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ホームステイ

あの頃  ・  それから

あの頃
カリフォルニアの街路

「アメリカに来て驚いたこと? それはまあ、たくさんあったな」

吉岡氏はコーヒーをレイダースのマグカップに注ぎ、テーブル越しに渡してくれた。

「もっとも、もう三十年だからね。こっちの習慣が当たり前になってしまってるところはある。日本に帰ったらさぞかし戸惑うだろうと思うよ。ドア一つからして違うからなあ」

 日本ではドアは普通、内から外へ開く。アメリカでは逆に外から内へ開く。アメリカ映画でよく、刑事が体当たりしてドアを破るシーンがあるが、あれはドアが家の中へ開く構造になっているから可能なのだ。

「ロックも違いますよ」

 と、僕は付け加えた。

ドアノブについているつまみが縦になっている時は、ロック状態。横になっていればロックされていない。日本と全く逆で、トイレで座ってる時、ふと縦になっているつまみが目に入ると一瞬、ぎょっとする。

 

三か月前、僕は大学を休学してLAにやってきた。父の知り合いがLAにいたので、一部屋を借りてアルバイトをしながらコミュニティカレッジで英会話を習っている。

 吉岡氏はもう五十台の半ばぐらいだろう。古着を日本に輸出して成功した人で、LA 郊外の庭付き一戸建てに年寄りの猫一匹と暮らしていた。白い太ったペルシャ猫で、餌をもらう時以外は、キッチンの隅にあるバスケットの中で丸くなって眠っていた。吉岡氏自身も、リビングルームにいるよりも、キッチンにいる方が多かった。南側の壁一面を横長の窓が占め、そこからバックヤードの緑の芝生が見渡せる明るいキッチンで、コーヒー党の吉岡氏はいつもパーコレーター一杯にコーヒーを沸かしておき、僕にも、好きなだけ飲んで構わないよ、と言ってくれた。

「しかしね、生活習慣上の違いなんてのは目に付きやすい分、すぐに慣れてしまって不思議でもなんでもなくなってしまうものなんだ。本当に怖いのは、目に見えない違いだよ」

 吉岡氏はコーヒーをすすりながら言った。

「精神的なものっていうことですか?」

「心のあり方の違いとでもいうか。よく日本人は言うだろう? 同じ人間同士、話し合えば必ず理解しあえるはずだって。それが、そうでもないぞって、ここに長く住んでいるうちに思えてくるんだよ。アメリカは移民の国だ。世界各国から色々な人間がそれぞれの文化背景をそのまま持ち込んで暮らしている。『我々はスープにはなれなかった。サラダだ』ってあるアメリカ人が言ったそうだ。トマトもレタスもキュウリもそのままの味を保持したまま、混ざり合っている。そこに、たまに、君が思ってもいなかった味が混ざってる時がある。おいしい時は結構だが、時としてとてつもなく不味い、吐き出したくなるようなものにぶつかる時もある」

 八月のLAの陽射しは強い。キッチンには午後の光が眩しいほどに溢れていた。吉岡氏はちょっと目を細めて庭の奥を見やり、窓のブラインドを下ろした。部屋の中は急に薄暗くなった。

僕は好奇心を刺激された。

「どんな味だったんですか?」

「いやーな味だったよ。それでも聞きたいかい?」

 吉岡氏はコーヒーをカップに注ぎ足すと、話し始めた。

 

「今からもう二十年以上前になるな。わたしはその頃、幡野さんという日本人の家に間借りして、アルバイトをしながらカレッジに通っていた。幡野さんは奥さんの康子さんと二人でこじんまりとした日本料理店を開いていた。この幡野さんに資本を提供するから店を大きくしないか、という人が現れて、幡野さんは少し離れた町にもっと大きな店を開いた。そうなると、今の家では店から遠すぎる。幡野さんは家を売って引越しすることに決めた。わたしには、今とほぼ同じ大きさの家に引っ越すつもりだから、よかったら一緒に住まないか、と申し出てくれた。わたしがその頃ウエイターをしていた寿司店にはむしろ近くなる。わたしは喜んで申し出に乗った」

 吉岡氏は、昔を懐かしむように、ちょっと遠い目をした。

「あの頃は楽しかったな。幡野さんは、不動産エージェントを雇って、適当な家を探した。アメリカ人は新築にこだわらない。中古の家のペンキを塗りなおし、キッチン設備を新しくして、きれいにお化粧直しをして売りに出す。幡野さん夫婦がエージェントの車であちらこちらの家を見に回る時、わたしもよく一緒についていった。

幡野さんの希望は二階建ての庭付き一戸建て、3ベッドルーム2&ハーフバスというものだ。日本で言えば、3LDKか。この辺では普通の小住宅だ。それでも随分いろんな家があった。

プール付き、ジャクジー付き、屋根裏部屋つき、RV駐車スペース有り、サンルーム付き。庭に噴水がついていたり、温室があったり、地下にワインセラーがついてるなんてのもあった。家具のない無人の家もあれば、住人がまだ住んでいる家もあって、それぞれの暮らしぶりがわかるのも面白い。キッチンが広くて棚一面にハーブ類が並び、バックヤードにプロ仕様のバーベキュースタンドがある家を見ると、この家の住人が社交好きで、料理好きなのがわかるし、庭に滑り台とブランコ、芝生がはげちょろになっている家を見れば、小さな子供がいることがわかる。壁一面を占領する映画館顔負けのTVスクリーンを備えている家もあったし、一部屋全部、熱帯魚の水槽しか置いてないなんて家もあったよ。きちんと隅々まで掃除が行き届き、テーブルの上には造花を飾って、モデルルームそのものなんて家もあれば、部屋中に雑誌と新聞と脱ぎ捨てた洋服が散らかり、その上を、五、六匹の猫がうろうろと歩き回ってるなんて家もあった。

