僕の仕事は闇と相性がいい。
仕事中、ほとんどの時間をこうして暗闇に一人すわって過ごす。
雨戸をたて、電灯を消した家の中は、エアコンをきかせても蒸し暑く、息苦しく感じる。アレルギー体質、気管支や心臓の弱い人にはお勧めできない仕事だ。
ほの白く輝く壁のデジタル時計がAM一時二十三分を示している。まだまだ、夜は長い。僕は手探りでもう一本、缶コーヒーを開けた。
「引っ越してすぐ、おかしなことが始まりました」
依頼人は垣内正喜。都内に住む会社員で、四十代の初め頃に見えた。後退ぎみの広い額の下の、小心そうな小さな目をしきりに瞬かせながら、ぼそぼそと低い声で話をする。
誰かに見られているような感じ、スッと脛を撫でてゆく冷気、真夜中に廊下を歩くひたひたという足音、確かに閉めておいたはずの窓が開いている、無人の部屋から聞こえるノックの音、目の隅をちらりとよぎる影、就寝中の金縛り、胸の上に石が乗ったような重苦しい圧迫感、五歳の息子に突然現れた「空想上の友達」……。要するに、この家には、家族以外にもう一人、目に見えない住人がいるという確信。
「亜紀子…家内は気味悪がりまして、引越ししようと申しました。わたしは反対しました。築五十年と少々古くはありますが、庭付きの一戸建てで、都内でこの広さの家はそうそうありませんです。通勤にも便利ですし、広太の勉強部屋もとれる。ここを出て、また元の狭いアパートに戻りたいのかと申しました。幽霊屋敷と思うから怖いのだ、慣れればどうということはない。物音や隙間風など、古い家にはよくあることだと思えば無視できる。金縛りにしたって、規則正しい生活をし、お茶やコーヒーを控えれば防げると申しました」
へえ、と僕はこの風采のあがらない依頼人をちょっと見直した。けっこう、肝がすわってるじゃないか。金縛りについてはその通りだ。要するに一種の睡眠障害だから、カフェインの摂取を控えるのは役に立つ。
「ただ、物がなくなるのには弱っています。植木鉢とか、鍋の蓋とか、変なものの好きな幽霊でして。亜紀子は、ものは置いた場所にちゃんとなきゃいかんという性格でして、気味が悪いというより、今はこちらの方に腹を立てています」
垣内氏は無精ひげののびた顎をこすった。
「今朝、どうしてもカミソリが見つかりません。帰りにコンビニに寄って買ってくるように言われました」
僕はうなずいて、同情の表情を浮かべた。この仕事、霊以上に、生きてる人間の扱いが大事だ。ギャラを払ってくれるのは霊じゃない、人間の方だ。依頼人はみんな、霊能者といういかがわしい人種に対する不信を胸に訪ねてくる。それをあやして気持ちを解きほぐし、会話の流れを上手に導き、終わり頃には、すっかり信頼しきって、「何事も先生にお任せします」となるようにもっていく。
故・兵藤小夜子、つまり僕の母は、これがうまかった。どんなに疑い深い依頼人でも手玉に取り、少なくないギャラを吐き出させたものだ。その後を継いで、僕も拝み屋をやって、今じゃ結構名前が売れてる。霊をうまく言いくるめて成仏させる技じゃ、業界で右に出るものなし、と言われて、「霊たらし」の異名をとるまでになった。それでも、依頼人の中には、二十代では、と侮るような顔を見せるやつもいるんだ。僕はそりゃ、若いけど、二十年からのキャリアがあるんですよ、と言うと、ますます不信の目を向ける。ま、いいさ。稼ぐだけ稼いで、さっさと、足を洗ってやる。闇にはもう、うんざりした。この仕事が終わったら、僕も遅い夏休みを取って、どっかへ行こう。南の海がいいな。空と、海と、太陽と。さらさらした砂浜に寝転んだら、きっといい気分だろう。彼女がいればもっといいんだけど、先月、二股かけたのがばれて、両方から愛想をつかされた。
壁のデジタル時計がAM二時五分を指した。
ふっと、僕のアンテナに触れてくる気配がある。
家のどこかでカタン、という軽い音。
垣内家の家族三人は今晩は親戚の家に泊まっている。
僕は耳を澄ませた。
ひたひたと廊下を歩く音。
突然、ギャッという悲鳴が聞こえた。
奥の八畳間だ。僕は缶コーヒーを置いて立ち上がった。
この家には陰惨な過去がある。
元々は、おばあさんの一人暮らしの家だった。夫の死後、遺された資産を上手に運用していたらしく、余裕のある暮らしぶりだったという。それが目についたのか、ある夜、強盗に襲われた。おばあさんは抵抗したらしい。翌朝訪ねてきた植木屋が発見した時、両手両腕に無数の傷を負って、血まみれで倒れていた。おばあさんの飼っていたたくさんの猫が、死体のまわりをうろうろと歩き回り、固まった血をなめていた。植木屋は腰を抜かしたという。
犯人はわからない。
おばあさんに子供はいなかった。唯一の相続人だった甥は、この家をもて余した。自分で住む気にはなれず、といってケチのついた家にはろくな値段がつかない。あのバブルの時期でさえ、買い手は二の足を踏んだという。結局、固定資産税分の収入があればいいつもりで、主に外国人に貸していた。最近になって、ほとぼりがさめたところで売りに出した。それに垣内氏がとびついたというわけだ。
おばあさんが殺されたのが、奥の八畳間だ。今は納戸代わりに使われている。古畳のかびくさい匂いが漂うなかに、茶箪笥や古い鏡台、座卓、衣装箱などが、黒々とした影になって浮かび上がって見えた。
その真ん中に、丸めた背中がひっそりとうずくまっている。
「おい」と声をかけると振り返った。闇の中に白い歯が見えた。笑ったらしい。僕は明かりのスイッチを押した。
部屋の中に電灯の黄色い光が溢れた。
痩せた男が、銀縁メガネの奥の目を眩しそうに細めて、こっちを見ている。
「明かりをつけちゃ、まずいんじゃないか?」
けげんそうな声だった。
「誰だ、お前。ここで何してる」
「あんたと同じ。仕事中」
「仕事?」
「あんた、垣内に頼まれた人だろう? 俺は妹に頼まれて来たんだ。俺は昔から、霊感が強くてね。それで頼まれて、除霊を見届けに来た」
「そんな話、聞いてない」
「そりゃ、そうだ。亜紀子はあんたのこと、大して信用してない。亭主のことはもっと信用してないんだ」
「どこから入ったんですか」
「普通に玄関から」
男はポケットから鍵を出してかざして見せた。キティちゃんの鈴がちりちりと鳴った。
僕はため息をついた。
「嬉しくなさそうだな」
「素人に下手に手出しされると、仕事がやりにくくなるんです。お引取り願えるとありがたいんですが、無理でしょうね」
「無理だな。言ったろ、これは仕事なんだ。うまくいけば、亜紀子から報酬が出る。それに、かわいい妹の頼みを無下にするわけにはいかないじゃないか」
男は名刺を差し出した。
