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こんにちは、赤ちゃん

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知人

ミルクボトル

1 八月四日(火)のニュース

 

三日午後四時三十分頃、東京都吉祥寺市の会社員、渡辺正喜さん(三四)方より「息子の様子がおかしい」と一一九番がありました。救急車が駆けつけたところ、長男の啓ちゃん(二歳九ヶ月)が心肺停止状態でベビーベッドに寝かされており、すぐに病院へ運んだが、既に死亡していました。

啓ちゃんは多量に水を飲んでおり、溺死とみられます。手足に押さえつけたようなあざがあり、警察では、父親の正喜さんから事情を聞いています。

渡辺さん宅は、啓ちゃんのほかに、父親の正喜さん、母親の留美さん(二九)と、五歳の長女の四人暮らし。

母親の留美さんは、三日の昼頃、買い物に行くと言って家を出たまま帰らず、連絡も途絶えており、警察では重要参考人として行方を捜しています。

 

2 周辺の人々が語った物語

 

時田芳美の物語

 

本当に驚きました、あんなにお幸せそうな御家族だったのに。

御主人は子煩悩でね、日曜日にはよく、真由ちゃんと啓ちゃんを連れて、公園へ遊びに行ってました。ええ、すぐそこの公園です。真由ちゃんは赤い自転車に乗って、啓ちゃんは御主人が手をひいてね。

奥さんですか? 奥さんは日曜日、パートに出てたんです。どこかのデパートだって聞きましたけど、よくは知りません。渡辺さんの奥さんって方は、ちょっと引っ込み思案っていうか、わたしはあんまりお話したことないんですよ。渡辺さんのおばあちゃんの方はよく知っていました。うちはここに、もう三十年も住んでるんですから。

お孫さんのことをそりゃあ可愛がってたんですよ、渡辺さん。御主人はもう、ずっと前に亡くなってましてね、息子さんが結婚してからは一人暮らしだったんです。気丈な方ですから何も言わなかったけれど、本当はお淋しかったんじゃないですか。

同居されたのは、啓ちゃんが生まれる少し前です。軽い心臓発作を起こして、一人じゃ心配だからって話でした。でも、それだけじゃなかったらしいんです。ここだけの話、真由ちゃんの生まれた後、お嫁さんが産後うつにかかったとか。それで、同居することにしたって、そうおっしゃってました。お嫁さん一人で、真由ちゃんと赤ちゃん、両方の面倒を見るんじゃ大変でしょうからね。

渡辺さん、孫の世話をするようになってから、いつも楽しそうでね、顔色もよくて、生き生きされてました。ちょっと、うらやましいくらい。うちは、まだ孫がいないものですから。娘はもう結婚して、子供をほしがってるんですが、なかなか、うまくいかなくて。渡辺さんのところは、お幸せだと思ってましたんですけど。

ええ、亡くなったんです。啓ちゃんがまだ一つになる前でしたね。お風呂場で転んで、頭を打ったんだそうです。怖いですねえ。お嫁さんにもショックだったと思うんですよ。

啓ちゃんの世話はおばあちゃんにおまかせって感じでしたから。頼りきってたんじゃないんですか。

 実はね、わたし、一度、渡辺さんの奥さんが、泣いてるところに行き合わせちゃったことがあるんです。買い物から帰ってきたら、渡辺さんのお宅の門の前に、奥さんがぼうっと立ってるんです。挨拶して通り過ぎようとしたら、突然、声をかけられました。「きれいな夕焼けですねえ」って。ちょっとびっくりしました。普段から、あまり口をきかない人だと思ってましたから。

空を見上げたら、本当に、見事な夕焼けでね、お向かいの家の黒い屋根の向こう側が、一面、真っ赤に燃えてるように見えました。この分じゃ、明日も暑くなりそうだなと思いましたよ。それで、「明日もいいお天気でしょうね」と言ったんですけど、渡辺さんの奥さんには、聞こえないみたいでした。黙って赤く染まった空を見ているんです。その時ね、なんか、目のあたりがうるんでるように見えたんです。灯ともし頃で薄暗くて、はっきりは言えないんですが……。わたし、悪いところを見たような気がして、すぐに立ち去ったんです。

今思うと、奥さん、心細かったのかしらって。言ってくれれば、お手伝いできることもあったと思うんですけど。まあ、今頃言っても、しょうがないんですけど。


友人

リボンのかかったブランケット

向坂慎二の物語

 

渡辺さんですか? やり手だと思いますよ。日の当たる人って感じでした。おいしい仕事っていうか、重要なプロジェクトが立ち上がると、そこにちゃんと名前が挙がってる。根回しがうまいのかな。本人は人徳だって言ってましたけど。

仕事は当然、忙しいですよ。ワークライフバランスなんて、どこの世界の話かなって具合で。仕事が詰まってくると、土曜も日曜も無いってこと、ありますよ。渡辺さんにはそれが、きつかったみたいですね。子供もまだ小さいし、それに、奥さんと、同居中のお母さんとがあまりうまくいってなかったらしいんです。それで一時期、渡辺さん自身がノイローゼみたいになったことがありました。別に幻覚を見るとか、暴れるとか言うんじゃありません。そんなことになったら、会社にいられませんよ。

ただ、紙を破るんです。書類とか、まわってきたメモとか、雑誌のページなんかを手で小さく引き裂いちゃうんです。僕がこう、仕事の指示を受けてるとしますよね。渡辺さんは話しながら、何となく、そのへんの紙をいじってるんですが、そのうち、ピリピリッと紙を裂くんですよ。本人、全然、気がついてないんです。データの数値なんかを示しながら、また、ピリピリッとやるんです。あの頃、渡辺さんのデスクには、紙吹雪みたいに小さな紙が、いつも散乱してました。お祭りか運動会の後みたいにね。

そのうち急に、休暇を取ったんです。あとで聞いた話ですけど、上の方から、休みを取るように言われたそうです。お偉方の集まってる会議中に、あれをやっちゃったそうなんです。一瞬、しん、としたそうですよ、会議室が。その中でまた、ピリピリッと。

十日ぐらい休んでました。その間に神経科を訪ねたなんて話も聞きましたけど、よくは知りません。ちょうどその頃、渡辺さんのお母様が亡くなられましてね。僕らも葬儀の手伝いに狩り出されました。それからしばらくは、法事だなんだでごたごたしたみたいでしたけど、紙を裂く癖の方は、ぴたっとおさまりましたね。顔色も明るくなってきて、何か、ふっきれたみたいでした。仕事の方は、相変わらず忙しいんですが、日曜日だけは、家族サービスの日と決めてるって言って、出社しないんです。僕らにも、仕事だけじゃ、薄っぺらな人間になるぞなんて言って、早く帰れって言うんです。本を読んだり、音楽を聴いたり、女の子とデートするのも大事だなんて。渡辺さん、随分、変わったなって思いましたよ。哲学書なんか読んでるからかな? あれは、哲学書とは言わないのか。

いや、この間、中央線で、ひょっと見かけたんですよ。つり革につかまって、何か熱心に読んでるから、声はかけなかったんですけど。ちょっと背表紙を覗いてみたんです。そしたら、ダライ・ラマの伝記なんです。ダライ・ラマって、中国のお坊さんですよね? え、チベット? そうなんだ。いや、渡辺さんもね、なんか、色々考えて、悟るところがあったんだろうなって、そう思ったんです。僕なんか、仕事に関係なきゃ、本なんか読みませんけど。

 

浅井理恵の物語

 

留美との付き合いは長いわよ。学生時代からだから、もう十年になるかな。あたしたちの卒業の年は、不況の真っ最中でね、女子大生の氷河期なんて言われてた。特に、あたしたちみたいに、舞台美術なんて浮世離れしたもの専攻しちゃね。あたしは、就職、はなっからあきらめて、フリーター街道まっしぐら。食べるためなら何でもやって、舞台美術の仕事があったら何でも引き受けた。なんせ、依頼してくる演劇グループも金なんか無いから、デザイン料なんてタダ同然。道具を作りたくったって、材料を買う金が無いんだから。でもね、やりようはあるの。むしろ、金の無い方が、面白いものができる。クリエイティビティって不思議なものでね、ぎりぎり追い詰めて、いじめて、搾り出さなきゃ出てこないの。だから、面白い舞台を見たかったら、大劇場なんか行っちゃだめ。資本たっぷり、創造性ゼロの舞台しかないから。本当に面白いのは、小さな劇場なの。あたしが去年やった「かもめ」では、庭園の緑を表現するのに、ロープを使ったの。普通の、布製のロープよ、あれをね……え? ああ、ごめんなさい。留美の話だっけ。

留美は、真面目な子だから、小さなイベント会社に就職したの。ラッキーよね。好きな仕事ができたかどうかは別として。

あたしたち、一ヶ月に一度くらいは連絡を取り合ってたかな。留美は律儀だから、あたしが美術をやった舞台は、みんな見に来てくれた。一度、珍しく男の人を連れてきたの。それが、渡辺さん。まじめ人間ってのが第一印象。留美にはどうかなって思ったわよ。二人そろって生真面目ってのは、息詰まりそうじゃない。でも、留美が惚れてるのはわかったし、まあ、お幸せにって言っといた。

仕事は、子供ができた時に止めたの。つわりがひどいって言ってた。無理することないじゃん、って言ってやったけど、完全主義者の留美にしたらくやしかったかもね。仕事も家庭も百パーセントがポリシーだったから。でも、そのうち、お姑さんが心臓発作でぶっ倒れるわ、二人目が生まれるわで、仕事どころじゃなくなったみたい。

お姑さんと同居したのは、二人目が生まれるちょっと前よ。そりゃ、気持ち的には窮屈だろうけど、それまで住んでたURに比べれば、庭付き一戸建ては広々していいじゃないって思った。お祝いに、ベビー服のセットかなんか持ってったのよ。なんか、やつれちゃってたなあ、留美。妊娠すると太るんだと思ってたんだけど、逆の人もいるのね。

その次に会ったのは、留美が外で働きはじめてからね。パートの帰りにお茶飲んだりするくらいだけど。パートは、デパートにはいってるブティックの販売アシスタントよ。大したお金にはならないけど、留美はずっと家に閉じ込められてるようなもんだったから、いい気分転換になったんじゃないかな。留美はそう言ってた。

留美の行方? 警察にも聞かれたけど、わからないなあ。連絡があれば、自首するようにちゃんと説得しますよ。一生、逃げ切れるわけじゃないんだから。あれ? だって、みんな、留美がやったって思ってるんじゃないの?

