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迷宮の神

海と崖

目次

第一章 

第二章 語り部の物語

第三章 迷い谷

第四章 クノッソス

第五章 再び谷

第六章 テセウス

第一章 

 クレタ人は嘘つきだ、とクレタ人が言った。
入り江

陽光の下で街路は白く輝いている。漁師が魚のはらわたを海に投げ捨てると、青い宝石のような空から白い弾丸が急降下してきた。同じ獲物を狙った仲間のカモメとの間に騒々しい喧嘩が始まる。そよとも動かない空気は腐った魚の臭いに満ちて、世界中の蠅をこの小さな港町に呼び集めているようだ。

暑い。

俺は、情け容赦ない日光と首筋の汗にうるさくまとわりつく蠅から逃れて、手近な雑貨屋に入った。窓のない薄暗い屋内には、貝殻で作った安物の装身具や、様々な色に絵付けされた壺や皿が並べてある。柱には、黄色く平べったい円形のパンのような海綿がいくつも束になってぶら下がっている。海綿はクレタ島の特産物だ。丈夫できめの細かい天然のスポンジを求めて、ギリシア本土や、遠くリビアやカルタゴからも商人が買い付けにやってくる。

 大枚の金貨を落とす客がやってきたと思ったのだろう。店の奥から主人らしい爺さんが急いで出てきた。俺のみすぼらしいなりを見てすぐに違うと悟ったが、それでも商売人だ。丁寧にお辞儀して言った。

「お暑うございますな、お耳役様」

「まったくだ。商売の方はどうだ」

「王家のご威光のおかげさまを持ちまして、まあまあ上手くいっております。耳役様、このようなあばら家で何もございませんが、冷たいものなど、お持ちいたしましょうか」

 真昼間、クノッソス宮殿から歩いてきて、俺はのどが渇いていた。爺さんは奥に引っ込んで、すぐになみなみと水を湛えた木の椀を持って戻ってきた。俺がもうちょっと上等の役人だったら、水じゃなく葡萄酒を持ってきただろう。構わない。好意は好意だ、多少割引されていたとしても。

 冷たい水はうまかった。俺はのどを鳴らして一気に飲んだ。椀を返すと、爺さんは内緒話をするようなささやき声で尋ねた。

「あの、お耳役様。本日はどのようなご用件でいらしたのでしょうか」

「なぜだ。俺が来ると困ることがあるのか」

「とんでもございません。ただ、お耳役様がわざわざこのような陋屋にお運びいただきましたので……」

 爺さんの目には怯えの色がある。俺はすぐに後悔した。うまい水を分けてくれた爺さんに、役人風を吹かせることはない。

「別にお前のとこに来たわけじゃない。たまたま目についたから、暑気を避けて寄っただけだ」

 爺さんは目に見えてほっとしたようだった。

「まことにお暑うございます。ただ今、椅子をお持ちします」

 背もたれのない、硬い木の椅子が奥から持ち出されてきた。この店にある、たった一つの椅子かもしれない。爺さんは俺のそばに立ったままだった。

「お耳役様、今日、港で何かございますので?」

「アテネからの船が今日、着く」

 爺さんははっと息をのんだ。俺は知らないふりをした。

「波は静かだし、風もない。大過なく入港できるだろう」

 イラクリオンの港は、白い石を積み上げた防壁で外海から守られている。港に近づいて海の色が明るいコバルトブルーに変わると、船乗りの顔に、故郷に帰ってきた安堵の色が見え、甲板に陽気な笑い声が聞こえるようになる。だが、今回の船の船客には、白い石の防波堤が、死の門に見えているかもしれない。

「哀れなことでございますな」

「なぜだ。大事な貢物だ。無事に着くに越したことはない」

「もちろん、さようでございます。王家のなさることに、まちがいはございません」

 爺さんは愛想笑いを浮かべて答え、俺はうんざりした。爺さんの卑屈さも、上げ足を取った俺の意地の悪さも、両方とも不快だ。厄介をかけた、と俺は言って、爺さんの店を出た。

 とたんに、猛烈な熱気が襲い掛かってきた。むき出しの顔と首筋を灼き、全身から汗を噴き出させる。俺は額に巻いた汗止めの襤褸切れを締め直して、港に向かって足を速めた。

 この島で起きることは委細もらさず、王に報告することが、「王の耳」の務めだ。身分は奴隷。俺の額には、クレタ王家の紋章である雄牛の角が刻印されている。人ではなく、王家の持ち物であるしるしだ。それでも町の人々は、さっきの爺さんのように、うわべだけは俺をていねいに扱う。俺の後ろにクレタ王ミノスの痩せた、陰鬱な影を見ているからだ。

 

 アテネからの船はすでに港に入っていた。

 波に揺られてゆっくりと上下する甲板の上で、水夫が忙しく帆を下ろし、船倉から積み荷を運び出して荷下ろしの準備をしている。アテネからの船荷は書物、金銀の細工物、絹織物、香油などが多い。どれもこの島では手に入らない贅沢品だ。だが、この船が運んできた一番大切な荷はまだ、姿を見せていない。

 俺は、近くの路上にたくさんの荷箱が積み上げられているのに目をつけた。その隙間に潜り込むと、漁師が広げて干しておいた網を頭からかぶった。日を遮る役には立たないし、魚臭くて閉口したが、身を隠して物事を見聞きするには格好の場所だ。

 俺が隠れてすぐに、街路の向こうから規則正しい足音が近づいてきた。三十人ぐらいだろうか、クレタ兵の一団が、革と鋼の完全装備で、槍と盾を構えて列を作ってやってくる。その後ろに、四人の奴隷に担がれて、窓を閉じ切った輿が一つ続いている。兵は、アテネからの船の正面までくると号令とともに立ち止まった。ざっ、ざっという足音が止まると、港は急に静かになった。輿の中から宮廷の儀礼を司る式武官が姿を現わした。

