの間にうまくまぎれ込むようにして、俺は店内に入った。

 真紅のカーペットが足裏に心地いい。右側にクローク、左手にちょっとしたバーがあって、数人の客がカクテルを飲みながら、テーブルが空くのを待っている。壁にはモダンな油絵がかけてあり、その前には白いバラをいっぱいに生けたヴェネチアングラスの花瓶が飾ってあった。奥のフロアは、純白のクロスのかかったテーブルが並び、エプロンをかけた制服のウエイター、ウエイトレスが忙しく行き来している。ざわざわとした人の話声、グラスやシルバーの触れ合う音がここまで響いてくる。テーブルは満席らしい。なるほど、金の匂いのぷんぷんするレストランだった。

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でいらっしゃいますか?」

黒い蝶ネクタイの案内係がどこからともなく現れた。

「いや、俺は食事に来たわけじゃない。オーナーの長井恭介氏に面会したいんだ」

俺の頭のてっぺんからつま先まで鋭い目が一瞬にしてスキャンした。

俺は肩をそびやかした。

そんなに悪くないはずだ。長めの髪はオールバックにしてジェルで固めた。ラフなジャケットとコットンパンツはノリアキ・ナカムラ氏のものだが、首に借り物の赤いシルクのスカーフを巻き、シャツの前ボタンは三つはずしてある。今朝はわざと髭剃りを怠け、目元にほんの少し、皺を描き、銀縁の眼鏡をかけた。同じアパートのメイクアップアーティストに昼飯をおごった成果だ。これで十歳は老けて見える、とロブは太鼓判を押した。

「お約束ですか?」

「いや、約束はないけど、長井氏は会ってくれる。取り次いでくれ」

「お名前をおうががいできますか?」

「ミノル・サワキ」

 案内係の表情には何の変化もなかった。この名前の意味がわからない全くの雑魚か、それともよっぽど度胸のすわった男か。後者だと少し面倒だ。

「サワキ様。ご用件をお話しいただきませんと、お取次ぎはできかねます。当レストランのオーナーは、非常に多忙でございまして……」

 雑魚だ。

「あんたじゃ話にならないな。マネージャーを呼んでくれ」

「サワキ様……」

「マネージャーだ」

 俺はポケットに手を突っ込み、あさっての方向を向いた。

 案内係は憎々しげに俺を睨んで、奥へ入っていった。バーの客が何人か、面白そうに俺たちの方を見ている。テーブルを待つ間の暇つぶしには格好のショーだとでも考えたんだろう。やがて、案内係が、黒服にびしっと身を固めた男と戻ってきた。

「こちらです」

 マネージャーは俺をどぶねずみでも見るような目で見て、案内係に、よろしい、仕事に戻りなさい、と言った。案内係はほっとした様子で、待たされて苛々している客の方に歩いていった。マネージャーはこちらに向き直った。

「当店のマネージャーをしております、ロペスと申します。お待たせして申し訳ない。ご用件をおうかがいいたします」

「オーナーの長井恭介氏に面会したい」

「お名前は?」

「ミノル・サワキ。何度も言わせるな」

 マネージャーはにやりと笑った。

 まずい。

相手の笑みに不敵なものを感じて、俺の額に汗が吹き出た。

 「失礼いたしました。先ほどの男がお名前を聞き間違えたのではないかと思いましたもので。ミノル・サワキ氏。まちがいございませんか?」

不遜な笑みを浮かべながらも、マネージャーは馬鹿にしたように丁寧な口調を崩さない。俺は精一杯虚勢を張って答えた。

「まちがいない」

「さようで。それではお取次ぎできかねます」

 マネージャーはずいと前に出た。俺と鼻がぶつかりそうになるくらい近づくと、低い声で、警察を呼ばれないうちに出て失せろ、このイカサマ野郎、と言った。薄荷の匂いのする息がまともに俺の鼻先に吹き付けられた。マネージャーは俺より背が高く、体格もいい。まともに見下ろされて、内心、俺は縮み上がった。作戦は失敗だ。相手の方が一枚上手だった。蛇になってするりと入りこもうとしたら、マングースが出てきた。

 俺は無言のまま必死に相手を睨み返したが、負けは明らかだった。マネージャーはどすの利いた声で、聞こえたか? 引きずり出されたいのか? と続けた。ぐいと俺の腕を掴み、鋼鉄の力で締め付けてきた。俺はうめき声を押し殺して、言った。

「わかったよ。嘘を言ったのは悪かった。手を放してくれ」

 腕の圧迫は止まらない。

「手を放してくれたら、大人しく警察へ行くよ」

 力が緩んだ。俺は腕を振りほどいた。

「俺は警察へ行く。警察で、長井氏は殺された沢木氏の敵だったことを話してくる。ここへ来たのは、親切心からだ。おたくの店の評判を考えてやったんだ。だが、そっちがそのつもりなら……」

 マネージャーは俺を睨みつけた。

 

 第十二章 敵の話       

 

 長井氏のオフィスは、歯医者の待合室程度の大きさの小部屋だった。調度はデスクとファイルキャビネットだけ、それも実用一点張りのスチール製で、表の店の贅沢な雰囲気はかけらもなかった。俺はデスクを挟んで長井氏と向かい合ってすわった。

「俺に話があるそうだな」

「はい」

「なぜ、偽名なんか使った?」

「本名じゃ取り次いでもらえないでしょうから」

「ほう。本名は?」

「ミスター・ノーボディ」

 ふん、と長井氏は鼻を鳴らした。

「無名人の俺が、あなたみたいにガードの固い人に会ってもらうには、こうするしかなかったんです。失礼はお詫びします。マネージャー氏にも案内係にも、俺が謝罪していたとお伝えください」

「今度はいきなり低姿勢か。くるくると態度のよく変わる男だな。で、何しに来たんだ?ここまで入り込んできた以上は聞いてやる。だが、さっさと済ませろ。俺は忙しい」

「沢木実さんが殺されたことはご存知ですね?」

「知ってる。ニュースで見た」

「五月××日火曜日の夜十一時半から翌日の午前二時半までの間、どこにいましたか?」

 長井氏の目が光った。

「俺を疑ってるのか?」

「お答えいただけますか?」

 長井氏は肩をすくめた。

「警察でもないミスター・ノーボディに答えてやる義務はないんだが、隠す必要もないから教えてやる。サンタモニカの自宅にいた。証人は女房と俺の会計士だ。会計士は友人で、一緒に一杯やって、零時過ぎに帰った。そのあとのアリバイ証人は女房しかいない。会計士の名前と連絡先がいるか?」

「もし、差支えがないなら」

 長井氏は、デスクから名刺を取り出すと、名前と電話番号を走り書きして俺の前に放った。

「そいつを見せれば、ミスター・ノーボディでも会ってくれる」

 どうも、と俺は名刺を取ってポケットに入れたが、おそらく電話することはないだろうと思った。話に聞いた時にはうさんくさかったナガイは実際に会ってみると、抜け目のない目をしたエネルギッシュなビジネスマンだった。あけっぴろげで大胆、この男は日の当たる庭で咲き誇るひまわりだ。薄暗いじめじめした土壌に育つ殺人とは縁が無い。

「俺の方からも、ひとつ質問させてくれ」

 長井氏は、鋭い目で俺を見ながら言った。

「なぜ、俺が沢木の敵なんだ?」

「二週間ほど前、『やまと』に沢木さんを訪ねられましたね?」

「ああ」

「メルセデス・ベンツで」

「その通りだ」

「あなたが帰られた後、沢木さんはあなたを『敵』と呼んだそうです」

 長井氏は横面を張られたような顔をした。

「沢木がそう言ったのか?」

 俺はうなずいた。

 長井氏は俺の言葉を受け入れるのに苦労しているようだった。しばらくの間、苦い顔で黙りこくっていたが、やがて、そうか、とあきらめたように言った。

「沢木は、そう思ったかもしれないな」

「沢木さんとは古くからのお知り合いなんですか?」

「もう、七、八年も前になるかな。パサデナに『さくら』という寿司屋があった。もう無くなっちまったがな。カウンターが十席、テーブルが三つのちっぽけな店で、俺と沢木は二人並んで寿司を握ってたんだ」