 


お人形

3 幼女が、婦人警官に語った物語

 

ママは悪くないの。ママのせいじゃない。啓ちゃんが悪いんだ。啓ちゃんがママのいう事をきかないから……。

(ひとしきりしゃくりあげてから、なだめられて質問に答え始める)

パパがお仕事に行った。真由がバイバイってしたら、パパもバイバイって。

(それから、何をしたの?)

テレビを見た。

(何を?)

こいぬのスポット。

(ママは何をしてた?)

知らない……お仕事。

(お仕事に行ったの?)

違う。おうちのお仕事。

(啓ちゃんは何をしてた?)

知らない。

(テレビの後は、何をしたの?)

積み木。

(何を作ったの?)

お城。でも、啓ちゃんが来て、こわしちゃった。いつもそう。あたしが作ったお城、みんなこわしちゃう。だから、ママに言いに行った。

(ママは何て?)

啓ちゃんはまだ小さいんだから、しょうがないって。不公平だと思う。

(それから?)

お昼を食べた。啓ちゃんがスプーンを投げて、ママが怒った。

(とっても怒ってた?)

うん。でも、啓ちゃんが悪いんだよ。ママがやめなさいって言ってもやめないの。ごはん、ぐちゃぐちゃになっちゃった。

(それから?)

ママがお片づけした……泣いてた。

(それから?)

お昼寝した。目が覚めたら、いっぱい人がいた。ママはどこへ行ったの? ママ…

 


父親

ミニカー

4 父親の自白

 

なぜ、こんなことになってしまったのか。ずっと考えているんですが、わからないのです。何が悪かったのか。大それた望みがあったわけじゃない。平凡な家庭の幸福を望んだだけなのに、なぜ、こんなことが…。

どこからお話ししましょうか。留美のことですか?

留美とは、大学時代の友人の紹介で知り合いました。わたしは技術屋ですが、映画が好きでして。好きと言っても作るわけじゃなく、見る方だけですが。留美の専門は舞台美術でしたが、映画もよく見ていましたから、話が合いました。留美は当時、小さなイベント会社で、デスクを勤めてました。スタッフ間の調整役ですね。あんまりクリエイティブとはいえない仕事で、フラストレーションがたまってるみたいでした。それで、できるだけ、彼女の好きな美術展とか、小劇場の公演とかに付き合ったんです。二年ほどして、結婚しました。南浦和にURを借りてまして、そこで、真由が生まれました。

それから、母が軽い心臓発作を起こしまして、同居することにしました。わたしは一人っ子なんで、いずれはと思ってましたが、こんなに早く同居することになったのは誤算でした。でも、そんなに悪くもないと思ったんです。留美はつわりがひどいたちで、真由の時、わたしもできるだけ、家事の手助けをしたつもりなんですが、そうそう仕事を休んでばかりもいられない。子供が二人になると、女手が二人あったほうが良かろうと、そう思って、同居に踏み切ったんです。母は確かに気の強いところはありますが、わきまえてます。うまくやってました。それに、あの頃、留美は本当に参っていて。夜、よく眠れないって言うんです。眠ろうとすると、よくない夢を見るって。医者は、妊婦が不眠に陥るのはそんなに珍しいことじゃないから心配するなと言いました。薬は使いたくありませんから、寝る前に暖かいミルクを飲んだり、軽い運動をしたりして、なんとか、乗り切ろうとしました。

わたしも、できるだけの手助けはしたつもりです。掃除や、買い物、洗濯なんかも。真夜中過ぎに洗濯機を回すなんて、しょっちゅうでしたよ。今、思い出すと、それも楽しかった。その頃にはもう、男だってわかってました。息子が生まれるのは、男にとって特別なものですよ。刑事さんにもおわかりでしょう? 刑事さん、お子さんは? そうですか。まだですか。じゃあ、これからわかりますよ。

キャッチボールの相手をしてやろう、サッカーも教えてやろう、自転車の乗り方を教えてやって、二人でサイクリングに行こう。ゲームだって、負けませんよ。いい父親になろうと思いました。わたしは、中学二年の時に父を亡くしてるんで、よけい、そう思ったのかもしれません。真由をないがしろにする気はないんですが、やはり、息子は格別でした。

啓が生まれたのは、十一月十日の午前二時十八分。三千八百五十グラムのジャンボベビーで、陣痛が弱いとかでなかなか生まれなくて、病院でやきもきしながら待ってました。ようやく生まれて、息子をこの腕に抱いた時はなんと言ったらいいか…。

すみません。やはりわからない。わずか二年ちょっと前のことなんです。それがどうしてこんなことに……。

産後のうつ?

ええ、ありました。真由の時にもあったんです。留美はそういう体質らしくて、精神的に不安定になるんです。退院して一週間ほどは、留美のお母さんが、毎日、様子を見に来てくれました。でも、しだいに回復していったんです。実家に預けていた真由も戻ってきて、ようやく親子四人がそろった矢先に、母の事故が起こりました。

啓を風呂に入れてくれていた時なんです。濡れた床で滑ったんでしょう。倒れた時に、頭をひどく打ちつけたらしく、留美が見つけた時には意識がありませんでした。そのまま、何も言わずに逝ってしまいました。

母の死に、留美はひどいショックを受けました。また、うつに逆戻りしてしまって、おかしな考えを持つようになったんです。

おかしな考えというのは……つまり、妄想ですよ、育児に疲れた母親の。留美は、啓には手をやいていましたから。男の子は、女の子に比べると手のかかるものです。これは、母も言っていました。身体も弱いし、成長も遅いから大変なんだと、ですから……。

わかりました。でも、いいですか。これは妄想なんですからね。

留美は、自分は母性に欠けるところがあると思い込んでいました。母親失格だと、鬼だとさえ言い出したんです。馬鹿なこと言うなと、わたしは叱りました。こんなに一生懸命子育てしている留美が、母親を失格することがあるか、と。でも、留美はきかないのです。どうしても、啓をかわいいと思えないと、泣きながら訴えるんです。

わたしは医者に相談する一方で、日曜日は外へ出たらどうだと勧めました。子守は引き受けるから、習い事をするなり、スポーツを始めるなり、パートタイムで仕事したっていい。考えてみれば、留美は、真由が生まれてから、ほとんど社会に出てませんからね。週に一度くらい、子育てから解放されて、色々な人と会って話をする必要があるんじゃないかと。わたしも、日曜日くらい、仕事を忘れて子供と過ごしたかった。公園に連れて行ったり、一緒にテレビを見たりしました。

 

虐待? 何のことですか?

五月二十日の日曜日……。

あの件については、お話したくありません。

 

(沈黙)

 

証拠があるって、それはそうでしょう。病院に記録が残ってるって…ならば、なぜ聞くんです。何もかもわかっているなら、聞く必要はないでしょう。あの件については、話す気はありません。あくまでもとおっしゃるなら、これ以上、一言も口をききませんよ。

 

(長い沈黙)

 

魔がさした、それだけですよ。(うつろな笑い)

きのうも、魔がさしたんでしょう。何しろ暑かった。三十四度? そうですか。コンクリートのせいですかね? 地球温暖化のせいかな。

もともと、朝から気分がすぐれなかったんです。なんとなく、身体がだるいし、頭が痛い。頭痛薬を飲んで出社したんだが、おさまらないので、昼で帰ることにしました。

留美は、買い物に出たいとか言っていて、わたしの帰宅と入れ違いに出かけていきました。

子供二人は昼寝の最中でした。真由はよく眠っていましたが、啓は間もなく目をさまして、ぐずり始めました。ベビーベッドの上に立ち上がって、外へ出たいと泣いているんです。根負けして、わたしは啓を庭へ連れ出しました。啓は喜んで、日の当たる芝生の上をよたよたと歩いています。わたしは庭椅子にすわって、啓を見ていました。とにかく暑かった。すわっているだけで、額がじっとりと濡れるんです。こめかみがズキズキするので、また頭痛薬を飲みました。そのうち、頭の中がぼんやりしてきて、どうも、眠ってしまったらしい。

 

はっと目がさめると、目の前が真っ白でした。日陰にすわっていたはずなのに、真っ向から陽を浴びているんです。

これは随分寝てしまったのかと、あわてて立ち上がり、とたんに啓のことを思い出してぞっとしました。

啓、と呼んでも返事がありません。青くなったところに、庭の隅の椿の木の下にいる、啓の姿が目に入りました。

啓は……ひとりで遊んでいました。ズボンもパンツも脱ぎ捨てて、泥だらけになっていました。抱き上げて浴室へ連れて行き、バスタブに水を張りました。洗ってやろうとしたんですが、啓は嫌がって暴れます。それで、無理矢理に押さえつけなければなりませんでした。

そのまま、啓が動かなくなるまで、じっと押さえつけていました。

 

(沈黙)

 

おっしゃる通りです。

わたしがやったんでしょう。その時は、そう思ってなかったんですが。

行水をつかわせただけのつもりでした。

身体をきれいにしてやって、パジャマを着せて、ベビーベッドに寝かせました。それから…それから……

すみません。よく覚えていないんです。啓の顔をじっと見ていたように思います。いつも思っていたんですが、啓は、わたしにあまり似ていません。赤ん坊の顔なんか、どんどん変わっていくものだと人に言われ、わたし自身もそう信じていたんですが。

目が、違うんです。

留美の目とも違う。どこか遠い世界を見ているような、霞のかかったような目。その目は今はもう、何も見ようとしない。この世界も。どこかの遠い世界も。

その後、起き出してきた真由に呼ばれて我に返り、一一九番に電話をかけました。

留美ですか?