輿を担いできた奴隷の一人が、折りたたんだ床几を広げると、豪奢な絹服に太った身体を包んだ式武官は、よっこらしょと緩慢な動作で腰をおろした。すぐにもう一人の奴隷が赤い日傘をその頭上にさしかけ、もう一人が羽扇を取り出して風を送る。最後の一人は、革袋に入った冷たい飲み物を杯に注いで勧めた。

いつの間にか町の人々が集まってきていた。商人、職工、漁師、大家の召使らしいお仕着せの奴隷、近郊から作物を売りに来た農夫、牧童、通りがかった子連れの母親まで、身分も地位も雑多な人々が、この一団を遠巻きにしてじっと立ち尽くしている。照り付ける陽光の中で汗をかきながら、何かを待っている。

 

 やがて、船の上で動きがあった。船長らしい大柄な船乗りに連れられて、アテネ人が船の渡り板を一列になって降りてきたのだ。町の人々の間からどよめきが起こり、式武官は床几から立ち上がった。

俺は、一、二、三、と人数を数える。四、五、六、七人の若者。そしてその後に同じく七人の若い娘が続いた。そろって簡素な白い服を身に着けているが、どれも若く、健康そうだ。皆、昂然と頭を上げ、迎えにきたクレタ人を軽蔑するように見下ろしている。敗戦の代償ではなく、勝利者としてやってきたような態度だった。

船長は十四人のアテネ人を式武官の前に先導すると、懐から巻いた書状を取り出して式武官に渡した。式武官は書状を広げて黙読すると、うなずいた。片手を上げて合図すると、クレタ兵がアテネ人を取り囲んだ。

先頭のアテネ人が式武官に何か言った。式武官はうるさそうに手を振ったが、アテネ人は強情だった。兵が脅すように槍を突き付けたが、若者は地面に足を踏ん張ったまま動こうとしない。この若者が一行のリーダーらしい。背は高いが、大男ではない。良く日焼けした手足はすんなりと伸び、むしろ華奢な印象さえ与える。だが、黒い巻き毛の下の瞳は強い光を宿していた。腕に手をかけようとした兵を鋭い声で制し、式武官に向かって何か言うと、式武官はしぶしぶとうなずいた。

兵士が引きさがると、若者は船長に近づいた。手にはめていた指輪を抜き取ると、船長に渡した。船長は恐れ入った身振りで、受け取った指輪を額に当て、深く礼をした。最大級の感謝と尊敬の表現だ。

この若者、何者だろう。

再び号令が響き、クレタ兵は十四人のアテネ人を取り囲むように隊列を組んだ。式武官は再び太った身体を輿に押し込んで、列の一番後ろに付いた。行列は港を出て、アテネ人の宿舎のある迷い谷に向かって行進していった。炎天下で見物していた人々はほっとしたように、三々五々、自分たちの仕事に戻っていった。

 ただ一人、さっきの船長はその場で突っ立ったまま、アテネ人の一行を見送っていた。赤銅色の頬で何かが光った。泣いてるのか?

 俺は荷箱の隙間から抜け出ると、船長に近づいた。

「耳、どこに隠れていた?」

 いきなり呼びかけられて、俺は足を止めた。振り返ると、見知った顔が嫌な笑いを浮かべて俺を見ていた。

「これは、コリウス殿」

 俺は低く頭を下げて後ずさった。王の叔父にあたるポントウス将軍の副官で、貴族ではないが、それに準じる地主階級の出身だ。頭の切れる嫌なやつだった。

「コリウス様、今日はお仕事でこちらへ?」

「今日は非番だ。ただの野次馬さ」

「それは、わざわざ、ご苦労様なことでございます」

「物好きな、と言いたいんじゃないのか?」

「滅相もない」

「ご苦労なのはお前の方だろう。たかが荷物の受け取りを見届けに、こんな所まで出張ってくるんだからな」

 コリウスは探るような眼で俺を眺めた。

「あの若者は何者だ?」

「どの若者のことで?」

 コリウスはふふん、と鼻で笑った。

「知らぬならいい。耳!」

 突然の呼びかけに、はっとかしこまると、コリウスは身体を寄せてささやいた。

「たまには身体を洗え。魚臭くてかなわん」

 屈辱に思わず身が縮まった。コリウスは手を振って、行け、と合図すると離れていった。

 我に返ると、さっきの船長はもういない。コリウスはのんびりした足取りで船の方に向かって歩いていく。

 してやられた。コリウスは船長から、あの若者の身元を聞き出すつもりだろう。そして、ポントウス将軍に報告する。ライバルに先を越されたミノス王は面白くあるまい。王の耳役としての俺の重大な失態になる。良くて減給、王の虫の居所が悪ければむち打ちが待ってる。

 なんとしてもあの若者についての情報を手にいれるんだ。

俺は迷い谷に向かった一行の後を追って走り出した。


第二章 語り部の物語

クレタ島は、多島海で五番目に大きな島でございます。東西に細長く、ギリシア本土からは約八十六海里、順風でも三日はかかりましょう。島の中央は高い山が連なり、深い谷と滝と洞窟が多い景勝の地でございます。一年を通じて温暖で、雨の少ない土地柄でございます。

クレタの漁師は小船で海に出まして、イカ、イワシ、メカジキなどをすなどります。畑では大麦を作り、挽いて焼いてパンにいたします。オリーブと葡萄もよくできまして、オリーブは実を絞ってオイルを取り、葡萄からは良いワインを醸します。山地では羊と山羊を飼い、肉を食べ、乳でチーズを作り、毛を織って身にまといます。

島の暮らしは素朴で、時として退屈でございます。アテネのように華やかな芸術文化のあるわけでなし、それでも人々は、満足して日々を送っておりました。ところがある日のこと、恐ろしい災いがこの平和な島に降りかかってまいったのでございます。

 クレタ王ミノス様は、海の神に、ある願掛けをなさいました。何をお願いになったのかは、わかりませぬ。王家のお方のお考えは、下々の者のうかがい知ることのできぬものでございます。ミノス様は、この願いがかなった暁には、島で一番の牡牛を海神に捧げると誓われました。