 長井氏の声に懐かしさがにじんだ。

「沢木がチーフで俺がサブだった。沢木は築地できっちり修業した一人前の寿司職人だったが、俺といえば、見よう見まねで仕事を覚えた、素人に毛の生えた程度の腕だった」

 長井氏は照れたように白い歯を見せて笑った。

「俺は親とうまくいかなくてな。自分が親になって初めて親の苦労がわかったが、あの頃はいっぱし、生意気な口をきいていた。高校をかろうじて卒業するとすぐバイトで貯めた金を持ってここへ来た。学生ビザだったが、もちろん、英語学校なんか行きやしない。生活するので精一杯だった。随分、いろんな仕事をした。ウエイター、コック、庭師、プール清掃、観光バスの運転手、イチゴ摘み、農場の手伝い、大工の真似事、犬の散歩……モグリでできる肉体労働は大概経験した。寿司を握り始めたのは、特殊技能扱いになって、永住権が取りやすいのと、給料が他の労働に比べていいからだ。方便さ。寿司を握ることにプライドなんか持っちゃいなかった。プライドを持てるほどの腕じゃなかったのも確かだけどな。だが、沢木は違ってた」

「プライドを持っていた?」

「持ちすぎるくらいにな。寿司はネタのよさとシャリのうまさが命だと言っていた。沢木の理想とする寿司は江戸前の握りなんだ。だが、ここで普通のアメリカ人が考える寿司の代表は、カリフォルニアロールだ。カウンターにすわっても、客はみんなロールばかり注文する。それに醤油じゃなく、甘いテリヤキのたれや鰻の蒲焼用のたれをつけたり、辛いソースやマヨネーズをたっぷりつけて食べる。それでもって、自分は寿司のファンなんだ、と得々と話すんだから、本格的に修業した沢木には辛いところがあった。文化の違いでしょうがないにしても、中には、ロールの中身だけ掘り出して食べて、シャリは全部残す客もいる。具をほじくり出されてぽっかり穴の空いた巻寿司が、皿の上に死屍累々と積み重なってるのを見ると、俺でもむなしい気がした。客にしてみれば、ライスを食べると太るから残す、それの何が悪いってことなんだろうが」

「俺も寿司屋でウエイターしたことありますから、気持ちはわかります。アトキンソン・ダイエットが流行った頃は特にひどかった。あれは、炭水化物を目の敵にしますから」

 俺が言葉を挟むと、長井氏はうなずいた。

「アトキンソンやってるなら、寿司は食わなきゃいいんだがな。だがまあ、どんな食い方しようと金を払ってくれる以上、客は客だ。そう割り切らないとやっていけない」

「実さんは割り切れなかったんですか?」

「努力はしてた。でも、あいつは正直だろう? 不機嫌が顔に出ちまうんだ。あまり客あしらいはうまくなかった」

 俺は「やまと」での実さんの評判を思い出した。そういうところは、昔から全く変わっていなかったらしい。変わろうとしても、変われなかったのか。

 長井氏は突然に話題を変えた。

「『花菱』ってレストランの名前、聞いたことあるか?」

 俺は記憶を探った。

「高級レストランでしたけど、数年前に、何か問題を起こしたんじゃなかったですか?」

「うん。『花菱』は高級本格日本料理店として名前を知られてた。サウスベイにあって、まわりの日本企業御用達の接待用レストランみたいなもんだった。日本からの駐在員は会社の金をフルに使えて金回りがよかったから、『花菱』は景気がよかったんだ。その『花菱』から沢木に引き抜きの話があった時、沢木は喜んだ。給料が段違いにいいのを別にしても、『花菱』の日本人客相手なら、沢木の望むような寿司を握る機会はずっと多くなる。腕のふるいがいがあるじゃないか。話を聞いて沢木の彼女も日本からやってきた。サウスベイなら、周囲に日本語の通じる店はたくさんあるし、日本人も多い。英語の得意でない人間でも、生活していける。二人でアパートを借りて一緒に暮らそうと思うって、沢木は幸福そうに話してたよ」

 真由ちゃんだ、と俺は思った。日本にいた頃からの恋人だったのか。

「ところがだ、沢木の移籍の話はなかなか進まず、そのうち立ち消えになってしまった。代わりに俺が誘われた」

「なぜ?」

「知らんよ。言っとくが、俺は汚い手を使って沢木に来た話を横取りなんかしてないぞ。ただ、『花菱』のオーナーから来た話を受けただけだ。俺が受けなきゃ沢木に行くってわけじゃないからな。誰か他の店の寿司職人に行くだけだ。沢木もそれはわかってた」

 長井氏は居心地の悪そうな顔をした。

「ずっと後になって聞いたんだが、最初に沢木に話を持ってきたのは、『花菱』のマネージャーだそうだ。『花菱』の寿司職人が一人、辞めることになって、後釜を探していた時、本格的に修業した寿司職人ってことで沢木に目をつけた。その後で、『花菱』のオーナーが、客を装って黙って『さくら』に下見に来た。オーナーは沢木が気に入らなかったらしい。それで話は流れた。流れた話を俺が拾った。そういうことだ」

 暗に、俺が悪いんじゃない、と言いたいんだろう。確かに長井氏のせいじゃない。幸運の女神は、実さんにそっぽを向き、長井氏に微笑んだ。それでも長井氏はなんとなく、気がとがめるのだろう。だから俺なんかを相手に、こんな話をしてる。外見はどうあろうと、長井氏は誠実な人なんだ。

それで、と俺は話の続きを促した。

「俺は『花菱』に移った。しばらくして『さくら』は閉店したと聞いた。沢木はどこか他の店に移ったんだろうと思ったが、自分のことで精一杯で、気にかける余裕はなかった。知識も技術もない半ちくの寿司職人だったからな。『花菱』のチーフに怒鳴られながら、なんとか一人前になって永住権がとれるまでに三年かかったよ。それから、あの問題が起きたんだ」

 長井氏は俺に、ビールでも飲むか? と訊ねた。俺が車だから、と辞退すると、じゃあ、コーヒーでも、と言った。長井氏はインターフォンで飲み物を言いつけると、椅子の背に寄りかかった。

「昔話ってのは喉が渇くな」

 ウエイトレスが長井氏にバドワイザー、俺にコーヒーを運んできた。ウエイトレスが出ていくと、長井氏はボトルから豪快にぐい飲みして、また話を始めた。

「『花菱』は日本と比べてもひけをとらないクオリティの日本食を出すのが売りだった。アメリカ人は質はともかく、量がたっぷりあれば一応、満足する。日本人は逆だ。だから、日本人の好みに合わせるために、『花菱』のオーナーは無理をしてるとこがあった。『花菱』の人気メニューにすき焼きがあった。オーナーは極上の神戸牛を日本から取り寄せて客に供していた。ただ、正式に輸入したわけじゃなく、日本の知り合いからオーナー個人へ、こっそりと空輸してたんだ。これがFDA(アメリカ食品医薬品局)にばれて、『花菱』は営業停止処分を受けた」

「ああ、思い出しました。日本語の新聞なんかじゃ大きく取り上げてました」

「うん。『花菱』は閉店に追い込まれ、俺たち従業員はみんな職を失ったんだが、それはまあいい。そのうち皆、次の職場を見つけたよ。ただ、皆が不思議に思ったのは、なぜ、密輸入の一件がFDAにばれたのかってことだ。そして噂が流れた。FDAに密告したやつがいる、と。誰かが、沢木実の名前を口にした。数年前、移籍話が流れたのを根にもって、沢木がFDAに密告したというんだ」