買い物に出かけたまま、帰ってこないんです。真由に、新しいリュックを買ってやるんだと言ってました。秋に、幼稚園の遠足でイモ掘りがあるそうで。きっと楽しいでしょうね。子供が自然に親しむのはいいことです。わたしは付き添ってやれないから、留美が行ってくれるでしょう。

心あたりと言っても……。学生時代の友人で、親しいのがひとりいました。実家のお母さんに聞けば、わかるんじゃないですか。

でも、できれば、留美の気持ちが落ち着くまで、そっとしておいてやってほしいんですが、無理でしょうね。

いいえ、行き先なんか知りません。ただ、留美は関係ないって言ってるだけです。留美は何も知りません。

啓を殺したのは、わたしです。


母親

玩具の工具

5 出頭した母親の告白

 

テレビでニュースを見て、驚きました。正喜さんが自白したって。

嘘です。違うんです。警察も、マスコミの人もみんなまちがってる。

啓を殺したのは、わたしです。

なぜって……そうしなければならなかったからです。そうするのが、わたしの義務だと、そう思ったからです。

ええ、どうせ、わたしは母親失格なんです。鬼ですよ。母性なんてかけらもありゃしません。あの子だって、初めから、ちっともほしいとは思っていませんでした。生まれてこなければよかった。流れちゃえばよかったんだ、あんな子……(泣き声)

はい、すみません。落ち着きます。お水をいっぱいいただけますか……ありがとうございます。

もう大丈夫です。泣いたりして、すみませんでした。

何をお聞きになりたいんですか。啓のこと。

啓が生まれたのは、十一月十日。季節はずれのひどい嵐の夜でした。

予定日を一週間以上も過ぎてるのに、陣痛が起きません。医者は帝王切開も考えているようでした。それでなくても、今回の妊娠は、初めからトラブル続きだったんです。

 

予定外の妊娠でした。真由がまだ二歳になったばかりで、手のかかる真っ最中だったこともあって、二人目はしばらく待つつもりでした。正喜さんは男の子をほしがってましたけど、納得してくれました。ちゃんと、避妊には気をつけていたつもりです。それなのに、どうしたわけか、生理がとびました。婦人科で妊娠がわかったときには、目の前が真っ暗になりました。

変ですか? 変でしょうね。普通、喜ぶものなんでしょうね。子供がほしくてたまらないのに、できない人だっているんだから、自分の幸運を喜ばなきゃいけないんでしょう。

でも、ほしくもないのにできてしまった者にも、絶望があるんです。土壇場に引き据えられた者の、真っ黒な絶望が。

 

刑事さん、マドンナ・シンドロームって、ご存知ですか?

ライクアヴァージンの方じゃありません。(笑い)イエス様のお母さんの方です。受胎告知って、天使から重大ニュースを聞かされるマリア様を描いた絵が、西洋美術にはたくさんあるんです。あんまり、にこにこ、嬉しそうな顔をしてるのってないんですよ。どっちかっていうと、困ったように顔をしかめてるんです。なかには、怯えてるように見えるのさえあります。そういうマリア様を見るたびに、わたし、親近感がわくんです。気持ちはわかるって。

「おめでたです。予定日は何月何日」

その一言で、何もかもが変わります。その日までのすべての予定がキャンセルされ、その日をめざしてリセットされるんです。海外旅行の予定も、転職の計画も、テニスの試合も、アルプス縦走も中止。がんばってきたダイエットも中止。即日、妊婦用カロリー表に基いた食事が始まる。欲しかったテーブルも新しいパソコンもお預け。かわりにベビーベッドを買うことになります。誰も彼もが、赤ちゃんのことしか話さなくなります。お腹の大きな女の人に、「予定日はいつですか?」以外の何を聞きますか?

「受胎告知」されたマリア様と同じで、逃げ場がなくなる、それを、マドンナ・シンドロームっていうんですよ。

わたしの人生なのに。わたしの身体なのに。前から不思議だと思っていました。どうして誰も不当だと思わないのだろうって。

え? もう、あなたひとりの身体じゃない?

(凄みのある微笑)

みんな、そう言うんですよ。

 

中絶もできるだろうって? 本気で言ってるんですか?

中学生ならともかく、わたしの立場で中絶できるはずないでしょう? まだ若過ぎるとか、経済的に育てられないとか、中学生にはきく言訳が、わたしにはきかないんです。逆に、若いうちに生んでおいた方がいいわよって言われます。

世界には、母性崇拝って根強い偏見があるんです。女はみんな、生まれながらにして母性が備わっていて、子供をかわいがるものだって。男の人の方に多い偏見かもしれない。男ってみんな、マザコンだから。あら、ごめんなさい。でも、事実ですよ。

女は小さな時から、母親になるように、母親になるようにって、洗脳されるんです。身近に赤ん坊が生まれれば、ほら、かわいいでしょうって、抱くように仕向けます。そんな猿みたいなもの、さわりたくもないんですけど、正直にそう言うと、まわりの大人たちはぞっとしたような顔で見るんです。子供心にも、まずいことを言ったってわかりますから、黙っているようになります。男の子っていいなといつも思ってました。誰も、ほら、赤ちゃんよー、抱いてごらん、なんて言いませんものね?

以前、アメリカの心理学者の論文を読んだことがあるんです。その心理学者は、現代社会の母性の衰えについて深く憂えていました。わたしみたいな女が増えると、人類の未来に悪影響を及ぼすそうです。この心理学者は、その原因をバービーのせいだと考えていました。昔々、少女は常に赤ちゃん人形を与えられて、それで遊んだものだ。それが、マテル社が一九五九年にバービーを発売して以来、少女たちは赤ん坊など見向きもせず、ティーンエイジャーの人形に夢中になっている。母親になるための貴重なシミュレーションの機会は失われた。余計なお世話だと思いましたね。

正喜さんは。

妊娠したって言ったら、困ったなあなんて言いましたけど、内心、喜んでましたね。目が笑ってました。できちゃったものはしょうがない、僕もせいぜい協力するから、なんて言ってね。ああ見えて、子供好きなんです。わたしと正喜さんが反対だったら、よかったんでしょうね。

 

予定日は十月三十一日と言われました。そして、長い長い、「とつきとおか」が始まりました。実際は八ヶ月くらいなんですけど、十年ぐらいに感じますよ。まず、つわり。朝から気分が悪いんです。胸がむかむかして、食欲なんかないんですけど、何か胃にいれないとよけいひどくなりますから、無理して食べます。真由の時は、どうやっても吐いちゃって、結局、入院するはめになりました。啓の時はそこまでひどくなかったけど、その代わり、眠れなくなりました。夜中に何時間もただ、暗い天井を眺めていると、どうしてこんな目にあわなきゃならないのかと、なさけなくなってきます。日中は頭がボーっとしてますが、家事も子供の世話も待ってはくれません。

おばあちゃんが、手助けしてくれようとしてるのはわかりました。悪い人じゃないんです。でも、口やかましい人で…。真由はちょこまかとよく動く年頃ですから、心臓の悪い年寄りが追いかけるのは無理です。おばあちゃんが真由をとんがった声で叱りつけるたびに、こっちの神経もひりひりしました。

正喜さんはああ言いましたけど、実際には大して役に立ちません。赤ん坊が生まれる準備も、幼児の世話も昼間にやるんですから、日中、会社にいる人に何ができますか? せいぜい、自分で自分の身の始末をして、余計な仕事を増やしてくれなければ、それでいいんです。

ええ、増やしましたよ。よくおわかりですね。(笑い)

気持ちを休めるためには、家の中にグリーンがあるといいと言って、ハウスプラントをしこたま買い込んできました。水をやるのはわたしの仕事です。男の子だってわかってからは、有頂天になって、やたら青いベビー服を買ってきては、わたしがきちんと整理しておいたベビーダンスに押し込みました。何かの雑誌で、妊娠中の夫婦のコミュニケーションが必要だなんてくだらない記事を読んでからは、夜、寝る前に一緒に体操をしようと言いだしました。ああ、うざったいと思いました。こっちは、べたべたさわられるより、早く休みたいんです。

 

妊娠後期になると、胎児の動きがよくわかるようになります。ある人は、腹の中で小さなボールが弾んでるみたいって言いました。あれは、病院の待合室で会った人でした。幸せそうでしたね。新しい生命が自分の中にいるのを感じられるなんて言いましたっけ。

わたしの場合は、両手をこう、丸くした中に蝶を一匹閉じ込めて、その蝶がばたばたしているような、そんな奇妙な感じがしました。とにかく、あっちへぶつかり、こっちへぶつかり、腹の中で逃げ道を求めて荒れ狂ってるみたいでした。医者は早く生まれたくってしょうがないんだねって、冗談を言いました。そのわりには、予定日を過ぎても、ぐずぐずとなかなか出てこなかったんですが。

 

十一月十日、土砂振りの雨の夜に、さんざん苦労をかけたあげく、ようやく生まれてきました。しわしわの、気難しい顔をした赤ん坊でしたね。七十を過ぎた老人みたいでした。腕に抱くと、赤ん坊は薄目を開けました。傍にいる看護師さんが、「ほら、ママですよー」なんて陽気な声をあげました。何か言わなきゃいけないのかと思って、「こんにちは」と言いました。すると、赤ん坊は、ニマーッと笑ったんです。新生児はまだ、笑えないはずなんですけど。歯の生えてない口元をゆがませて…。あれは、やっぱり、笑ったように見えました。