 ほどなく願いは叶えられ、ミノス様は一頭の牡牛を神に捧げられました。しかし……それは島で一番美しい牡牛ではなかったのでございます。

 この少し前、クレタ島の海辺を一頭の白い牡牛がさまよっているのが見つかりました。所有者のいない牡牛は、王家のものです。しかし、この見事な牡牛が惜しくなったものか、ミノス様は別の牡牛を神に捧げられました。ここから、クレタ王家に呪いがかかったと申すものもおります。

 クレタ王妃のパシファエ様、お美しい、お優しい王妃様が、どうしたわけか、この白い牡牛とつがいたいと、気違いじみた欲望に取りつかれてしまわれたのです。食べ物ものどを通らず、眠ることもできず、王妃様はすっかりやせ衰えてしまわれました。このままでは、お命も危ないと、島で一番、いいえ、全ギリシア一の知恵者であるダイダロスは、がらんどうの牝牛を作り、その中にパシファエ様を隠しました。こうしてパシファエ様の道ならぬ恋はかなえられたのでございます。

 つき満ちて、パシファエ様は双子を御産みになり、力尽きたように亡くなられました。一人はアリアドネ様、母上によく似た美しい王女様でございます。もうお一方が、王子、ミノタウロス様。

 ミノタウロス様については、色々な噂がございます。牛頭人身の怪物であるとか、逆に人の顔をした牛であるとか。けれども、誰も本当のことは知りませぬ。ミノス王は、出産に携わった奴隷を一人残らず殺めてしまわれました。そして、ダイダロスに命じまして、深い洞窟の奥に、ラビリンスと呼ばれる迷路のような宮殿を築かせ、そこにミノタウロス様をただ一人、閉じ込めてしまわれたからでございます。

 別の噂では、ミノス王に神託が下り、九年に一度、七人の若者と七人の乙女をミノタウロス王子に生贄として捧げよ、さすればクレタ王家は子々孫々安泰、と申したといいます。これを聞くなり、ミノス王は海を越えて、アテネに攻め込みました。

クレタは文化的な洗練には欠けておりますが、強兵の国でございます。お上品なアテネ人を散々に打ち破り、講和の条件として、九年に一度、七人の若者と七人の乙女を貢物として差し出すことを求めました。

なぜ、そのような怪物を生かしておくのか、とアテネ人は尋ねました。みすみす怪物の贄にされると知りながら自国の若者を差し出す、彼らの胸のうちは絶望と悔しさで張り裂けんばかりだったのでございましょう。ミノス王は肩をすくめ、イヤならば戦闘を再開するだけだ、とお答え申したそうでございます。アテネは条件を飲み、最初の貢物を送ってよこしました。

それから九年、また、貢納の年がやってまいりました。


第三章 迷い谷
谷への小道

迷い谷はクレタ島の中央部にある渓谷だ。入り口を入ると、両側を高い崖に遮られた袋谷になっていて、いったん入り込むとなかなか出られないことからこの名前がある。谷の中は松の木が生い茂って日を遮り、高い崖の上から落ちる滝が涼しさを誘う。ミノス王は渓谷の周囲に結界を張り巡らし、余人の立ち入りを禁止し、アテネ人の宿舎となる蔵を建てた。約定によって、アテネ人はここで、贄とされる夏至の三日後の夜までを、クレタ王家の賓客として過ごす。

俺は谷の入り口近くの松の木の上で、夜を待っていた。やがて、日は山の彼方に沈み、空気には夜の気配が忍び寄ってきた。

番兵の一人が、そわそわした様子で一人、同僚から離れて森の中へ入ってくると、松の根元に気持ちよさそうに小便を始めた。

「おい、にいさん」

 俺が低い声で呼びかけると、番兵は仰天した。勢いよく噴き出していた小便が止まってしまった。

「誰だ」

 番兵は腰の剣を抜いて後ろを振り返った。

「その物騒なものをしまってくれ。俺は敵じゃない。話がしたいだけだ。にいさんのためになる話だ」

「姿を見せろ。話はそれからだ」

 番兵は言ったが、剣はさやに収めた。俺が松の枝の間から顔を覗かせて、ここだ、と言ってやると、番兵は見上げて、なんだ、耳か、と馬鹿にしたように言った。

「脅かすな。耳役がなんの用だ」

 番兵はまた小便を再開した。

「今日、アテネ人が来ただろう」

「ああ。来た」

「連中、今、何してる」

「知らん」

「頭目を見たか」

「黒い巻き毛の、女みたいに細っこいやつか」

「そいつだ」

「あいつは厄介者だ」

「何をした」

「ラビリンスへ連れていけ、と兵長に要求した」

「なぜ」

「九年前の貢物の弔いをしたいそうだ」

「兵長は許したのか」

「まさか」

 番兵は嘲笑うように言った。

「お前もすぐ、あの連中の後を追うことになる、焦るな、と言ってやった」

「頭目はどうした」

「どうしようがある?黙ってた」

 番兵は小便を終えて、前を合わせた。

「頭目の名前は?」

 番兵はニヤニヤと笑った。薄闇の中で歯が白く見えた。

「なぜ俺がお前に教えてやらなきゃならない?」

 嫌な野郎だ。

 俺は懐を探って巾着を取り出した。銅銭を3枚つまみ出して投げてやった。

 番兵は土の上に落ちた銭を拾うと、手のひらでチャラチャラと音をさせた。

「これっぽっちか」

「贅沢言うな。名前は?」

「パリスカス」

 俺は首をかしげた。聞いたことのない名前だ。あの胆力からすると、アテネでも名の通った若者だろうと思ったのだが。

「そいつは確かか?」

「送り状にそう書いてあるそうだ。俺が読んだわけじゃないがな。アテネの商人の倅だと自分で兵長に話していた」

 それも変だ。なぜアテネ人が番兵長にそんなことを話す?