「そんな!」

 俺は声をあげた。

 密告はありそうな話だ。俺が聞いても、「花菱」の成功を妬んだ同業者の密告という気がする。限られた客を奪い合う競争はシビアだ。えげつない手を使ってでも、ライバルを蹴落とそうとする人間はいるだろう。

 俺の働く「エコー」なんてちっぽけな店でさえ、ターゲットにされる。前に、仕事が終わって帰ろうとすると、俺の車のワイパーに近所に新規開店したカラオケ店のチラシが挟んであった。店の駐車場に停めてあったから、カラオケ客の車だと思ったんだろう。マーケティング戦略としては効率がいいのかもしれないが、新規の客を開拓する手間を省いて、ダイレクトに客の横取りに出る強引なやり方には、興ざめする思いだった。

なりふり構わず客を奪い取ろうとするやつなら、密告してライバルをつぶし、その濡れ衣を実さんに着せることなんか平気だろう。

「実さんが密告したという証拠でもあるんですか?」

 俺は憤然として言った。

「あるものか。ただの噂だ。だからこそ怖いんだ。誰が言ったかわからないから、どこへも尻の持ち込みようがない。それでいて、みんなが知っているんだ」

「証拠も無いのに根も葉もない噂を信じるなんて」

「俺は信じなかった。沢木を直接知ってる人間は誰も信じなかった。だがな、噂を聞いたほとんどの人間は沢木に会ったこともないんだ。運の悪いことに沢木がその頃勤めていたレストランが業績不振で閉店した。新しい勤め口を見つけなきゃならないが、LAの日本食業界なんて狭いものだ。悪い噂の立っている沢木を雇うところはなかった。『やまと』は、切羽つまった沢木に、昔修業した築地の店の先輩に当たる人が世話した店だそうだ」

 幡野さんだ。

 長井氏は、ビールを飲みほすと、ボトルをくずかごに投げ込んだ。

「俺は、沢木を引き抜きに行ったんだ」

「え?」

「俺は運が良かった。いや、運ばかりでもないがな。『花菱』がつぶれた時、得意客の一人が、俺に、出資するから店を持たないか、と言ってきたんだ。『花菱』は客層は良かったからな。俺はその話に乗った。それが、この『ライジング・サン』だ。幸い繁盛して、俺は共同経営者になった。今度、寿司シェフの一人が引退するんで、誰か腕のいい寿司職人に来てほしかった。で、沢木のことを思い出した。調べてみると、『やまと』にいて、大した給料はもらってない」

 長井氏はにやりと笑った。抜け目のないビジネスマンの顔がちらりとのぞいた。

「蛇のみちはへびでね。こういうことは裏から手を回せばわかるものさ。沢木の知識と技術、経験を考えれば、えらい低賃金だ。『やまと』のオーナーのやつ、足元を見やがったな、と思ったよ。それなら、沢木に直接会って説けば、うちに来る気になるんじゃないかと思った」

 考えもしなかった展開だった。ナガイは、実さんの敵のはずじゃなかったのか? 俺が驚いて何も言えないでいるうちに、長井氏は話を続け、俺は黙って耳を傾けた。

「七、八年ぶりにあった沢木は全く変わってなかった。俺の方は変わってたらしい。沢木は初め、俺が前にすわっても気がつかなかったからな。沢木の握った寿司を食べながら、あいつの休憩時間になるのを待って、車で連れ出した。店の中で引き抜きの話をするわけにはいかないじゃないか。初め、沢木は驚いてたよ。俺が店を持ったことは知らなかったらしい。俺は『ライジング・サン』の載っている日本語情報誌を見せた。ジャパニーズ・フュージョンだから沢木が望むような握り中心の店じゃないが、給料は今よりずっと良くなる。新しいメニューも開拓したい。だから、沢木の力を借りたいと言った。格下だった俺に使われることになるのは、プライドの高い沢木にはつらいかもしれない。そう思って、十分に配慮はしたつもりなんだが」

 長井氏の表情に淋しげな影がさした。

「実さんはなんて言ったんです?」

「すぐにはうん、と言わなかった。『俺とお前は違う、ロールばかり握るのは俺のポリシーに反する』と言いやがった。俺は苛々した。きれいごとばかり言ってたら、ここでは生き残っていけない。お前のポリシーはお前が自分の店を持ってから貫けばいい。今は店を持てるようになる算段をしろ、と言ってやった。沢木はしばらく黙ってたよ。少し考える時間をくれ、と言った」

 長井氏はため息をついた。

「あの時は、わかってくれたと思ったんだが。『敵』と呼んだのなら、やっぱり、だめだったんだな」

 そうとも限りませんよ、と俺は言った。

「『敵』と呼んだと言ったのは、メキシカンのバスボーイです。実さんは彼とはいつもスペイン語で会話していました。語彙には限りがあったはずです。『敵』にもいろいろあるでしょう。憎むべき『敵』もあれば、『好敵手』としての敵もある。実さんは、ライバルという意味で『敵』と呼んだんじゃないのかな」

 俺は実さんのアパートにあった日本語情報誌を思い出した。賭けてもいい。あの名刺は、「ライジング・サン」のページに挟んであったんだ。実さんは敵前逃亡する気はなかった。長井氏のチャレンジを受けて立つつもりだったんだ。

 俺がそう言うと、長井氏は、嬉しがらせるじゃないか、と言った。吹っ切れたように、長井氏の目から暗い色が消えて、代わりに憤りの表情が浮かんだ。

「だが、沢木は殺されたんだろう? 一体、誰がやったんだ」

「俺もそれが知りたいんです」

 俺は幡野さんの依頼で実さんの周辺を調べていることを話した。

「そうか。沢木の弟が来るのか。もし、葬式をこっちでやるなら、俺にも知らせてくれ、と、その幡野さんに頼んでくれ。焼香ぐらいしに行く」

 もう話すことはなさそうだった。俺は立ち上がった。

「長々お時間を頂きました」

「元気でな、ミスター・ノーボディ」

「俺の名前はノーボディじゃないです。俺は……」

 いい、と長井氏は手を振った。

「ノーボディの名前なんか聞いてもしょうがない。俺は人の名前は憶えられないタチなんだ。俺の店の客だけは別だがな。次に来る時は、客として来い。そしたら、名前を覚えてやるよ」

「俺がこんな高級店に来られるようになるのは、大分先の話になると思います」

「心配するな。十年先でも、『ライジング・サン』はちゃんとここにあるから」

 俺は長井氏と握手した。肉体労働に励んだ過去のある、がっしりとした手だった。

 

第十三章 正義の問題     

 

 俺のアパートは、ダウンタウンのすぐ東のモントレイ・パークにある。かっては日系移民が多かった地域だが、今は他の町と同じく、ラテン系民族が大多数になっている。小さな敷地にきっちりとタウンハウスやアパートが立ち並び、町並みは美しいとは言いかねるけれど、家賃の安さとダウンタウンへの近さが魅力だった。

 マリブから戻ってくると、もう夜十一時を回っていた。アパートの駐車場はいっぱいで、誰かがまた、俺専用のスペースを勝手に占拠して車をとめている。俺は舌打ちして駐車場を出た。駐車できる場所を見つけるまでに近隣の道路をかなり走りまわり、シヴィックを路上駐車して、ようようアパートに戻ってきた時はくたくただった。

 アパートの二階に通じる外階段を登り、鍵を開けて部屋に入った。ドアを閉め、明かりをつけたとたん、とんでもないものが目に入った。

居間の真ん中に据えた安楽椅子にルディがすわっていた。まっすぐに俺を見ている。右手に構えた銃口も、まっすぐに俺の方を向いていた。同時に誰かが俺の後ろに回りこんだ。肩甲骨の下に鋭くとがったものが当たった。