 一ヶ月ほど見てまわるうちに、幡野さんは気に入りの家を見つけた。静かな袋小路にある、よく手入れされた家で、スペイン風のオレンジ色の瓦屋根が目を引いた。白いピケットフェンスで囲まれた前庭にはバラの花壇があり、緑の芝生の間をパーキングから玄関まで短い石畳の通路がつないでいた。バックヤードには広いテラスと芝生、いくらかの潅木があった。テラスにはピンクの子供用自転車が置いてあった。キラキラ光る短冊で作った房飾りがハンドルの両端から下がっていて、まだ新しいようだ。

 家の中はどこもきちんと神経質なほどに整頓されていた。キッチンもバスルームもきれいに磨かれて、水垢の跡ひとつない。どうも、ここの住人は東アジア系じゃないか、とわたしは思ったが、これはあとでその通りだとわかった」

 吉岡氏は僕を見て、表のドアを開けてそこに靴が並んでいたら、さっさと退散しろというセールスマンの間の古い笑い話を知っているかい? と聞いた。

「いえ、知りません」

「日系、中国系、韓国系の東アジア人は、きれい好きで家の中に土足で踏みこまれるのを嫌うから、玄関で靴を脱がせる。と同時に、東アジア人は金銭にうるさく、まずセールスの望みはない、だから、入口にずらりと並ぶ靴を見たら引き上げろ、いう笑い話だ」

 僕はなんと言っていいのかわからなかった。どうも、あまり褒められているような気はしない。

 

 話が脱線したな、と吉岡氏は言って、元の話を続けた。

「二階は二部屋と共用のバスルーム。どちらの部屋も南に大きな窓が開いていたが、雰囲気はかなり違った。西側の部屋には、キティちゃんの掛け布団をかけた子供用のベッドがあった。壁には額に入ったバレリーナの絵、ベッドサイドには薄紫色の大きなユニコーン、本棚にはディズニーのお姫様の絵本とくれば、ここが小さな女の子の部屋だとわかる。東側の部屋は対照的に殺風景で、事務用デスクの上にパソコンとプリンターが据えつけてあり、壁際にはスティール製のファイルキャビネットが並んでいる。ホームオフィスとして使われているようだ。

どちらの部屋がいいか、と幡野さんに聞かれて、わたしは今、女の子が使っている西側の部屋を借りたいと答えた。西日が入るのはありがたくないが、東側の部屋はなんとなく陰気で、長くそこにいると気が滅入ってくるような気がした。これは純粋にわたしの感じ方で、実際には二つの部屋は両方とも、日当たりも明るさも申し分なかった。多分、キティちゃんと、ファイルキャビネットがあまりに対照的で、それでそんな風に感じたのだろう。

 家の売買契約はするすると支障なく進み、初めてその家を見たのは五月の末だったが、一ヶ月半後の七月に、向こうの家族は引っ越して幡野さんは家の鍵を手にした。

今度の家は、袋小路にある分、夜は静かだった。幡野さんはバックヤードに前から欲しがっていた菜園を作り始めた。康子さんは近くのアダルトスクールの、ケーキ作りのクラスに通い始めた。間借り人のわたしはバイト先が近くなった分、時間とガソリン代の節約になった。何もかも、申し分なくうまくいってると思っていたんだが、そのうち、奇妙なことが起こり始めた」

 

 吉岡氏は真正面から僕を見据えた。

「君は幽霊を信じるかい?」

「は?」

 いきなりの質問に僕は言葉が出なかった。大の大人、それも父親ほどの年齢の人間の口から出る質問ではない。

「信じるかい?」

 吉岡氏は重ねて訊いた。

信じません、と僕が答えると、吉岡氏はふん、と鼻を鳴らした。

「なぜ、信じない?」

「僕は幽霊を見たことがありませんから。金縛りにあったこともないし、霊感で何かを感じるなんてことも今まで一度もありません。だから、幽霊と言われても…」

「じゃあ、見たら信じるかね?」

「さあ…」

 本心を言えば、見たとしても信じない、単なる気のせいだと思う、大体、この二十一世紀の世の中にそんなものがあるはずがないのだ、と言いたかったのだが、さすがにずっと年上の、しかも世話になっている人に、そんなえらそうなことが言えるはずはなかった。困った僕は、逆に聞いてみた。

「幽霊を見たことがあるんですか?」

 吉岡氏は、目だけで笑った。

「それが、情けないことに、自分でもよくわからないんだ。見たのかもしれないが、単なる偶然の一致かもしれない。よくあるだろう、何でもないことに、つい、重大な意味をもたせてしまう。虫の知らせとか、第六感とかいうやつはほとんどそれだ。わたしが見たのも、そのたぐいかもしれないんだ」

 吉岡氏は、黙って考え込むふうだったが、やがて気を取り直したように、話を続けようか、と言った。

 