 

 退院してしばらくは、昼間、実家の母が来てくれました。でも、うちには正喜さんのお母さんがいますから。おばあちゃんは勝気な人で、孫の面倒を見るくらいできると思っていました。ですから、実家の母には、真由をしばらく預かってもらって、啓のことはおばあちゃんにお願いしたんです。おばあちゃん、張り切ってましたし、わたしも体調がおもわしくないので。

でも……あれは啓が生まれて、半年ほどたった頃だと思います。おばあちゃんの様子が変わってきたんです。なんとなく、元気がなくなりました。声にも張りがないし、朝から目が赤く血走ってることもありました。以前はよく、ミルクをやりながら、啓に何やかや話しかけてたんですが、そういうこともなくなりました。啓が泣くと、すぐに飛んでいって抱き上げたものだったのに、なんとなく、及び腰というか、ためらっているようなところが見えました。

疲れたんだろうと思いました。それで、少し休んでくださいと言ったんです。そしたら、おばあちゃんは、寝不足なだけだと言うんです。気になることがあって、なかなか寝付けないのだと。

何が気になるのか聞いたのですが、たいしたことじゃないと言って、言葉を濁してしまいました。今思うと、無理にでも、聞いておけばよかったと思います。いえ、聞かないほうがよかった。多分。

おばあちゃんが亡くなったのは、それからしばらくしてです。居間を片づけていたら、真由が走ってわたしを呼びに来ました。

おばあちゃんは、浴室で頭から血を流して倒れていました。啓はまだベビーバスにすわったままで、あたりは水びだしでした。濡れた床で足を滑らせ、運悪く転んでしまったのだと思いました。

ただ、真由は、違う、と言うのです。

おばあちゃんが立ち上がった時に、啓が手をのばしておばあちゃんのズボンの裾を引っ張った。それで、転んだのだと。

おばあちゃんの葬式が終わってから、わたし、正喜さんに話しました。一人で抱えていられなくなったんです。

正喜さんは腹を立てました。そんな馬鹿なことがあるはずない、万が一、あったとしても不幸な偶然だと…。啓はまだ、九ヶ月の赤ん坊だったんです。

 

啓の初めての誕生日、家族や親戚、親しい友人を招いて、誕生パーティをしました。おばあちゃんが亡くなって間もない時ですから、ささやかなものでしたが、リビングルームにたくさんの風船を飾り、皆でハッピーバースデイを歌い、真ん中にろうそくを一本立てた大きなケーキを食べました。啓はご機嫌で、次々といろいろな人に抱っこされてました。人見知りしない子で、誰に抱かれようと、平然としてました。

パーティが終わり近くになった時です。わたしは、いとこと話をしてました。いとこはわたしより年上で、三人の子持ちです。赤ちゃんが好きで、この時も、啓を腕に抱いていました。何の話をしていたのか覚えていませんが、突然、いとこが、キャッと悲鳴をあげました。どうしたの? と聞きましたが、返事をしません。赤い顔をして、まじまじと、抱いている啓の顔を見おろしてます。啓は足をバタバタさせながら、「ベービー、ベービー」と言っています。言い忘れましたけど、啓の最初の言葉は、「ベービー」なんです。普通は、「ママ」が多いそうですけど。

いとこが黙っているので、もう一度、どうかしたの? と聞きました。すると、急にわたしに啓を渡すんです。「ママのそばにいたいみたいよ」って言って。そして、さっさと向こうへ行ってしまいました。

わけがわかりませんでした。ただ、その後、いとこは二度と啓の傍に近づこうとしなかったように思います。

その頃から、わたし、また、よく眠れなくなりました。

夢を見るんです。暗い廊下のようなところを、わたしは歩いているんです。あたりはしんと静まりかえっている。それでもわたしは、足音を忍ばせ、息をひそめて歩いています。何か、しなければならないことがあると、わかっていました。大事な仕事で、人に見られてはならないのです。

前方に、ドアが見えてきます。木目模様の合板を張ったドアです。このドアの向こうに、わたしがやらなきゃならないことがあるんです。ノブに手をかけます。鍵はかかっていません。ゆっくりとノブをまわして、ドアを開けます。

いつも、ここで目が覚めました。正喜さんに起こされるんです。うなされていた、と言います。

神経が参ってるんだ、と正喜さんは言いました。息抜きが必要だ、と。

それで、パートを始めたんです。日曜日の十時から六時まで、デパートに入っている小さなアクセサリー店です。十代の女の子たちが買う、おもちゃの延長のようなブレスレットやペンダントですから、値の張るものじゃありません。学生時代のバイトの延長みたいな感じで勤められました。女子高生の相手をしてると、ちょっと若くなったような気持ちさえしました。

正喜さんも、子供たちの相手をするのを楽しんでいるようでした。だから、しばらくは、うまくいっていたんです。

 

虐待?

五月二十日……

正喜さんが、虐待したと言ったんですか? 言わないでしょうね。してないんですから。病院に記録があるのはわかってますよ。わたし自身、病院に啓を引き取りにいったんですから。医者とも話をしました。啓の胃の中に精液が発見されたことも聞きました。でも、虐待じゃないんです。………魔がさしただけです。

あの日、正喜さんは疲れてました。仕事が詰まって、連日、帰りが遅かった。それでも、日曜日、天気がいいからと、子供たちを動物園へ連れていってくれたんです。帰ってきて、子供を風呂に入れ、わたしが戻るまでの間、一緒にテレビを見ていたそうです。そのうち、真由が眠ってしまった。ちょっとほっとして、キッチンから冷えた白ワインを取ってきた。一杯だけのつもりが、つい、二杯、三杯と重なった。よくあることじゃないですか。

そのうち、酔いがまわって、うっとりとしてきた。啓がぐずりだしたので、抱き上げてくすぐってやった。啓は喜んで、キャッキャッと子猿のような声をあげて笑った。正喜さんの手をつかんで、親指をしゃぶり始めた。

その後のことは、自分でも信じられない、魔がさしたんだ、覚えているのは、笑っている啓の顔だけだと、正喜さんは泣きながら話しました。

信じたのかって? ええ、信じましたよ。信じちゃいけませんか。

誠実な人なんです。妊娠中も、その後もずっと、わたし達、セックスレスでした。わたし、体調が悪くて、そんなこと考えられなかったんです。普通の男の人なら、浮気するか、風俗へ行きますよね。そうなっても、目をつぶるしかないと思ってました。

でも、正喜さんに限って、それはなかった。元々、淡白なのかもしれません。それならそれでいいです。わたしは、正喜さんが家庭を大事にしてくれるだけで、もう、十分感謝してます。その正喜さんが、正気であんなこと、するわけないでしょう?

正喜さんは、あの時から禁酒してます。ビール一杯、飲んじゃいません。だから、正喜さんはもう、大丈夫なんです。ただ、魔の方は、どんどん、どんどん、悪くなっていったんです。

魔って何かって?

決まってるでしょう、啓のことです。

あの子がすべての元凶なんです。わたし達に降りかかったすべての災いの元になっているんです。それを、お話ししてるんじゃありませんか。

 

子供って、二歳くらいまで、生まれる前のことを覚えているものだって、御存知ですか。知らない? まあ、お子さんがまだなら、御存知ないでしょう。

でも、そうなんです。覚えてるんですよ。ただ、それを表現するすべをまだ、知らないんです。言葉が自由に出ませんから。二歳を過ぎると、言葉が出てきますけど、その時にはもう、忘れてしまっています。だから、二歳になる直前がチャンスなんです。

面白い答えが返ってくることもあります。ある子は、「ぐるぐる」と言ったそうです。洗濯機のことなんですよ。その子は、お腹のなかでよく動く子だったそうです。超音波診断のたびに向きが変わっていて、ぐるぐる、ぐるぐる、回転しているようだった、言われてみれば、洗濯機によく似ていたかもしれないと、そのお母さんは笑いながら話してくれました。「おふろ」と言った子もいます。まわりに水がある状況が、お風呂と同じだと思ったのでしょう。うちの真由は残念ながらあまり覚えていなくって、ただ、「暗かった」と言いました。真っ暗だったと。

ですから、啓が言葉を話し始めた時、わたし、啓に聞いたんです。生まれる前のことを覚えているかって。啓は、しばらくわたしの顔をぽかんと見てましたけど、ようやく、「暗い」と言いました。これは真由と同じかな、とちょっとがっかりしながら、もう一押ししてみました。「ほかには? 生まれる前、啓ちゃんはどこにいた?」って。そうしたら、「ドア」って言ったんです。ドア。何のことかわかりませんでした。啓は、「ドア」ともう一度言って、寝室のドアを指さしました。木目模様の合板の張ってあるドアを。

何の意味もないことなのかもしれません。まだ、口の回らない子供の言うことです。もしかしたら、子宮口のことをドアと表現したのかもしれません。啓は早く外へ出たくて、腹の中で暴れまわっているようにさえ見える赤ん坊でした。それとも、単に会話に飽きて、どこかへ行こうという意味で、ドアを指したのかも、

解釈はいくらでも考えられました。神経質になり過ぎていると、自分を叱りました。それでも、どうしても、気になってたまりませんでした。わたしが、夢の中で見るドア。暗い廊下を、息を殺して歩いていく、その先に現れる木目模様のドア。ドアの向こうに何があるのか知りたいと、切実に思いました。ドアを開けて、中をのぞいてみたいと。それで、正喜さんに、この次、わたしがうなされていても、起こさないでくれと頼みました。正喜さんは変な顔をしながら、承知しました。ところが、そうなって見ると、なかなか、あの夢を見ないんです。