「自己紹介といこう。坂田晋という。本牧のビアバーで、バーテンをやってる。あっちへ来ることがあったら、寄ってくれ」
「兵藤です。さっき、悲鳴をあげたのは、あなたですか」
「いいや。ここへ来た時、暗かったもので、何か踏んづけちまった。ふにゃっとした気持ちの悪いもんだ。悲鳴をあげたのは、そいつだ。なんだったんだろうな」
「そういうことがあるから、手出し無用に願いたいんです。ここにいるなら、口をつぐんで、じっとしていてください」
僕は明かりを消した。部屋は再び闇に包まれる。
余計な見物人がいるのは気に入らないが、仕事は片づけなきゃならない。僕は鏡台の三面鏡を開いた。鏡の表に、銀色の文字が浮かびあがっている。
〈あと五日〉
坂田が後ろから覗き込んで歓声をあげた。
「亜紀子が言ってた通りだな。これ、どうやって書いてあるんだ?」
僕は指でこすってみた。消えない。鏡の中から字が浮かび上がっている感じだった。だけど、どうやって書いたかは問題じゃない。
僕はホワイトボード用のマジックを取り出すと、〈あと五日〉の下に書いた。
〈あなたにお話があります〉
何も起こらない。続けて書いた。
〈あなたにとって、ためになる話です〉
今度は反応があった。銀色の文字が、ぶるぶると震えた。隣で坂田が、おっと息を呑む。〈あと五日〉の文字がすっと消えた。代わりに、〈話すことはない〉の文字が浮かび上がった。
「すねてやがる」と坂田がつぶやいた。僕が睨むと、両手を上げて引き下がった。
〈こちらにあるんです〉と書いた。
〈聞きたくない〉と返してきた。
〈そう言わずに〉
〈ほっといてくれ〉
〈ひとつ、コーヒーでも飲みながら〉
〈からかってる?〉
〈とんでもない〉
〈幽霊なんだよ〉
〈承知してます〉
ここでしばらく間があいた。霊が考え込んでいる気配がある。僕がまた、メッセージを続けようとすると、銀色の文字が現れた。時間がかかった割には、単純な罵倒だった。
〈バカ〉
〈アイスティーの方が?〉
〈カバ〉
〈出てきてください〉
〈いやだ〉
〈大事なお話なんです〉
聞きたくないなら無視すればいいものを、いろいろ駄々をこねてくる。つまりは聞きたいのだ。脈はある。押し問答を繰り返したあげく、ようやく、霊は〈さっさと言え〉の文字を出した。僕は勢いこんでその下にマジックで書いた。
〈引越しは思いとどまってください〉
「なんだとお」坂田が大声をあげた。かまわずに書く。
〈いつまでもここに住んでくださって結構です〉
「どういうことだ」坂田が怒声をあげた。
「依頼されたとおりにしてるんですが」僕はすまして答えた。
「二週間ほど前から、納戸の鏡台の鏡に文字が現れるようになりました」
垣内氏はぼそぼそと話を続けた。
「最初は、〈七月末日をもって、退去いたします〉でした」
「退去する、ですか?」
「はい。それから毎晩、オリンピックの前の電光掲示板のように、〈あと九日〉〈あと八日〉とカウントダウンしていくのです」
「律儀な霊ですね」
僕の軽口に、垣内氏はにこりともしなかった。
「引き留めてください」
「はあ?」
「今、引越しされては困るのです。いや、いつまででも住んでもらってかまいません。そう、幽霊に言ってやってください」
垣内氏は、真剣そのもの、すがりつくような目をして訴えた。
「しかし、なぜ?」
幽霊屋敷の住人が霊能者を訪ねてくる時、目的は一つ。「お祓い」だ。「お引留め」の依頼なんて聞いたことがない。
「迷惑なさってるんでしょう?」
「大した迷惑じゃありませんです。それに、もう慣れました」
「しかし、先ほどのお話では…」
「実はわたしは今、幽霊屋敷について本を書いてまして、いずれ出版社に持ち込むつもりでおります。テレビ局も興味を持つかもしれない。とにかく、今、退去されては困るんです」
冷房の効いた事務所で、垣内氏は汗をかいていた。
そういうわけだよ、と説明してやると、坂田はうなった。
「亜紀子の勘は当たったわけだ。亭主がろくでもないことをたくらんでるってな」
「奥方は承知じゃなかったんですか」
「承知なもんか。迷惑な居候がやっと出てってくれるって、喜んでたよ」
坂田はいきなり、マジックをひったくった。鏡に殴り書きする。
〈早く出てけ〉
「おい、よせ。やめろ」
僕はマジックを奪い返そうとした。坂田はパッと身をかわす。
霊が書いた銀色の文字〈さっさと言え〉がぎらぎらと不気味な光を放ち始めた。怒ってる。あわてて、坂田の書いた文字を、手のひらでこすって消す。そのそばから、坂田がまた書いた。
〈出てけ、いそうろう〉
坂田の腕をつかんでねじ上げた。腕力沙汰は得意じゃないが、この際、しょうがない。坂田は僕より頭一つ背が高いが、ひょろひょろと痩せてる。膂力は僕の方が上のはずだ。手首をひねってやると、わめき声をあげてマジックを床に落とした。拾おうと伸ばした手を、坂田が踏んづけた。痛さに悲鳴を上げる。涙が出てきた。振り返ってぶん殴った。どこかに当たって、坂田がむうと息を吐き出した。今のうちだ。どこかに行ったマジックを手探りしてると、いきなり、後ろから突き飛ばされてつんのめった。転んで床に顔をぶつけた。鼻血が吹き出てきた。袖口で押さえる。坂田がマジックを拾ってるのが涙でかすんだ目に入った。渾身の力を込めてタックルをかます。案外あっけなく、相手は仰向けにひっくり返った。その上に馬乗りになって、両手を振り回す。相手も、えびのように身を震わせながら、下からこぶしを突き上げてくる。
しばらくの間、怒声をあげながら殴りあったあげく、疲労困憊して二人とも床にぶっ倒れた。
「終わった?」
聞き慣れない声に顔を上げると、霊がこっちを見ていた。
十歳ぐらいの男の子だ。白いシャツにジーンズをはいている。細い身体を、青白いオーラが、後光のように取り巻いていた。バアサンじゃなかったのか。
「なんだ、このガキ」と坂田が言った。
ほんとに霊感があるのか、こいつ。
「お客様だよ。僕達が待っていた…」
言われてようやくわかったらしい。霊か、と裏返った声を出した。乱闘の間にどこかにすっ飛んでいた眼鏡を拾って、あわててかけ直す。
「おじさん達、誰よ」
変声期前のかん高い声。生意気さがにじみ出ている。こいつは、バアサンよりやっかいかもしれない。
「僕は兵藤ツカサ。この家の主人の垣内氏の代理人だ」
「さっき、僕の足を踏んづけたのはおじさん?」
「僕じゃない。そっちの方だ」
霊に冷たい目で見られて、坂田は口を開けたが、言葉が出てこない。
「垣内氏の奥さんの代理人だそうだ」
紹介してやると、霊は軽蔑したように鼻を鳴らした。
「ここの奥さんは嫌いだ。ケチンボで、日が沈むとすぐにエアコンを切っちゃうんだ。夏は暑いし、冬は寒くて眠れない。まあ、いいけど。僕、もう引っ越すから」