「カレッジは夏季休暇中で、わたしはアルバイトのウエイター業に精を出していた。シフトは夜だったので、毎日、夕方の四時に家を出て、帰宅は十一時近くになる、という生活が続いていた。

 ある夜、バイトからの帰りのことだ。長っ尻の客が、閉店時間を過ぎてもなかなか腰を上げてくれず、店を出るのが遅くなった。家の近くまで戻ってきた時には、時刻はもう、零時を過ぎていただろう。わたしは眠くて、とにかく手っ取り早くシャワーを浴びてベッドに倒れこむことしか考えていなかった。袋小路のちょうど入り口のところまで来た時だ。目の前で何かがきらり、と光ったような気がした。はっとすると、ヘッドライトの明かりの中にいきなり、自転車に乗った女の子が浮かび上がった。わたしはぎょっとして急ブレーキを踏んだ。あまりスピードが出てなくて良かったよ。女の子と自転車は何事もなく、わたしの車の脇を通り過ぎると、右に曲がって見えなくなった。

『なんなんだよ、いったい』

わたしはしばらくその場に呆然とすわっていた。眠気も何も吹っ飛んでいた。一瞬しか見えなかったが、女の子はまだ小さいように見えた。幼稚園か、せいぜい小学校の一年生ぐらいだろう。真夜中に、そんな小さな子が一人でいったい何をしてるんだろう。警察に通報すべきだろうか。

 わたしは車を停めて、外へ出てみた。砂漠気候の南カリフォルニアでは、夏といっても日が沈むと空気は冷たい。見上げると空いっぱいに豆電球をばらまいたように星が光っていた。わたしは、女の子が曲がっていった通りまで出てみた。誰もいない。周囲の住宅はしんとして寝静まっている。

 バカみたいだ。

 近所に住む女の子が親に内緒で、深夜のサイクリングを楽しんでいただけだろう。わたしは車に戻った。

翌朝、わたしは幡野さんと康子さんに昨夜の自転車の女の子の話をした。康子さんは首をかしげた。

『この近所の子は大概、知ってるつもりだけど、そんなに小さな子がいたかしら』

 この付近の家は庭付き一戸建てで、アパートやタウンハウスのような集合住宅はない。不動産価格が高いから、小さな子供のいるような若い夫婦はいないと思う、と康子さんは言った。とにかく、夜中に小さな女の子が一人で出歩いていいはずはない。今度見かけたら、すぐに警察に通報して保護してもらうことになった。だが、その翌日の夜も、翌々日の夜も、それからずっと、女の子は姿を見せなかった。私はちょっとほっとした。ところが、だ」

「また、来たんですか」

 吉岡氏はうなずいた。

「一か月ほど後だったか、女の子のことなど、忘れかけていた頃だ。朝、カレッジへ行こうと玄関を出ると、小さな女の子が一人、自転車で前の道路をうろうろしているんだ。間違いなく、この前の夜に出会った女の子だ。ポニーテールにした頭にも、ピンクの自転車にも見覚えがあった。ハンドルの両脇にキラキラ光る短冊の房飾りが付いている。この間の夜、ヘッドライトに光って見えたのは、この飾りだったらしい。女の子は自転車でふらり、ふらり、と動いている。別にどこへ行くつもりもない、ただ、自転車に乗って遊んでいる、といった風だった。夜中ならば別だが、朝の十時に子供が自転車で遊んでいるからと言って、通報するのは大げさな気がする。わたしは放っておくことにして車に乗り込んだ。ところが、女の子はドライブウェイの真ん前に止まってしまった。仕方がない。わたしは車を降りると、そばまで行って、できるだけ優しく話しかけた。

『おはよう』

 返事はない。

『あのね、今から車を出すからね。そこに止まってられると危ないんだ。ちょっと離れていてくれないかな』

 女の子は動かない。わたしの英語じゃ通じないのかもしれない。そう思うと、劣等感を刺激されて腹が立ってきた。

『邪魔なんだ。どいて』

 身振りを交えてぶっきらぼうに言うと、女の子は初めて口をきいた。小さな子供の甲高い声だった。

『あんた、この家のひと?』

『そうだよ。あのね、僕は車を出したいんだ。だから…』

『あんた、ジェイミーを知らない?』

『ジェイミー?』

『あたしのお兄ちゃん。この家に住んでるの』

 女の子はアジア人らしい細い眼をいっぱいに見開いてわたしをにらむように見ている。

 これはお手上げだ。

『ちょっとここで待ってて』

 わたしは家の中に戻った。幡野さんはもう店に出かけていたが、康子さんはまだキッチンで朝食の跡片付けをしていた。

『あら、出かけたんじゃなかったの?』

『それが…』

 わたしが事情を話すと、康子さんはドライブウエイに出てきてくれた。女の子はまだ、元の位置に立っていた。

『こんにちは』

 康子さんは愛想よく言った。『きれいな自転車ねえ。あなたの自転車?』

 女の子は黙ったまま、こっくりとうなずいた。

『一人で乗れるの?』

 女の子はまたうなずいた。

『そう、えらいわね。あのね、今、このお兄さんが車を出したいの。だから、ちょっとこっちへ寄ってくれないかしら』

 女の子は自転車ごと、康子さんの方へ少し動いた。

『もうちょっと、こっち。そう。どうもありがとう』

 康子さんはわたしに、出かけなさい、と言った。『この子のことは引き受けるから。授業に遅れるわよ』

 わたしは康子さんに感謝して車に乗った。角を曲がる前に家の方を見ると、康子さんは女の子の前に膝をついて、熱心に話を聞いているように見えた」

 