「兵長は信じたのか?」

「そんなこと知るか。商人の倅だろうが、農夫の弟だろうがなんでもいい。ミノタウロス様のお気に召してくれさえすりゃ、こっちは安泰だ。耳、谷には近づくなよ。結界を破ろうとするものは容赦しないぞ」

 番兵は仲間のいる入り口脇の屯所へ戻っていった。

 

 西の空に細い三日月が出た。

 俺は松の木から降りると、身を屈めて藪の中を潜り抜け、こっそりと谷に近づいた。

 突然、鋭い呼子の音が響いた。続いて、大勢の足音と叫び声。

 俺はぎょっとして立ち止まった。まだ、何もしてないぞ。

 だが、すぐに、俺のせいではないとわかった。騒ぎが起きているのは、谷の入り口の屯所の方らしい。いくつもの松明のせいだろう、そこだけ空が明るく見える。番兵の怒鳴り声、号令を下す指揮官の声、そして、刃物と刃物が触れ合う剣戟の音がはっきりと聞こえてきた。俺は計画を変えて、屯所の方に走った。

 谷の入り口で、一人の男が、数人の番兵を相手に大立ち回りを演じていた。

 背の高い男だ。黒い巻き毛、長い手足を持つアテネ人の頭目、パリスカスだった。どこで手に入れたのか、細いナイフを手にして、周りを取り囲んだ番兵の動きを油断なく見守っている。槍と盾を手にした番兵が近づくと、ナイフを構えて身構える。鋭く突き出されるナイフを避けて、番兵が下がる。パリスカスは再び待機の姿勢に戻る。敏捷な動きだった。

 それでも多勢に無勢だ。番兵が一斉にとびかかれば、パリスカスはすぐに槍で串刺しになったはずだ。だが、番兵はただ周りを囲み、脅すような動きを時折見せるだけだ。そのたびにパリスカスはナイフを構えて攻勢に出、番兵は後ろに下がる。

 奴はそう長くはもたないだろう、と俺は思った。どんなに優れた使い手でも、どれほどの勇者でも、永遠に戦い続けることはできない。番兵はそれを知ってる。持久戦に持ち込んで、生贄を傷づけることなく手捕りにする気だ。

 再びパリスカスは攻勢に出た。ナイフを構えて大きくジャンプすると、一人の番兵の懐に飛び込んだ。ナイフが月光にきらりときらめき、血しぶきが飛んだ。受け損じた番兵は腕を切られて大きなうめき声を上げた。パリスカスは番兵の持っていた槍を奪うと、後に下がった。ナイフを腰のベルトに戻すと、槍を構えた。ナイフと槍ではリーチの長さが違う。パリスカスは何倍も危険な敵になった。同僚を傷つけられた番兵たちの目に怒りが燃え上がる。今までの悠長な戦いぶりは一変した。このままでは死人が出る、そう思った時、地を揺るがすような馬蹄の響きが近づいてきた。

 クレタ正規軍の騎兵が躍り込んでくると、戦いの輪をぐるりと取り囲んだ。全員、そろいの軍服に身を包み、強弓を手にしている。矢の先はぴたりとパリスカスに向けられていた。

 騎兵の間から、白馬に乗った指揮官が現れた。部下と同じ軍服を身に着けているが、威風堂々としたその身体に他を圧する威厳を備えている。何よりもその胸に垂れるほどの白い長いあごひげを知らないクレタ人はいない。クレタ軍の総帥、ポントウス将軍だ。

「戦いは終わりだ、アテネ人。武器を置け」

 パリスカスは周りを見回した。これだけ大勢の槍と矢に取り囲まれては勝ち目はないと理解したのだろう、手にした槍を地に置いた。

「ナイフもだ」

 促されて腰からナイフを抜くと、槍の傍に投げ出した。

 番兵が一斉にアテネ人に駆け寄って、縛り上げた。その間も騎兵の矢はぴたりとパリスカスに向けられたままだ。腹を立てた番兵が、縛られたアテネ人を小突き回した。

「これ、乱暴にするな。客人だ。丁重に谷にお戻し申せ」

 将軍は言い捨てると、馬首を巡らせて戻ろうとした。番兵長が慌てて走り寄り、ぺこぺこと頭を下げながら礼を述べている。

「なんだ、つまらぬ」

 俺の傍で低い声がした。

 すぐ脇の藪の後ろから、ほっそりとした影が月光の中に浮かび上がった。

「これから面白くなるところだったのに、台無しだ」

 将軍は振り向いて声の主を見た。

「姫様。夜分にかような所で何をしておられる」

 その場にいた全員が、すらりとした立ち姿の乙女に注目した。谷に連れ戻されようとしているパリスカスも含めて。

 アリアドネ王女は平然として皆の視線を受け止めた。

「貢物を検分に来た。はるばる殺されにくるアテネ人とはどんな弱虫かと思ったんだが、存外、骨のある奴もいるじゃないか。大叔父様はお節介が過ぎる。しまいまで見られなかったは残念だ」

 将軍はこの場で王女と言い争うほど愚かではなかった。傍らの副官に向かって命令を下した。

「コリウス。二人連れて、王女様をクノッソスまでお送りしろ」

 はっと承って、コリウスが部下に合図しようとした。王女は「要らぬ」と言って、ピーっと指笛を鳴らした。見事な栗毛の馬が現れた。鞍も手綱もつけない裸馬に、王女はひょいと飛び乗った。

「おやすみ、大叔父上」

 鞭をあてて、王女は駆け去っていった。


第四章 クノッソス
宮殿

その翌日のことだ。ミノス王からの呼び出しで、俺は玉座の間に急いでいた。

クレタ王家の住まいは、クノッソスと呼ばれる、海を見晴らす丘に建つ白い石造りの広大な宮殿だ。クノッソスには直線がない。宮殿を囲む松の枝は、荒い潮風のせいでどれもくねくねと蛇のように曲がっていた。宮殿の廊下も、庭園の小道も狭く、しかも複雑に折れ曲がっていた。これもダイダロスの設計で、防衛上の配慮だそうだ。だが一方で、宮殿のあちこちに散らばった広間の壁画は、そりゃ見事なもので、波に踊るいるかや、春の野に咲く花々が極彩色で描かれていた。