坂田が満足そうに歯をむき出して笑った。いやなやつだ。
「ちょっと待ってくれ。引越しの理由はそれか? 冷暖房の問題か?」
「それだけじゃないけど」
「全部言ってくれ。改善する」
「おい!」
坂田の抗議を僕は無視した。
「垣内氏は君に、ここに残ってもらいたいって言ってるんだ」
「亜紀子はイヤなんだぞ。これ以上、居候を我慢するのはごめんだと…」
「僕は居候じゃない!」
かん高い声が割り込んだ。霊が怒っている。頬が紅潮し、青白かったオーラが、黄色味を帯び、炎のように揺らめいた。
「僕は下宿人だ。ちゃんとお家賃を払ってる!」
「家賃?」
僕は坂田の方を向いた。
「聞いてるか?」
「いや」坂田は首を振った。「でたらめを言うなよ」
「でたらめじゃない!」
オーラがみかんの色になった。箪笥や鏡台がカタカタと音をたてる。
「落ち着け」と僕は言った。霊じゃなかったら、肩に手を置いてやりたいところだ。
「家賃のことは僕も初耳だ。幽霊がどうやって払う?」
「床下に小判の入った甕が埋めてあるのか?」坂田が口をはさんだ。
「んなわけないだろ、バカ」霊がここぞとばかりにやり返した。「二十一世紀なんだよ、おじさん」
こいつ、と坂田が気色ばんだので、僕は「落ち着け」と言った。肩に手を置いてやりたいとは思わなかった。
「それじゃ、どうやって?」
「僕は霊だから、霊の通貨で払う」
「木の葉…」と言いかけた坂田の背中を、僕はどやしつけた。
「霊の通貨って?」
「好意だよ」
「好意?」
霊はこくんとうなずいた。
「一ヶ月に一度、いい事をしてあげるんだ。最初の月には、広太君のお受験についていって、答えを教えてあげた。でなきゃ、絶対、合格しなかったよ。その次の月には、奥さんがスーパーに置き忘れた財布が、ちゃんと交番に届くようにしてあげた。その次は、ええと、垣内さんがゴルフで一等賞が取れるようにしてあげた。ゴールデンウィークで、電車の切符が取れない取れないって困ってた時に、急にキャンセルが出るようにしてあげたこともあるよ」
聞いているうちに、頭がくらくらしてきた。これだ。垣内氏が「お引留め」を依頼した本当の理由は、こんないい「家賃」を払ってくれる下宿人を失いたくなかったからだ。どうも変だと思っていたのだ。垣内氏は、下手な嘘をつきながら、脂汗をティッシュでぬぐっていたっけ。
「知ってたか?」
僕は、同じく呆然としている坂田に尋ねた。
「いや、知らん。亜紀子も知らなかったんだろう。でなきゃ…」
「そうだな」追い出すなんて言うはずがない。
「奥さんは知らないよ」霊が言った。「僕、奥さんとは関わらないようにしてたんだ。すごいケチなの。僕が夜中にエアコンつけると、わざわざ起きてきて、止めちゃうんだ」
「しかし、垣内氏はなんで、このことを奥方に説明しなかったんだ? これだけの家賃をもらえば、電気代なんて安いもんだろう?」
「わざと言わなかったんだ」と霊は軽蔑するような口調で言った。「内緒のへそくりにしておいたんだ。僕、垣内さんの会社の女の人が、垣内さんのこと、好きになるようにしてあげたこともあるよ。ゴールデンウィークに一緒に旅行できるように」
「呆れたもんだな」
「人間なんて、低級な動物だよ」
霊は生意気に断罪した。
「それで、おじさん。垣内さんは、僕が引越しをやめたら、何でもいう事をきいてくれるって言ったの?」
「うん、まあ、そうだけどな……」僕は考え考え言った。頭の中でひとつの計画がまとまりかかっている。「考えてみると、ここに残ることは、君のためにはならないかもしれないな」
「さっき言ったのと違うじゃないか」霊が目を怒らして言う。
「さっきは事情を知らなかったからね。垣内さんの奥さんが、そんなケチンボだとは知らなかった」
「ケチだよ」霊は、恨みを込めて断言した。
「垣内氏は恐妻家だ。約束を守りきれるかどうか。奥さんがエアコン切っても、何も言えないような人だからね。それに君は、垣内さんの浮気旅行のお膳立てをしてやった。奥さんが知ったら一騒動だ。そんな場所にはいない方がいいんじゃないか」
「何をたくらんでる」坂田が肘で僕のわき腹をこづいた。
「僕はみんなに良かれと思って言ってる。垣内氏は内緒のお家賃を受け取って、奥方を裏切ってる。妹思いの君にしたら、がまんならないとこじゃないか。浮気の秘密は長持ちしない。早晩ばれるだろう。そうなったら家庭崩壊だ。広太君はどうなる。そんなことになる前に、ここで打ち切っておいた方がいいだろう。この小さな霊にしたって、気の合わない奥方と、エアコンのことでけんかしながら暮らすより、引越した方がましだろうが」
「亜紀子は事情を知れば、文句言わないさ」
「どうかな。家賃をつり上げるくらい、言うんじゃないか」
「ああ、それはあるかもな」
霊が不安そうな顔をした。あと一歩。坂田にも霊にも考える時間を与えずに決着をつけようと、僕はたたみかけた。
「君はこの霊が出て行けば、妹君から報酬が出るんだろう?」
「ああ」
「じゃあ、行って、霊が即刻退散すると伝えろよ」
「出ていくのか?」
坂田が訊ねると、霊はうなずいた。
「出て行きます。もう、ここはイヤになった」
僕は霊と二人になった。
閉ざした雨戸の隙間に、細い光の線が現れた。どこかで烏が鳴いている。夜明けが近いのだ。
「もう、帰らなきゃ」霊が立ち上がった。
「帰る前に、あれを訂正していけ」僕は、鏡の〈あと五日〉を指さした。
「そうだね」
霊が鏡を一撫ですると、〈あと五日〉の文字が消えた。その後に、人差し指で書いた文字は、のびやかな線をもつ、なかなかの達筆だった。残念ながら、急いで書いたせいで、〈さなよら〉となっていたが。
「ところで」と僕は猫撫で声を出した。
「君、引越し先は決まってるのか?」
僕は口笛を吹きながら、部屋を片付けていた。1LDKの狭いマンション。男の一人暮らしで溜る、らちもないもので散らかってる。下宿人が来るのだから、少しは見栄えよくしておこうと思う。なんたって、シローは(そういう名前だった)僕の福の神になってくれるはずだから。伝説の座敷わらしが、遠野ならぬ東京の幽霊屋敷にいたとはね。嬉しい驚きじゃないか。シロー自身には、座敷わらしの自覚はないらしい。自分は幽霊だと言っている。幽霊でもコロボックルでもハナタレ小僧様でもかまわない。「お家賃」をちゃんと払ってくれさえすればいいんだ。
日が沈むと僕はカーテンを閉め、明かりを消した。冷房は、キンキンにきかせておいた。闇の中で缶コーヒーを飲みながら、福の神の到来を待った。
表のドアのチャイムが鳴った。
来た。
僕はドアを開けた。
誰もいない。
いたずら? 幻聴?