「お帰り、ヒロ」

 ルディの声は落ち着いていた。俺は口の中がからからに渇いて、返事なんかできない。アメリカに住んで九年二ヶ月、今まで銃を突きつけられたことはなかった。夜の駐車場や、働いてる店の閉店後に、強盗に襲われたことのある友人たちからは、幸運だと言われていた。その幸運も尽きたらしい。銃口を真っ向から眺めるのが、こんなに剣呑で、冷や汗の出るものとは知らなかった。

「すわれよ」

 俺の足は根が生えたように動かない。

 ルディの銃口がくいくいと左に動いた。後ろの誰かが、肩を掴んで俺の身体を前に押し出す。俺はぎくしゃくと歩いてソファにすわった。自分の身体が自分のものでないような気がした。目は銃口から離せない。男は俺の後ろに立った。肩甲骨に触れていた鋭く尖ったものは、今は俺の右肩に載っている。シャープな刃先を俺の右の耳下に向けている。

「驚かせてごめんよ。どうしても聞きたいことがあったんだ」

 ルディは気が狂ったんじゃないらしい。この間の夜、インタビューした時と何も変わらない語調だ。俺は喉から言葉を無理矢理に絞り出した。

「まず、その銃を下ろしてくれないか」

 ルディは素直に銃を膝の上に下ろした。

 俺はほっとした。身体が弛緩すると同時に、全身からどっと汗が吹き出した。後ろの男はナイフを向けたままだ。だが、真っ向から俺の眉間を睨んでいる死神がいなくなっただけで、気分は随分楽になった。遅ればせながら、腹立たしさがこみ上げてきた。

「どういうつもりなんだ。どうやってここに入った?」

「こんなボロアパート、ピン一つで簡単に入れるさ。言ったろう、聞きたいことがあるんだ」

「何を聞きたい」

「ミノルの敵」

 ルディの目は恐ろしいほど真剣な色をたたえていた。

「教えてくれって言ったはずだよ」

 俺が黙っていると、ルディは穏やかな口調で続けた。

「ヒロは一昨日ミノルのアパートに行った。今日は店を休んでどこかへ出かけていた。僕はちゃんとヒロを見張ってたんだ。ヒロはコジロを見つけたんだ」

「いや、見つけてない」

「嘘をついても無駄だよ」

「嘘はついてない。メルセデス・ベンツの男はコジロという名前じゃなかった。それに、彼はミノルの敵でもない」

「ミノルは敵だと言ったんだ」

「多分、君が受け取ったのとは違う意味で敵と言ったんだ。聞いてくれ。ベンツの男はミノルの昔の同僚で、今は大きなレストランのオーナーになっている。彼はミノルを『やまと』から引き抜きに来てたんだ。ずっといい条件の仕事をオファーした」

「嘘だ」

「嘘じゃない。ミノルは、考えてみると答えたそうだ。移籍に気持ちが動いていたんだ。その証拠もある。それに、ミノルが殺された夜、ベンツの男にはちゃんとアリバイがある。僕が調べた。証人もいる」

 俺は必死だった。が、ルディはほとんど聞いていなかった。それなら、と言った。

「それなら、ミノルはどうして死んだんだ」

 ルディは突然、銃を取り上げた。おい、よせ、と俺が叫ぶ間に、畜生! とわめくなり、いきなり天井にむかってぶっぱなした。

バンという轟音と共に、ガラスが砕ける音が響き、部屋が真っ暗になった。ルディの発射した弾は、電灯のかさを貫いて電球を打ち砕いたらしい。濃い火薬の匂いがつんと鼻を刺す。しばらく、誰も動けなかった。

 それから暗闇の中で、どたどたと重い足音がして、ドアを開け閉めする音が響いた。いつの間にか、俺の後ろにいた男がいなくなっていた。俺の首に突きつけられていた刃物も一緒に消えて、俺は胸をなでおろした。

「おい、大丈夫か?」

 俺は部屋の中央付近に向かって聞いた。その辺りから、ルディの荒い息づかいが聞こえてくる。ルディは返事をしなかった。

「どうした? けがをしたのか? 待ってろ、今、懐中電灯を…」

 俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。遠くから聞き覚えのある音が響いてくる。ポリスカーのサイレンだ。

 やばい。

 アパートの誰かが、銃声がしたと通報したに違いない。俺は拳銃の携帯許可を持っていない。未成年のルディはもちろん、そんなもの持ってるはずがない。今、警察に踏み込まれるのは困る。絶対に困る。

「ルディ、急げ。そいつを持ってここを出るんだ」

 俺は手探りでルディを引っつかむと、アパートを出た。大急ぎで鍵をかけ、ぼうとしているルディを引きずるようにして階段を下りた。サイレンの音は段々近づいてくる。俺は駐車場に向かおうとして、唸り声をあげた。

「どうした?」

 ルディがここ数分間で初めて口をきいた。

「俺の車。路上駐車してあるんだ」

 銃声のしたアパート付近をこんな時間にうろうろ歩いていたら、不審者として尋問されない方がおかしい。身体検査されたら、たちまち不法所持の拳銃が見つかる。

「大丈夫だよ」

 ルディが言って、俺の腕を引っ張って駐車場に向かう。

 俺の専用駐車スペースに、磨きぬいた暗い鏡のように光るゴージャスな車がとまっていた。そうか、さっきちらりと見た車は、ルディのアキュラだったのだ。

 ルディは一言も言わずに車に乗り込み、俺は助手席に乗った。ルディの運転は滑らかだった。ポリスが到着するずっと前に、俺たちは市街地を抜けてフリーウエイに乗っていた。

「さっきのナイフの男は君の友達か?」

「うん。彼なら大丈夫。こんなことには慣れてる」

「そうか」

 慣れてるのはあまり感心しないが、一応、俺は安心した。

「さっきのメルセデスの男の話は本当なんだね?」

「本当だ」

 俺は長井氏の話を、念のため固有名詞だけは伏せて――血の気の多いラテン気質は何を考えるかわからないから――すべてルディに話した。ルディは黙って聞いていた。俺が話し終えると、わかった、信用する、と言った。

「そうか、信用してくれるか」

「うん。そんな面倒な話、ヒロが創作できるとは思えない」

 何かひっかかる言い方だが、追求しないことにした。

「警察は、女を引っ張ったって聞いた」

 俺は慌てた。

「おい、香織さんは違うぞ。警察は間違った人間を捕まえたんだ。あの夜、香織さんは俺と一緒にいたんだ」

「ミノルが会ったのは、ミニクーパーの方だろ? なんで警察に言わないのさ」

「彼女を巻き込まないためだよ。実さんは最後の夜、ウエディングギフトを渡して、彼女の前途を祝福した。」

「ミノル、最後までかっこつけてたんだ」

 俺たちはしばらく黙って、夜のフリーウェイを走り続けた。LAの夜は闇とは縁が無い。夜を徹して煌々と灯り続けるネオンのせいで、夜空はぼんやりと明るい。そこを薄い灰色の雲が流れていった。上空には風があるのだろう。

「ルディ」

「何?」

「君、ギャングに入ってるのか?」

「なんだい、いきなり」

「入ってるのか?」

「入ってないよ」

 ルディはむっとしたように答えた。

「ラテン系のティーンだからギャングメンバーだなんて、おまわりだけの偏見だよ」

「じゃあ、その銃はどうしたんだ」

「親父のだよ。ちょっと拝借したんだ」

「お前な…」

「親父はもう寝てる。朝までに返しておくから、気付かないよ」

「警察に見つかったら、お前だけじゃない、親父さんまでトラブルにまきこまれるんだぞ、わかってんのか?」

「うるさいなあ。返しておくって言ってるじゃないか」

 ルディはやや乱暴に加速して、でも、あくまでもなめらかな動きで、前を走るムスタングを追い越した。

 高をくくってしまえるのはルディの若さ、くよくよ心配するのは俺が年を食ったせい、そうして、ルディの親父さんに迷惑がかかるのを怖れているのは、まぎれもなく、俺が日本人である証拠だ。