 

二歳の誕生日、啓はおもちゃのプレゼントをたくさんもらいました。上に真由がいますから、ぬいぐるみや絵本、積み木なんかは、うちにはたくさんありましたけど、自分だけのおもちゃをもらったのは嬉しかったようです。真由は、独占欲が強くなる年頃で、絶対に啓に自分の人形を貸してやろうとはしませんでしたから。

ええ、啓は人形が好きでした。買ってやろうかと思ったこともあるんですが、男の子にお人形を買ってやるというのは、男の人には抵抗があるみたいで、正喜さんにも、実家の父にもいい顔をされませんでした。でも、この誕生日に、啓は、宇宙人とか、ロボットとか、スーパーマンとかバットマンとかをたくさんもらいました。他には、スポーツカー、消防自動車、サッカーボール、恐竜ランド、馬に乗ったカウボーイなんかがありました。 啓は大喜びです。

その中に、大工道具のセットがありました。プラスチック製ののこぎりや金槌、様々な長さや太さの釘やねじ、ドライバーやペンチが入ってます。啓はこれがお気に入りで、よく、ひとりで遊んでいました。小さな金槌を握って、釘を打つ真似をしている真剣な顔を見ると、少しはかわいいような気もしました。正喜さんは手先の器用な人で、小さな棚ぐらいだったら、日曜大工で取り付けてくれます。そういうところは、似ているのかもしれないと、嬉しくなりました。

でも、やはり違ったんです。啓は、正喜さんにも、わたしにも似ていない。誰にも似ていません。あの子は……。

赤ちゃんができたと喜んでいる人の気持ちが、わたしにはわかりません。自分じゃない、別の存在が身体の中にいるんです。それが、どこから来たのか、何を思っているのか、何をしようとしてるのか、わからないんですよ。

怖くないんでしょうか? どうして、平気なんでしょう……

 

 ある日、啓の遊んだ後を片づけていると、壊れたカウボーイを見つけました。軽いプラスチックでできてる身体が割れて、真っ二つになってます。啓は、乱暴な子でした。深い意味はないと思いましたが、ものを大切にすることを教えなきゃ、と思って、啓が遊んでいる時、注意して見ているようにしたんです。

啓はわたしがそばで見ていると、ブーブーと言いながら、消防自動車を走らせていました。でも、わたしが立って部屋を出て行くと、―実際には、部屋を出て行く振りをして、ドアの陰に隠れたのですが―、消防自動車を放り出しました。とことことおもちゃ箱へ行くと、頭にヘルメットをかぶった宇宙人を取り出しました。それから、積み木をいくつか並べて、平らな台のようなものをこしらえ、その上に宇宙人を寝かせました。ベッドに寝かせてやったつもりなのかもしれない、と思いました。でも、その後、啓は、お気に入りの工具箱から、小型の手斧を引っ張り出したんです。そうして、それを、宇宙人の胸めがけて振り下ろしました。何度も、何度も、嬉しそうに、「ベービー、ベービー」と言いながら……(すすり泣き)

すみません。あの時のことを思い出すと、つい……。もう、大丈夫です。

 

その夜、夢を見ました。暗い廊下を足音を忍ばせて歩いてる夢です。あたりはしんと静まり返っていて、わたしの胸の動悸だけが、廊下に反響するようでした。前方に木目模様のドアが見えました。動悸がさらに早くなりました。それが、恐ろしさのせいか、それともワクワクするような嬉しさのせいなのか、わたしにはわかりません。

ノブに手をかけました。冷やっとした金属の感触が心地よい。力を込めると、するりと回りました。細めに開けて、中の様子をうかがいました。廊下と同じように、静かです。カーテンが開いていて、窓の外に半月が光っています。月明かりで、ベッドが一つ、その隣にドレッサーとクロゼットが見えます。見慣れない部屋でした。

一歩、部屋に入りました。裸足の足裏に、毛足の長いカーペットが柔らかく触れました。これなら、足音を忍ばせる必要はないと大胆になって、部屋の中ほどまで進みました。掛け布団がこんもりと盛り上がって、誰か寝ています。枕の上に、黒い頭が見えますが、顔は布団に隠されて見えません。そっと掛け布団をめくってみました。

真由でした。お気に入りのシンデレラのネグリジェを着ています。起こさないように、そうっと布団を戻してやりました。「ベービー、ベービー」と囁きながら。

次の瞬間、自分がつぶやいた言葉に、愕然としました。同時に、おかしなことに気がつきました。静か過ぎるんです。真由の寝息が、聞こえないのです。ベッドサイドの明かりのスイッチを押しました。パッと、黄色い光が、部屋の中に溢れました。

掛け布団が変でした。キティちゃんの顔が、赤黒く汚れています。ぞっとして一歩前に進んだ時、足元が濡れているのに気づきました。目をやると、カーペットに黒いしみがついています。しみは、どんどん、ひろがっていきます。目の前の白い壁に飛び散っている赤いものは何なのでしょう。枕に落ちている赤いしずくのようなものは…。

わたし、掛け布団を引き剥がしました。そしたら……。

大声で叫んだように思います。でも、声が出なかった。叫んでも、叫んでも、声が出ない。部屋の中はしんとしているんです。

その時、初めて、何か右手に持っているのに気がつきました。手斧でした。長い木の柄のついた手斧。その先端が、赤く汚れていました。わたし、それを投げ出して、悲鳴をあげました。今度こそ、かん高い叫び声が、喉の奥から飛び出してきました。次の瞬間、正喜さんに揺り起こされました。

飛び起きて、真由の寝室に駆け込みました。真由は何事もなく、よく眠っていました。どうしたんだよ、とついて来た正喜さんが、呆れたように言いました。

わたし、正喜さんにすべてを話しました。最初のうち、正喜さんは夢の話じゃないか、と真面目に取り合おうとしませんでしたが、昼間の啓の行動を話すと、黙り込んでしまいました。

偶然でしょうか? 啓の残酷な遊びを見たショックで、こんな悪夢を見たのでしょうか。常識で考えればそうです。でも、わたしには、どうしても、そう思えなかった。あの暗い廊下とドアの夢を見るのは、初めてじゃない。何度も、何度も見ているんです。啓を妊娠してから……。

偶然ならいい。でも、もしそうでなかったら?

この夢が何かの警告だったら? 将来、起こりうる事態を、わたし達に告げているのだったら?

正喜さんは、馬鹿言うな、と声を荒げました。君が、手斧で真由を襲うって言うのか?あり得ないだろう!

わたしじゃない、啓よ、とわたしは言い返しました。わたしが部屋に入った時、真由はもう…。そして、手斧には血がついていた。おばあちゃんのことだって、とわたしは言いつのりました。おばあちゃんの事故だって、啓のせい…

いきなり、高い音がして、左ほおに火が走りました。

茫然としました。正喜さんは一度だって、わたしに手をあげたことはなかったのに。

正喜さんは、信じられないように自分の右手を見つめています。悪かった、とどもりながら言いました。僕はどうかしてる……。

わたしは部屋をとびだしました。その晩は、真由の部屋で朝まで過ごしました。

 

翌朝、正喜さんはいつも通り仕事に出ていきました。真由が幼稚園へ行った後、わたしは家中の掃除をし、洗濯をしました。じっとしていたくありませんでした。啓は、おとなしくお絵かきをしています。画用紙に赤や青や緑のクレヨンでごちゃごちゃと、線や楕円らしきものを描いています。昨夜の夢の後、気味悪さが先に立って、啓には朝から言葉らしい言葉をかけていませんでした。でも、こうして見ると、ごく普通の子供に見えます。朝の光が、理性を連れ戻してくれた、と思いました。ごく当たり前の、なじんだ世界がそこにありました。

「啓ちゃん、なに描いてるの?」と聞くと、啓は画用紙から顔を上げました。ポカンとした顔をしています。「これはなあに?」と重ねて聞くと、「ママ」と言いました。

胸が詰まって、泣きたくなりました。啓にすまない、と心から思いました。やっぱり、正喜さんの方が正しいのです。啓は、わたし達の息子で、普通の男の子なのです。おかしいのは、わたしの方なのです。わたしが母性に欠けているのがいけないのです。母親失格です。涙が出てきました。啓は不思議そうにわたしを見ています。こうしていてはいけないと、それから、啓に絵本を読んでやり、一緒にパズルをして遊びました。

午後になって、真由が幼稚園から帰ってきました。子供二人におやつを食べさせ、わたしは夕飯のしたくにかかったのですが、間もなく、真由が血相を変えて飛び込んできました。スーザンがいないと言うのです。スーザンというのは、真由が大事にしているお人形で、茶色い長い髪に、水色のドレスを着て、青いガラス玉を連ねたネックレスをしています。真由は、啓が持ち出してどこかへやってしまったのだ、と半泣きになっています。また、きょうだい喧嘩か、とうんざりしました。啓に聞いたってらちがあかないのはわかってますし、どうせ、真由がその辺に放ったらかして、忘れたのです。あとで一緒に探してあげるからと、なだめてその場を収めました。

 

スーザンは、庭で見つかりました。首にかけた青いガラス玉のネックレスで、庭の隅の椿の木からぶらさがっていました。

だれがやったのでしょう。

わたしや、正喜さんじゃありません。真由が、大切なお人形を庭の木からぶら下げるはずもありません。

昨日の午後、真由の幼稚園の友達が二、三人遊びに来ていましたが、そのうちのひとりがやったのでしょうか。

スーザンが首を吊っていた枝は、啓でも十分に手が届きました。

遊びに来ていた子供のひとりに決まってる、と正喜さんはきっぱりと言いきりました。きっと、やった子も大した意味はないんだよ。僕たちは大人だから、首吊りと見るけど、子供にしたら、ネックレスをひょいと木の枝にひっかけただけなんだ。啓の遊びだって同じだ。斧を振るう対象が、人形か薪かなんて、まだ区別がつかないんだ。意味はないんだよ。第一、啓はどこから、撲殺だの首吊りだののアイディアをつかんだと言うんだい?