その時、スーッと身体の脇を冷風が吹きぬける感じがした。
「お邪魔します」という声が耳元で聞こえ、ひとりでにドアが閉まった。
振り返ると、ソファの上に、真っ白な子猫がきちんと前足を揃えてすわっていた。金色の目が丸くなって、こっちをじっと見つめている。
そうか。
白。シロー。
死んだおばあさんは、猫をたくさん飼っていたんじゃなかったか。
「お前、猫の霊だったのか」
猫はミャーと鳴いた。
「言葉、しゃべれないのか?」
猫を取り巻いている青白いオーラが変化した。長く上に伸びたり縮んだり、横に広がったりしぼんだりするうちに、猫の姿は消えて、ソファの上には男の子が正座していた。
「しゃべれるよ。ここ、おじさんの家?」
「おじさんはよせ」
「なんて呼べばいい?」
「みんな、ツカサって呼ぶよ」
「わかった」
「ここは借りてるんだ。ペットは禁止だ。だから、猫の姿であんまりうろつかないでくれ」
「了解」
ものわかりのいい霊じゃないか。僕は嬉しくなった。
「室温はこんなものでいいのか」
「うん。冷やっこくていい気持ちだ。ありがとう」
「行儀がいいな」
「おばあさんにいつも言われてたから。挨拶はちゃんとしなさいって」
シローは正座したまま、あたりを見回している。僕は咳払いをした。
「あのな、シロー」
シローがこっちを向く。
「お家賃のことなんだけど」
「ちゃんと払うよ」
「提案があるんだ」
僕は封筒から用意のおふだを取り出して、テーブルの上に並べた。
全国自治宝くじ。通称サマージャンボ。賞金は、前後賞含めて三億円。
「これは宝くじだ。宝くじって、なんだか知ってるか?」
シローは首をかしげた。
「ここに数字が印刷してあるだろ。抽選の時にこの番号が一等賞に当選すると、お金がいっぱいもらえるんだ。それを、お前に頼みたいんだ。できるか?」
僕は息を詰めた。
「できるよ」
シローはこともなげに言った。
「前に、垣内さんに頼まれてやったことがある。スーパーマーケットで、箱みたいなのをガラガラ回した時に、金色の玉が出るようにしてくれって。金玉が出るとゴールデンウィークの志賀高原豪華リゾートホテルスイート二名さまご招待券がもらえるんだって」
浮気旅行は、福引の景品だったのか。せこい男だ。
だが、シローがくじ運を操作できることはわかった。天にも昇るような気持ちって、こういうのを言うんだろう。
「頼むよ。それが来月分のお家賃だ。今月分はサービスしてやるよ」
「うん。ありがと。ツカサは優しいね」
真顔でそんなことを言われると、ちょっと面映い。
シローは浴室で寝ると言った。詳しくは聞かなかったが、鏡の裏側に、霊の眠れる場所があるらしい。
「この宝くじがあたったら、もっと大きな家に引っ越せる。その時には、もっと大きな鏡を買ってやるからな」
「これでいいよ」
シローの身体の輪郭がぼやけると、洗面台の上の四角い鏡の中に吸い込まれていった。
垣内氏はシローを失ったことに逆上し、散々に僕を罵倒した。もちろん、引き留めに失敗した以上、成功報酬になってるギャラは入ってこない。この業界、噂が広まるのは早い。「霊たらし」の評判はがた落ちだ。仕事の依頼もさっぱりだが、気にしなかった。僕にはシローがついてる。抽選日が来れば、億万長者だ。霊能者なんてやくざな仕事から足を洗える。
シローは不思議そうな顔をした。
「才能があるのに、やめちゃうの?」
ガキのくせに、生意気なこと言うやつだ。僕はおかしくなった。
「遊んで暮らせるなら、そっちの方が楽しいじゃないか」
「ほとんどの人間は、僕らが目の前にいても、何も見えないんだよ。ツカサみたいなのは貴重な才能だよ」
「そうだな。でも、二十年もやってると、いい加減、うんざりしてくるもんさ」
「そんなに前からやってたの?」
「八歳の時からな」
息子が霊媒の素質を示すと、兵藤小夜子は待っていたように、交霊術や除霊の仕事に連れ回し始めた。もともと小夜子本人には大した力はなかったから、霊を扱うのは僕に任せ、自分は依頼人との交渉にあたるマネージャーの役割に専念した。僕にとって、子供時代は楽しいものではなかった。
仕事のためにしょっちゅう学校を休まなきゃならない。霊を信じない人間たちには、不信の目で見られ、中にはあからさまに詐欺師呼ばわりするやつもいる。依頼人でさえ、半信半疑なのだから笑わせる。せっかく友達ができても、霊媒をやってるなんて知れると、気味悪がって離れていくか、変に好奇心むき出しで近づいてくるか、両極端だった。普通の友達づきあいなんて望めなかった。たった一人を除いては。
だから、僕は、あの時……。
僕は首を振って、思い出の世界から抜け出した。
「多分、闇に飽きたんだ」
シローは黙ったまま、金色の目で僕を見ている。
「僕の親父はいつも言ってたんだ。人間、お天道様の下でまっとうに暮らすのが一番だって」
親父本人は、真っ昼間からまっとうに酒を飲むことしかできなかった。酒代を稼ぐのは霊能者、兵藤小夜子とその息子なんだから、今から考えればお笑いだ。お父さん、僕はずっと闇の中で暮らしてきました。シローのおかげで、ようやく、お天道様の下で暮らせるようになれそうです。
シローは毎晩、日が沈むと浴室から現れて、ソファにすわった。猫の時もあれば、少年の時もあった。耳の後ろをを撫でてやると、(猫の時は)ごろごろと満足そうに喉を鳴らした。僕らはよく、そうやって、二人並んでテレビを見た。シローのお気に入りはニュースだった。
「幽霊も、社会の動きには敏感でなきゃいけないのか?」
「社会なんて興味ないよ。人を捜してるだけ」
「へえ、誰を?」
「おばあさんを殺したやつ」
僕はしばらく言葉を失った。ようやく、問いを発した時、答えはわかっていた。
「捜してどうするんだ」
「仇を討つ」
シローは真剣そのものの顔をしていた。
「おばあさんは良い人だった。なのに殺された。そのあと、知らない人がいっぱい来て、僕達みんなを捕まえて檻に入れた。みんな、死んじゃった」
おばあさんが殺された後、たくさんの飼い猫がどうなったのか。多分、「処分」されたのだろう。
「それで、お前は仇討ちのために、あの世から戻ってきたのか」
「うん」