「ヒロの方がよっぽどギャングらしく見えるよ。何なんだよ、その恰好」

 ルディが言って、くくっと笑った。

「俺はギャングになるには年を食い過ぎてる」

「じゃあ、ジャパニーズ・ヤクザだ」

ロブはそのつもりだったのかもしれない。左の頬に、ナイフの傷跡をつけたがったのを、俺が断固拒否したのだ。ロブはテレビ界で、そこそこ仕事をしているが、最近は暇な時間が多くなった。

ハリウッドは経費節減のために仕事を賃金の安いカナダへどんどん移している。仕事がなくては人は暮らしていけない。そのうち、ロブは転職するかカナダ移住を考えなければならなくなるだろう。グローバル化は、人を根無し草にする。

 

 俺たちはしばらくフリーウエイを走ってから、頃合を見計らって俺のアパートに戻った。ポリスカーはもういなかった。ルディは、俺の車の駐車してあるところまで送ってくれた。自分も車から降りて、しげしげと俺のシヴィックを眺めた。

「洗車したな」

「ルックスは君の車に及ばないけど、これでも俺の大事な相棒だからな」

 ワックスもかけてやれよ、とルディは言った。ルディのアキュラは、街灯の明かりを反射して、夜の湖水のように光っていた。

 ふと、俺はルディのTシャツの左袖が黒く汚れているのに気がついた。血だ。

「おい、左腕、どうしたんだ?」

 ああ、とルディは左袖を見た。

「さっきガラスで切ったんだ。大したことない。もう、血も止まってるし」

「ほんとか? でもその腕……」

 俺は、ルディの左の二の腕を指さした。そこに、黒々と血が流れている。いや、黒い蛇が這ったような文様がある。

「こいつ?」

 ルディはTシャツの袖を捲り上げて俺に見せた。そこに、黒々と彫られているタトゥーを見た時、俺は、実さんの死の真相がわかったような気がした。

 

夜のフリーウエイ

第十四章 解答           

 

 幡野さんのオデッセイは夜の町を「やまと」に向かって走っていた。俺は助手席にすわって、左右に流れていくネオンを眺めていた。

 実さんの死は自殺だった。

 

俺と話した翌日、ルディは実さんの遺書と自殺に使った包丁を携えて、警察に出頭した。

 遺書には、実さんが自分の自由意志で自ら命を絶つと決めたこと、ルディに死骸の後始末を頼んだが、手を下したのはあくまでも自分ひとりであることが、くどいほどに繰り返し書かれていた。ルディに迷惑をかけまいと、実さんが心を砕いたのが良くわかる。実さんは日本人だ。

 実さんには、自殺を隠すつもりは毛頭なかった。現場にあった遺書と包丁を持ち去ったのはルディの独断だ。ルディは実さんを自殺に追い込んだ敵に復讐するつもりだった。そのために遺書と包丁を隠し、実さんが殺されたように見せかけて、警察が敵を探し出すのを待った。だが、警察は見当違いの人間を拘留した。結果的に敵を見つけたのは俺で、しかも敵が敵でなかったことを知って、ルディは復讐をあきらめて出頭した。大した罪に問われなければいいと願っている。

 

 警察は「やまと」の封鎖を解き、俺と幡野さんはこれから、実さんが「やまと」に残した私物を取りに行く。実さんの弟さんは明日、LAに到着する。康子さんが、空港に迎えに行くことになっている。

「だがなあ、ヒロ君、俺はまだ釈然としないんだよ」

 運転しながら、幡野さんが言った。

「沢木が、仲良くしていたバスボーイに遺書を託したのはわかる。だが、なんでまた、よろいかぶとを着せてくれ、なんて頓狂なことを頼んだんだ?」

「俺も初めはわけがわかりませんでした。あっと思ったのは、ルディの左腕にあるタトゥーを見た時です」

「へえ。何のタトゥーなんだ?」

「二天一流」

「は?」

「崩し字で二天一流と彫ってあったんです」

「なんなんだ、それは?」

「二天一流は、剣豪宮本武蔵の創始した剣の流派です。それに気がつけば、全部がつながってきます」

 俺はネットで宮本武蔵を検索した。

「宮本武蔵は一五八四年、美作国宮本村に生まれています。咲枝さんの記憶は正確だったんです。実さんは、出身地を尋ねられて、美作、と答えた。ただ、美作は県じゃない、旧国名で、今の岡山県にあたります。実さんは少年時代、剣道をやっていました。出身地をわざわざ旧国名で答えるくらい、郷土の生んだ剣豪を尊敬していたんでしょう」

 宮本武蔵の生涯は、戦いの一生だった。

 

―われ若年の昔より六十余たびまで勝負すといえども、一度もその利を失わずー

 

晩年の著書「五輪書」で、宮本武蔵は、負けたことがなかった、とその一生を回顧して書いている。

「宮本武蔵と言えば、必ず、対になって出てくる名前があります」

「佐々木小次郎」

 幡野さんが待っていたように答えた。

「それがコジロの正体です。実さんは、自分を武蔵になぞらえていました。男はおのれの信ずるところに従って戦うのだと、ルディに言っていたそうです。ルディは実さんから度々武蔵の話を聞いていたに違いありません。それで、実さんが『敵』と言った時、無意識に、武蔵の有名な敵の名前をあてはめたんだろうと思います。もしかしたら、実さんが自分で長井氏を佐々木小次郎になぞらえたのかもしれません。映画や小説の中の佐々木小次郎はたいてい、武蔵よりも世渡りがうまく、派手な男として描かれています」

「なるほどなあ」

 幡野さんは納得したようにうなずいた。

 

宮本武蔵の生涯の夢は、功名手柄を立て、侍大将になり、やがては一国一城の主になることであった。天下分け目の関が原の戦いは、武蔵十七歳の時である。武蔵は西軍宇喜多勢に加わって戦った。だが、西軍は敗走した。その後、武蔵は長い武者修行の旅に出て戦いを続ける。だが、時代は武蔵に味方しなかった。世の中は太平に向かい、英雄豪傑が剣一本、槍一筋で身を立てられる時代ではなくなっていた。

 

―われ、六十余たびまで勝負すといえども、一度もその利を失わずー

 

武蔵は強かった。強かったのに、彼の夢は実現しなかったのだ。

「晩年、武蔵は肥後細川家の客分として、二天一流を伝授しました。その地で、六十二歳で亡くなった時、遺言を残しています」

 

―死骸に甲冑を着せよー

 

「生きている間に侍大将になれなかった武蔵は、死んで初めて、侍大将のよろいかぶとを着て葬られた。実さんは武蔵の遺言を知っていたんだ。自分もまた、戦い続けて夢を果たすことなく力尽きた。せめて尊敬する武蔵と同じように、死骸に甲冑を着せてもらいたい。実さんを崇拝していたルディは、実さんの最後の願いを実現した」

 

ルディは警察で、こう供述している。

 あの夜、実さんの自殺の覚悟をきいて、ルディは友人を数人連れて「やまと」に行った。実さんは先着して、タタミルームで遺書を書いていた。待つ間、友人たちは、よろいかぶとを着てチャンバラの真似事をする誘惑に抗しきれなかった。駐車場の清掃夫はそれを見たのだ。「やまと」のカーペットは、たいていのレストランがそうであるように赤い。刺されて倒れた振りをしたサムライの身体の下に醤油の染みでもあれば、血が流れたように見えただろう。やがて遺書を書き終えると、実さんはそれをルディに託して、一人で包丁を腹に突き立てた。