迷路のような廊下を右に曲がったり、左に折れたりしながら、俺は、王の用は何だろうと考えていた。

昨夜、迷い谷から戻ってすぐ、俺は寝所の王のもとに伺候した。寝所に引き取った王を煩わせることができるのはほんの数人の側近だけだ。俺は例外で、奴隷はモノと同じだから、勘定にはいらない。場合によっては、深夜に起こされたと、機嫌の悪い王からむち打ちを食らうこともある。

 

宮殿のほぼ中央にある玉座の間で、王は何か気になることがあるらしく、人払いした広間を苛々と歩き回ってた。

ミノス王は青白い顔をした五十代半ばの痩せ男だ。若い頃から胃が弱くて、薬草を煎じて葡萄酒に混ぜた薬酒が欠かせない。人あたりが柔らかく、忍耐強く、誰にでも丁寧な口をきくけれど、取引の抜け目のなさと、戦いの際の冷酷なほど容赦ないやり口から、近隣諸国の王には、「クレタの狐」と怖れられてる。ミノス王の、眠そうに垂れ下がった瞼の下から覗く黄色い目はいつも相手の心を測るように油断なく光っていた。

俺が王の御前に膝を突くと、落ち着きなく動き回っていた王は立ち止った。

「将軍はどこにおる?」

「練兵場におられます」

「またか」

 王は再び、苛々と歩き始めた。

 ポントウス将軍は、ミノス王の母、今は亡い王太后の末弟である。王家の一族で家柄は良し、本人は大胆で大力の大男、若い時から剣術でも馬術でも群を抜いていた。中年を過ぎる頃から伸ばし始め、今では真っ白になったあごひげをなびかせて通りを行く将軍の顔を知らないクレタ人はいない。気さくな将軍は練兵場で兵を練る折に、民意を知るためと称して、見物の市民と気軽に言葉を交わす。それが若い頃の戦場での思い出話や手柄話なら害はないのだが、しばしば現在の政治の話にまで広がっていく。そうなると、王は神経を尖らすことになる。

「聴衆は多いのか?」

「昨日よりも大分増えました」

「若い連中か?」

「大部分は。しかし、年寄りもちらほらと」

「今日のお題目はなんだ」

「トーナメントです。将軍は今年五十歳を記念して、おん自ら出場なさるそうです。若者に良き模範を見せるのが目的だと言っておられました」

 クレタ島は武術が盛んだ。特に夏至に催される大会には、全島から腕自慢の若者が競って出場する。優勝者には賞金が出るが、それよりも、クレタ島随一の勇者と認められる、その名誉のために彼らは命懸けで戦う。

 ミノス王は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「人気取りよ。あやつは昔から、金や地位よりも人望を欲しがった。人に持ち上げられて、人格者だ、長者だ、国家の柱石だと言われるのが、なによりも嬉しいのよ。大馬鹿者の自慢屋めが」

「しかし、トーナメントに出場なされば、将軍が優勝なさるでしょう」

「おお、当然だ。そして、大勢の馬鹿どもにやんやと喝采されるのよ。他には?」

「姫様のことを話しておられました」

「アリアドネ?」

「昨夜ご報告申しました通り、王女様は昨夜、迷い谷の近くにおられました。将軍は大いにご心痛で、若い娘が真夜中に一人で外出などもっての他、国民の模範となるべき王女がこの有様では、早晩、国が滅びるだろうと」

「大げさな」

「しかし、市民たちは喜んで聞いておりました」

「他人の醜聞ほど面白いものはないからな。まして、若い娘の醜聞となると、こたえられんだろう」

 皮肉を言いながら、ミノス王はため息をついた。俺はちょいとばかり王に同情した。絶対権力を握るミノス王に敵があるとしたら、ポントウス将軍だろう。外見も性格も、ミノス王と正反対といっていい男で、王より少し若く、市民の人気者で、特に軍からは絶大な支持があった。王としては絶対に弱みを見せたくない相手のはずだった。

「アリアドネはどこだ」

「朝から外出されたままです」

「どこへ?」

 と言いかけて、ミノス王はすぐに、よい、と言った。王にはわかっているのだろう。王女はおそらく、ラビリンスに行っている。

王女の日課だった。一日に二度、朝と夕方、王女はラビリンスに行く。異形の弟に会いに行く。王女だけが、ラビリンスに自由に出入りでき、王女だけが、迷宮の奥深くに隠された怪物に、肉親としての愛情をもっていた。俺のような凡人にはわからない。ただ、気味が悪いだけだ。

 王は気を変えるように言った。

「その、何とか言う、アテネ人の頭目」

「パリスカス」

「そいつを連れて来い」


第五章 再び谷

迷い谷で、貢物のアテネ人は男女別に、石造りの蔵に収容されていた。蔵といっても窓のある明るく清潔な建物で、中には石造りのテーブルに椅子が備え付けられ、寝床には日なたの匂いのする乾燥した藁布団が敷かれている。蒸気で身体をきれいにするための浴室までついてる、中流の市民の家よりずっと贅沢な造りだった。クレタ人は、ダイダロス考案の結界に絶対の信頼を置いていたから、谷の中にいる限り、貢物は完全な自由を許されていた。渓流で泳ごうが、松の木の陰で昼寝しようが勝手だった。

 俺はまず、番兵の屯所に立ち寄った。昨日とは違って、今日は王の使いだ。用向きを話し、結界のスイッチを切って谷に入れてくれるように頼んだ。番兵長は困惑したような顔をしたが、承知した。