正直言って、僕はがっかりした。
シローよ、お前もか。
僕が仕事で出会う霊たちは、まず、例外なく、妄執の鬼だ。執念深く、身勝手で、自己憐憫の塊で、凶暴で、悪意に満ちている。本来、とっくに成仏してなきゃいけないのが、恨みを含んでさまよってるわけだから、そうなるのは当然なんだ。だが、シローには、そういう陰鬱な雰囲気が全くなかった。これは珍しく、幸せな霊に出会ったのか、と思った。
でも、やはりそうはいかないらしい。この世とあの世の間にある深淵。そこを越えるには、執念がいる。霊は、観光旅行のように、気楽にあの世から戻ってきたりはしないのだ。
シローは金色の目でひたと、テレビ画面を見つめていた。
「決めたんだ。仇を討つまでは、絶対に成仏したりしないって」
けなげというか、哀れというか、愚かというか。
しかし、僕にとっては、好都合でもある。
三十年も前の強盗殺人犯の顔が、たまたまテレビに現れて、シローの目に留まる。なんてことは、まず、絶対にないだろう。シローはこれから何年間も、むなしい探索を続けることになる。「お家賃」を払いながら。
「それは偉いな」と僕は言った。ほくそえみたくなるのを懸命にこらえて、まじめな顔をつくった。
「じゃあ、ずっとここにいろよ。僕も手伝ってやるから」
「本当?」
「約束するよ」
しばらく途絶えていた仕事の依頼が入ってきた。
依頼人は及川久之。横浜市に住む三十五歳の会社員。一年前に七歳の娘を交通事故でなくしている。最近、しきりに娘の夢を見る。夢の中で、娘は何か、懸命に話している。自分はそれに答えているのだが、目がさめると、話をしたことは覚えていても、話の内容はすっかり忘れてしまっている。そういうことが、何晩も続いて起きた。これは死んだ娘が、自分達に何か訴えているのではないかと思い、交霊術をやってくれる霊能者を探したところ、「霊たらし」の評判を聞いてやってきた、と言う。
別にむつかしい仕事ではないようだった。
ここのところ、日照りが続いたので、懐が淋しくなってきていた。抽選日まではまだしばらくある。それまでのつなぎとしては、格好の依頼、と思えた。
甘かった、としか言いようがない。
僕はいつも通り、交霊会の準備を整えて、依頼人の家に向かった。シローには、今夜は帰れないかもしれないから、眠くなったら先に寝るようにと言い置いて出かけた。依頼人の家は横浜市内の閑静な住宅街にあった。娘の部屋はもう片付けてしまったというので、居間を空けてもらい、ダイニングキッチンからテーブルを運んできた。まわりに椅子を並べ、中央にオイルランプを置く。ブラインドを下ろし、用意してきた遮光カーテンをかけると、まだ日があるのに、部屋の中は闇に閉ざされた。
「交霊会に参加されるのは、及川さんに、奥様、それとご親戚の三沢さんご夫妻、ご友人の木村さん。この五人でまちがいないですね?」
「はい」
及川氏とその奥方は、緊張しきった顔で答えた。珍しいことじゃないので、僕は大して気にしなかった。普通の生活を送る市民が、交霊術などに関わることは、めったにない。
「霊が訪れる前には、ラップ音と呼ばれる、ものを叩くような音が聞こえることがよくあります。テーブルや家具が揺れる時もあります。落ち着いて、わたしの言うとおりにしていれば、大丈夫ですから」
及川氏と奥方はうなずいた。何もかも、いつもの手順通りだった。玄関のチャイムが鳴って、及川氏が出ていった。
「やっと来た。三沢さんでしょう」
僕はちょうどその時、背中を向けて、オイルランプに火を入れようとしているところだった。
いきなり、後頭部に衝撃を感じて、僕はテーブルの上に昏倒した。
そろそろと目を開けた。後頭部が割れるように痛い。どうやら、まだ生きているらしいことを納得した。立ち上がろうとして、両手首と両足首を縛られていることに気がついた。壁によりかかってすわった姿勢のまま、まったく身動きができない。
吐き気をこらえながら、そろそろと首を回して、あたりを観察する。電灯がついているほかは、さっきと何も変わっていないように見える。遮光カーテンのかかった窓。家具が片づけられてがらんとした中央にテーブル。周りに椅子。その椅子にすわっている人間を見た時、僕は殴られたせいで幻覚を見ているのだと思った。
「目がさめたようですね」
垣内氏は、小さな目を瞬かせながら、ぼそぼそした声で言った。
「これは、どういうことですか? 僕はどうして…」
「ここは、わたしの知人の家でしてね。兵藤先生に来て頂くために、貸してもらいましたんです」
いきなり、真相が閃いた。
「じゃあ、及川というのは…」
「架空の依頼人ということになります。しかし、文句は言えないはずですよ。先に裏切ったのは、先生の方だ」
垣内氏の小さな目に怒りの火がちらちらした。
「霊能者なんていかがわしい人間を信用したのが、そもそものまちがいでした。わたしの霊をどこへやったんですか?」
「知るもんか。霊が勝手に出て行ったんだ。引き留めに失敗したことは認めますよ。だからと言ってこんな……。縄を解いてください」
「まだ、そんなことを言ってる」
垣内氏は、鼻の先でせせら笑った。
ぞっとした。目の前の風采の上がらない男が、存外に肝がすわっていたのを思い出した。
「こんなことをして、ただで済むと思ってるんですか。僕は警察に行きますよ。これは、不法な監禁だ」
必死で言ってみたが、垣内氏は平然としている。
「いや。先生が行くのは、警察じゃありませんです」
垣内氏が居間のドアを開けると、喪服のように真っ黒なツーピースを着た、太った女が入ってきた。一目でわかった。同業者だ。
「こちら、葛城たまき先生。今回、お仕事をお願いしました。兵藤先生はご気分がよろしくないようですから」
葛城という女は、僕にも垣内にも目もくれなかった。名前を聞いたことはないが、この業界、名の知られてない同業者の方が多い。葛城は、テーブルの上に香炉を置き、そこにオイルランプから火を取って点火した。ゆっくりと細い煙が立ち昇る。空気がねっとりと濃くなってくる。僕は鼻をひくつかせた。サンダルウッド。交霊術に用いられる香。