 介錯人のいない切腹で、実さんはさぞ苦しんだろう。だが、ルディたちは、一切が終わるまで手を出すなと厳命されていた。

 実さんがこと切れると、ルディは友人に手伝ってもらって、実さんの死体に甲冑を着せ、テーブルの上にすわらせた。遺書と包丁を現場に遺しておくはずだったが、ルディは持ち去ることにした。彼らは明かりを消し、障子を閉め、「やまと」の裏口に鍵をかけて立ち去った。

 

「思いもよらなかったよ、あの沢木がなあ」

 幡野さんは首を振った。

 たいした胆力です、と俺は言った。

「俺は実さんのアパートで、壁に張られた日本画を見ています。『枯木鳴鵙図』といって、武蔵が晩年に描いた有名な絵だそうです。鳥が一羽、枯れ枝にとまっている絵で、初めて見た時には随分淋しい絵だと思いました。でも、今は少し違います。モズは肉食の鳥ですからね。淋しいけれど一人で立つ強さ、闘志みたいなものが顕れている。武蔵の晩年の心境をモズに託したものだそうですが、あのモズは実さんでもあると、俺は思いました」

 

 実さんの使っていた包丁はきれいに洗われて、箱に入れて寿司カウンターにしまわれていた。ロッカーには大したものは入っていなかった。着替え、歯磨きのセット、タオル、石鹸、ヘアブラシ、スペイン語会話のテキストとテープ、腰に巻く補強ベルト。幡野さんは一つ一つ、丁寧に取り上げて、持ってきた紙袋に入れた。

「ところで、沢木の死んだタタミルームを見せてもらいたいんだが」

 幡野さんが言うと、黙って幡野さんのすることを見ていた森田氏はイヤな顔をした。

「なんでまた?」

「沢木の弟に聞かれたら、何か言ってやらにゃならんだろう? 自分で見ろ、とも言えないじゃないか」

 森田氏は、こっちだ、と言って店の表口に近い、障子で囲まれた一角に連れていった。

 障子を開け、明かりをつけると、すさまじい光景が目に飛び込んできた。咲枝さんが悲鳴をあげたのも無理はない。タタミの上に大量の血が流れた痕があり、さらに大きな物体を引きずったように血の痕が続いている。実さんが苦しんで血を流しながら這ったあとのように思えた。深緑の京壁、周りの障子、隣室との間を隔てるふすまにもどす黒い血が飛び散っている。障子の一つには、血にまみれた五本の指の痕がはっきりと付いていた。

 実さんが亡くなって十日以上になるのに、この部屋には、まだ、絶望と苦痛と血の匂いがこもっている。

「ひどいもんだな」

 幡野さんが低い声で言った。

 そうだろ、と森田氏が忌々しげに言った。

「タタミもふすまも障子も全部、取り替えなきゃ使い物にならない。壁も塗り替えなきゃな。まったく、えらい迷惑だよ」

「俺が言ったのは、そんなことじゃないよ、森田」

 幡野さんは冷ややかに言った。

「沢木が死んだこの部屋に、線香の一本、花の一輪も供えてないのはひどいじゃないか、と言ったんだ」

 森田氏はむっとしたようだった。

「なんで俺がそんなことしなきゃならない? 迷惑をこうむったのはこっちだ」

 幡野さんはいきなり森田氏の胸倉をつかんだ。

「よくもそんなこと……。沢木を殺したのはお前だろう!」

 

 第十五章 第二の解答

 

 幡野さんは胸倉をつかんだまま、森田氏を揺すぶった。森田氏は、離せ、とわめいて幡野さんの手首を掴んでもぎ離そうとしたが、幡野さんは手を離さなかった。

「お前が殺したんだ、自分でわかってるんだろう、森田!」

 離せええ、と森田氏が悲鳴をあげた。顔が真っ赤に染まっている。幡野さんが寿司職人の強い指で喉元を締め上げているから、息ができないのだ。俺は、幡野さんの腕に手をかけた。幡野さんは、森田氏を床に投げつけた。森田氏は這いつくばったまま、激しく咳き込んだ。真っ赤な顔を上げて、幡野さんをねめつけた。

「貴様…こんなことをして」

「どうするって言うんだ? この人殺し!」

 森田氏は立ち上がった。上着の前やズボンを手ではたいた。

「今すぐ出ていけ。さもないと警察を呼ぶぞ」

 結構だな、と幡野さんはうそぶいた。

「警察を呼べよ。ついでにテレビ局と新聞社と雑誌社もだ。そしたら俺は、お前がどんなに卑劣な手段で、沢木を殺したか話してやる」

 森田氏の顔に狼狽の色が浮かんだ。

「沢木実は自殺したんだ。証人もいるし、遺書もあるじゃないか」

「ああ、沢木は自分で包丁を腹に突っ込んだ。だがな、その沢木の手首を握って、無理強いしたのはお前なんだ」

「馬鹿な。わたしはあの夜、自宅にいた。妻も息子も知っている」

 幡野さんと森田氏は睨みあった。俺は口を挟んだ。

「森田さん、俺は沢木さんの部屋で、弁護士の名刺を見つけました。幡野さんは昨日、そのトーマス・J・オカモトという弁護士に会ってきました。オカモト弁護士の専門は移民法で、沢木実さんの永住権取得について相談を受けていたと話してくれました」

 森田氏は突然、へなへなと床にすわりこんだ。俺は構わずに続けた。

「沢木さんは何年も前から永住権取得の申請をしていました。オカモト弁護士が調べてみたところ、雇用主が提出しなければならない書類がまだ出ていないために、事務手続きが滞っていることがわかりました。オカモト弁護士は、沢木さんに大至急、その書類を雇用主から提出してもらうように、と言ったそうです。沢木さんの労働ビザ切れの期日が迫っているために、一刻の遅れも許されない、と繰り返し警告したと言っています。雇用主というのはあなたです、森田さん。あなたは、その書類を沢木さんに渡しましたか?」

 沈黙。

「あなたは沢木さんを低い給料でこき使ってた。なにごとも永住権のためとがまんする移民の足元を見る雇い主は少なくありません。でも、あなたのやり方はひど過ぎた。沢木さんは腕のいい寿司職人です。永住権さえ取れれば、あなたに縛られている必要はない。現に、沢木さんの昔の同僚は、レストランオーナーになって彼を引き抜きに来ています。彼だけじゃない。永住権さえ取れれば、LAにいる必要もない。ニューヨークでも、アトランタでも、シカゴでも、腕のいい寿司職人を求めているレストランはたくさんある。あなたは低賃金で文句も言わずに働いてくれる沢木さんを失いたくなかった。だから、沢木さんに永住権を取ってほしくなかった」

「違う! 忘れていたんだ。忙しくて、つい、忘れていたんだ」

 森田氏はしゃがれ声で抗議した。

「お前は最低の畜生だよ、森田」

 幡野さんは唸るように言った。

「あなたの怠慢のせいで、永住権が取れないうちに、沢木さんの労働ビザは切れてしまった。こうなれば道は二つしかない。日本に帰って一からやり直すか。このままアメリカに不法滞在して生活するか。この国でビザなしで働いて生活している人間は大勢います。生きていくだけなら、ビザはいらない。でも、沢木さんの夢――自分の店を持つことは不可能になる。ならば、日本に帰って、一からやり直すか。日本は年齢にうるさい国です。沢木さんは三十五歳を過ぎてました。どこかの寿司店で雇ってもらうにしても、半端な年齢です。いったん日本に帰ってから再渡米というのも、アメリカの移民規制がますます厳しくなっている現状では、難しいでしょう。どちらの道を選んでも、沢木さんの夢は消えたんです。結局、沢木さんはどちらの道も選ばず、第三の暗い道を選びました。選んだのは沢木さんですが、その道を開いたのは、森田さん、あなたです」