「王陛下の仰せの通りに。今、番兵を二、三人付けます」

「いい。アテネ人一人ぐらい、俺一人であしらえる。だが、谷を出る時には護衛がいる。そのつもりで準備して待っていてくれ」

「しかし、今年の貢物は凶暴ですぞ。先ほど王女様にも申し上げたのですが……」

「王女様?」

「王女様はただ今、貢物を尋問中でいらっしゃいます。護衛をお付けすると申し上げたのですが、お聞き入れになりませんでした」

 嫌な予感がした。

「結界を切って俺を中に入れてくれ。その後すぐ、元に戻せ。警戒を怠るなよ」

 谷間はうっそうと茂った松とオリーブの木のせいで見通しが悪い。今の俺には好都合だった。地面には枯れた松葉が敷きつめたように落ちていて、足音を消してくれる。あたりの気配をうかがいながら、俺は慎重に蔵に向かって進んでいった。

 やがて前方が明るくなった。木立を切り開いた空き地に石の蔵が見えた。同時に、俺は探していたものを見つけた。

蔵の前の乾いた地面に若い男が一人、あぐらをかいてすわっている。パリスカスだ。まっすぐに頭を持ち上げ、膝に置いた手を微動もさせず、背筋をぴんと伸ばしてすわっている姿は、何かの行者のようでもあった。

 そしてその前に、ミノス王の娘、われらが王女様が突っ立って何か言っている。

アリアドネ王女は今年十八、浅黄色の長衣に包まれた身体は若い娘らしくゆるやかなカーブを描いて、ようやく花開こうとするアイリスの花を思わせた。だが、可憐なのはそこまでだ。王女様はご機嫌斜めらしく、細い眉の下の瞳はぎらぎらと怒りに燃えて、目の前の男をねめつけている。右手に持った乗馬用の小さな鞭が震えている。今、気がついたが、男の頬に一筋流れている赤い糸は、その鞭の仕業らしい。

俺はもう一歩近づくと、藪の陰で聞き耳をたてた。

 王女様はどんと足を踏み鳴らした。

「答えろ」

「さっきから答えている」

 男の声は落ち着いていた。日の光の下で見ると、なかなか端正な顔立ちだ。黒い巻き毛が額にかかり、青い大きな目は澄んでいる。今、その目は軽蔑をこめて王女に向けられていた。

「嘘は聞きたくない」

「ならば聞くな」

 王女の目が大きく見開かれた。しゅっと空を切る音がして、男の肩に革の鞭が炸裂した。男は打撃を受けてよろめいたが、すぐに身体を立て直した。その肩にまた鞭が降りた。もう一度、そしてまた、もう一度。

 王女は正確に男の左肩を狙って打撃を加えている。俺は経験上知ってるが、同じ所を繰り返し何度も鞭打たれると、その痛みは並じゃない。二十回で皮膚は裂けて赤い血を流し始める。五十回で肉が弾けて黄色い脂肪がはみ出る。七十回で白い骨が見え、百回を越えると死が訪れる。

 男はよほど強情なたちらしい。声一つ立てずに耐えているが、さっきまで純白だった胴衣に赤い染みが広がり始めた。

 さすがに見かねて止めに出て行こうかと思った時、「テセウス!」という叫び声が聞こえた。林の中から弾丸のように何かが飛び出してくると、王女の振るう鞭の下に身体を投げ出した。髪が長い。女だ。振り下ろされた王女の鞭が背中にぶち当たり、女は身を引き裂かれるようなかん高い悲鳴をあげた。

「テセウス。やはり」

 王女は息を切らしながら、にんまりと笑った。「パリスカスなんて、お粗末なシロモノじゃないと思ってた」

王女の頬は赤く染まり、きらきらと瞳を輝かせていた。額に垂れてくる汗に濡れた髪を片手でかき上げている姿は、不謹慎な話だが、えらく色っぽく見えた。

 テセウスは飛び込んできた女に押し倒されたが、身を起こして、地面に伏している女を抱き起こすと低い声で名前を呼んだ。女はぐったりと目を閉じている。テセウスは王女を見上げた。

「薬を所望したい」

 王女は微笑んだ。

「どこまでも傲慢な男だ」

「貢物は、その日が来るまで客の待遇を受ける。約定ではそうなっているはずだ」

 王女はいきなり藪の陰にいる俺の方を振り向いた。

「耳、番兵屯所から薬箱を持って来い」

 俺は仰天した。俺の忍びの術は完璧だ。でなければ、王の耳は勤まらない。王女はどうして気付いたのか。まごまごしていると、次の言葉が降ってきた。

「お前も鞭をもらいたいか? 行け」

 俺はすっ飛んで走り出した。

 屯所の番兵長は、俺が薬箱を貸してくれと言うと、顔色を変えた。王女様に何かあったのか、と性急に尋ねる。そうじゃない、と説明してようやく薬箱を受け取った。

アリアドネは国民には人気がある。黙って立ってれば、優雅できれいなお姫様だからだ。クノッソス宮殿の宣伝は行き届いている。救貧院だの施療所だのが開かれるたびに、こころ優しいアリアドネ王女が、孤児の頭をやさしく撫でてやったとか、病人の手をとって慰めたとかいう「いい話」が市場や、町の辻辻で語られる。頭を撫でるどころか、洟垂れ小僧の頭を張り倒す方が得意だと知ってるのは、王のごく身近にいる者だけだ。

 薬箱を持って駆け戻ると、空き地には誰もいなかった。蔵の入口から貢物が一人、顔を出して中に入るように合図した。

 さっきの女はベッドにすわり、テセウスに上体を支えられて葡萄酒を飲んでいた。周りをアテネ人たちが囲んでいる。中に女の姿が混じっているのは、女蔵から呼ばれてきた乙女たちだろう。

すぐに女の顔に血の気が戻ってきた。テセウスが低い声で何か言うと、女は甘えるような鼻声を出して、男の胸に顔を押し付けた。

テセウスは、周りを取り囲んでいた男たちを部屋から出した。すると、女は安心したようにベッドに腹ばいになった。背をおおった布をまくりあげると、はっとするほど白いなめらかな背中がむき出しになった。そこに一筋、くっきりと赤い鞭の跡がついている。俺はテセウスに薬箱を渡した。周辺が紫色に変色したその傷に、テセウスはまめまめしく、軟膏をすりこんでやった。