「兵藤先生はお若いのに、なかなか、ご立派な実績をお持ちだ。あんな簡単な仕事を失敗するはずがない。あれは故意のサボタージュでした。違いますか?」
僕は黙っていた。その通りだからだ。
「わたしはね、自分でいうのもなんですが、いささか執念深い性格をもっております。それで、ちょっとした仕返しをさせてもらおうと考えましたんです」
「何をするつもりだ」
「ごらんの通り、交霊術ですよ」
「だから、誰を?」
「先生がよくご存知の方ですよ。故・兵藤小夜子先生」
垣内は、愉快そうにげらげらと笑った。
「おや、どうしました? そんなお顔をされて? 久しぶりに、お母様にお会いになるんだ。もっと元気な顔をしてさしあげないと」
部屋の明かりが消えた。
闇。
あの日も、僕はこうして、闇の中にすわっていた。
事業に失敗して自殺した男の霊で、自分よりも幸運だった全ての人間を憎んでいた。自殺したマンションの部屋に住み着いて、やってくる人間を次々に呪っては鬱憤を晴らした。それで、マンションの持ち主から、兵藤小夜子に除霊の依頼がいったのだ。
今日で三日目。僕はうんざりしていた。粘着質の男の、くどくどした恨み言を聞くのも、癇癪まぎれにそこらの家具や什器を叩き割るショーに付き合うのも、もうたくさんだった。早くおしまいにして、帰りたかった。明日は、学校で「お楽しみ会」がある。どうしても出たかった。休むと、土居君に迷惑がかかってしまう。
「お楽しみ会」は、クラス内のかくし芸大会みたいなものだ。歌のうまい者は歌を歌い、バイオリンを習ってる生徒は、それを披露する。紙芝居や指人形を作ってくる者もいるし、仲のいい同士が集まって、ちょっとした劇をするグループもある。今まで、僕はずっと、一人で手品を見せてきた。だけど、今回―五年生の二学期だった―初めて一緒にやる友達ができた。土居君といって、転入生だった。僕が霊媒の仕事をしてることを知らなかったのかもしれない。僕らは、仲良くなった。
「お楽しみ会、何やる?」土井君が訊いた。
「まだ決めてない。いつもは手品をやってる」
「ふーん。手品できるんだ」
「まあね」僕は得意だった。新しい友達の声に、感嘆の響きを聞き取って、有頂天になっていた。
「じゃあ、二人で、コントやろうよ」
「コント?」
「そう。テレビでよくやってるじゃん。手品見せながら、二人で漫才みたいなことするやつ。あれ、前からやってみたいと思ってたんだ」
二人でアイディアを練り、脚本を書き、放課後、練習を繰り返した。それなのに、こんな仕事が入って、こんな地方都市へ連れて来られた。学校を休んでる僕のことを、土居君は心配してるに違いない。今夜中に片づけて帰る。明日は絶対に学校へ行く。
男の霊は、金を貸してくれなかった親戚の悪口を延々と言い続けたあげく、壁紙を引き裂きはじめた。
「それ、楽しいんですか?」
男は答えない。黙々と、壁紙を裂いている。
「僕もお手伝いしますよ」
僕は男の隣に立って、壁紙を引き裂いた。古い壁紙は、ピーッ、ピーッと小気味のいい音をたてて裂けていく。
「へえ。結構、面白いですね。気持ちがすかっとする」
男は黙っている。しばらく二人で作業を続けた。
「こんな世界にはうんざりしたという、お気持ちはわかります。僕もよく、そう思いますから」
「お前みたいなガキに何がわかる」
「子供だから、わかるんですよ。曇りのない目で、世界を見ていますから」
男は鼻で笑った。
「生意気なガキだ」
ピーッ、ピーッ。
壁紙が裂けていく。
「ここ、終わったら、次はどこに行きましょうか? 洗面所にも壁紙が貼ってありましたよね、たしか」
男は手を止めた。
「お前、いくつだ」
「十一です」
「そうか。俺にもさ、十歳の娘がいたんだよ」
知ってる。この男に殺された。こいつは同居していた両親と妻と娘をナイフでめった刺しにしてから、首をくくったんだ。
「恨んでるだろうな、俺のこと」
「悲しんでいるでしょうね、きっと。お父さんがいつまでたっても天国に来てくれないから」
「俺、天国になんか行けないさ」
「そんなことはありません。あなたはもう、十分に苦しまれた。あそこに光が見えるでしょう? あちらへ行けば……」
僕は懸命に説得した。ここを離れて、彼岸へ行け、と。
男は珍しく素直に聞き入っていた。モノを叩き壊すこともなく、僕の言葉を乱暴にさえぎりもしなかった。もう少しだ、と僕は思った。もう少し…。
「あんたの言う事、聞いてると、なんとなく、そんな気もしてくるよ。ここにいても、しょうがないかもな……」
ろうそくの炎がすっと細くなり、頼りなげに揺らいだ。交霊術を始めた時に火をつけた長いろうそくが、ほとんど燃え尽きようとしている。部屋の中は、薄ぼんやりと明るい。闇が力を失ってきている。空気が澄んできた。朝が近いのだ。
「あんたと話してると気が落ち着く。今晩、もう一度来てくれ」
男は言って、最後に残った闇と共に消えた。すぐに、遮光カーテンの隙間から、朝の最初の光が差し込んできた。
ノックの音。
ドアが開いて、ママが顔を出した。
「ツカサちゃん、どうだった?」
そこで、どうして、あんなことを言ってしまったのか。
「うまくいったよ」と僕は言った。「天国の娘のところに行くって、そう言った」
僕とママは始発の新幹線で東京に戻った。僕はそのまま学校へ行き、三時間目から授業に出た。「お楽しみ会」は五時間目だから、僕と土居君は、給食を急いで食べて、お昼休みに最後の練習をした。
僕らのコントはバカうけだった。クラスのみんなが目を丸くしたり、大笑いしたりして楽しんでくれた。拍手をたくさんもらい、「一番面白かったで賞」をもらった。僕は幸せだった。幸せすぎて、闇を忘れていた。
その晩、霊能者、兵藤小夜子の家に強盗が押し入った。強盗は、寝ていた兵藤夫妻を刃物でメッタ突きにし、家の中を物色してめちゃめちゃにした挙句、何も盗らずに逃げた。二階で寝ていた一人息子の司は、窓から逃げ出して、庭のつつじの茂みの陰に隠れているところを翌朝、発見された。
警察の記録では、そうなっている。
僕だけは、ママとパパを殺したのが、強盗でないことを知っていた。
生きている人間でないことも。
空気の中の香の香りがどんどん濃くなってきた。