 黙ってうつむいていた森田氏がふいに顔を上げた。開き直ったようにふてぶてしい表情がその目に浮かんでいる。

「そんな証拠がどこにある? 沢木の遺書を俺は警察に見せてもらった。永住権のことなど何も書いてなかった。俺は無関係だ」

 この人でなし、と幡野さんが森田氏に掴みかかった。森田氏は抵抗したが、幡野さんの怒りは膨れ上がって止まらない。一発、二発と幡野さんのこぶしが、森田氏の顎に炸裂した。森田氏の鼻から血が噴出すのを見て、もう、いいでしょう、と俺は幡野さんを止めた。

「森田さん、そう簡単には逃げられませんよ」

 俺は言った。

「あなたのやったことは、幡野さんが知ってる。俺も知ってる。オカモト弁護士も知っています。いつでも証言してくれるそうです。もし、今度、こんなことがあったら……あなたが、永住権を餌に従業員に滅私奉公を要求しているとか、永住権取得の妨害をしたとか聞いたら、俺は沢木さんの物語をネットに流しますよ。匿名の噂の恐ろしさは、あなたはよくご存知だ。誰もがあなたと、あなたの店からそっぽを向くでしょう。幡野さん、行きましょう。こんな人間に時間を使うのはもったいない」

 幡野さんは汚いものでも見るような目で森田氏をみると、ぺっとつばを吐きかけて出ていった。

 

 第十六章 最後の解答

 

 幡野さんの家では、康子さんが熱いお茶漬けを用意して待っていてくれた。細かくほぐした甘塩鮭と香り高いもみのり、炒りたての白ごまを冷やごはんに載せ、刻んだ生わさびをちょっぴり利かせて、上から熱い番茶をかけ、さらさらとかき込む。合間に康子さん特製の白菜の漬物をぱりぱりと噛む。

 俺はお茶漬けを二膳、お代わりしてようやく人心地がついた。

 幡野さんは康子さんに「やまと」での出来事を話した。

「沢木が『やまと』に入る時、口をきいたのは俺なんだ。あんな人でなしだって知ってたら、絶対に紹介なんかしなかったんだが」

 暗い顔の幡野さんを康子さんは、しょうがないわよ、と慰めた。

「知らなかったんですもの」

「日本人が日本人を搾取する。イヤな世の中になったもんだよな」

「人の好い人間には、段々、住みにくい世界になっていくようね」

「昔はこんなじゃなかったって、聞いてます」

 ラフカディオ・ハーン――後の小泉八雲――は十九歳で、英国からアメリカへ移住した。懐中無一文で、シンシナチに住んでいた遠縁のいとこを訪ねた。いとこは、五ドル札を一枚、ハーンの上着のポケットに押し込み、肩をポン、と叩いてドアを閉めた。一八七〇年のことだ。あとは自分でやれ、飢え死にしようが凍死しようが知ったことじゃない。

当時の移民はそういうものだった。労働許可などいらない代わりに、自分しか頼るものはなかった。だから、移民は大人も子供も必死で働いた。将来に夢を抱いて。

 人間はどこで生まれようと、自由に、おのれの望むところに移住して暮らしをたてていた。それがどうして,許可がなければ働けないような、こんな窮屈な世界になってしまったのか。

「社会保障制度ができたからよ」

 康子さんが言った。

 社会保障と移住の自由。

 なんの関係があるのかわからない、というと、康子さんが説明してくれた。

「ヒロ君、知っていた? ここでは、子供の朝食と昼食は無料なのよ。お金がありませんと言えば、子供は学校でシリアルにミルク、フルーツの朝食や温かいランチをただで食べられる。アメリカ市民の子供に限らない、不法移民の子供でもいいの。もちろん、食べ物が魔法で空中から出てくるわけがないから、実は税金でまかなってる。その税金は誰が払うの? アメリカ市民でしょ。なぜ、自分の子供でもないのに養わなきゃならないんだ、という反発が出てくるのは当然なのよ」

 康子さんはため息をついた。

「社会保障制度は、一種のクラブみたいなものだわ。安全で暮らしやすい社会を作ろうと、国民が税金を払って長い時間をかけて作り上げた。だから、その国の国民が利用する分にはいい。彼らの親や祖父母や曽祖父母が子孫のために身を粉にして働いた結果なんだから。でも、移民は? 移民の祖父母は、クラブの構築に何一つ貢献してない。なのに、その恩恵だけは当然のように受け取る。そんな人間が大勢いるのは困る、だから移民は制限されるようになった。かっての移民は貴重な労働力として歓迎された。社会保障制度が発達すると、福祉にタダ乗りする重荷としてしか扱われなくなった」

 幡野さんがつぶやいた。

「移民の意識も変わった。俺は、子供に食わせ、着せ、教育を受けさせるのは、親の役目だと思う。だが、そうしたくても、できない親が増えてきた。だから社会がその役目を引き受けた。そのうち、それを当然と思う人間が多くなった」

 康子さんが言った。

「社会保障制度は、人間にパンを与え、自由を奪ったってことかしら。どんなに良い意図から始まった制度でも必ず悪用する人間が出てきて、そうなれば制度は腐敗していく。実さんは、その矛盾の犠牲者なんだわ」

 自由の女神が泣いてるぜ。

 

第十七章 ドリーム

 

実さんの葬儀は、LAのジャパニーズ・テンプルでこじんまりと行われた。喪主は実さんの弟さん、参列者は幡野さん夫婦とのりと俺。「やまと」のマネージャーの梅田さん、同僚だった咲枝さん、麻美さん、ルディ。他のスタッフの参列はなし。森田氏が来ないのは当然だが、他のスタッフはきっともう、他の店で仕事を見つけて働いているのだろう。不法滞在のメキシカン労働者に、遊んでいる時間はない。それでも、実さんが以前働いていた店のオーナーとそこでの同僚が数人、参列してくれた。コジロこと長井氏も言葉通り、焼香に来てくれた。ルディは、彼のメルセデスを感嘆の目で眺めていた。真由ちゃんへも知らせたが、来なかった。ただ、大きな白いユリとトルコ桔梗の花束が届いた。

 日本語メディアの記者が数人、現れたが、実さんの弟さんは一切ノーコメントで通したし、俺たちも何も言わなかった。英語系のメディアは関心なし。殺人事件じゃなかったわけだし、テレビ放映までされた事件でも、日々の出来事に埋もれて、こうして忘れられていく。みんな毎日を生きていくのに精いっぱいなんだ。

 

それからひと月ほどたった夜、香織さんが「エコー」に顔を出した。あのシャワーの夜から初めてのことだ。店は暇で、常連のよしさんが一人、カウンターで仕事帰りのビールを飲んでいるだけだった。

「いらっしゃい。何にします?」

 香織さんは、コーヒーお願い、と言ってカウンターに座った。よしさんが、よう、久しぶりだな、元気だったか? と声をかけても、生返事をしただけだ。いつもの香織さんらしくない。香織さんは、コーヒーにミルクを入れてかき回しながら、何か考え込んでいる。こんな風に静かな香織さんは珍しい。

「香織さん、試験、終わったんですか」

 俺が言うと、え、ああ、と頼りない返事が返ってきた。

「どうしたんですか? なんか、心配ごと?」

「別に。どうして?」

「いや、なんか、珍しく考えこんでるから……」

珍しくって何よ。私は考えてるわよ。毎日、いつも考えてる。ヒロ君と一緒にしないで」

 やっと、香織さんらしい返事が返ってきた。

「シャワーギフトのことを考えてたの。ウエディングがキャンセルされた時、ギフトはどうしたらいいのかって」

「キャンセルって、真由ちゃん?」

「おいおい、あの細っこい子か? ここでシャワーやった…」

 飛び入り参加したよしさんも、驚いたような声を出した。

 香織さんはため息をついた。

「ヴィンスが婚約破棄したの。実さんと真由ちゃんの関わりを、誰かがヴィンスに話したらしい。実さんが死んだ夜に、真由ちゃんが実さんに会ってたって。で、ヴィンスが真由ちゃんに問いただして、真由ちゃんは何もかもぶちまけちゃった。で、婚約解消」