 この間、王女は石のテーブルの前の椅子にすわり、退屈しきった様子で膝の上に組んだ脚をぶらぶらと動かしていた。

ようやく手当てが終り、テセウスは礼を言って俺に薬箱を返した。

「お前はいいのか?」

 王女は言ってテセウスを鞭で指した。

「わたしはいい」

 王女は片頬で笑った。強情な男だ、と言うと俺に向かって、そいつの手当てをしろ、と命令した。

「客の待遇をする、という約定だそうだからな。それに、その日が来る前に病気になられでもしたら、弟が困る」

 部屋の空気がぴんと緊張した。アテネ人全員、ベッドに寝ている女までが刺すような目で王女を見た。もし視線が人を殺せるものなら、王女の命はなかっただろう。いざとなったら、王女を守らねばならない、と俺は身構えた。それくらい危険な空気だった。

 王女は一人平然としていた。さっさとやれ、と言った。

 諦めたように、テセウスは服を脱いだ。乾いた血が張り付いた亜麻布をむりやりはがすと、また新たな血が溢れ出てきて、藁布団に滴った。

 左肩がむき出しになると、王女は椅子から立ち上がり、俺の肩越しにしげしげと覗き込んだ。自分が与えた傷が心配なのかと思ったが、「まあまあだな」とつぶやいたところを見ると、ただ、自分の打撃がどれほど正確だったか見定めたかっただけらしい。石工が切り出した大理石の切り口を吟味するのと同じだ。事実、なかなか見事なものではあった。鞭打ちの痕は、左右に指二本分の幅程度しかずれず、正確に同じところを撃っていた。だがそれだけに傷は深く、ぱっくりと開いた傷口をきれいにしてから、縫わなければならなかった。手当は相当に痛かったはずだが、テセウスはやはり、脂汗を流しながらも声をたてなかった。

 手当てが終わると、王女は残っていた女たちと俺に、部屋から出て行くように命じ、ベッドに寝ている女を指さした。

「そいつも連れていけ」

 逆らっても無駄なのはわかりきっている。俺は女たちの助けを借りて、怪我した女を部屋の外に連れ出した。部屋の外にいた男たちに指図して女を女蔵の方へ運ばせると、俺は蔵に戻った。王女が何をするつもりか知らないが、「知らない」では済まされないのが王の耳だ。

俺は懐から鉤のついたロープを取り出すと、蔵の平たい屋根めがけて投げた。何度か試みて鉤が引っかかると、ロープを頼りに屋根に登った。登っている最中に王女が窓から顔を出すとすこぶるまずいことになったろうが、王女は尋問に熱中しているらしく、俺は無事に屋根にたどりついた。屋根の端から逆さまに明り取りの窓の中を覗きこんだが、部屋の壁しか見えない。だが、声は聞こえた。耳には、それで十分だ。


第六章 テセウス
荒野

最初に聞こえたのは「痛むか?」という王女の声だった。同情の言葉じゃない。むしろ、興味深々といった響きがあった。

「痛まないと思うか?」

 うなるような声でテセウスが答える。

「さあな。お前はアテネ人だ。わたし達とは違う。子供の頃、わたしはアテネ人は背中にたてがみが生えているのだと思っていた。だが、お前にたてがみはないな」

「がっかりさせて悪かったな」

「別にがっかりはしないさ。現実とおとぎ話は違う」

 王女は楽しそうだった。

「結構だ。クレタ人がそれほど無知じゃないと知って安心したよ」

「お前たちアテネ人は、クレタ人はみんな野蛮人だと思ってるんだろう?」

「同じ人間だと思ってるよ」

「偽善者め。建前は聞き飽きた。そろそろ本音を言え」

「何を言えばいいんだ」

「何のためにここに来た」

「約定に従って」

「お前はアテネ王の跡取りだろう。何もお前が来ることはあるまい。アテネには他にいくらでも若い男がいる。なぜお前が来た」

「約定では、貢物の選択はアテネ側に任されている。数がそろっていれば、クレタ側は文句をつけられない」

「不満は言ってない。ただ、不審だと言っている」

「不満がないなら、それでよかろう」

「お前は強情だな」

「生まれつきだ。ついでに言えば、貢物の性格に、クレタ側がとやかく言う権利はない」

「口の減らないやつだ。また、鞭で打たれたいか?」

「遠慮する」

「ならば言え。なぜお前はここに来た?」

「くじで当たった」

「くじ? アイゲウス王は、貢物をくじで選んでいるのか?」

「それが一番公平だろう? アテネの全住民の中から、十七歳以上二十歳以下の男女がくじをひいて、当たった者が貢物になる」

「納得できない。たとえお前がくじを引き当てたとしても、王権をもってすれば、アイゲウス王はお前をはずすことができるはずだ」

「考え方の違いだな」

「お前はそれでいいのか?王子たる身が人身御供の貢物に……」

「いいはずがない」

 突然、テセウスの声が変わった。今までどこか余裕を持って、王女をいなし、揶揄しているようでさえあった声に、急に真剣な響きが混じった。

「わたしだけじゃない。わたしと一緒に来たアテネ人の誰にとっても、こんなことはいいはずがない」

「ならば、なぜ来た?」

「アテネのために」

「貢物になって死ねというような国に忠誠を捧げるのか? 望んでアテネに生まれたわけでもあるまいに」

「わたしは、アテネで生まれたわけじゃない」

「へえ、それは知らなかった」

「わたしはトロイゼンの祖父の家で生まれて育った。父に呼ばれてアテネに行ったのは、もっと後だ」

「外国生まれか」

「アテネ人だ」

 テセウスの声にかたくななものが感じられた。王女も気がついたのだろう。ちょっと黙った。

「それで、アテネに行ったのはいつだ?」

「十四歳の時、父王に呼ばれた。嬉しかった。地図と十日分の食料を持ち、足ごしらえをして出発した」

「供は?」

「旅は一人旅に限る」

「待てよ、船じゃないのか?」

「陸路だ」

「なぜ? 船の方が楽だし、第一安全だろう?」

 王女は純粋に興味を引かれたようだった。

「祖父もそう言った。だがわたしは陸路をとることにした。その方がもっと……面白いと思った」

 うん、という王女の賛同の声が聞こえた。

「その旅の話をしろ」

「なぜだ?」

「聞きたい」

 テセウスは考えをまとめるように、ちょっとの間沈黙した。

「荒れ果てた荒野をたった一人で、わたしは歩いていった。何日も人間の姿を見ない時もあった。日が昇り、沈んだ。そこには何もなかった。ただ、大地と空とわたしだけが存在していた。……素晴らしかった」