垣内と葛城はとうに部屋を出ている。
地獄が出現するような仕掛けを施して、さっさと逃げていったのだ。
なんとかして、ここから出ないと。
両手足を縛ったロープはきつくて、ゆるぎもしない。僕は背中と尻を小刻みに動かして、少しずつ、少しずつ、滑るようにしてドアの方に向かった。だが、どうやってドアを開ける? そんなことはまだ、考えなくてもいい。とにかく、ドアに向かうんだ……
パン! と乾いた木の割れるような音。
ラップ音。
気にするな。早くドアへ。
パン、パン、パン、と続けざまのラップ音。
煙が一段と濃くなった。
息ができない。
灰色の煙が渦を巻きながら、部屋一杯に漂い流れている。ゆらゆらと揺れ動きながら、雲のように集まって固まったり、また離れたりを繰り返している。
突然、煙の中心に何かが見えた。その何かに向かって、一斉に煙が動く。集まった煙が凝固して、黒い影になる。周囲の闇よりもまだ黒いその影は、人の姿をしている。
血まみれの浴衣を着た、ひとの姿。
ママ。
ママはじっと僕を見ている。
怖ろしい目つきで。
ママにはわかっているんだ。
僕が嘘をついたこと。
早く家へ帰りたくて、霊をすっぽかしたこと。
そのせいで、霊が怒って、追いかけてきたんだ。
ママの浴衣。
井桁模様のとんだ浴衣の胸に、あんなに大きな裂け目がある。血が吹き出てるよ、ママ。
ママが手を伸ばした。するするするとママの腕が伸びる。
血だらけの手が伸びてくる。
僕の頭を掴む。
冷たい手。
血だらけの手で、引っ張る。
痛いよ、ママ。
やめて。
まだ、引っ張る。
ママの目。
白目しか見えない。
僕が見えないの? ママ。
ママが引っ張る。
ママ、ごめんなさい。
僕の声が聞こえないの?
ママ、ママ。
ごめんなさい、ママ。
引っ張る。
痛い。首が痛いよ。
ママが引っ張る。
強く。
もっと強く。
僕は悲鳴をあげた。
傷ついた子犬のように、かん高い声で叫び続けた。
いきなり、部屋のあかりがついた。
飛び込んできた誰かは、渦を巻いている灰色の煙の塊に向かって、白いきらきらしたものを投げつけた。
煙が逃げるように拡散する。
頭を締め付けていた力がふっと緩む。
僕は、床の上に横倒しに倒れた。胎児のように身体を丸めて、泣き叫んだ。
「大丈夫か?」
誰かの手が、僕の身体を抱えて起こしてくれる。涙でぼやけた目に、銀縁眼鏡をかけた痩せた男の顔が映った。
「坂田?」
男が笑った。
「気は確からしいな。おかしくなっちまったかと思って、ちょっと心配した」
「どうして、あんたが?」
坂田は頭をかいた。
「亜紀子に頼まれたんだよ。垣内がまた何か、こそこそやってる。何をたくらんでるのか探ってきたら、報酬をもらえることになってる」
それから、真顔になって訊いた。
「さっきのはなんだ。霊か?」
「僕の母の霊だよ」
「そいつは」
坂田は途中で言葉を切った。ちょっと考えてから、続けた。「怖いな」
僕はうなずいた。
「君が投げつけた、あのきらきらしたものは何?」
「塩だよ。俺は霊能者じゃないからな。あんたらみたいな、たいそうな術の持ち合わせはないんだ」
「助かったよ。どうもありがとう」
「お安い御用さ。俺は垣内を尾けてたんだ。行きがけの駄賃だ」
「垣内は?」
「タクシーを呼んで出ていった。黒い服の女と一緒だ。追いかけようとしたら、お前さんの悲鳴が聞こえた。おい、まさか…あれが浮気の相手じゃないだろうな?」
「あれは霊能者だよ」
「なんだ」
坂田はがっかりしたようだった。浮気の尻尾をつかんて、奥方からボーナスをもらうつもりだったのだろう。
霞がかかったようだった僕の頭も、ようやく働きだした。垣内はなぜ、また、霊能者を雇ったりしたのだろう。僕へのしっぺ返し。それだけだろうか。
「わたしの霊をどこへやったんですか」
垣内の言葉が頭に蘇ってくる。
わたしの霊。
シロー。
垣内は、シローを取り返すつもりなんだ。
僕は立ち上がろうとして、まだ、縛られたままなのに気がついた。
「おい。この縄を解いてくれ」
坂田は考え込むように僕を見ている。
「さっきから不思議だったんだが、垣内はなんだってこんなことをしたんだろうな」
「ロープを解いてくれ」
「もしかして、お前さん、あの霊をネコババしたんじゃないのか?」
「頼むから、ロープを解いてくれ」
坂田はにやあっと笑った。
「解いてやるよ、条件次第では」
マンションの居間は闇に包まれていた。
その中で、黒い不吉な影法師のように、ソファにすわる二つの人影が見えた。
「おや。兵藤先生。お早いお帰りで」
垣内がとぼけた声を出した。
「ふざけるな。二人とも、さっさと出てけ。警察呼ぶぞ」
僕がわめいても、垣内は悠然と構えていた。
「帰りますよ。わたしの霊を返してもらったら」
「知らないって言ったろう」
「そんなはずはない。ここにいる。今、葛城先生に呼び出してもらっているところです。すぐに済みます。そうしたら、お望み通り、退散しますよ」
僕は、テーブルの上に、香炉があるのに気づいた。立ち上る細い灰色の煙は、ねっとりとからみつくような匂いを発している。僕は、香炉を引っ掴んで、キッチンのシンクに放り込んだ。垣内が怒声をあげたが、構わず水をぶっかけて火を消す。
遅かった。
葛城はすでにトランス状態に入っていた。目を閉じたまま、ぶつぶつと呪文を唱え続け、僕が腕を掴んでも、反応がない。
垣内が勝ち誇ったように笑い声をあげた。
「乱暴なことをなさいますな、兵藤先生。あなたも霊能者なら、交霊術の最中、霊媒に手を触れてはならないことぐらい、ご存知でしょうに」
かたん、と浴室で音がした。
出てくるな、と僕は必死で念じた。
シロー、出てくるんじゃない。じっとしてるんだ。
だが、シローは現れた。青白い顔をした男の子は、浴室のドアをすっと通り抜けて、居間に入ってきた。
葛城がそちらに閉じたままの目を向ける。
四角い桐の箱を取り出すと、手招きをした。
シローがふらふらと近づいていく。
「行くな」
僕が声をかけると、はっとしたように僕の顔を見た。だが、すぐ、元のぼんやりとした表情に戻った。
僕は絶望した。
どうすればいい。
どうすれば、この召喚の術を破れる?