吉岡氏は立ち上がると、「クッキーでも食べるかい?」と言って、食器戸棚からオレオクッキーのパッケージを出してきた。

「こいつは典型的なアメリカのクッキーって感じがするな。べたっと甘くて、すぐに飽きそうで飽きない。慣れると結構、くせになる」

「それで、その女の子はどうなったんですか?」

 僕が話の続きをせがむと、吉岡氏は、まあ、待てと言って、コーヒーメーカーに次のコーヒーを仕掛けた。

「長話はのどが渇くからな」

 年寄りの白猫はバスケットの中で四つ足を突っ張って伸びをすると、寝返りをうって再び眠り込んだ。やがて、お湯の沸くシュンシュンという音とともに、部屋の中にコーヒーの香りがいっぱいに広がった。吉岡氏はようやく椅子に落ち着いて話を続けた。

「バイトが終わって家に戻ると、幡野さん夫婦は、ちょうど夜食を済ませたところだった。

『あの女の子、シンディっていうの。この家の前の住人の子供なのよ』

 康子さんが言った。『五歳だって言ってた。名前も年も言えるんだけれど、住所を聞くとここの住所を言うの。新しい住所はまだ覚えてないみたい』

『そんな子を一人でうろうろさせといていいのか? 違法だろう?』

 幡野さんは康子さんから話を聞いているらしく、憤慨した口調で言った」

 吉岡氏は、言葉を切って僕を見た。

「君も覚えておいた方がいい。カリフォルニアでは、十三歳未満を監督者なしに放置すると法律に触れる」

「へえ? 僕の従姉は去年、子供が生まれましたけど、子供が昼寝している間に、スーパーに買い物に行ってますよ。やっと寝てくれた、とか言って」

「こっちに来ている駐在員の奥さんがよくやる失敗だ。ここでは、必ずベイビーシッターがいる」

「厳しいんだ」と僕は納得して言った。「それじゃ、シンディが夜中に一人で自転車を乗り回すなんて、とんでもないことですね」

 吉岡氏はうなずいた。

「警察に通報されても文句は言えない。だが、それをやると、シンディの両親はものすごいトラブルに巻き込まれる。さすがにそれは気の毒な気がしたと、康子さんは言ってた。幸い、シンディは自宅の電話番号を覚えていた。住所は変わっても電話番号はそのままかもしれないとそこに電話してみると、えらくなまりの強い英語を話す女性が出て、すぐに迎えにきた。五十がらみのラテン系の女性で、ナニーだそうだ。シンディの両親は仕事が忙しくてほとんど家にいないので、彼女が住み込みで雇われてシンディの世話をしていると言う。今日はほんのちょっと、目を離したすきにシンディがいなくなって、慌てていた、と言っていたそうだ。うかつには違いないが、そのナニーは本当にすまなそうに頭を下げて礼を言うので、あまり責める気にはなれなかった、と康子さんは言っていた。ナニーはメルセデスのトランクに、ピンクの自転車を積み込むと、シンディを連れて帰っていった」

「ベンツ、ですか」

 僕が感心したように言うと、吉岡氏はにやりと笑った。

「東アジア系は好きだよ。君も頑張って早くメルセデスを乗り回せるようになるんだな」

 僕のフォードは十五年落ちで、バッテリーだ、オーバーヒートだとしょっちゅうトラブルを起こしている。ベンツに乗るのはまだまだ遠い先の話だ。

「シンディの両親は、裕福なんですね」

「そうらしかったな。それからしばらくしてシンディの母親がシンディを連れて、アップルパイ持参で礼を言いに来た。きっと有名店のパイだったんだろうな、甘くて旨かったのを覚えてるよ。母親は大きな石のついた指輪をはめていた。宝石のディーラーなんだそうで、色々な石のついた指輪やブローチを持ってきていて、康子さんに見せた。幡野さん向けにカフスボタンやネクタイピンもあった。その場にいたわたしにも見せてくれたが、貧乏学生で金がないのはわかってるから、礼儀上だったろう。シンディの父親は貿易をやっていて今も海外へ行ってる。両親が二人とも留守がちだ。不本意だが、娘には寂しい思いをさせている、と母親は康子さんに話していた。その時だ、シンディが口をはさんだ。

『あたし、寂しくなんかない。ジェイミーがいるもん』

 その時の母親の顔をわたしは今でも忘れない。突然、すべての表情が消えてしまった。仮面のような無表情で、まっすぐ前を見たまま硬直している。息さえしていないように見えた。

『お兄さんがいらっしゃるそうですね』

 母親の変化に気づかずに、康子さんが合いの手を入れた。母親はふっと息を吐きだした。同時に、元のにこやかな表情に戻った。

『いいえ、いません』

『あれ、でも、シンディはお兄さんがいると…』

『シンディのイマジナリーフレンドなんですよ。自分で勝手に空想しているんです』

 シンディは何か言いかけるように母親の方を見上げたが、母親がシンディの手をぎゅっと力を込めて握ると、何も言わずに下を向いてしまった。

『これからはもう少し、時間を作ってシンディと一緒にいるようにします。本当にありがとうございました』

 母親は重ねて礼を言うと、シンディの手を引いて帰っていった」

 