「淋しくはなかったか?」

「淋しいのは初めのうちだけだ。すぐに慣れる。慣れれば、孤独はよい道連れになる。今まで気付かなかったものに目を向け、耳を傾け、心を開くことを教えてくれる。野に咲く花の形、朝露の匂い、野を渡る風のささやき」

「わかるような気がする」

 王女の声には、今まで聞いたこともない、夢見るような響きがあった。

「わたしはクレタ島から出たことがない。でも、冬の夜、ちりちりと肌を刺す冷気に逆らって澄んだ夜空を見上げると、そこにそれがある。なんと呼べばいいのかわからないが、それが確かにある。悲しいほど美しくて、素晴らしい何か。それが、お前の言う、孤独、なのかもしれない」

 しばらく二人の声は途絶えた。双方がそれぞれの思いに浸っているように。

「わたしもいつか、荒野を歩いてみたい」

「荒野は厳しいぞ」

「わたしには耐えられないとでも……」

「そんなことは言っていない。ただ、わたしは荒野よりもアテネを選ぶ」

「アテネには何がある?」

「人々」

 なんだ、というような王女の笑い声が聞こえた。

「当たり前じゃないか。アテネは町だ。町には人が住んでいる。このクレタにも人はいるぞ。いすぎて困るくらいだ」

「そういう意味じゃない。君にはわかっていない」

「なんだと!」

 ガタリ、と椅子の動く音がした。王女が立ち上がったらしい。だがすぐに、落ち着けよ、というテセウスの声がした。鞭が宙を切るしゅっという音がしたが、脅しに過ぎなかったらしい。再びテセウスの落ち着いた声が話し始めた。

「この話をするのは君が初めてだ。わたしは荒野で恐ろしいものに出会ったんだ」

「怪物か?」

 期待に満ちた王女の声が聞こえた。

「違う」

 王女のがっかりした顔が目に見えるようだ。

「もっと恐ろしいものだ」

「話してみろ」

「晴れた暖かい午後だった。わたしは埃っぽい赤茶けた大地を歩いていた。太陽は沖天を過ぎ、うだるような熱気が身体を包んだ。どこかでカッコウが鳴いていた。小さな緑色のとかげがちょろりと姿を見せると、藪の中に消えていった。地平線にはぼんやりと金色のもやがかかり、陽炎がゆらめいていた。すっと涼しい風が吹いてきて、わたしの汗ばんだ額を撫でた。わたしは立ち止り、額の汗をぬぐった。その時だ」

 テセウスは言葉を切った。

「どうした」

 と王女。

 テセウスは答えない。

「何があった」

 王女は焦れたように尋ねた。

「何も」

「何も?」

「突然、世界から音が消えた。カッコウは鳴くのを止めた。うなりを立てて花から花へと飛び回っていたミツバチの姿も見えない。梢を揺らす風さえも止んでしまった。世界は厚い綿に包まれたように音を失った。と、シュッ!なにかが宙をよぎった。尖ったくちばしと鋭い目を持った何かが、矢のように空から急降下してきたんだ。一瞬後、短い悲鳴と激しい羽ばたきの音と共にそれは再び天に駆け上がっていった。不運な小動物を力強い爪の間にしっかりと挟んで。一瞬の後、世界は音を取り戻した。太陽、ミツバチ、梢を揺する風の音。まるで何も起きなかったように、カッコウは再び歌いだした」

「それで?」

「それだけだ」

 王女は困っているようだった。話の意味がつかめないのだが、わからない、と言うのは癪なのだろう。

「お前は、その、鷹だか隼だかが怖いのか?」

 テセウスは苦笑したようだった。

「違う」

「ならば、何が恐ろしい?」

「何も起きないことがだ。一つの命が失われた。永久にこの世界から消えた。だが、何も起きなかった。太陽も、ミツバチも、カッコウの歌も。何もかもが、残酷なまでに同じだった」

「だって、たかが野鼠一匹」

「そうだ。我々人間だって、荒野では、たかが人間一人だ。無意味なのは同じだ」

「アテネでは違うとでも?」

「違う。アテネでは人の命には意味がある。人の死は、雑多な騒音に包まれてる。ベッドの周りに集まった人々のひそひそと話す声、医者の厳粛な宣告、愛する者を失った者の泣き声、なぐさめの言葉、葬式の手配、死者のための祈り、遺産をめぐっての争いの言葉。すべてがその人の死に、ひいては生に、意味があったというあかしなんだ。中には不愉快な言葉もあるだろう。それでも無関心よりはましだ」

「お前は、荒野が人の死に無関心だととがめるのか?」

「そうだ。人の死には意味があるべきだ。人の生は、何よりも重んじられるべきなんだ」

「何よりも」

「そう、何よりも」

「お前はここへ何しに来た?」

 王女の声は、いつもの高圧的な調子を失っていた。低く、かすれるようなささやき声で、俺は窓に耳を押し付けてかろうじて聞き取った。だが、王女に答えるテセウスの声はそんなことをしなくてもはっきりと聞こえた。

「わたしはミノタウロスを殺しに来たんだ」




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