シローはすでに術にかかっている。あの箱に入ってしまえば、僕にはもう、手出しできなくなる。
シローは、一歩、一歩、引き寄せられるように桐の箱に近づいていく。
葛城は目を閉じたまま、手招きを続けている。
ふと、気がついた。
もしかして。
葛城は、シローの姿が見えないんじゃないか。
霊能者だからといって、必ず霊の姿が見えるとは限らない。気配を察することはできても、見えない者も多い。
もし、シローが見えないのなら、葛城とシローの間にある呪縛の鎖を断ち切ることができれば、まだ、チャンスがある。
僕は、キッチンに飛び込んだ。食品戸棚の中から、ある物を取り出して、居間に戻った。
「シロー」と叫んだ。
ふらふらと歩いていたシローが立ち止まる。
「こっちへ来いよ。ほら、こんないい物があるんだ。お前のために、特別に買っておいたんだよ」
右手に握ったあるものを、シローに向かって振って見せた。
シローの顔が輝いた。霞がかかったような表情は跡形もなく消えて、微笑が浮かんだ。とことこと、僕の方に走ってくると、しっかりと僕の右手にしがみついて、爪を立てた。
その瞬間、鎖が切れた。
葛城が頭を抱えて、叫び声をあげた。
「どうしたんだ」
垣内が動転した声を出した。
「霊を見失ったんですよ」
僕は玄関のドアを開けた。
「二人とも、お帰りください。今度、この部屋に侵入したら、すぐ警察を呼びますよ。ああ、その前に。僕のポケットから盗んだ鍵を返してもらえませんか」
二人を追い出すと、僕はソファにすわった。いつもどおり、シローが隣にすわる。いつの間にか、猫の姿に戻っている。
「遅くなって、悪かったな」
僕はシローの耳の後ろを掻いてやりながら、話しかけた。
「テレビでも見るか?」
だが、シローは返事もしない。
抱え込んだ大事なマタタビに、頬をすりつけながら、盛大によだれをたらしていた。
僕の仕事は、闇と相性がいい。
最近は特に、闇の中で過ごす時間が増えている。
うちに福の神がいるせいで、やたらに仕事の依頼が舞い込むのだ。
商売繁盛は結構なことだが、たまには、お日様の光を浴びて、のんびりしたいと思う。
だが、半ば脅されて雇った、新任の押しかけマネージャーは、そうさせてくれない。
「お前さんは、霊をたらすのはうまくても、依頼人をたらす才能はゼロだからな。人間を扱うのは、霊を扱うよりずっと難しいんだ。どうしても、しっかりしたマネージャーがついてなきゃいけない」
マネージャーの名前を、坂田という。
サマージャンボはどうなったかって?
はずれも、はずれ、大はずれだった。
一等どころか、かすってもくれなかったよ。
どうして、こうなっちまったのか、僕も随分、悩んだんだ。シローが嘘をついてないことはわかってる。やつは、誠心誠意、僕の番号を当たりにしてくれようとしたはずなんだ。
謎はそのうち、解けたけどね。
シローがテレビを見ながら、キャットフードに付いてくる景品の応募あて先を、せっせとメモってた時さ。(ちなみに、シローは霊だからキャットフードは食べない。それでも、コマーシャルを見るのは好きらしい)
テレビに出ていたあて先は、東京都港区○○町五丁目○○郵便局、私書箱七六九一、猫の健康食品株式会社、ねずみのチューちゃんプレゼント係、だったのに、シローのメモには、東京都港区○○町五丁目〇〇郵便局、私書箱六九一七ってなってるじゃないか。
その時に思い出した。
あいつが垣内の家で、鏡に文字を書いて通信してた時。シローは、〈さよなら〉って、書くところを、〈さなよら〉って書いたんだ。あの時は急いでたせいだと思ったけど、そうじゃない。シローには、ディスレキシアの癖があるんだ。文字や数字の前後を、無意識に入れ替えちまう。
だから、あいつは、僕の番号とは全然関係のない番号を当選させちまったんだ。
これがわかった時には、さすがにちょっとがっくりきた。億万長者の夢よさらばだ。
でも、シローはすまながって、別に「お家賃」を払ってくれた。
僕は時々、仕事熱心なマネージャーから逃げ出して、近くのカフェにコーヒーを飲みに行くんだけど、そこに、ちょっと可愛い子がバイトしてる。ミュージカルが好きだって言うんで、今度、来日する評判のロンドン・ミュージカルのチケットをプレゼントした。正面前から五列目なんてとこが、キャンセル待ちでいきなり手に入った。彼女は大喜び。
だから、闇と相性のいい仕事も、そんなに悪くないかもしれないと、最近は思っている。
ただ、
時折、闇の中でじっと目を閉じていると、かすかに頬を撫でていく冷たい指を感じることがある。そういう時、思うんだ。
僕はいつか、闇に飲み込まれるのかもしれない。
でも、人間、みんな、そういうものだろ?