吉岡氏は言葉を切ると、立ち上がって、できたてのコーヒーをマグカップに注いだ。

「君は? お代わりは?」

 僕は首を振って、それよりも話の続きを促した。吉岡氏は熱いコーヒーを一口飲むと、満足そうなため息を漏らして、話を続けた。

「それからはシンディの姿を見ることはなくなった。年末忙しいのは、アメリカも同じだ。十一月下旬のサンクスギビングが終わった辺りから、幡野さん夫婦は店の仕事、わたしは期末試験の準備に忙しかった。そんなある日、郵便で小包が届いた。幡野さんが開けてみると、子供用の昆虫図鑑が出てきた。

『なんだ、こりゃ。俺は虫には興味ないぞ。虫は天敵だ』

 菜園を荒らすアブラムシや芋虫に手を焼いている幡野さんだ。改めて包み紙を見直して気がついた。住所はまちがいない。だが、名前が違っていた。To Jaimyとなっている。

『おい、間違って開けちまったよ』

『なんですねえ、そそっかしい。ちゃんと宛名を見なきゃだめじゃないですか』

『そんなこと言ったって、俺んちに来たんだぞ』

 康子さんは包み紙を見て首をかしげた。

『ジェイミーって誰かしら? あなた、友達にジェイミーって呼ばれるの?』

 とんでもない、とわたしは首を振った。留学生の中には、アメリカンネームを自分でつけるやつがいるが、わたしは見た目も中身も日本人だ。

『シンディの兄さんじゃないですか? ほら、前にこの家に住んでいた』

 わたしが言うと、康子さんも思い出したらしい。ああ、と言って、でも、あれはイマジナリーフレンドだってお母さんが言ってらしたじゃないの、と反論した。

『この家には男の子が住んでいるような部屋はなかったわよ。お向かいのクリスティンだって、この家の子供はシンディだけだったって断言したし』

『でも、シンディは兄さんがいるって言ってた』

 確かに二階には女の子の部屋しかなかった。テラスにあったのは女の子用のピンクの自転車だけだ。だが、シンディの様子は、空想を話しているようには見えなかったのだ。

『そんなことより、これ、どうするんだ。開けちまったんだぞ』

 幡野さんがいらついた声を出した。

『きちんと包みなおして、お詫びのメモを入れて送り返すしかないわね』

と、康子さん。

『僕が届けて、謝ってきますよ』と私は言った。

 送り主の住所はすぐ隣の町だったし、試験が終わって、わたしには時間があった。悪いわねえ、と康子さんはしきりに済まながったが、クリスマス前の今の時期、郵便は遅れがちだ。直接届けてあげた方が親切ではある。康子さんは、クリスマス用のラッピングペーパーを買ってこようと言った。

その後、ちょっとしたトラブルがあった。昆虫図鑑が見えなくなったのだ。幡野さんはテーブルの上に置いたと言うのだが、そこにない。皆でキッチンを探し回り、ようやく、カウンターと冷蔵庫の間の隙間に隠れるように落ちているのを見つけた。

『本当にぼんやりなんだから』

 康子さんが文句を言い、幡野さんは、おかしいなあ、と首をひねった。わたしは康子さん派だった。幡野さんの『うっかり』は珍しくない。

 二、三日後、わたしは康子さんが赤と緑のペーパーできれいに包んだ昆虫図鑑を持って、送り主のアドレスに向かった。行ってみると、一軒家ではなく、高いフェンスに囲まれた木立の中に、ポツン、ポツンとバンガロー風の小住宅が建っている。入り口のゲートには『エバーグリーン・シニアホーム』とあった。老人ホームなのだ。ゲートを入ってすぐの所に来客用の駐車場があった。その隣の「入居者募集中」の幟がはためいている管理事務所で、わたしは小包の送り主の名前を言って面会を申し込んだ。

『ご家族か、ご親戚の方ですか』

『違います』

『ここではリストにお名前のある方のみ、面会を受け付けています。お名前がない方にはご用件をうかがう規則になっています。どういったご用件でしょうか』

『小包を返しにきたんです』

『小包?』

『あの、つまりですね、うちにまちがって小包が届いたんです。いや、あの、住所は合ってるんですが、うちにそんな人間はいないんですよ。それをまちがって開けてしまって、あの、これなんですが』,

 受付の女性は疑い深そうな目で小包とわたしを見比べた。わたしは頬が熱くなるのを感じた。

『まちがって開けたので、包みなおしてお返しにあがったんです。開けてしまったのは申し訳なかったです。あの、送り主の方に渡していただけませんか』

『リストに載っていない方をお通しするわけにはいきません。リストに載っていない方からの物品をお預かりするわけにもいきません。残念ですが、規則ですから』

 私はすごすごと自分の車に向かった。柄にもない親切心を出した結果がこれだ。全くの無駄骨じゃないか。

 車のキーを出そうとしていると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、看護師の制服らしい水色のスモックとズボン姿の女性がこっちへ歩いてくる。バイト先の寿司店によく来てくれるお客さんだ。