その通りです。わたしも正喜さんも、子供たちの見るテレビや映画や絵本は、厳重にチェックしています。真由はもしかしたら、友達の家でたまたま、目にしたことがあるかもしれませんが、啓はいつも、わたしの目の届くところにいるのですから。

だとしたら……。

啓の遊びが、よそで見た何かの真似をしたんじゃないとしたら…。

あの子自身のうちに、そういう遊びをさせるものがある、そうじゃありませんか?

リーインカーネーションって聞いたことありますか?

輪廻転生。人間が死んでは生まれ変わる現象のことです。肉体は滅んでも、魂は死なない。また、新たな肉体を得て、再びこの世に生まれてくるのです。

刑事さんも、聞いたことあるでしょう? 前世の記憶を残した魂が、別な人間になって生まれてきた話。

ダライ・ラマだって、そうじゃないですか。チベットでは代々、ダライ・ラマが亡くなると、その生まれ変わりの少年を探すんでしょう?

聖者が生まれ変わるなら、悪人だって生まれ変わるかもしれない。ヒトラーだって、生まれ変わるかもしれない。

お前はうちの息子を、ヒトラーだって言うのか。正喜さんは、真っ赤な顔でこぶしを握りしめました。なぐられる、と思いました。

でも、打撃は飛んできませんでした。しばらく黙ってわたしを睨んでいましたが、急に肩を落とすと、大きなため息をつきました。

そうして、わたしに、医者へ行くようにと勧めるんです。そんな病的な妄想を抱くのは、神経が病んでいるからだ、ホルモンの異常かもしれない、産後のうつが、まだ、ちゃんと回復していないんじゃないか。

どこも悪くないと言いましたが、正喜さんは泣くような声で、医者に診てもらえと言うのです。結局、承知しました。

翌日、いとこに電話をかけました。詳しいことは話しませんでしたが、気分がすぐれないので、カウンセリングの上手な医者に診てもらおうかと思うと言いました。いとこは同情して、色々慰めてくれました。その後、しばらく世間話をしているうちに、ふっと啓の一歳の誕生パーティのことを思い出したんです。あの時、いとこは、悲鳴をあげて、啓をわたしに押し付けた。あれはなんだったのでしょう。

パーティの話を持ち出すと、いとこは困ったように、話をそらせようとしました。見え透いた嘘を言って、電話を切ろうとさえしました。わたしが、啓のことで悩んで医者に行くのだから、ちゃんと話してくれなければ困る、と強く出て、初めて打ち明けてくれました。電話だからまだ言える、こんなこと、あなたが目の前にいたら、とうてい口に出せないと。

いとこが啓を抱いていた時、ふいに胸を触ってくる手を感じたそうです。赤ちゃんが乳房をまさぐるのはよくあることですから、放っておいた。すると、その手は段々執拗になってきた。乳首をもまれた時に、思わず悲鳴をあげて、啓を見下ろした。すると、啓は「ベービー、ベービー」と言って、にやっと笑った。その目の光が、どうしても、赤ん坊のものとは思えなかった。一人前の大人の男の目つきだった。

 

(沈黙)

 

あの日のことをお話しします。

真由が風邪気味で、微熱がありましたから、幼稚園をお休みさせました。昼頃、正喜さんから電話があって、真由の風邪をもらったらしい、頭が痛いから帰ると言ってきました。子供に昼食を食べさせてから、真由に風邪薬を飲ませ、ベッドに入れました。

皿洗いを済ませると、居間で遊んでいたはずの啓の姿が見えないのに気が付きました。

啓は、手斧を持って、廊下を歩いていました。真由の部屋へ向かって。

わたし、啓を捕まえました。

それから、バスタブに水を張り、啓を沈めました。動かなくなるまで、じっと押さえつけていました。そこに、正喜さんが帰ってきたのです。

手斧がどこにあったかって?

決まってるでしょ、啓のおもちゃ箱の中です。

ええ、プラスチック製ですよ、おもちゃですから。

それならって?

なぜ、そんなことが言えるんです? 害があろうとなかろうと、関係ありません。問題は、意思なんです。殺したいという意思こそが魔なんです。啓は魔物でした。わたしは、娘を魔物から守ったんです。母性に欠ける母親でも、それくらいのことはできるんですよ。

 



キャンドル

6 死霊が霊能者を通じて語った物語

 

誰ですか、ドアを叩くのは。

何の用ですか。

渡辺啓と話したい? では、少し待ってください。呼んできます。

 

(沈黙)

 

さあ、啓が来ました。お話しください。

 

(司会者の「あなたは誰ですか」の質問に、男の声が答える)

彼は、渡辺啓という名前です。いえ、少し前までその名前でした。今、彼には別の名前がついています。新しい名前はむつかしくて、彼は覚えきれません。ですから、啓と呼んでください。

 

(「お父さんとお母さんの名前は?」の質問に答えて)

父は渡辺正喜。母は渡辺留美。なぜ、そんなことを聞くのですか? 彼を疑っているのですか?

 

(そういうわけじゃないんだけど。君はなぜ、自分のことを「彼」と呼ぶの?)

彼にとっては、その方が楽なのです。彼は、ハーミット・クラブのようなものです。

 

(ハーミット・クラブ? ああ、ヤドカリ。成長するにつれて、別の貝殻へ移っていく)

そう。彼の名前も、外見も、そのつど変わります。彼は啓という名前でしたが、その前は別の名前でした。

 

(何ていう名前?)

彼は覚えていません。たくさんのことを忘れてしまいました。彼の記憶は、落丁の多い本のようなものです。

 

(覚えていることを話してくれる?)

彼には……友達がいました。

 

(どんな友達?)

とても親しい友達でした。彼より少し年上で、賢く、彼の知らないことをたくさん知っていました。彼は、その友達を崇拝していました。

 

(名前は覚えてる?)

彼は覚えていません。名前にこだわりますね。やはり、彼を信じてはいない。

 

(そういうわけじゃないの。ただ、後で確認をとりたいから)

ご自由に。でも、そんなにしょっちゅう、話の腰を折ったら、時間切れになりますよ。彼も、無限にここにいられるわけじゃないのですから。

 

(わかった。悪かった。お話を続けてください。)

彼は、友達と知り合った時のことは覚えています。カレッジでした。カフェテリアで彼がサンドイッチを食べていると、隣にすわったのが、その友達だったのです。二人は話し始め、すぐに意気投合しました。友達は彼に色々なことを教えました。宇宙光や巨石文明、多元論と一元論、主知主義、不可知論、グノーシス、神智主義、錬金術と神話、マンダラ…。それは、彼が今まで一度も覗いたことのない世界でした。魅了されました。彼は友達と一緒にヨガ教室へ通い、メディテーションを学び、LSDとマジックマッシュルームを試みました。

 

(ドラッグ…)

そういう時代だったのです。誰もが真理を求めていました。叡智の光はすぐそこ、手の届く所にある、扉を開けさえすれば、新しい世界が開ける…そう思えました。誰もが迷える小羊でした。物質文明のなかで、市場社会の激しい闘争に疲弊し、誰もが、渇き傷ついた心を抱え、精神世界の迷路をさまよいながら、教え、癒し、導いてくれるグルーを求めていました。メサイアの時代だったのです。

彼の友達は、彼にとってのメサイアでした。二人はともにワインを傾け、アヘンの甘だるい香りに包まれながら、来世のこと、現世のこと、そして、前世のことを話し合ったのです。

君は、と友達は彼に言いました。一七八九年、バスチーユの襲撃の折に、わたしを撃った兵隊だった。

そうすると、彼の心にその時の情景が、鮮やかによみがえってきます。近づいてくる大勢の足音、鉛色の空、空気中に渦巻く熱気と、心中にわだかまるどす黒い憎悪。マスケット銃のはじけるような発射音、火薬の匂い。

君は、と友達は言いました。一六九三年、ロンドンからブリストルへ向かうわたしの乗った馬車を襲撃した山賊の一味だった。

そうすると、人里離れた森を抜ける街道沿いの藪の陰に、じっと身をひそめている男たちの姿が浮かんできます。白々とした月の光や、ふくろうの鳴き声、肌を刺す冷気の鋭ささえ、思い出せるのです。

君は、と友達は言いました。常にわたしを求めていた。求めていながら、害してきたのだ。

「どうしたらいい?」彼は友達に尋ねました。

「君は悔い改めなければいけない。叡智の光に背を向け、闇の隘路を歩いてきたのだから」

 

彼の友達は、不思議な力を持っていました。その冷たく光るガラス玉のような目で、じっと見据えられると、誰もが首うなだれ、ひざまずいて赦しを乞いたくなるのです。

彼の友達には大勢の崇拝者がいましたが、彼は抜きん出て忠実な信奉者となりました。

友達のためにノートを取り、煙草を買いに走り、コピー機の行列に並びました。友達が寒いと言えば自分の上着を脱いで着せかけ、暑いと言えば冷たい飲み物を持って駆けつけ、疲れたと言えばタクシーを呼びに走り、退屈だと言えば、懸命に下手なジョークを口にしました。

一度など、彼は、キャンパス内の池にかかる橋の欄干によじ登って、逆立ちをしました。友達がそうしろと言ったからでした。彼はバランスを失って、仰向けざまに池に落下しました。重力に抗えず、空気を切って墜落した時の恐怖、よどんだ冷たい水に背中を打たれたショックを、彼はまだ覚えています。怪我がなかったのは僥倖でした。もし、池の縁の石に頭を打ちつけていたら、命を落としたかもしれません。彼は、さすがに気色ばんでそれを口にしました。死んだかもしれなかった、と。