「ひどいな。真由ちゃん、ショックだろう?」

「それが、そうでもないの。なんか、ふっきれたように、さっぱりした顔してる。ヴィンスは本音では、結婚なんかしたくなかった。お見合いパーティに参加したのも、色々、違った女の子と付き合いたかっただけだって言ったそうよ。真由ちゃんが妊娠を知らせた時、泣き出したんですって。僕を破滅させないでくれって。あと二年だ。あと二年で一番下の娘が十八歳になる。養育費の支払い義務が終わる。ここでまた、十八年の養育費を背負い込むのは耐えられない。費用は払うから、中絶してくれって頼み込んだんですって。真由ちゃんが拒絶すると、黙り込んで、それなら、結婚しようって言ったそうなの。でも、今度のことで、嫌気がさしたらしい」

 そんな事情だったなら、結婚したってうまくいくとは思えない。破談になってかえって良かったように思うけど、でも……。

「でも、真由ちゃん、赤ちゃんがいるんだろう?」

「そのことで、今日、真由ちゃんと一緒にオカモト弁護士に会ってきたのよ。オカモト氏は、まず、真由ちゃんが意思をはっきりさせることが一番大切だって言った。生みたいのか、中絶するのか、生んで養子に出すのか、生んで自分で育てるのか。もしも生んで自分で育てるならば、ヴィンスから養育費を取れって」

「払ってくれるのか?」

「払ってくれる、くれないの問題じゃない。払わせるの。これは戦いよ。ヴィンスの子なんだから、ヴィンスはその子が十八歳になるまで、養育費を払う義務がある。養育費の額は裁判所が決めるけど、当然、母親として真由ちゃんも養育に責任を負う。でもね」

と言って、香織さんはちょっと黙った。

「ここで生まれた真由ちゃんの子は、アメリカ市民なのよ」

 アメリカ市民は、自分の親のための永住権を申請できる。

「シングルマザーで子供を育てる覚悟が、真由ちゃんにあるかどうかよね。これは、真由ちゃんにしか決められない問題よ」

 俺の知り合いにさ、と黙って聞いていたよしさんが言った。

「うちの店の常連客に、建築家がいるんだ。彼がいつか言ってた。人生は建物を建てるのとおんなじだって」

 人は生れ落ちたその瞬間から、おのれの人生を築き始める。まず、身体を作り。精神を作り、性格ができ上がる。友人を作り、キャリアを築く。すべて建築にはルールがある。ルールを知り、ルールを尊重すれば、失敗のしようがない。大邸宅であろうと豚小屋であろうと、ルールに従って築けば、ちゃんとできあがる。

「どんな建物を建てたいのか、よく考えろ、とあの子に言ってやってくれ」

と言って、よしさんは帰っていった。

「忘れてた。シャワーギフト、どうしたらいいのかしら」

 突然、香織さんが言い出した。

「ギフトったって、ベビー用品ばかりだろ? 香織さんがギフトくれたみんなに挨拶状を出せばいいじゃないか。ウエディングは中止になりましたが、ベイビーはやってくるかもしれません。だから、この間のシャワーは、ベイビーシャワーにさせて頂きますって」

「そうね。それならみんな、納得してくれるかも。ねえ、ヒロ君。うちまでライドして」

「車、どうしたんだよ」

「ここへは、真由ちゃんの車で来たのよ。わからない人ね。仕事終わるまで待ってるから早くしてね」

 

 外へ出ると、星がいっぱいに出ていた。

「なあ、香織さん」

「なに?」

「真由ちゃんとどこで知り合ったんだ?」

 前から不思議だった。同じ年頃ではあるけど、大学生の香織さんと、ELSに通う真由ちゃんとじゃ、あまり接点は無かっただろう。

「教会よ」

 香織さんはあっさりと言った。そう言えば、香織さんはクリスチャンだし、大学の専攻は教会音楽だった。

「真由ちゃんもクリスチャンなのか?」

 香織さんは首をかしげた。

「さあ。今はともかく、前は違ったと思う。教会へ来たのは、方便でしょ」

 結婚相手を探すための方便、という意味だろう。教会は誰でもウエルカムだし、メンバーはお互いを良く知ってるから、そんなに危ない相手に出くわすことはないだろうと言われてる。

 やっぱり計算高い。そういう動機から宗教団体に加入するって、どうなんだろ。

 俺がそう言うと、香織さんは、それだけ必死だったってことよ、と言った。

「真由ちゃん、二十七歳なのよ。実さんが永住権とれないってわかって、どうする? 日本に帰るの? 帰ってどうする? 失われた二十年とか言って、日本が今、どんな状況か、ヒロ君だって知ってるでしょ? 日本で安定した職に就くには、新卒でなきゃだめなのよ。あの国は年齢にうるさくて、いったんレールから外れると、敗者復活戦はない。自己責任と言われ、負け組の烙印を押されて、非正規で、安い給料で、将来を心配しながら働き続けることになる。夢も何もない。実さんみたいに手に職でもあればまだ、それでも生きていけるでしょうけど、真由ちゃんには何もなかった。わたしは、真由ちゃんの気持ち、わかるから、何とか応援してあげたかったのよ」

 俺は何も言えなかった。俺だって、あの国では先に何もなかった。だから、出てきたのだから。

 ウエディングシャワーの時の真由ちゃんを思い出す。半泣きになりながら、幸せになります、とあいさつした。真由ちゃんは、幸せを求めた。俺がそれをどうこう言うのは、傲慢だ。

 

俺の忠実な相棒が、誰もいなくなったパーキングの真ん中で待っていた。香織さんは、助手席に乗り込むと、バッグから小さな四角い包みを取り出して、俺に渡した。

「はい、これ。ヒロ君にはお世話になったから、お礼よ」

 中からはカセットテープが出てきた。

「うちの大学の聖歌隊が歌ってるの」

「かけてみて」

 俺は香織さんにテープを渡すと、車を出した。

 

かって、高賃金と豊富な仕事に釣られて、大勢の移民がヨーロッパからアメリカにやってきた。根無し草の暮らしには、小さな船に乗って行き先の見えない航海に出るような心細さがある。行き着いた先に、成功と幸福が待っているという保証は何もない。それでも人々はアメリカン・ドリームと呼ばれた船に乗った。

今、移民に向けられる視線は確実に冷たくなっている。仕事そのものが国外へ流れ出して、生存競争は一段と厳しい。

 

シヴィックは110フリーウエイに乗った。この時間でもLAを走る車の流れは途絶えることはない。みんな、どこへ行こうとしているのだろう。

 どこかで聞いたような曲がスピーカーから流れてきた。俺はヴォリュームをあげた。

 

――この身と心が滅びる時

――この世の生が終わるだろう

――そしてわたしはかなたに渡り

――静かな喜びに満ちた生を得るだろう

 

アメイジング・グレイス。

実さんは、夢を追って、追って、追い続けて、遠くへ行ってしまった。

それでもまだ、みんな、夢を追い続けるのだろうか。幡野さんも、コジロこと長井さんも、咲枝さんも、麻美さんも、のりも、ルディも、香織さんも、真由ちゃんも、そして俺も。この国のすべての移民たちも。

夜空の下、LAのフリーウエイはまっすぐに伸びている。

俺のシヴィックは、ネオンの輝く街を突き抜けるように走り続けた。

 

 



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