『珍しい人に会った』

 メアリは笑いながら言った。『どうしたの、こんなところで。誰か、知ってる人がいるの?』

 わたしは小包を見せてわけを話した。メアリは困ったように首を振った。

『ここの受付は杓子定規に過ぎるの。規則はその通りだし、セキュリティの問題があるのはわかるけどねえ』

 メアリは小包の名前を見て、送り主は確かにこのホームに住んでいる、と言った。もう八十歳に近い老人だと言う。

『中身は何なの?』

『昆虫図鑑です。子供用の』

『わたしが預かって、渡しておきましょうか?』

 わたしはその申し出に飛びついた。メアリは、また、近いうちに寿司を食べにいくわ、その時はよろしくね、と言ってウインクしてみせた」

 

 吉岡氏は立ち上がって、窓のブラインドを上げた。いつの間にか日は西に回っていた。さっきまで庭にあふれていたまぶしいほどの白い光は力を失って、鈍いオレンジ色に変わり、芝生の上に灌木の黒く長い影を落としていた。バスケットの中で眠っていた白猫は前足を突っ張って伸びをした。緩慢な動作で起き上がると、のそのそと歩いてキャットドアから外へ出ていった。パタン、とキャットドアの閉まる音が響いた。吉岡氏はテーブルに戻ると、再び話を始めた。

「クリスマスが過ぎ、新年も過ぎた。その頃になって、メアリは同じような年ごろの女性と二人連れでバイト先にやってきた。

『セアラよ。彼女もエバーグリーンホームで働いてるの。寿司はあまり食べたことないっていうから、引っ張ってきた。特上のネタをお願いね』

 メアリは言って、ウインクしてみせた。わたしはすぐにあの図鑑を思い出した。オーダーを通すときに、シェフに、常連客だからいいネタ出して、と念を押した。メアリと彼女の同僚は食欲旺盛だった。シャルドネのお代わりをオーダーし、オードブルにムール貝の酒蒸しと海鮮サラダを取って、その後、特上ちらしを残さず食べ、デザートのアイスクリームを注文したのはもう、閉店が近い頃だった。メアリはクレジットカードを出し、会計をする間に、あの小包の話をしてくれた。

『あの小包、セアラが送ったんですって』

『すみません。まちがいだったんです』

 セアラが小さな声で言った。活発なメアリとは雰囲気がまるで違う。声も表情も穏やかで柔らかい。その優しい声でセアラは続けた。

『あの昆虫図鑑は、わたしが買ったんです。入居者のおじいさんに頼まれて』

 セアラが担当しているモーリス老人は、十二年前にホームに入居してきた。かなり認知症が進んでいて、昔のことはよく覚えているが、昨日食べた夕食は忘れてしまう。そのモーリス老人が、孫にクリスマスプレゼントを送りたい、と言い出した。

『孫のジェイミーに、昆虫図鑑を買ってやると約束したんだと言うんです』

 セアラは困ったような顔で続けた。『そんなの、もうずっと昔の話でしょう。小さかった孫は、もう大人になってます。でも、モーリスさんにそれを言っても、無駄なんです』

 モーリス老人は、毎日、昆虫図鑑を買ってきたかとセアラに尋ね、早く買ってきてくれとせがんだ。音を上げたセアラは、昆虫図鑑を買ってきた。

『クリスマス用のラッピングペーパーで包装するのを、モーリスさんは喜んで見ていました。もちろん、本当に送るつもりはありませんでした。それが、どうしたわけか手違いで、他の郵便物と一緒に発送されてしまったんです。ご家族が引っ越されたことは知りませんでした』

 わかってみれば、単純な間違いだ。だが、腑に落ちないことがある。

『でも、おかしいな。あの家にジェイミーという子供はいなかったんですよ』

 わたしは、ジェイミーは、シンディのイマジナリーフレンドだという母親の話をした。

『モーリスさんが、ジェイミーというイマジナリーグランドチャイルドを妄想してるってことはないんですか』

 セアラは首を振った。

『そんなことありません。モーリスさんは最近の記憶はおかしくなっていますけれど、昔のことはちゃんと覚えています。時々、ジェイミーの話をしますよ。昆虫が好きで、将来は昆虫学者になりたいと言ってる、頭の良い子なのに、身体があまり丈夫じゃないのが残念だって。シンディという女の子の話は聞いたことがありません』

『ねえ、老人の時間は十年以上前で止まってるのよ』

と、メアリが口をはさんだ。その子が今、五歳なら、モーリス老人がしっかりしてた頃にはまだ、生まれていなかったでしょう』

『じゃあ、ジェイミーは?』

『十年以上前に小学生だったら、もう大人よ。家を出て独立してるんじゃないの?』

 カードとレシートがもどってきて、話はそこで終わりになった。メアリは気前よくチップを記入してくれて、また来るから、と言って帰っていった」

 

吉岡氏は言葉を切って、マグカップを取り上げた。コーヒーはもう冷め切っている。吉岡氏は一口飲んで顔をしかめ、再び話し始めた。

「それからしばらくしたある日、夜食を済ませると、康子さんは、山盛りのクッキーの皿をテーブルに出した。

『スーザンから頂いたの』

 スーザンは幡野さんの店の常連客で、クッキーやケーキを焼くのが上手だ。時折、お手製のクッキーを店に差し入れてくれる。特にレモンケーキは絶品だ。わたしは遠慮なくいただくことにした。