「死ぬって、君はなんだと思ってるんだ?」友達は薄く笑って言いました。「死は、幻想に過ぎない。人はハーミット・クラブのように、新しい殻に引越しするだけさ。君は死んでも、また、わたしと出会うだろう」

 

ある時、彼の家族が、友達を夕食に招待したいと言ってきました。彼がいつも口をきわめて誉めそやす友達を、見てみたくなったのかもしれません。それとも、大学内の誰かが、彼と友達のことをそっと、彼の家族に告げたのかもしれません。その大学には、彼と同じハイスクールから、何人も進学していましたから。

彼は喜びました。彼の人生を変えた、すばらしい友達を両親や妹や弟に紹介できるのです。

次の試験休みに、彼は友達を伴って、故郷の町に帰りました。

彼の友達は申し分なく礼儀正しく、知的で軽いユーモアに富んだ会話を晩餐のテーブルで披露しました。彼の父は彼の友達のジョークに声をたてて笑い、彼の母は自慢のミートパイを勧めながらあれこれと世話を焼き、妹や弟は尊敬のまなざしで彼の友達を見つめていました。しかし……。

彼の友達が寝室へ引き取った後、彼の父は彼をそばへ呼ぶと、あの友達とは付き合わない方がいい、と言ったのでした。憤然として理由を聞く彼に、彼の父はただ、「悪魔は物知りだ。夜の闇よりも年ふりているから」と言ったのみでした。

わけのわからない怒りを抱いて寝室へ向かった彼を、友達は静かに迎えました。

「わたしは、あまり気に入られなかったようだね」

友達の悲しそうな微笑を見て、彼の怒りはますますつのりました。

今夜、彼の友達は陽気で、いつもにも増して魅力的でした。夕食前に軽くやったウィードの効果もあったのでしょう。少しばかり調子に乗りすぎたところがありました。

優雅な物腰で食後のコーヒーを飲みながら、彼の友達は、自分は人の未来が見えると言い出したのです。冗談だと思って笑い飛ばした彼の父に向かって、彼の友達は、あの冷たい、ガラス玉のように透き通った目を向けました。

「あなたは、刃物に気をつけた方がいい。さもないと、あなたのおじいさんと同じ目にあいますよ」

父親のおじいさん、つまり彼の曽祖父は薪を切っている時に、手にした手斧を取り落とし、右足の爪先を切り落とすという大事故を起こしたことがあったのです。

彼の友達の言葉を聞いて、父親は一瞬、ぎょっとしたような顔をしましたが、すぐに笑いにまぎらわせてしまいました。彼に向けるとがめるようなまなざしで、父親が、彼が友達にこの話をしたのだと思っていることがわかりました。もちろん、彼は曽祖父の話など、友達にしたことはありません。すべて、彼の友達の、不思議な力によるのです。彼は、父親の不作法を友達に詫びました。

「気にしてないよ」

彼の友達は彼の謝罪を軽く受け流しました。「世の中には、真理に目をふさぐ臆病な人間の方が多い。それでも」と、友達は冷たい目で、じっと彼を見据えました。「わたしが言ったことは本当だよ。手斧には気をつけた方がいい」

それから、彼と友達は、長い間、語り合いました。宇宙の悪意について、カルマと解脱について、罪と罰について。

その夜、彼はそっとベッドを抜け出すと、友達の目をさまさないように、足音を忍ばせて階下へ降りました。

家の裏手の納屋には、農場で使う農具や工具がしまってあります。曽祖父の手斧も、そこにありました。赤錆が浮いていましたが、触ってみると、刃はまだ鋭く尖っています。使いこんだ長い木の柄が、しっくりと彼の手になじみました。

彼は手斧を掴むと、家に戻り、静かに階段を登りました。

 

(沈黙)

 

(それで?)

何ですか?

 

(それで、どうなったの? 彼はやったの?)

殺したのかというお尋ねでしたら、彼はやりました。まず、両親。それから、妹たち。最後に、一人で寝ていた弟。

 

(きょうだいまで。なぜ? 彼の……君の家族なのに)

みんな、そう言いました。なぜだ、なぜだ、なーぜーだと、よってたかって質問攻めです。彼は困っていました。

両親との関係は良好だった。きょうだい仲もよかった。彼の家族が、彼に何かしたというわけではないのです。

 

(彼の友達を、高く評価しなかったから?)

違います。彼は腹を立てていましたが、家族全員を手斧で撲ち殺すほど、怒っていたわけではありません。

 

(では、なぜ?)

なんと言うか……運命だったのです。

 

(運命?)

はい。彼の家族は全員、あの夜に手斧で殺される運命にあったのです。それはもう、ずっと前、彼の両親が生まれる前、彼の曽祖父が、あの手斧で爪先を切り落とした時から決まっていた、いや、そのもっと前、彼の曽祖父があの手斧を、市場で買ってきた時から決まっていました。

 

(手斧が呪われていた、と)

(笑い声)普通の手斧です。どこにでもある…。

 

(じゃあ、なぜ?)

ですから、運命です。

彼の友達は、一瞬にして過去、現在、未来を見通す力を持っていました。

こう考えてください。

十字路に人が立っている。その人に見えるのは、前方、左右せいぜい九十度の角度までです。それ以外になると、首を動かさなければなりません。でも、彼の友達は、ただ立っているだけで、前後左右三百六十度、それに、頭上の空、足下の大地、すべてが見えるのです。彼の友達が光源となって、周囲のすべてを明るく照らし出すようなものです。だからこそ、彼の父親に会った時、その顔に何十年も前の曽祖父の運命を見てとったのです。そして、その同じ手斧が、その夜、再び振るわれることもわかったのです。

 

(つまり、友達がそう言った。だから、君は、斧を振るった…)

預言者の言は、成就するものです。

 

(警察は、何と?)

彼は、警察には黙っていました。愚かな者に、何を言っても無駄なことはよくわかっていましたから。彼が黙っていると、人々は彼を罵りました。それから、病院に送られました。

 

(友達はどうなった?)

彼の友達は、警察まで付き添ってくれました。でも、彼が逮捕されると、別れなければなりませんでした。彼はひどく落ち込みました。淋しくて、たまりませんでした。病院の冷たい床の上に、背中を丸めて胎児のようにころがったまま、ひたすら、友達を呼んでいました。ベイビー、ベイビーと。

(微笑)ベイビーと、彼は時々、そう、彼の友達を呼んでいたのです。

彼の友達は彼を見捨てませんでした。ある晩、眠っている彼の耳元で、友達の声がしたのです。このままではいけない、と友達は言いました。勇気を出して、ここから脱出するようにと言うのです。彼は、途方にくれました。ドアには鍵がかかり、高い窓には鉄格子、しょっちゅう誰かが、部屋の中を覗き込みます。でも、彼の友達はちゃんと、方法を考えてくれました。

彼は、友達の指示に従って、シャツを脱ぎました。縫い目に沿って引っ張ると、ピリピリッと音がして、布が裂けました。快感でした。ピリピリッ、ピリピリッ、ピリピリッと、細く細く布を裂き、それをつないで丈夫な紐をこしらえました。片端を窓の格子に結びつけ、もう一方の端を丸く輪にして、その中に首を突っ込むと、弾みをつけて飛びました。

彼は病院を抜け出しました。

ハーミット・クラブは、古い家を捨て、新しい家を求めたのです。

 

(それが、渡辺啓)

そう。みんなは、啓ちゃんと呼んでいました。

 

(沈黙。咳払い)

 

(では、啓ちゃん。君を殺したのは、誰だったの? お父さん? お母さん? あの日、本当は、何が起こったのか、話してちょうだい)

それをお話しするには、まず、彼の友達のことをお話ししなければなりません。彼が、新しい家に引越しして、最初にやったことが、彼の友達を探すことなのですから。

 

(なぜ?)

彼の友達は彼のメサイアだからですよ。彼の導き手、彼の生きる光です。再び友達とめぐり会うために、彼は勇気をふりしぼって、古い家を捨てたのです。

 

(でも…。彼の友達も生まれ変わっていると、どうしてわかる?)

人は皆、ハーミット・クラブです。古い殻を捨てたら、必ず新しい殻を身にまといます。それに、彼の友達は彼に言いました。彼は死んでも、また彼の友達に出会うだろうと。

 

(なるほど…)

彼らは再会することになっていたのです。ただ、いつ、どこで会えるかは、彼にはわかりませんでした。彼の友達が、どんな姿形になっているか、わからなかったからです。引越したことは知ってるが、新住所は知らないんです。

それに、引越しの際に、人はたくさんのことを忘れてしまいます。赤ん坊は普通、自分の名前も、どこから来たのかも忘れています。言葉さえ失った状態で生まれてくるんです。母親の子宮より以前の記憶を保持している子供は、稀です。

彼も、忘れていました。

友達の名前は、今でも思い出せません。

でも、求める人がいることはわかっていました。

その人を探すことが大切だということを、言葉にならないままに、知っていました。

 

幸いなことに、彼の世話をしていたのは、引っ込み思案な母親ではなく、活動的な祖母の方でした。

知り合いや親戚を訪ねたり、買い物へ出かけたり、近所を散歩したり、どこへ行くにも、彼の祖母はベビーカーを押していきました。彼の目的には好都合です。彼は目を見張って、まわりの人々を眺めました。話し声に耳を澄ませました。初めのうち、彼の祖母は、そういう彼の様子を喜んでいました。好奇心が旺盛なのは、知能の高いしるしだと言いました。でも、そのうち、彼が、トラックや電車や犬や花には興味を示さず、人間の顔ばかり追うのに気づいたようでした。そうして、ある日、こう言ったのです。