『スーザンは今日、お友達を連れて来たのよ。その人、数年前までうちの裏の通りに住んでいて、ジェイミーを知ってたと言うの』

 わたしはケーキを取ろうとした手を止めて、康子さんの顔を見た。いつも陽気な康子さんなのに、微笑の影もない。

『でも、ジェイミーはいないと…』

『いたそうよ。身体が弱くて学校には行ってなかったけど、家でホームスクーリングをしていた。多分、小学校の三年か四年生ぐらいだったんですって』

『どこが悪かったんですか?』

『生まれつき心臓に欠陥があったとか。人の家の話だし、あまり詳しくは知らない、両親は二人とも留守がちで、普段から近所付き合いはほとんどなかった、と言ってた』

『お祖父さんはいたんじゃないんですか』

『お祖父さんのことは何も言ってなかった。子供の世話は、メキシコ人のナニーがやってたそうよ』

 モーリス老人はもう、ホームに移っていたのかもしれない。

『ジェイミーの具合が悪くなって病院に入院した時も、両親は自宅にはいなかったそうなの。結局、ジェイミーはそのまま亡くなってしまった』

『死んだんですか』

 ちょっとショックだった。そんなに若くて、あっけなく死んでしまうものなのだろうか。

『かわいそうだけど、寿命なら仕方ないでしょう。でも、その後の話がね、本当にひどい』

 康子さんは吐き出すように言った。

『ジェイミーの両親は、ジェイミーのものを何もかも処分してしまったんですって。服も、玩具も本も食器も何もかも。それはもう、徹底してた。ジェイミーの写っている写真はすべてアルバムからはがして捨てた。ジェイミーのいた子供部屋からベッドも家具も運び出して、ファイルキャビネットとデスクを入れてホームオフィスに改造した。そして周りの人間に、二度とジェイミーの名前は口にしないようにと命じたそうよ』

『その人、誰からそんなこと聞いたんですか?』

『ナニーが彼女に話したんですって。あんまりひどいって。ジェイミーは死んだだけじゃない、初めからこの世に存在しなかったことにされたのよ』

 それは…。ドライというより、薄情という方がぴったりする。

『お葬式もなかったんですか? お墓は?』

 幡野さんが、アメリカじゃ、自宅で葬式はやらないと言った。

『お墓はあるかどうかわからんな。散骨したかもしれない。ナニーは英語が得意じゃないから、その辺はよくわからなかったようだ』

 幡野さんは、ただなあ、と続けた。

『日本人の感覚からすると理解できないな。葬式をやり、初七日の仏事をやり、形見分けをやり、年賀を遠慮する葉書を書いて知人一同に喪中であることを知らせ、その後も一周忌だ、三回忌だ、お盆だ、彼岸だと墓参りを繰り返し、写真や仏壇を家に飾って、死んだ人間を忘れまいとする、そういう風習に慣れてるからな。ただ、悲しいことや辛いことがあった時、できるだけ早く忘れようとする、そういう人たちもいるんだろう』

『だからって、十歳だか十一歳まで懸命に生きた子供の一生を無にするなんて、許されることじゃありませんよ』

 康子さんはまだ、怒っていた。日本には、死んだ子供の年を数える、という言葉がある。水子供養なんてことをする人もいる。康子さんはきっと、そちらの側の人なのだろう。シンディの両親はそれとは全く違った感覚で生きている。わたしは、シンディがジェイミーの名前を言った時の、母親の凍り付いたような表情を思い出した。

『それって、何年前のことですか?』

『さあ。七、八年前のことらしいけど』

 それなら、シンディはジェイミーが亡くなった後に生まれたことになる。誰も口にしないジェイミーの名前をどこから知ったのだろう。

『そりゃ、誰かが話していたのを聞きかじったんだろう。子供は耳ざといもんだ。いくらかん口令をしいたって、こういう話はどこからか耳に入るものさ』

 と、幡野さんが言った」


それから
青すじアゲハ

「それから?」

 と僕は聞いた。

 吉岡氏は外国人のような仕草で両手を広げて、話はこれで終わりだ、と言った。

「生活感の違いというものは、そう簡単に乗り越えられないって話だ」

「その後、シンディはどうなったんですか?」

「うちの近くをうろうろするのはやめたようだった。一度だけ、見かけたことがある。その翌年の夏だったか、バイトに行く途中、少し離れた公園の脇を通りかかった時、シンディがブランコに乗っていた。ピンクの自転車が傍の芝生に放り出されていたよ。シンディは一人でブランコを揺らしながら歌を歌っていた。歌詞は外国語で、メロディーも耳慣れない異国風の響きがあった。シンディは歌に合わせるように、大きく体をゆすってブランコを揺らしていた。そして、シンディの隣の、誰も乗っていないブランコも同じように揺れていた。前に後ろに大きく揺れ続けていた」

 僕は息をのんだ。

「どういうことです?」

「さあ、わからんな。たまたま突風が吹いてブランコを押したのかもしれない。それとも、わたしが見る前に乗っていた誰かが飛び降りて、そのままどこかへ行ってしまい、ブランコだけが惰性で揺れていたのかもしれない。科学的な解釈をすると、そういうことになるな」

 僕は黙って考え込んだ。吉岡氏はにやりと笑った。

「君が何を考えているかわかるよ。わたしも同じことを考えた。言っただろう? 幽霊を見たことがあるかどうか、自分でもわからない、と」

「脅かさないでくださいよ。この二十一世紀に」

 だが、僕は考えずにはいられなかった。二階の自分の部屋に戻って明日の予習をしようとテキストを開いても集中できない。見たこともないはずのジェイミーの姿がぼんやりと頭の中に浮かんでくるのだ。その少年はやせて小柄だ。学校にも行けずに、毎日、独りぼっちで家にいる。可愛がってくれた祖父は、認知症が進行して施設に入ってしまった。あとは、言葉のよく通じないメキシコ人のナニーだけだ。

 少年は一人で家の中を歩き回る。たまにバックヤードに出て、芝生の上を歩いてみる。蝶やコガネムシが飛んでくると、目を細めて眺める。灌木の葉にテントウムシを見つけて、ルーペでじっくり観察したこともあるだろう。心配性のナニーは、少年を家の中に引き戻す。少年の弱いからだは、外光には耐えられない。翌日、きまって熱を出す。ベッドに横たわったまま、少年は将来、昆虫学者になって外国へ行き、鮮やかな色彩の南国の虫を観察することを夢想する。

十一、二歳で病死し、初めから存在しなかったことにされた少年。写真も、形見の品物も何もない。ジェイミーという名前さえ人の口に上ることはない。人々の記憶は時とともに薄れていく。シニアホームにいる高齢の祖父はいずれ亡くなるだろう。そうなったら、もう、ジェイミーを覚えている人は誰もいない。きっと寂しかっただろう。心細かっただろう。

シンディはジェイミーと違って、健康な子供だった。お気に入りのピンクの自転車に乗って、どこへでも出かけていく。ジェイミーはそんなシンディがうらやましかったかもしれない。一緒に遊びたかったかもしれない。

 バカな。何を考えているんだ。

 僕はテキストを閉じた。今日はもうあきらめた。階下へ行って何か軽いものでもつまむとしよう。

 時刻は十一時を過ぎている。早寝の吉岡氏はさっさと寝室へ引き上げて、キッチンは真っ暗だった。僕は吉岡氏を起こさないように、そっと足音を忍ばせて冷蔵庫に近づいた。たしか、ピザの残りがあったはずだ。冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいると、パタン、と軽い音が後ろから聞こえた。ぎょっとして振り返ると、暗闇の中に丸いガラス玉のような目が二つ光っている。

「なんだ、お前か」

 吉岡氏の白猫が、夜の散歩から帰ってきたのだ。猫は僕を見ていたが、ふいに視線を横に動かして、キッチンの入り口の方に向けた。とことこと廊下に出ていくと、二階に上がる階段の下に立ち止まって、上を見上げた。そこにある何かをじっと見ている。よく、猫が壁の上の方にいる蜘蛛や、棚の上を這っている虫をまじろぎもせずに見ていることがある。あんな感じで暗い階段の上の何かを見ているのだ。

「何かいるのか?」

 僕が電気をつけると、黄色いひかりが、階段を照らした。何もいなかった。猫はふいに興味を失ったらしく、バスケットの中に入って丸くなった。

 僕はそのまま二階へ引き上げた。食欲はとうに失せていた。寝巻に着替えてベッドに入ったが、なかなか眠りは訪れない。家の中も外もしんと静まり返っている。この家は袋小路の奥にあるので、深夜になるとめったに車も通らないのだ。静か過ぎるとかえって目がさえてしまう。つい、よけいなことを考えてしまう。吉岡氏が昼間、変な話をしたのが悪い。眠らないと明日の朝、辛いぞと暗い天井を眺めながらじっと横になっていた。

 この部屋は東に窓がある。朝日が差し込むせいで、寝不足のまま、目が覚めてしまう。西側の部屋を選べばよかったかな、と思う。あっちも南に窓があるし、西日が少しばかり入り込んだって…。

「西日が入るのは困るが、東側の部屋はなんとなく陰気で、気が滅入る」

 誰が言ったんだっけ。吉岡氏だ。幡野さんの家に間借りした話をしていた時だ。二階の西側の部屋は女の子、シンディの部屋だった。東側の部屋はホームオフィスになっていた。だが、元々は男の子、ジェイミーの部屋だったのだ。ジェイミーが死んでからオフィスに改造されたのだ。

 僕はベッドの上に起き上がった。

 この部屋も東側の部屋だ。

 バカなことを考えるな。あの話は、吉岡氏が間借りしていた幡野さんの家で起きたことだ。吉岡氏がまだ学生だった頃の話だ。それから何十年もたっている。今のこの家が、同じ家だなんてことはあり得ない……だろうか。

 アメリカ人は新築にこだわらない。中古の家を売り買いして、きれいに直して移り住むって、吉岡氏が自分で言っていたじゃないか。

 幡野さんの家は袋小路にあった。この家も袋小路にある。3ベッドルーム、2アンドハーフバス。スペイン風の瓦屋根、表庭に緑の芝生と見事なバラの花壇。

 僕は急に寒気を感じて毛布を身体に巻き付けた。

 

 二週間後、僕は吉岡氏に、ルームメイトを募集していた友人とアパートを借りることにした、と伝えた。その方が、カレッジにも近くなるので色々と便利なのだ、と。

「本当に、いろいろお世話になって、感謝しています」

 僕が言うと、吉岡氏は、そうか、と残念そうに言った。

「まあ、若い人は若い人同士の方がいいかもしれないな。こっちは寂しくなるが。この家は、二人で住むには広すぎる気がするんだよ」

 二人…。

きっと、白猫を勘定に入れたんだろう。

 ブランコ

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