「お前、誰か探してるのかい?」

祖母は、しわんだ薄い唇を真一文字に引き結んで、じっと彼を見つめています。

「ママを探してるってわけじゃなさそうだね」

その日から徐々に、祖母の態度が変わりました。彼がうっとりと人の顔を眺めていると、探るような祖母の視線を頬に感じるようになりました。泣いても、以前のようには抱き上げてくれません。ただ、黒く熱をもってうるんだような瞳で、じっと彼を見据えるだけです。

彼は怖くなりました。

その時の彼にはわかっていませんでした。宇宙は広いのです。彼の友達のような、不思議な力を持った人間が、他にいたとしてもおかしくありません。彼の友達の目は、つららのようにまっすぐに彼の心を突き通してきましたが、祖母の目は、闇の奥にちらちらとまたたくろうそくの炎のように、伸び縮みしながら、なめるように彼の心を探っていました。

「昨夜、お前の夢を見たよ」

ある日、彼をベビーバスに入れながら、祖母が言いました。

「お前はドアの前に立っていた。あれは、どこのドアだい?」

彼には、祖母の言葉の意味がわかりません。わかったとしても、答えられなかったでしょう。彼はまだ、九ヶ月の赤ん坊でしたから。彼は黙って、ポンポン蒸気に乗っている、一対の人形を見ていました。

祖母はあきらめたように、ベビー用のバスローションを、スポンジに垂らし始めました。彼の周りには、ポンポン蒸気の他にも、黄色いゴムのあひるや、潮を吹くクジラが浮いていました。でも、彼は人形が好きです。つまみあげて、遊び始めました。切れ切れの記憶の奥底を探って、一対の人形に色々なポーズをとらせてみました。

ふいに、人形がひったくられました。驚いて見上げると、祖母が、燃えるような目で、彼を睨んでいました。しぼんだ頬にぽつんと、ピンク色の点が浮かぶと、みるみるうちに広がっていきます。祖母はさっと立ち上がり、そのまま浴室を出て行こうとしました。止めようとして、彼は祖母のズボンの裾を掴みました。祖母は足を滑らせ、大きな音をたてて、浴室の床にころがりました。

 

(つまり、おばあさんの死は事故だったと)

もちろん、そうです。誰か、そうではないと言ったのですか。

 

(いえ。お話を続けて。彼は…君はいつ、友達のことを思い出したの?)

彼が一歳を過ぎた頃です。彼の父親は、テレビを見ながらワインを飲んでいました。母親と姉はいなかったようです。間もなく、彼は退屈して、ぐずりだしました。彼の父親は、彼を抱き上げて、膝の上に乗せました。父親は、子供好きでした。笑って、彼のあごの下をくすぐりました。彼は喜んで、キャッキャッと声をあげ、父親の指にむしゃぶりつきました。

父親の指は、甘い香りがしました。どこか物悲しく、懐かしい感情を呼び覚まされて、彼はしばらくの間、父親の指をしゃぶっていました。いつか、どこかでこの香りをかいだことがある。甘酸っぱいこの味を、舌の上で転がしたことがある。でも、それがいつだったのか、彼には思い出せませんでした。

突然、父親は彼を膝から下ろしました。彼は泣き始めました。冷たく固い床の上は、全く気に入りませんでしたから、胎児のように背を丸めて、ギャアギャアと泣きました。と、口の中に何かが押し込まれました。指よりも太くて、長いものです。何だかわからないけれど、彼はそれに吸い付きました。父親が低い唸り声をあげました。夢中で吸っていると、それはどんどん、どんどん大きくなり、父親の唸り声もどんどん、どんどん、高くなっていきました。とうとう、口の中一杯にふくれあがりました。息ができなくなりました。

そして、それは、爆発したのです。

激しく咳き込み、むせかえる彼の耳に、父親の泣くような声が聞こえました。

オー、ベイビー。

 

(それが、その……警察が伏せて、決して発表しなかった、父親による虐待?)

虐待? 虐待の話なんか、彼はしていません。

その瞬間、すべての記憶が戻ってきました。

これ以上、せき止めておけないというように、圧倒的な力で。

彼が誰を求めているのか、ここで何をしているのか。

彼の友達のこと、必ず再会しようという約束のこと。

ドアが開いたのです。

彼は思い出しました。ワインの香り。積み重ねられたクッションの上で、彼と彼の友達が様々に語り合ったことども。どこか埃っぽいウィードの煙。低い声で熱っぽく宇宙を語る彼の友達。

ベイビー。彼はささやきました。ベイビー。

彼は思い出し、見つけたのです。

 

(見つけた?)

見つけました。彼の友達は、ずっと、彼のすぐ傍にいたのです。

ただ、困ったことに、彼の友達は彼がわからなかった。まだ、彼のことを思い出していなかったのです。

彼は努力しました。思い出してもらおうと。

二人で語り合ったこと、二人で行った場所、ともに聞いた音楽、一緒に笑ったジョーク。

お互いの腕に抱かれて眠った、幾晩もの夜。

まわらない舌で、一生懸命、語ってきかせました。言葉の出ないことがもどかしくて、身振り手振りで表現しました。

それでも、彼の友達は嫌悪の目で彼を見、背を向けて走っていってしまいます。

とうとう、彼は、友達の記憶を呼び覚ますには、もっと思い切った手段をとる必要があると悟りました。

暑い夏の日でした。とても暑い……

 

彼の友達は眠っていました。

揺すぶり起こすと、目を開けましたが、非常に不機嫌な顔でした。彼が、子猫がいるよ、と言うと、しぶしぶベッドから降りてきました。

「どこよ」

彼は、友達を浴室へ連れていきました。

「子猫なんか、いないじゃない」友達は不満げに言って、「嘘つき」と罵ると、出て行こうとしました。

彼は友達を押しとどめました。

これから、彼が水に飛び込んでみせる、と言いました。バスタブには、一杯に水が張ってありました。

彼の友達は、ちょっと興味を引かれたような顔をしました。

「ホントに飛び込む?」

「ホント」

彼は、きっぱりと言いました。これしか、もう、手がないのです。

彼の内心は嵐のようでした。

思い出してくれよ、ベイビー。カレッジの池に、彼は飛び込んだろう? 冷たい水の中、真ッ逆様に飛び込んだじゃないか。覚えてるだろ、ベイビー。

彼は、バスタブの縁によじ登りました。ホウロウびきのバスタブは、つるつると滑りやすく、両手を壁について支えなければ、立っていられません。

「号令をかけてあげる」背後で、友達の嬉しそうな声がします。

「位置について!」

彼は壁から手を放して、身をかがめます。足元に、きらきら光る水があります。冷たそうでした。身体に震えが走ります。

「用意!」

彼は息を詰めました。

「ドン!」

目を閉じると、飛びました。

 

一瞬の間の後、すさまじい音をたてて、彼の身体は水の中に落下しました。

あまりの冷たさに、息が止まりそうです。

彼は必死でもがきました。両手をやたらと振り回すと、バスタブの縁に手がかかりました。つかもうとしました。すると…

誰かの手が、彼の手を掴んで、払いのけました。

ようやく水面に出かかった頭が、再び沈みます。したたかに水を飲みました。

誰かの手が、彼の両足首を掴みました。ぐいと引っ張ります。

彼の身体が水の中で逆立ちします。

息ができません。

彼は暴れました。足をバタつかせ、水中で身体をくねらせ、固く握ったこぶしで、何度も、何度も、バスタブの側面を叩きます。

何をしても無駄でした。足首を握った手は、びくともしません。

ベイビー。なぜ…。

キティちゃんのネグリジェを着た友達は、暴れまわる彼を冷然と見据えています。

彼の周囲の水よりも、彼の肺を満たしつつある水よりも、もっと冷たい、ガラス玉のように透き通ったその目。

ベイビー、まだ、思い出せないのかい?

それなら、彼はまた、生まれてくるよ。

この次は、思い出してくれるだろう?

待っててくれ、ベイビー。

彼は……引っ越さなきゃならない。

でも、すぐに戻ってくる。

すぐだから。

もう……すぐ……

 

(沈黙)

 

そうして、彼は今、ここにいます。

 

7 その後

 

渡辺啓―純正真啓童子は、八月二十日、渡辺家の墓のある公園墓地に葬られた。葬式には、故人の親戚が出席したほか、新聞社、雑誌社、テレビ局、故人が来年から通う予定だった幼稚園、および「子供の虐待死を防ぐ連絡協議会」から、花束が贈られた。

 

渡辺真由は、母方の祖母の家に引き取られ、近くの小鳩幼稚園に通っている。

 

渡辺正喜と渡辺留美は二人とも、自分が殺したと言い張って譲らず、取調べは難航している。

 

テレビ局は、霊能者多々良百子の話を、公共の電波に載せるには不適当と判断、別の企画に差し替えることを決定した。

 

渡辺正喜の抜けたプロジェクトの穴は、向坂慎二によって埋められた。向坂は、この人事で、同期入社中、初の係長待遇に昇進した。

 

浅井理恵は、演劇集団「ステージワン」を旗揚げ。ベビーフードとベビー服の会社からの資金援助を受けて、十二月に予定されている第一回公演「母と子の眠れない夜のために」の稽古に入った。

 

国勢調査(二〇一五)による日本の人口は一億二千七百九万人。

出生数は百万八千人。

 

東京都の八月の最高気温は三十七・六度を記録。

 

四月二十五日、子供の日を前に、厚生労働大臣は、拍車のかかる日本の少子化を憂える談話を発表。学識者および国民の代表を招いて、さらなる出産の奨励案を検討する意向を示した。

 

十月三十日、霊能者多々良百子が、霊感商法で告発された。前世の因縁話を捏造し、原価五百円の壷を、二百万円で老夫婦に売りつけた疑い。

 

十一月十日、時田芳美の長女に、男子が誕生。芳美にとっては、初孫となる。

 砂時計

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